その剣は誰がために 10
その複雑な空気感を放つ部屋に、階段を昇って疲れ果てたテルおばさんが現われる。
息を浅くしながら、ティアの顔を見て「おお、間に合ったか」と安心している。
ヒールがその顔を見てまだこの場にいたことに驚いた。
「テルおばさん! 何で逃げてなかったんですか!?」
「馬鹿もん。どうせこの老いぼれが逃げたところで追いつかれて殺されるのがオチさ。ならば、儂は最後にこの絵を完成させたかった」
テルおばさんはそう言いながらティアに持ってきた絵を渡す。
美しい金の額縁に入れられた絵画。
描かれているのは幸福そうに笑うティア自身だ。
その絵をじっと眺め、ティアはヒールと顔を合わせる。
ヒールものぞき込み、穏やかに微笑んだ。
「君だね」
「でも、今の私じゃないです」
「未来の君だ」
ですよね、とテルおばさんの方に顔を向けると、彼女は大きく頷いた。
「儂が、お前の未来を信じて描いた傑作さ。持って行け。おまもり代わりにな」
テルおばさんが優しく語るのを聞いて、ティアは不思議そうな顔をしながら小声でヒールへ問いかけた。
「ねえ、おまもりってなに?」
「祈りが込められたものさ。君を守ってくれますようにってね。その絵には、君の未来が明るいものであるようにと、テルおばさんがきっと願ってくれたんだろう」
ティアが再びテルおばさんの顔を見る。
ティアはその絵をヒールに手渡し、ふてくされている様子の彼女を優しく抱きしめた。
驚きに目を丸くするテルおばさんの耳元で、ティアは感謝の言葉をささやいた。
そして、一つ誓う。
「私、その絵のように、幸せになりますから」
テルおばさんは目を細め、当たり前だと呟いて抱きしめ返す。
力強い腕だった。
ティアの心が勇気づけられる。
ヒールも、二人の様子を眺めながら、大国に逃げて、研究を継続し、絶対にティアを含めた患者達を一人でも多く救おうと、改めて決意した。
そのとき、外からざわめきが聞こえてくる。
ウオールが窓から下を覗くと、鎧を着込んだ騎士達が走って隣の教会へ向かっている様子が目に入った。
ここももう危ないと、ウオールは呼びかける。
「逃げよう。ここにいるのは危険だ。避難する場所はどこにある?」
ヒールがウオールの隣に立ち、窓から遠くに見えるグリーフ国を囲む壁を指さす。
ウオールが入国してきたのとは真逆の方角だ。
「あの壁の向こう側に、大国と交流するための簡易的な港があります。あそこまで行ければ、脱出できる船があるはず。先に避難している皆も、それを使っているはずです。快適な旅が出来る船ではありませんが」
問題ないと、皆が首肯するのを確認して、ウオールを先頭に四人は病院を後にする。
テルおばさんはヒールが背負った。
長く続く通りを進んでいると、テルおばさんが周囲を眺めながら呟いた。
「まるで、誰もいないかのような静けさじゃ」
もう、この国に生きているグリーフ国民はいないのかもしれない。
辺りには潮の香りなど全くなく、ただ鉄の臭いが漂っていた。
走っていれば出会うことになる数々の亡骸に、ティアは思わず顔を背ける。
ヒールは怒りを必死にかみしめて押さえていた。
燃えていた木々は黒く焦げ、芸術の町を作りあげていた家々の壁画は見る影もなく血で染まっている。
賑やかではないが、穏やかな日々を送っていた人々の密かな話し声もなく、国が滅びてしまっていることを景色が悟らせてくる。
ただひとつ、形を失わずそびえ立つのは教会だが、その中も、今は祈るための場所ではない。
戦争で、死者の墓場となりつつある空間だった。
今まさに、教会の長い階段を駆け上がりながら、数少ない残った警備隊の命を刈り取り、王国の見習い騎士達がその教会で最奥の、象徴的な絵が扉に描かれている部屋にたどり着いた。
神など知らない彼らは、それを当然のように蹴り破る。
中に入ると、もう警備隊はいなかった。
代わりに、たった一人、ぽつんと真っ白な服を着て手を胸の前で合わせている年配の男が、立っている。
見習い達はその異様な光景に一瞬たじろいだが、どう見ても戦える人間でないことを察し、武器を構えることなくずけずけと部屋に入っていく。
黒髪の青年は、一人だけ壊れた扉の前に立ち尽くした。
「おいおい、おっさん、一人か」
「見ての通りです、侵略者達よ」
「はっ、なんだ。まともな武器もねえのに、俺たちと一人でやり合うのか」
「全く、そのつもりはありません。もとより死は、覚悟の上」
あまりに落ち着いた態度に、一人が近づいて剣をその首元に向ける。
あと一歩前に出れば、その剣先が喉を貫く位置。
それでも、その男は表情一つ変えない。
「おっさん、あんた、お偉いさんとかか? ただもんじゃねえだろ」
「いかにも。私はこのグリーフ国の王です」
その言葉に、その場にいる全員が息をのんだ。
そして、その瞳を輝かせ始める。
一国の王。
その命が、どれほどの価値を持つのか、彼らには測りかねるが、それが他の命とは重みの違うものであることは、周知の事実であった。
「じゃあ、さっさと死ね!」
剣先を突きつけていた見習い騎士が剣を振りかぶってその首を切る落とそうとするが、その後ろから違う騎士がその剣を持つ腕をつかんだ。
予想外の行動に、剣をかざしていた騎士が驚嘆する。
「何のまねだ?」
「いやいや、なに当然のようにお前が殺そうとしてんのよ」
「俺が最初に剣を向けたんだぞ」
「関係ねえよ。俺にやらせろ」
黒髪の青年の前で、予想だにしない言い争いが始まった。
誰もが欲をぶつけ合いながら、終わらない議論を続けている。
彼はその奥で無表情を貫く王を見据えた。
その後ろの机の上に、赤い液体がわずかに入ったコップが見える。
すでにほとんどは飲まれているのか、水滴がコップの壁にしたたっている。
酒かなにかだろうかと、少し気になって眺めていると、王が懐から小さなナイフを取り出した。
はっとして皆に叫ぶ。
「危ない! そいつナイフを持ってる!」
その言葉に皆が王を見て飛び退き、武器を構える。
しかし、相変わらず王は表情を変えない。
ただナイフを見せつけるようにかざして、穏やかな声で質問を投げかけてくる。
「あなたたちは、なぜ私の命にそのような価値があるとお思いなのです?」
「は? そりゃ、一国の王となれば、そいつを殺せば俺たちの王が褒美をくれるからだ」
「なるほど、私を殺せば、自分に益があると、信じているというわけですか」
含みのある言い方で、王が一歩前に出る。
その異様な雰囲気に、皆がたじろいだ。
この状況で一人戦って勝てるわけがないと、黒髪の青年は王を訝しげな目で見るが、その真意が全く分からない。
「では、その信じていることを、私が裏切ってあげましょうか」
王はそう言うと、机上に置かれていたコップを手に取り、残りの液体を口に注いでいく。
それが何か抵抗に繋がるのかと、見習い騎士たちは身構えるが、王が喉を鳴らして飲み込んでも、全く周囲に変化はない。
そのことに皆が脱力しかけたとき、王が瞬時に自分の首をナイフで切った。
「は!?」
「何してんだ!」
焦る騎士たちに、王の喉からあふれ出た血が注がれていく。
呆けていたため開いていた口に少し血が入り、咄嗟に吐き出す。
王は何も語る事無く、しばらくすると仰向けに倒れていった。
頭が後ろの机にぶつかり、噴き出した血が辺りを染め上げていく。
結局身体のあちこちを血で汚され、騎士達は突然の自死にまだ状況の理解が出来ていないようだった。
黒髪の青年も同じで、絶句していた。
自分は手柄など気にしていなかったが、王の行動が全く理解できなかったのだ。
ボーッと、ただその死体を眺める。
しばらく沈黙のまま立ち尽くしていたが、見習い騎士の一人がようやくため息という行動を取ったことによって皆の意識が蘇った。
お互いの顔を見やる。
すると、また別の一人が、顔を恐怖に染めて悲鳴を上げた。
「うわああああ! お前! 顔! 顔ぉ!」
先程、口の中に血が入ってしまった男の顔を指さして、その騎士は部屋の外まで焦って出ていく。
黒髪の青年は肩をぶつけられてその場に転んでしまった。
皆一体どうしたのかと、指さされた男の顔を見る。
すると、皆同じ反応を示した。
叫び声を上げながら男から離れる。
黒髪の青年も、床に尻をついたまま男の顔を見る。
「あ……」
その顔に、紫の線が刻まれていた。




