第■■章9『SOSは聞こえない』
「あるところに、同棲している男女、いわゆる夫婦がおりました」
「はあ」
昔話っぽいものを勝手に連想していたボクだったが、彼女の口ぶりから察するにそれは現代ぽかった。
「あるマンションの一室に二人で住んでいました。妻のおなかには、子供が居ました。二人は愛し合って、暮らしていたはずなのに。好き合って結婚したはずなのに。──妻は毎日、夫からDVを受けていました。そう、ドメスティックバイオレンス。家庭内暴力ってこったね。おなかに大事な大事な大事な赤ちゃんが居たのに。可哀想に。……可哀想にね。毎日毎日毎日毎日毎日毎日、来る日も来る日も来る日も来る日も。仕事から帰ってきた夫にサンドバックみたいに扱われて。殴られて。蹴られて。夫が帰ってくるまでずーっと監禁されて。逃げることもできなかった。逃げ出すことさえ許されなかった。いやあ、可哀想に。同情の嵐だね、本当」
「本当に思ってんのかよ。可哀想、だなんて。まったく表情変わってねえし。そう棒読みだとさぁ。何か胡散臭いよ、オトリちゃん」
「人の不幸にいちいち感情移入なんて、めんどくさくてやってられないよ。あくまでこれは、“お話”なんだから。口出ししないでよね、先輩。マジで萎えるから」
「あぁあぁはいはい。分かったよ」
「──妻は、誰にも助けを求められなかったんだ。携帯電話も没収されてたし、家族からも友達からも引き離されていたからね。そんな毎日が続いても、彼女は死のうとしなかった」
「お腹に、子どもが居たからかよ」
「そう。彼女は守ろうとしてたんだ。自分が我慢し続ければ大丈夫だって。そうやって、過ごしていた、ある日」
彼女の日常に亀裂が入った。
「夫は暴れだしたんだよ。いつもと同じように、でもいつもと違った剣幕で。その手には、灰皿が握られていて。がしゃんがしゃんって音を立てながら。家のものを。椅子を。花瓶を。全部叩き割って。粉々にして当り散らした」
「酷い、話だな」
「よっぽどだったよ。偶々そこが防音の高級マンションだったから良かったものの。なにか獣みたいに叫びながら。暴れ狂ってさ」
「……」
「彼女は悟ったんだ。きっとこのまま灰皿で殴られて、私はここで死ぬんだろうって。それで妻は初めて。“死”を感じて、初めて。ようやく自分から口を開いた」
ねえ、先輩。奥さんは何て言ったと思う?
「助けて、……っていうのも変か?」
オトリちゃんは微動だにせず続けた。
「違うね。奥さんはもっともっと、もっと変なことを言ったんだ。“ピザでも取りましょう、おなかが空いたでしょう?”って。そう言ったんだよ。涙ながらに震える声で、最期に、あなたがピザを食べてる姿を見たいのよ。なんて言ってさ。そしたら夫は舌打ちして、早く注文しろって言ったんだ」
「オトリちゃん、まだこれ続く?」
「黙れ、先輩。それで妻は体を引きずりながら電話を取った。“もしもし、□□ピザ屋さんですか、マルゲリータのMを一枚、○○マンション△△号室まで届けてください。”と。息が切れるのを必死に隠して、決死の思いでね」
「呑気なもんだな、最後の晩餐だなんて」
「でも、受話口から聞こえるのは“はあ?”とか、“何を言ってるんだ”とか、そういう声だった。それでも妻は言い続けた。“お願いです、届けてください、△△号室です。今すぐ、早く届けてください”って。ピザを注文し続けた」
「……まさか」
「何で、相手はまともに取り合ってくれなかったのか。そんなの、もう分かっているでしょ」
「ああ、ようやくね」
オトリちゃんの方に、にやりと笑みを零した。言わんとすることならなんとなく、直感的に分かっていたんだ。なにせボクは不思議部部長。
「奥さんが電話をかけた相手は」
「ピザ屋じゃなく」
「──警察だったんだ」
二人の声が重なった。
夫に気づかれないよう、ピザを頼むフリをしながら、住所を伝えていたんだ。お腹の子を守るために。オトリちゃんは相変わらず、温度に飢えた声で続けた。
「警察は最初、いたずらの可能性を疑ったんだけど、夫が暴れる音、明らかな妻の焦燥感から、彼女のSOSに気づいたみたいね。その後、夫は駆けつけた警察に捕まり、妻は無事出産。母子ともに幸せに暮らしましたとさ、めでたしめでたし」
賢い女性のお話でした。
「って、おい。結局、母は強しって話だったのか、これ」
「おやおや、先輩。察しが悪いねえ。極悪だねえ、先輩」
どうして極悪に直結するかはさておき、彼女は、物覚えの悪い子にものを教えるときのように、優しく口を開いた。
「つまりさ、どんな形であれ警察に届いた連絡は、全てSOSになるってことなんだよ、先輩。警察側が気付きさえすればいいんだよ、先輩。だからね、もう、分かるでしょ」
警察に届くものが全てSOSなら。不思議部にだって同じようなことが言えるじゃないか。
「ああそうか、だったら。不思議部に届くものは全て依頼だ。それが学校行事の真っ最中でも、プライベートでもお構いなしに」
今まではそれに気づけた。でも、今回は違う。ああそうか、この子は。
「ボクの受けた、イロハちゃんからの告白が、不思議部への依頼だって言いたいんだな」
「そう、先輩が告白されるなんて、万に一つもあり得ないからね」
香々彩羽に。ボクは依頼を受けていたのか。
あの奥さんのように。イロハちゃんも、声を大にしてSOSを言えない状況にあったのなら、告白よりも合点が行く。何かがカチリとハマる音がして。ボクの頭は狂ったように回りだした。
「ボクがその叫びに気づかなきゃ、意味が無い。イロハちゃんが伸ばした手を、掴まないと意味が無い」
「そうだよ、先輩。止められるのは、あなたしか居ないんだから、先輩」
と彼女はボクにそう残し、真っ白な足袋を擦るようにして戻っていった。洗練された白い袴は、瞳を焼き焦がすほどにまぶしい、正義に満ちている。
「ありがとね、オトリちゃん」
ボクも、その背に一礼して、弓道場をあとにしようと、
「そうかそうか」
「おウワサはかねがね、氷雨先輩っ!」
背後から両腕を、がっちりと掴まれてしまったのであった。