第■■章11『熱湯を讃えよ』
「───っ、やばっ」
上げようとした肩は、ロッケイ少年に押さえつけられ、兄のロッカイ少年は迷いすらなく固めた拳を振るって、
「っぐ! 痛っだぁ!」
ごづっ、とひどい音。ボクの左頬におくれて灼熱が襲い掛かる。まるで二〇〇〇度くらいに熱された棍棒を、頬に勢いよく打ちつけられたような感覚だった。
腫れる。これ絶対腫れている。空気に触れるだけで局部が痛んで。嫌な緊張に頭が真っ白になり、真っ赤になりを繰り返している。暗転して、明転して、安定はしない、明快もしない。ぐわんぐわんと脳みそが揺れ動き、遊園地にある船のアトラクション宜しく振り子のように揺れ動き。船酔いに近い感覚が追加された。
倒れることは許されない。ロッケイくんはがっちりとボクの二の腕を掴んでいるのだ。
もう一度、目の前のロッカイ君が笑った。
だめだ。悲鳴も吐き気も噛み殺す。奥歯をぎちぎちと揺らして。噛み殺す、噛み殺す噛み殺す噛み殺す噛み殺す噛み殺す噛み殺す噛み殺す噛み殺すかみころすかみころす────噛み殺して。
気持ち悪い。怖くて怖くて怖い怖い怖い、怖い怖いこわいこわいこわい怖いから。床が見えて、地が見えて。血は見えないが、真っ赤で。真っ赤で。
再度その拳が。
───振り下ろされる。
「───そこまでよ。そこから先は、行かせない」
緊張を。圧迫を。恐怖を。すべてを。切り裂くような声が響いた。
はっきりとした、少女の声。後輩なのに、一つも自重しない、彼女の声がして。ボクは、ゆっくりと瞼を上げた。寸前で、その拳を受け止めたのは。その子は、
「悪いけど、この人を殴って良いのは、あたしだけなの。まあ、その前に、香々兄弟。学園ポリス《熱湯》担当として、“先輩への暴行事件”について、お話お聞かせ願えるかしら?」
「げっ」
「げげげっ」
「お前は、生徒会会計にして」
「が、学園ポリスのリーダー……」
「「天追カコミっ!」」
「ええそうね。あたしの名前は天追カコミよ、ひれ伏して床でも舐めていなさい」
彼女、三年D組、天追カコミはそう言って、自身の左袖をつまんで見せた。
「……あのう、カコミちゃん。腕、なんも付いてないけど」
「当たり前じゃない、これから腕章を作ってもらうんだもの。《熱湯》って金色の文字の入った、素敵な腕章をね」
「────っはあ」
ボクは思わず、詰めていた息を開放した。相変わらず、《熱湯》の意味だけは分からずじまいだが、彼女は彼女なりに、ボクを助けてくれたらしい。肩の力が抜け落ち、膝から崩れ落ちる。そして、彼女に拳を捻じり伏せられたロッカイ君も苦い顔をして、それを振りほどいた。乱暴に、どこか拗ねたような顔をして。
「天追カコミ。僕らは先輩と戯れていただけなのです。それはただのスキンシップ」
「よって、暴行には当たらないのでいらっしゃいますよ。ね、カイ兄さん」
一発でも入れやがった癖に、よくそんなことが言えるもんだ。彼らは何も悪びれず、つらつらと耳がくたびれるような持論を展開し始めた。
「顔の腫れは、虫歯か何かですよね、レイ先輩」
「───はあ?」
「どうでもいいことでいらっしゃいますが、そうやって俺たちを悪者扱いしてなんになるんでいらっしゃいますか?」
「分かりました、そうですね。学園ポリスは人を悪者に仕立て上げるのが仕事ですもんね」
「そうそう、そんなんだからカコミは───」
「──遊びでも何でも、構わないけど」
ボクの前に、カコミちゃんが被せた。
「あたしがどうこう言われるのも、構わないけれど。これだけは覚えておきなさい。氷雨レイで遊んでいいのも、氷雨レイをいたぶっていいのも、氷雨レイを苛めていいのも、このあたしだけ。あと、学園ポリスだけ。それ以外の人間が、この人を気安く嫌うな。──もし今後、あんたたちが氷雨レイに危害を加えようとしたんなら、あんたら二人の前歯四本ずつ、歯茎からのこらず抉り取ってやるわ。たとえ、あんたたちが宇宙の果てに居ようともね」
と。天追カコミは一切の余念も無しに、そう言ってのけたのであった。ロッカイくんとロッケイくんは各々に舌打ちをしながら、
「背後に気をつけて生活してくださいね、先輩」
と、練習に戻っていった。やっと終わったか。ボクの目先で腕組みをする、性根の歪んだ後輩代表は、嬉しそうに鼻を鳴らした。
「はんっ、楽しいわね、嬉しいわね、いじらしいわね。まるで耳を掴まれて鼻をひくひくさせるウサギのような顔をしている氷雨レイ先輩? 今日あったばかりの後輩に殴られたうえに捨てゼリフまで吐かれるなんて、流石我らが氷雨レイ先輩だわ。さて、あたしも殴っていいかしら」
「学園ポリスのリーダーが事件を起こすなよ」
「あら、事件が起こらないとつまらないじゃないの」
起きないなら起こせばいいのよ。と、彼女は艶かしく自らの唇をなぞって見せた。中世を彩ったマリーアントワネットのように。いつか風紀委員に存在ごと規制される気がする。
しかし、風紀委員会には、この子に毒されたササコとオトリが居るからな、ううむ、難敵だ。
「あれ?」
そこまで考えて、ボクはあることに気づいてしまった。決して、カコミちゃんのその柔らかな金髪に指を通したいだとか、どうやったらナチュラルに触れるかとか、そういうことを考え始めたわけではない。そんなよこしまなボクではない。断じて違う。
「……氷雨レイが念には念を押して二回断言するときは、たいてい嘘をついているときよ」
「そうかもしれないな、どれ、カコミちゃん。試しにボクの頬を舐めて、嘘をついているかどうか確認してみてくれ」
「気色悪いわ、一片死んできたらいいんじゃないかしら。そしたら成り上がれるかもしれないわよ」
「う……いや、そうじゃなくてねカコミちゃん、今、事件が起こらないって言った?」
「言ったわよ。せっかく吹部の練習をサボる口実に学園を名目上のパトロールしてたって言うのに、なんにもおこらないんだもの。見つけた、といえばへタレな上級生が、強気な下級生にいじめられていたところくらいね。あーあ、つまらない。もっと大乱闘(一方的)になってから止めに入ればよかったわね。あーあ、それが今日一番の失敗ね」
カコミちゃんの台詞へのツッコミは割愛させていただこう。ボクがつっかかっているのは、そこじゃない。
「起こってるよ、事件」
「い、ま? ……あら、それはナウの話なの?」
「ああ今。まさに現在進行形で、起こってるよ、事件」
ちなみに、学園ポリスの他二名は、そのことを承知済みだったけれど。
「知らないのかよ、リーダー!」
「知らなかったわよ不思議部! さ、はやく現場に案内しなさい!」
そう言って、カコミちゃんはボクの髪を引きずり始めた。先輩なのにな、ボク。
◆◆◆◆
「ふうん、ああそう。ササコもオトリも知っていたのね。ふうん」
「てっきり、カコミちゃんの耳にも入ってるものかと」
「まったく届いていないわ。だってあたしはずーっとまじめに吹部でクラリネットの練習をしていたんだから。それに加えて生徒会会計の仕事もしていたし、校内パトロールだってしていたもの。──はぁ、サボるタイミングを間違えたわね」
「おいおい、一括りの台詞でかなりの矛盾が生じちゃってるよ、カコミちゃん」
「それがあたし、天追カコミという女よ」
正義にして卑屈、頑固にして一貫しない。無数の矛盾を背負う者。それが、天追カコミという少女だった。前述の通り、サボることに精を出していたカコミちゃんは、ボク以上に“連続片翼神隠し事件”の存在を知りもしなかった。
もちろん、ボクが告白されたことも。
言っても、一切信じてもらえなかった。下級生で妄想するのも大概にしておきなさい、とお灸まで据えられてしまった。悲しいことに、告白されたのは事実であった。あれが夢ならどんなに良かったことか。
「羽を“もぎとった”んじゃなく、“隠した”のね。あらあら面白いじゃない」
「不謹慎だぜ、学園ポリス」
彼女は事件現場に、そのコンクリートの上に、白いチョークで絵を描き始めた。また、教室から勝手に持ち出したのだろう。ああ、怒られれば良いのに。彼女は当たり前のように、絵を描いた。ペンギンだろうか。
「カコミちゃん、また風紀委員の皆に怒られちゃうよ」
口ではそう断って、白チョークを手にしたボクもお絵かきに混ざる。女学生が真っ昼間っから足を投げ出してぐりぐりとお絵かきに興じているのだ。不健全極まりない。いろいろ丸見えじゃないか。見ているのがボクだけで本当に良かった。
「ふふっ、大丈夫よ、怒られるのはどうせササコとオトリでしょ。それにあたしは生徒会なのよ。学園ポリスのリーダーなのよ。どんなに高い壁も、権力と圧力で乗り越えてみせるわ」
「生徒会役員が一番やっちゃ駄目なことじゃないか」
「───氷雨レイ、逃げるのはもうよしなさい」
突如、彼女はボクのチョークを取り上げた。
「ふわりふわりと、核心から避け続けて。悪い癖ね。何が関わっていて、どう動いていて、なにが起こってるのか、そんなの分かっているクセに。──分かりきって、いた癖に。……全部、あたしたち学園ポリスに聞いて、頼って、わざわざ回り道をするだなんて。ずいぶん粋狂なことやってくれるじゃあないの」
「…………」
応えない。応えない。応えない。
不思議を、事件を存分に味わいたかった。できれば答えあわせまで、ずっとずっと引き伸ばしてやりたかった。
「こんなおかしな事件、非現実の延長のような事件。不思議部部長のあんたなら、真っ先に気付いていいはずじゃないの。さ、話しましょ、氷雨レイ」
「蝙蝠の欠片、今回もそれが関わってるんだよな、カコミちゃん」
まっすぐに問い詰められ、ボクは静かにそう答えたのだった。




