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閲覧ありがとうございます。
収まりきれなくていつもより少しだけ長めです。
お母さんの症状は、診断通り十日程で跡形もなく消えた。
免疫の低下やストレスが原因だというので、克己のお手伝いがストレスの軽減に貢献してくれたおかげだろう。
本来なら長女の私がしなければならなかったのに血縁でも無い克己に押し付けるような形になってしまって申し訳なかった。
克己は毎日バイクでサテライトへ訪れては、早朝の仕入れから閉店後の後片付けまで手伝ってくれたそうだ。
日中はどうしても人手が必要となるランチタイム以外は入口に一番近いカウンター席でノートパソコンを開いてデザインの仕事をしていたけど、まともにパソコンに触れたのは最初のうちだけで三日もすれば克己目的のお客さんが増えたのでフリーランスの仕事に支障があったのでは無いかと心配になる。
兎にも角にもお母さんの快癒のお祝いと克己へのお礼のために、私と由恵とで食事会を開いた。
とはいえ、臨月の大きなお腹を抱えている由恵は、しーちゃんと二人でお母さんと克己の接待係をしてもらう。
厨房には、私と友久君の二人が入っていた。
友久君もそれなりに家で手伝いをしているのだろう。
それとなく次に必要なものが準備されていたり、使い終わった調理器具を洗って片付けてくれたり、料理はこちらに任せながらも、いい補佐をしてくれた。
食事を終えるとうとうとし始めたしーちゃんを由恵と友久君が二階へ連れて上がる。
病み上がりのお母さんも早く休むように促すと、残った私と克己の二人で後片付けをすることになった。
「私、実家に戻ろうと思うの」
しばらく店を休むと聞いた時からずっと考えていた事だった。
由恵が結婚してお母さんが一人暮らしになっている。今回はそんなに大きな病気ではなかったけれど次は連絡も出来ない状態になるかもしれない。
通勤に時間がかかるようになるから、夜遊びも料理教室もおしまい、と克己に告げた。
「僕がサテライトを仕事場にするよ」
「でも、もう克己は店員だと思われているからお客さんは声をかけてくるし、デザインの仕事の邪魔になるよね」
「別にならないけど」
克己にばっかり負担が掛かっているように思えて私は首を横に振った。
克己は「サテライトが好きだから」と言うけれど、その言葉に甘えるわけにはいかない。
頑なに首を横に振り続ける私に克己もついに口を閉ざしてしまった。
私も無言のまま、静まり返った中で黙々と残りの後片付けをした。
「毎日来るから」
「待って。話を聞いて」
片付けが終わるとそう言い残して帰ろうとした克己を強引にカウンター席に座らせて、隣の椅子に私も腰を下ろした。
「沙恵さんがここに帰ってきても遊びには行けるよ?料理もここで教えてくれたらいいんだし」
「だって、ここだと二人じゃなく……」
なにを言っているんだ、私。
今更ながらに自分の本音に気付いて顔が赤くなる。
「ごめん。違うの」
克己の視線から逃れたくて、両手で顔を覆った。
またやってしまった。自分の視界を塞いでも相手から見えなくなるわけでは無いのに。
「……可愛い」
克己が口の中で小さく言った言葉にビクンと両肩が揺れる。
自分が幼子になってしまったようで恥ずかしい。
でも、本当は私も……。
「そうなれたら……いいなって、思うよ」
「ねぇ沙恵さん。顔見せて」
自分が可愛いなんて思えないけれど、克己に可愛く見えているなら嬉しい、と思ってしまった。
克己は私の手にそっと触れて顔を覗き込んでくる。
抵抗する気力もなくて、なすがままに顔を覆う手が下がっていき、赤くなった顔を見られてしまう……そう思った時、ガタン!と大きな音が響いた。
克己と私がその音の方を見ると、内階段を降りてきた由恵がいた。
「ごめん!邪魔する気は無かったの。しーちゃん寝たし友久が見てくれてるし。お姉ちゃんが上がってこないからまだ片付けしてるなら手伝おうって。でも、お邪魔のようだから二階戻ろうとしたら、お腹が棚に引っ掛かって……」
由恵が顔を赤くして捲し立てた。
「いや、いいよ、そんなんじゃないし」
「えっ!そんなんじゃないの!?」
あのままだったらどうなっていたのか……ホッとしたような残念なような気持ちになりながらも、由恵の勘違いを否定したら、何故か由恵の眉毛が吊り上がった。
「っていうか、克己!何『そんなんじゃない』なんて言わせてんの!そんなんじゃないじゃないのは一目瞭然じゃない」
「由恵……早口言葉みたくなってる」
急に由恵の矛先が克己に向いたけど、混乱した言葉に克己が冷静に突っ込んでいる。
「まさか克己まで『そんなんじゃない』って言わないよね?!あのさ昔した質問覚えてる?……今ここが崖だとして、私とお姉ちゃんが同時に落ちそうになってたら、どっち助ける?ってやつ」
由恵は急にどうしたんだろう?
この質問にどんな意味があるのか分からない。
「克己は何て答えたか覚えている?」
「由恵」
「理由は?」
「沙恵さんが笑えなくなるから」
それってどういう意味?
二人は付き合っていたのだから由恵で当然の回答だと思うけど、その理由になんで私の名前が出てくるのか。
「じゃあ今は?今ならどっち助ける?」
「沙恵さん」
「理由は?」
「僕が、笑えなくなるから」
私がやっぱり理解出来ないまま、二人の話はドンドン進んでいく。
克己の迷いのない答えに由恵の吊り上がった眉が下がった。
「客間に布団敷いておくから心ゆくまで二人で話して!次『そんなんじゃない』ってお姉ちゃんに言わせたら克己はサテライト出禁だから!」
そう言い残して由恵は内階段を這い上がっていった。
少し急な階段とはいえ、お腹を庇ってなのか両手も使って四つ足で階段を登っていく様子は小犬のようだ。
啞然と由恵を見送っている私の肩を克己がトントンと指先でたたいた。
「ねぇ沙恵さん。顔見せて」
さっきも聞いた台詞だ。まさかそこからやり直すのか?
両手はもう顔を覆っていないけど、顔は由恵の気配が無くなった階段に向けたまま動けなかった。
「由恵も変な事言うね。出禁とか無いから克己も気にしないでね」
場の空気を換えようと明るい声で言ってみる。
「沙恵さん」
「……」
再度名前を呼ばれ、そもそも私が引き留めていたのに話から逃げるのはおかしいと思い直して、おずおずと逸らしていた視線を合わせた。
そんなふうに嬉しそうな顔されると途端に申し訳なくなった。
私は誰かと付き合うのは怖いのだ。克己が先輩とは違うのはよく分かる。でも、万が一自然消滅なんてなったら、それこそ一生笑えなくなる自信がある。
克己に依存してしまう前に距離を取りたかったのに、こんな考えになってしまった時点で既に手遅れだった。
だけどお願い。告白しないで―――――――。
「僕の奥さんになって下さい」
別れが怖いから告白しないでと願った私に、克己がしたのはプロポーズだった。
「……え?」
「駄目?じゃあ僕をお婿さんにして下さい」
「それ変わらないから……じゃなくて!なんで付き合うのすっ飛ばすの?」
「だって、最近、沙恵さんめっちゃ可愛くて、今も凄く可愛くて……チューしたい」
「チューって……」
「奥さんじゃないと駄目なんだよね?だから奥さんになって」
「うん」
「やったー!」
そうだ。私がそう言ったのだ。
そういうのは奥さんになった人に、って。
一年以上前のことなのに良く覚えていたな、とそれに頷いたつもりだったのに、これじゃあ『奥さんになって』に頷いてしまっている。
キスしたいからプロポーズするなんて、言葉じりだけ捉えれば先輩と何も変わらないのに、無邪気に喜んでいる克己を見ていると、今のは間違いだ、なんてとても言えなかった。
克己は徐ろに鞄からノートパソコンを取り出すと、お店のプリンターから何やら印刷している。
出力が終わって克己がプリンターから取ってきた紙は―――。
「こ、婚姻届?!」
「うん。沙恵さんも書いてね」
そう言いながら克己は必要な項目に記入すると、紙とペンをこちらに渡してきた。
「ちょっと待って。そういうのはお互いの親に挨拶した後じゃないと」
「わかった」
克己が頷くといきなり電話を始めた。
「あっ父さん。仕事中?……ああ、今からか」
相手の声は聞こえないけどどうやら今から仕事らしい。
「明日会ってほしい人連れて帰るから寝ないで待ってて」
ちょ、ちょっと待って。
夜勤明けの人に寝るなって……。
「母さんにも言っといて」
そんな感じで言いたいことだけ言って克己は通話を切った。
「そんな急に……」
「用事あった?ちゃんと送るからちょっとだけ時間頂戴」
「いや、時間はあるけど」
そもそも私が実家に帰る時は翌日が休みの時なのだから、あるに決まっている。
たった一分程度の短い電話で、克己のご両親に挨拶しに行く事になってしまうなんて、あまりにも急ぎ過ぎだ。
「普通は付き合ってお互いよく知ってから……」
「付き合うって今と何が変わるの?」
改めて聞かれるとよく分からなかった。
デートしたりしてお互いのプライベートを共有する?
バッティングセンターから始まってボーリングやボルダリングにも行って、お互いの誕生日を祝って、挙げ句の果てにうちで晩御飯を一緒に作って食べていたりもしている。
デートらしいデートといえぱ、後は映画やショッピング?
でも、何が変わるかと言われると分からない。
「……変わら、ない、ね」
「だから奥さんで良くない?」
「私、仕事バカだよ」
「うん。動物の話している沙恵さん好き」
臆面もなく「好き」という克己に胸が高鳴る。
「す……素直じゃないし」
でも、克己のように「好き」と言葉に出来ない。言われて嬉しいと思っているのに、返すことは出来ないでいる。
先輩に付けられた傷は克己のせいじゃないのに、また捨てられるんじゃないかと、不安に震えているのだ。
「ふふふ。可愛いよね」
私のジレンマを見透かしているかのように克己は笑う。
付き合う前ならいくらでも甘い言葉を使うよね、男って。
男っていうカテゴリーで括ってしまうのも目茶苦茶だって私も分かっている。
ただ、そうやって逃げ道を探しているのだ。
「三つも年上だし」
「気にしたことない」
確かに克己ならそうだろう。
「体格ごついし」
「そう?手貸して」
克己が片手を伸ばして来たから私も自分の手を持ち上げて差し出す。
手のひらと手のひらを合わせると、一回り克己の方が大きかった。
克己は伸ばしていた指をキュッと曲げて合わせていた手を握り込んだ。
徐ろに椅子から立ち上がると握り込んだ手を引くので、私も立ち上がる。
「抱きしめていい?」
急に艶を帯びた声で、大人びた表情になって断りを入れてくるなんて卑怯だ。
可愛いより綺麗が勝って、惹き込まれるようにコクリと頷いた。
身長差は僅かに二、三センチほどしか無いし餌のバケツを運んだりして毎日が筋トレの私の体は固くて抱き心地が悪いんじゃないかと思う。なんなら動物の匂いが染み込んで臭いもあるかもしれない。
そんな葛藤を抱えつつも、克己に手を引かれるままに彼の腰に私の手を回す。
克己の両手は私の腰の後ろで組み合わされた。
「沙恵さんのはごついじゃなくて引き締まっているって言うんだよ」
それは言い方の違いだよ、と拗ねた考えが浮かぶ。
だけど続けて耳元で「好きだよ」と囁かれて、キュウゥンと心臓が音を立てた。
直球でそれを言われてしまったら、もうこれ以上自分の気持ちを誤魔化すなんて出来なかった。
「……書くよ、婚姻届」
抱擁が解かれ改めてカウンターの椅子に座り直す。
眼の前に置かれた婚姻届の原田克己の名前を噛みしめるように何度も確認して、それから一字一字ゆっくりと自分の名を書き込んだ。
そういえば、克己のご両親に会うのに手土産の一つも無い、とふと思いあたり、その旨克己に伝えれば何故か今からパウンドケーキを焼くことになり、甘いバターの香りに誘われてお母さんが降りてきて、カウンターの上に置きっぱなしだった婚姻届を見られてしまった。
「あら?結婚するの?」
「うん!」
お母さんに気が付いていなかった私は、お母さんと克己の会話を耳にして飛び上がった。
お母さんは克己にお願いされて証人欄に署名している。
私と克己が結婚することに驚きはないみたいだ。
「ご挨拶に行くならジーパンは止めなさいよ」
克己からご両親に挨拶に行くと聞いたお母さんに服装を注意された。
当然ジーパン以外持って帰っているはずも無く、明日の朝一でお母さんの車を借りて一度アパートへ寄ってから克己の家に行くことになった。
あまりにも怒涛の展開過ぎて、克己の家の駐車場に車が停まるまで、実は夢じゃないかと思っていた。
玄関で迎えてくれたのは克己のお母さんで、探るような視線は居た堪れないけど、当然の反応だろう。
それでも追い返されること無く居間に案内されるとそこには克己と同じ明るい髪色の男の人があくびを噛み殺していた。
Tシャツに一応襟付きのジャケットを羽織りましたという感じのラフな格好で、克己のお母さんと並ぶと随分と若く見えてもしかしたらお兄さんなのかもとも思ったが、克己の紹介でやっぱりお父さんだと判明した。
実年齢より若く見える女性を美魔女と言ったりするが、男性の場合は何ていうんだろう?
「克己はあまり他人を顧みないだろ?」
お互いの挨拶があらかた終わると克己に振り回されているだろうと心配された。
「確かに予想もできない行動力があって驚かされる事もありますけど、でも顧みないなんて事は無いです。私が困っている時には、いつの間にか側に来て寄り添ってくれるんです」
言葉にしてみたら私は随分と克己に甘やかされている。
それで、本人は別に重荷を背負ったとかも全然思ってなくて、笑顔で心底楽しそうにしているのだから凄いとしか言いようがない。
隣りに座っている克己と目が合うとニッコリ笑うから私もつられて笑った。
「沙恵さん、克己をよろしくお願いします」
「っ!はい。こちらこそよろしくお願いします」
最低限の会話だけでずっと話を聞くだけだった克己のお母さんが急に頭を下げたので、私も慌てて頭を下げた。
どうやら御眼鏡に叶ったらしい。堅苦しい雰囲気だったのが緩いだのを感じた。
「人に対してこんなにリラックスしている克己を見るのは初めて」
克己のお母さんはそういうけど、わりといつもこんな感じだから、初めては大袈裟じゃないかと思った。
「あっそうだ。僕、沙恵さんの実家で同居するから」
「ちょっと克己……」
「沙恵さんも実家に戻るんでしょ?」
「そのつもりだけど……でも」
いきなりそんな事を言い出した克己に戸惑ったのは私だけで、ご両親はあっさりと受け入れた。
克己のお父さんに言わせれば、家に居ない時の克己は大抵サテライトに居るという認識だったようだ。
言われてみればその通りで由恵と付き合っていた時はよく泊まっていたし、ここ二週間弱は毎日通っていた。
高二で二輪の免許を取得した後は、少なくとも月に二回くらいは思い付きで外泊してくるような子だったらしい。
この数年は外泊することもだいぶ減って、克己の居場所を確認すると大抵サテライトと言われたので、ようやく落ち着いたかと安心感さえあったようだ。
そんな話を聞かされると思わず「私が責任を持ってお世話します!」と、まるでペットの譲渡会のような事を言ってしまって、人間相手になんて言い様を、と焦る私とは裏腹にご両親にはとても感謝されてしまった。
もちろん、婚姻届の証人欄も喜んで記入してくれた。
そんな感じで、気が付けばお昼御飯もご一緒させて頂いて、サテライトへ帰ったのは夕方になっていた。
お母さんに車を返して、私はスカートからジーパンに履き替えて、明日は仕事だから克己にバイクでアパートまで送ってもらう。
なんだか密度の濃い一日だったけど、昨日の夜に克己からプロポーズされてまだ二十四時間も経っておらず、心身共にヘトヘトだった。
「お茶でも飲む?」
「ううん。疲れているでしょ?今日はもうゆっくり休んだ方がいいよ」
そう言って克己は玄関より先には入ろうとはしない。
寂しい気持ちを隠さずにいたら、不意打ちで克己の顔が近付いてきてチュッと軽い音がした。
「おやすみ。僕の可愛い奥さん」
それともう一言私の耳元に言い残して、克己は帰って行った。
私の右手は口を、左手は左耳を押さえながら、しばらくその場から動けないでいた。
厳密にはまだ入籍前だから奥さんではないけれど、唇に残された感触にトキメキしか感じなかった。
おまけに『我慢出来なかった。ごめんね』なんて言い残されて、こんなの眠れる訳が無い。
昨日も急遽パウンドケーキを焼いて後片付けをしていたら殆ど眠れなかったのに、こんなに心を掻き乱されて今日も眠れない予感でいっぱいだ。
だけど、それはちっとも嫌なことではなくて、胸の奥がとても温かい。
――――――おやすみ。私の可愛い旦那さま。
2023.08.22 完結
最後までお付き合い頂きありがとうございました。
ちょっとでも楽しめたなら幸いです。
予定より長くなりましたけど、これまでの作品全て途中でお休みの週があったり不定期更新になったりしていたのに、今作はそんな事無く完結まで書ききることが出来たのが嬉しいです!
次回作は、またしばらく準備期間を置いてから書きたいと思います。
もしご縁がありましたらそちらでもよろしくお願いします。