少女カラクリ①
「花楽里」
私ではない誰かを呼ぶ声。
重たい瞼をこじ開けると、眩い朝日と共に、私を見下ろす美女が目に入った。
雪のように美しい蒼白な髪を、旋毛のところで高く結った、くっきりとした目鼻立ちをした人間。
「な、なんと雅な風采か…………」
まさに天女と呼ぶにふさわしい顔立ち。
――まさかここが、天の都とでもいうのか。いや、それにしては粗末な造りの家だな。
などと思い耽ながら彼女を見て呆けていると、あろうことか女は、この私の頭頂部を平手で叩いてきた。
「なに寝ぼけたこと言ってるの」
「痛い!」
「早く起きて、畑仕事を手伝いに行きなさい」
彼女はそう云って、馬小屋のごとし小汚い部屋から出て行こうとする。
…………しかし、誰ぞに頭を叩かれたのは、一体いつぶりだろうか。下々からは魔王と恐れられ、家臣の連中でさえ、私に近づく者はいなかったと云うのに。
「おい女!」
咄嗟に声を荒立てた。簡単な理由である。この私に無礼を働いたのだ。女とて許せぬ。
しかし女、鬼でさえ物怖じするほどの私を恐れるどころか、逆に眉根を吊り上げ、その目元に濃い影を作った。
「…………女ぁ?」
「な、なんだ?」
ズカズカと、木の床を踏み抜きそうなほどの足取りで近づいて来る女。そして遂に私の前に立つと、そ奴は改めて私に手をあげた。しかも今度は平手でなく、岩のように重い拳骨をもって。
「痛い!」
「カーラークーリーちゃーん? 母親に向かって、なんて口を利くのかしら?」
まるで大福餅のように白く柔そうな手だというのに、ソレからはまったく想像もできない痛みに、私はつい頭を押さえて呻いてしまった。
だが女は、どういう訳か怒りの表情をふと和らげて、どこか嬉しそうにため息を吐く。
「まぁでも、親に対して口が悪くなる時期だもんね。今回だけは見逃してあげる」
両の手を腰に当て、窮屈そうな胸元を僅かに張って、呆れたような笑みを見せる女。
――――待て。今、かの者は何と言った? 私の耳がまだ死んでおらぬのであれば、確かに“親”と言った気がするが。
居ても立ってもいられず、私は女に問う。
「つかぬ事を尋ねるが、其方は一体何者か?」
すると女は、僅かに眉をひそめて首をかしげる。
「あんた、なに言ってるの?」
問いに問いで返すとはなんとも失礼極まりない下女ではあるが、しかし状況を飲み込めずにいるのは私も同じだ。
「いや、先も申したはずだが…………」
私がそう返すと、女は今度、目を丸くし、眉間のシワを目一杯にのばして云う。
「ま、まさかっ、強く叩きすぎたのかしら!?」
抱き着くようにして、私の頭部を抱える女。豊かな胸元が私の顔を覆い、野原のような爽やかな香りが優しく包む。
…………不躾な態度には腹が立つが、しかしこれはこれで、真よきものなり。
「ちょ、ちょっと!」
女は声を上ずらせながら、さながら猫のような素早さで私から距離をとる。急とは言え、やはり断りもなく胸を揉んだのは悪かっただろうか?
「別にいいだろう。其方は私の頭を小突いたのだ。それに揉み拉いたところで、減るものでもあるまい」
「カラクリ、あなた本当に変になっちゃったわね。おまけに口調も変よ」
尻を床につきながら頬を淡く染め、着崩れた着物を直して呟く女。その表情は先ほどのとは違って、どこか呆気に取られているよう。
「何を申すか。それに、私の名はカラクリなどではない」
「…………自分の名前も忘れちゃうくらい、強かったのかしら」
己の握りこぶしを恐れるように眺めながら、女は独り言のように呟く。
「のぅ、そなた、さっきから何を云うとるのだ」
私がそう云うと、女はすっと立ち上がって襖を開け、
「今、お医者さま呼んでくるから、カラクリはここにいなさい!」
と、強い声音で言い放って襖をぴしゃりと閉じて行った。
「なんなのだ一体。忙しない奴だ」
かくして一人取り残された寝室。
天井には雨漏りで出来たのであろう染みが広がり、壁からはひゅうひゅうと隙間風が情けない声をあげている。
おもむろに目を配って隅々まで眺めてみるが、何とも質素な部屋である。
「ここが天の都であるのなら、現世の方がいくらかマシだな」
…………しかしこの感覚。まるで、若かりし頃に戻ったようだ。否、今年で五十も過ぎるというに、衰えすらも感じない。
「ふむ。これも死の影響なのか?」
そんなことを考えながら部屋を見回していると、一つの真澄鏡が私の目に留まる。
どれどれ、すこし若返った顔でも見てやろう。
そう思い立った私は、膝を立てて、童のような気立てで鏡の正面までにじり寄る。
…………だが、そこに映ったものはというと。
「な、なんじゃ!?」
在りし日の自分を映すと思っていた鏡。しかし目の前には、齢十四ほどの少女が、なんとも間抜けな表情でこちらを覗いていた。否、それが紛うことなき、私自身であった。
「だ、誰ぞ…………この童は」
黒髪だった私とは違い、肩まで伸びるはどこか冷たさを覚える白銀。刀のように鋭い目つきの筈は、今ではまん丸の硝子細工のように澄んでいる。
闇から零れたような私とは反対に、まるで雪から産まれたかのような、全体的に白い少女が、今の私の姿であった。
「ということは、この女子が、花楽里か…………」
なれば、私を二度も小突いたあの女が、この少女の母親。どうりで話が噛み合わんはずだ。
「しかし母親と違って、胸元は寂しいな」
揉めるほどの大きさもない風通しの良い胸部を見て、僅かにだが哀れみの心さえ抱いてしまう。
――――だが待てよ。何ゆえ私は、この少女の身体に入り込んでしまったのだ?
得体の知れぬ術によって、かの宵に私は没したはず。
牟蔵はどうした? テンメイは? そもそも今は何年だ?
「むぅ、分からぬ」
そうして考え込んでいると、家を揺らす程の足音が、次第にこの部屋へと近づいて来るのが聞えてきた。
「カラクリ、お医者さまを連れて来たわよ!」
そう叫んで現れたのは、ぜぇぜぇと息を乱した女と、今に死に絶えそうな老いぼれ老婆だった。
「さぁ、横になりなさい」
「まて、医者などいらぬぞ」
「だめ。これまで風邪もひいたことの無いあんたが、ここまでおかしくなるのは初めてなんだから、お医者様にかかるのは当然でしょう?」
私の肩に手を添えながら、母親と名乗る女は私を布団へ寝かせようとする。
「ではゲンゲンさま、お願いします」
「ぅむ」
まるで2年ほど天日干しにされたかのような干からびた老人。そ奴は、箸も満足に握れないような震える手を、ぬっと私に伸ばしてくる。
「ご老体。せっかく来てもらったとこ悪いが、私は見ての通り健全だ」
私は枝のように細い老婆の腕を掴み、断りをいれた。
父親を殺めたあの日から、私は終ぞ、この身体に触れることを許さずにいた。我が腹心であるテンメイさえにもだ。
だが彼女らは聞く耳を持たず。
「ね、可笑しいでしょう? ここまで口調が変わるなんて。きっと悪い妖怪にでも憑かれたのよ」
「うぅむ」
「やはり薬だけじゃ治らないのかしら」
「うぅぅむ」
「戯けたことを。薬なぞ必要ないと云うておるのだ」
少し強めの口調で私が云うと、老婆の薬師は、目を覆うほどの白眉をピクリと動かし、私の両目を覗き込む様な仕草を見せる。
「うぅむむむ」
「…………な、なんだ」
好き放題に伸びた眉のせいで、老人の目の色を窺う事は出来ない。だが心の臓に迫るような気迫のせいか、不思議と私は目を離すことが出来ずにいた。
そうして暫くの沈黙の後、彼女はしゃがれた声でこう云う。
「うぅむ」
「…………」
老人から発せられる尋常ならざる雰囲気に気圧されてしまい、つい身構えてしまったが、どうやら取り越し苦労だったようだ。
「これで満足がいったであろう。分かったら、さっさと帰れ」
「ゲンゲン様、カラクリは真に、異常ないのでしょうか?」
「うむ」
ゲンゲンと呼ばれる、さながら仙人のような風貌をした老女は、女の問いにただ一度だけ頷いて見せる。
しかし、先ほどから同じ言葉しか口に出さない老人である。これで薬師と名乗れるのであれば、私だって今日から神と云えるだろう。全く、陽月の行く末が不安でならぬ。
「さ、左様ですか。カラクリ、本当に大丈夫なの?」
カラクリの母親が眉根を八の字にし、私の顔を不安そうにのぞき込む。
だが困ったことに、カラクリと呼ばれるこの女子が、普段はどうして彼女らと接しておるのかが分からぬ。
しかし芝居を打つのも億劫だと感ぜたため、私は適当にあしらう事にした。
「ああ、苦労をかけたな」
「…………そう」
私の返事に女は頷くが、それでもその眉間からシワは消えなかった。
さてどうしたものか。万妖の魔王と慄かれた私が、斯様な細か事に振り回されようとはな…………。