第2章21『風鈴の音』
──綺麗ね、綺麗。この輝きは、無くしてはいけないわ。
女はそう言って、眠る幼子の前髪を撫ぜた。一つ一つの指を、そのに黒髪に潜らせて。愛おしそうに、妹のように。まるで、血を分けた本物の姉妹のように。
チリーン、チリリーン
愛すら攫って行くように、強い風が吹きつけた。夏を冒涜するような、そんな冷たい風だった。もう、春は来ない。夏は、死んだのだ。
チリーン、チリーン
憂う気な彼女の身体を、影がすっぽりと覆った。少女は畳の上で、その小さな四肢を放って眠っている。起きてくれる気配など無かった。誰かは知る必要も無い。女は幼子の額に、触れるだけの口づけを落とした。
───ああ、どうか、健やかに。
振り向いた女はゆっくりと、ゆっくりと影に飲まれていく。愛も、憎悪も、涙も、心でさえも飲み込んで。消えゆく声と共に。風鈴だけが無慈悲に、無関心に、無意味にずっと、揺り響いていた。
チリーン、チリリーン。
△▼△▼
「我はこれから会議があるからなぁ。ホントに皆だけで行ける?」
と、今日も首元の緩みきったシャツを着る彼、倒生ランジ先生は心配そうにこちらを見た。やっと午後の授業を終え、現在この時間なら、生徒たちは部活動に精を出しているところだろう。それはボクらも同じく。
「そんなに気を揉まなくても、スマホさえあればなんだってできますよ」
「うわ、現代っ子の闇の具現化みたいなことを言うねぇ、レイ君」
「スマホの恐ろしさを教えてくれたのは倒生先生ですけどね」
個人情報がこの教師に筒抜けだということ、それが一番許しがたい恐怖である。パスワードを何度変えても倒生先生には敵わないため、そろそろ警察さんのご厄介になろうと考えているくらいだ。
「そんなことしたらレイ君の方が補導されちゃいません? 小児性愛者ってあんまり容認されてないんですよ」
「本気の心配をしないでくれ。あとボクの心の声と会話するな、超人!」
「いやいや、思考口から全部漏れてましたよ、レイ君」
無礼にも、丸い目をもっとまんまるくしてそう言ったのは、つくしだった。もちろん、ボクとつくしはこんな雑談をするためにここに来たのではない。明確な目的を持って倒生先生に交渉しに来たのだ。
「大図書館に行って"イトモクハルサメ"さんにお話を聞くだけですってば!」
何度言ったら分かるんですか、と声を荒げれば、
「明日で良いじゃない! 大体、今日ははるか君も用事があって居ないんだから、二人じゃ危な過ぎるよ」
「いいえ、シオンさんは今だって苦しんでいるんですよ? 一秒でも早くやれることはしたいんです!」
「つくしちゃんまで……」
「そんな、大丈夫ですって。プリ○ュアだって最初は二人だったじゃないですか」
「そうだけどさぁ! その場に大人が居るのと居ないのじゃ、大分意味が変わってくる」
現に君らは魔法戦士でも何でもないし、とどこかヘソを曲げたような彼は、自らのスマホを取り出した。ごてごてとした装飾の無い、黒いスマホケースだった。だらしないその見た目に反して、シンプル。
「これは逃走用の携帯ですか?」
「ほら、ふざけてないでレイ君。君も携帯出してご覧」
「あ、はい」
ボクは素直にポケットからそれを出した。
「これ、我の連絡先」
「え」
「会議は夕方に終わると思うけど、それまでに掛けてきても良いから。君たちに何かあったら、すぐに行くよ」
「タオ先生……」
諦めたように肩をすくめ、彼はやれやれと笑って見せた。
「──行ってきなさい」
「は、はい……!」
△▼△▼
十五時十二分。もうあと半分くらい歩けば大図書館だろうか。なぜこんな太陽の照りつけるコンクリートの坂を歩いているのかと言うと、ボクらが見事にバスを逃したからである。ボクら、と言ってもつくしは途中でシオンさんの家に向かったため、
「あー、フライパンの上のベーコンはいつもこんな気分で運命を転がされているのかな、臼居くん」
「そうですかね。ベーコンは焼かれるのが宿命なので、もはや本望なのでは? ぜぇ、はぁ」
「もう何言ってんのか分かんねぇよ、はぁ」
そう、ボクと共に坂道を駆け上がっているのは臼居くんなのだ。仮にもつくしは女の子なのだから、万一の危険を考え、ボクらだけで向かうことになった。
「まさか君とこんな青春することになるなんてな、臼居くん」
「これの、どこが、青春ですか! 文化部の男二人が息切らして坂上がってるだけじゃないですか! こんなことなら、僕だってシオンさんの側に行きたかったなあ!」
「頑張れよ、一応男の子だろ?」
「普通に男の子ですけどねぇ」
改めてみれば、臼居くんは非常にうるさい男である。普段は陰キャかましてるくせに、ツッコミのときだけ大声を出すところとかまさに、
「え、ボクじゃん……? これが、キャラ被りの恐怖?」
「真顔で何言ってるんですか! さっさと歩きますよ」
臼居くんは滝のように流れる額の汗を拭い、ボクの肩をぺしんと叩いた。痛い。つくし以外に殴られたことないのに。余計なことはさておき、ボクたちは歩みを進めた。そういえばなぜここに彼が居るのかという話だが、ボクもよく分からない。
「今日はたまたま暇だったんですよ! 地獄の業務も昨日終わりましたし。何より、僕もシオンさんのために出来ることをしたいので」
依頼をしてきたのは臼居くんで、解決するのはボクらなのに、何とも気の良い少年である。まあそれが、惚れた女のためなら、男としては当然のことなのだが。ボクは何とはなしに、その横顔に声を投げた。
「あのさ、好きなんだろ。シオンさんのこと」
「……!」
すると彼は驚いたようにこちらを見て、
「あの、本当に申し訳ないんですけど、シオンさんは友達なので」
「は?」
だってほぼ告白されてたようなもんじゃん。前回の依頼とか、もはや見せつけだろ。ボクは、照れくさそうに頬を緩める彼に絶句した。
「よく木先生徒会長にもからかわれるんですよね。でも、ただの良き女友達なので。僕も微力ながらそんな友達の力になれたら……って、氷雨くん?」
「いやなんか、君がモテない理由が大いに分かった気がする」
「は、はぁ?」
あんなに目を輝かせていたシオンさんはボクにしか見えて居なかったのだろうか。大丈夫だ、ボクはいつでも恋する乙女の味方だぜ。ボクは心の中でそう呟き、臼居くんの前を駆けた。
「あ! ちょっ、氷雨くん待ってくださいよ! 何ですか今の」
「モテる男は良いねってことだよ、このクソ幸せ野郎」
「さっきと言ってること違うんですけど!」
そんな掛け合いをしていれば、目の前にそれがそびえ立っていた。
「わぁ……」
「はぁ、氷雨くんは来るのが初めてでしたっけ、凄いでしょう、ここ」
思わず、声をこぼしてしまった。見上げてしまった。予想より、大図書館はずっと大きかったのだ。銀色の光沢に太陽系を表すような鋼鉄と球体のモニュメント。近代的、幾何学的、宇宙的。ボクには稚拙な表し方しか出来ないが、その表現がぴったりだと思う。何でも、この図書館には総合体育館も併設されているらしく、中にはジムやサウナまで完備されているとのこと。
「こ、こんなの、遊園地じゃないか……!」
「いやさすがにそれは無いですけど。図書館でこんなにテンション上げてる人、初めて見ましたよ」
それもこれも、仕様が無いことだ。学校以外の外出すらも久々なんだ。テンションのメーターはとうの昔にカンスト済みである。悔しかったことを一つ挙げるとすれば、バスに乗れなかったことだ。うわさの交通公共機関とやら、使ってみたかったのに。
「氷雨くんはジャングルにでも住んでたんですか?」
「まぁ、そんなところだ」
「はいはい、冗談は良いですから、早く入りますよー」
やっと息が整い、ボクらは足を踏み入れたのだ。”イトモクハルサメ”の居る、大図書館へと。




