第2章14『一二一号室の扉』
先生に、こっそりシオンさんの住所を聞いたボクは、傾きそうなアパートの前に立っていた。ボクの《幽霊館》と良い勝負……というか、その佇まいは《幽霊館》よりおんぼろだった。
「お姉さんのカノン先輩とは、一緒に住んでないのかな」
そう思ってしまえるくらい、こじんまりとしている。サラサラ黒髪の、毎日トリートメントを欠かしていなそうな美少女が住んでいるアパートには、まず見えなかった。何回も確認したが、薄れかけの外壁の文字には確かに《アパートポピーハイツ》と記されていた。先生から貰った紙片にも、《ポピーハイツ》の一二一号室、と明記されている。
彼の情報が間違っているなんてことは有り得ない。守秘義務すら無いあの変人教師なら、ボクへの嫌がらせという線も捨てがたいが、ここでは捨てよう。
こうしている間にも、呪いは彼女の体を蝕んでいるんだ。ボクは、恐怖も戸惑いも一切捨てて、そのドアノブに手をかけた。左手でこんこんっとノックする。
「あの、シオンさん、ボクです。氷雨レイです」
少し大きめに声を投げたが、返る声は無い。ドア横の窓はやけに厚く、部屋の様子は何一つ見えない。薄暗く、中に光が差していないことしか、分からない。
ボクは何度か、冷たいアルミ質のドアを叩いた。何度か。何度も。やけに静かな緑葉たちのささやきを、かき消してしまうように。濁った金属音が響いていく。
「ねえっ、シオンさん、ボクです。ボクでーす!」
アパートではなくどんどん日は傾き始め、ボクがその扉に呼びかけ続けて、早二時間が経過した。
もはや、中にシオンさんなんて居ないんじゃないか。鍵もきっちりかかっているし、おんぼろアパート特有の隠し穴や抜け穴なんて、そんな都合の良い者は存在しなかった。
ここはただ、汚いだけの普通のアパートだ。
扉にもたれるようにして、ボクはその場に膝を折った。両手足から力を抜ききって、糸の切られた操り人形のように、頭だけを空に向ける。
「こんなに暗くなったんじゃ、つくしももう帰ってるよな」
嘆息すらも夕闇に溶けていき、体中が無力感に苛まれた。そのとき。
────ひ、っぐ……っぇぐっ。
何かが聞こえた。
────ぅ、えぇえっ……ひぐっ。
嗚咽のような、でもそれは確かに、少女の泣き声だった。
どこからって、それは勿論、ボクの背中から。背後の扉からだった。一二一号室の扉の向こうで、今現在、誰かが泣いている。しくしくと、めそめそと。ボクがうるさくしていたから、聞こえなかったんだ。
彼女はずっと、扉の傍で泣いていた。
叫んで、叩いて、そんなことしたって泣いている子が応えてはくれない。応えてくれるはずが無い。今度こそ、ボクはその声に耳を澄ませた。
「ねえ、シオンさん、ここを開けてくれないかな」
──だめ、です……。
みしっと、扉が軋んだ。
「ボクは依頼を投げ出さない。ボクは依頼者を選ばない。口が裂けていようが、耳が尖っていようが、足が毛むくじゃらになっていようが、不思議は絶対に解決する」
──うそ……うそ、だって私を見たら、そんなこと……!
「怖かったら待ってるし、心の準備が出来るまでボクはここに居る。嫌だったら、臼居くんにも皆にも黙ってるよ。秘密は守る、絶対に。それに約束だって守る、不思議部だからね」
────信用、できない!
ひどく震えた涙声は、そう大きく叫んだ。
当たり前だ。醜くなった姿なんて、見られたくないし、見せたくない。どんなに信用できる人でも、いや、信頼している人にこそ見せたくないもんだ。
なら、誰になら見せてくれるのか。そんなこと、ボクが一番知っている。
「シオンさん。ボクは、生まれつき、耳が尖ってるんだ」
────え?
シオンさんの声が、くぐもったように消える。
「髪の毛も灰色だし、ほら、目の隈も酷いから。沢山の人に、避けられた。好奇の目に晒されて、腫れ物みたいに扱われて、それが嫌になって引き籠もってたんだ」
──そう、なんですか。
「多分、酷い目に遭ったショックか何かで、昔のことはほとんど覚えてないけれど。体は憶えてる。目は憶えてる。脳が忘れたって、心はいつだって忘れなかった。向けられる視線が針より冷たくって、殴られたように痛みだけはいつまでも残り続けた。忘れ去ろうとしても、消えてはくれないんだ」
──分かっているなら、どうして……!
「分かってるから、だよ。君に会いたい、同じ思いをしてる君に。このままの姿で生きていく辛さを、シオンさんには味わってほしくないんだ」
シオンさんには大事な人が居る。
カノン先輩が居て、臼居くんが居て。蔑ろには出来ない人生が、この先もずっと続いている。忘れて、失くしたボクとは違う。
「大丈夫、ボクは嘘をつかない」
が、ちゃっ。
「は……」
開錠音と共に、ボクの唇からは不謹慎にも笑みがこぼれていた。少し待ってから、ドアノブに指を絡めそっと引いた。音はしなかった。
部屋に入ってしまったのか、先ほどまで言葉を交わしていた少女の姿は無かった。ただ、恐ろしいほどの闇に塗り潰された廊下が続いていた。そこで仄かにボクの瞳が捉えたものは、右手一番目にある部屋だった。そこは、戸が半開きになっていて、まあ暗さもありそんなことしか分からなかったが、
「そこに、居るんだな」
ボクの直感はそう告げていた。ゆっくりと、壁伝いに歩みを進める。
「っ……ひっ、ぐ…………」
泣き声は、鮮明に。近くまで来て、
「シオンさん──!」
暗がりの中、ボクは何かと目が合って。
ぎょろりとした大きなその赤い目は、シオンさんでないことは確かだった。
確かだった。
確かだったの、だが。
闇に落ちていく少女の泣き声に、ボクは自分の浅はかさを、愚かさを、痛感して。目の前の状況に、ただただ絶句したのだった。




