第■■章17『空白の代償』
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香々イロハ──のフリをしていた彼女は、笑った。えずくように、笑った。なにがなんだか、分からなくなってしまった。と。そういう風に。
「自分の『羽』が、欲しかっただけなのに……私だって、羽ばたきたかったんですよ。自分の好きなことをして、自分の思うように生きて」
決壊したように、彼女は話し始めた。変な敬語も使わない、イロハちゃんじゃない彼女が、声を上げて。それはどこか、罪の告白のようにも聞こえた。いや、自らの中に潜む、エゴの懺悔と言ったほうが正しいかもしれない。
「“イロハちゃん”じゃなく、“私”として! “イロハちゃん”として生きることだって楽しかった! お兄さんたちだって、大好きで、やっぱり、本当に大好きで……! 私が“イロハちゃん”をやめたら、きっと全てが壊れちゃうんです、それが嫌でそれも嫌で。我慢しなきゃいけないのに、わがままなんて言える立場じゃないのに……駄目ですよね、駄目だなぁ……」
「────」
「毎日を過ごすたびに、“私”として生きたいっていう思いが、強くなっていくんですよ。………だから、死のうとしたんです。氷雨先輩の肩甲骨が手に入らなかったら、死のうと思ってたんです。“イロハちゃん”を殺して、“私”になるために」
あーあ。
すべてに失敗してしまった彼女は天を仰いだ。潤んだ瞳を隠すように。
「──なんにしろ、蝙蝠の欠片を使い続ける君を、黙認する訳にはいかないよ。欠片は回収させてもらうし、君はマネキンに戻ってもらう」
「──え」
彼女は口を開け、呆然とした。告白の件は嬉しかったし、お礼も言ったけど、それはそれ。これはこれである。まるで、裏切られたかのような顔をするじゃないか。やめてほしいものだ。ボクは最初から、君の味方でも何にもないのに。
「……めて、やめて! やめてくださいっ!」
彼女は、縋るようにボクの腕にしがみついた。泥に固められた、その腕で。
「そんなことしたら、本当に……! お兄さんたちがおかしくなってしまうんです。だから、だから見逃して……」
「ボクには、君たちが幸せだなんて、そんな風には見えないんだよ」
耳に痛い金切り声を、ばっさりと両断する。
「幸せだ幸せだって、そう繰り返してはいるけどさ。君は確かに、ロッカイ君もロッケイ君も、愛してはいるけどさ。でも、あいつらが愛してんのは、君じゃなくって“イロハちゃん”なんだぜ。亡くなった妹を忘れないように、つなぎとめる道具としか見られてないんだよ。それってさ、めっちゃくちゃ不公平じゃないか?」
どんなに頑張っても、どんなに努力してもそれは“イロハちゃん”の功績になる。他人の人生を代わることなんて、いくらマネキンでも不可能だ。他人に成り代わるってことは、その分『自分』を捨てなきゃならない。自分の『羽』を、自分でもぎとらせるなんて残酷すぎるじゃないか。
「君は、自由に羽ばたきたかったんだろ。だったら自分の望みを、否定なんかすんなよ。自分を生きたいって思うのは、駄目なんかじゃない。いけないことなんかじゃない」
「そんなことない……。わ、私は、マネキンで、人間じゃ、ないんですよ!?」
「マネキンだったとしても、今の君は人間だ。そんなの、当たり前のことじゃねえか。君は、怒って、怒鳴りつけて暴れて、当然なんだよ。良いんだよ!」
「だって……だって、だって!」
「嫌なんだよ、なんか。見ていらんないんだよ。そんな絆、“間違ってる”って思うから。だからさ、もう互いに、自分を縛りつけ合うのはやめたらどうだ。なあ、そうだろ、香々兄妹」
言いたいことはもう言った。だから次は、向かい合う番だ。ボクは閉めきりだった扉を開け放った。
かちゃ。
解き放たれる音がして。彼女は、思わず退いてしまっていた。そうなるのは当たり前で、ホントはボクも少しだけビビッていたけれど。そこに、居たのは。
「────イロハ」
「兄さ、ん」
美術室の入り口に立っていたのは、香々ロッカイと、ロッケイの二人だった。その背後には、仁王立ちするカコミちゃんや、アリボトケまで見える。あっちも、口を割ったらしい。
「ああ、あ、あああ」
口から零れたものは、言葉にすらなっていない。悲鳴とも言える嗚咽だった。今にも泣き出してしまいそうなのに、それを押し殺して。こんなところを見つかったら、“矯正”される。また、羽がなくなってしまう。二人の兄を目にした少女は、まるで小動物のように背をかがめていた。
怖くて、仕方がなかったはずだ。自己暗示なんて所詮その程度のもので。左腕を切り落とされて、自身の尊厳を一つ残らず奪われたのだから。忘れようとしても、体は覚えている。最後まで、彼女は二人を愛して、許容しようとしたけれど。そんなこと、普通の人間なら、怖くて怖くて仕方がないはずなんだ。
たとえそれがマネキンでも。狂気への恐怖を、消すことなんてできないのだから。
「イロハ……じゃなくて、何て呼んだらいいのか分からないのですが。いや、……彩羽」
あえて、一人は繰り返した。もうどちらがどちらだか、見分けはつかない。ただ、もう片方の考えていることも、言いたいことも全て同じだろうと見当は着く。二人は、互いの瞳に互いを映し、向き直り、
「ごめんなさい」
と、頭を下げたのだった。
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そりゃそうだ。
いつだって時は進むし、進み続ける。ロッカイ君だってロッケイ君だって、自覚をもつ大人になる。いつまでも、お人形とおままごとをしている子供じゃないんだから。二人だって、心のどこかで分かっていたのだろう。
“イロハちゃん”が、もう亡くなっていることを。
“イロハちゃん”を演じ続けるマネキンの心に、限界が来ていることを。
だから二人は、大げさにアピールした。
──かわいい妹をもう二度と失わないように。
本当、兄妹揃ってまわりくどい。自分たちを止めてほしいって大声で叫んでくれないと、分かんないだろうが。
「……ごめん、ごめんなさい。今まで本当に、辛いことばかっりさせて。ずっとずっと信じたくなくて。イロハが、死んじゃったなんて考えるのが嫌で、嫌で。ずっと、逃げて」
「君に、君の、人生を奪って、壊して……ごめん」
謝った。
「勝手に、イロハにしようとしてた、君の、気持ちなんて、何にも考えずに……僕は」
謝っていた。
膝から崩れながら。まだ判別のつかない子供のように。泣きじゃくりながら。泣きじゃくりながら。へりくだり過ぎた敬語すら忘れて。少女は、怯えながらも手を伸ばす。
「違います、私は、嬉しかったんです。……イロハちゃんになれて、本当の妹として扱ってくれて、守ってくれて。人間にまでしてくれて、私は、マネキンだった私の心は十二分に満たされたんです。だから、顔を上げてください」
「違う、ちがっ、……うんだよ。全部、完璧じゃなくても良かったんだ」
「都合がいいのは分かってる。一生許してもらえなくたって、憎まれたって仕方がないって、そう思ってる。だけど、……俺たちの妹になってくれて、ありがとう」
「イロハに、なろうとしてくれた、……他でもない君のことがっ」
「イロハじゃない、君のことが……」
「大好きだ」
「────っ!」
おこがましいのを百も承知で、二人は、マネキンちゃんを抱きしめた。強く、強く、強く。正面から、抱きしめた。
「私も、大好きです。ケイ兄さんのことが、カイ兄さんのことが……同じように好きで、大好きで。だからずっと、ずっと嫌われたく……なくって」
「嫌ったりしないよ……どんな君でも」
「マネキンに。君は、僕らの自慢の妹なんだから」
イロハちゃんは、長袖を捲り上げた。右腕には、恐ろしくくっきりと、羽の形の黒い痣が、浮かびあがっていた。覚悟が、できたということだ。鼻水をすすった香々兄弟も、彼女の真っ白な柔肌に、爪を立てた。痣の、辺りに。
「お兄さん、私は、お兄さんたちの空白を、埋めることができたでしょうか……?」
細めた目に映るのは、幼かった少年たちのあの泣き顔だ。それを笑顔に変えることなんて、できたのだろうか。
「できました、のですよ」
「そーだそーだ、あなたがいるだけで、俺たちは毎日が楽しくていらっしゃったのです」
「そうですか……本当に、良かった」
「イロハ、君に羽を返します。いままでありがとう」
そう言ってロッカイ君は、彼女の蝙蝠の欠片を引っこ抜いた。ことん、腕の中の彼女は力を失い、温度も、中身もない、ただのマネキンに戻ってしまった。その、蝋のような透けた唇が、柔らかい微笑を湛えていたのを、ボクは鮮明に覚えている。




