その剣は誰がために 5
長い廊下に並ぶ、古びた木造の扉たち。
その一つの先に、夜も深まっているというのに眠れずにいるティアが、窓の向こうで忙しなく動き続ける人々を眺めている。
先程、看護婦が知らせてくれた、戦争が始まる前に避難しようとしているのだろう。
ティアのような患者は、長距離を移動するのが難しいので、海を渡った先にある大きな国へ船に乗って行くのだという。
そうなれば、いよいよ、父であるウオールにも会えなくなるのではないかと、ティアは寂しく思った。
先程までは扉の向こうからよく看護婦や医者達が動き回る音が聞こえてきたが、今はすこし静かになっている。
しかし、それ故に良く響くのは、患者達の苦しむ声と、悲しみから鼻をすする音。
それを耳にしたティアも、突然呼吸が苦しくなってベッドに倒れ込む。
悶えるように、必死になって空気を肺に入れようと口を開くが、うまくいかない。
息の吸い方を忘れたように、口ばかり開いても苦しみから逃れることは出来ない。
とうとうベッドから落ちて、地面と背中がぶつかった衝撃で、空気が肺に入ってきた。
激しく息を出し入れし、ようやく落ち着きを取り戻した。
変わらず扉の向こうからは悲しみを訴えるような音が聞こえてきている。
現実に戻ってきたような気持ちになって、ティアはふらつきながら立ち上がる。薬を飲んだ方が良いのかもしれないと、扉を開いた。
「あ、ティア。どうしたんだい、こんな時間に」
「ヒール先生、さっきちょっと呼吸が苦しくなってしまって」
「なんだって?部屋で待っててくれ。薬を持って行く。今全ての部屋をまわっているところなんだ」
ヒールは優しくそう告げると、ティアのものから数部屋離れた扉を開いて中に入っていく。
扉を開けた途端、すすり泣く声の大きさが変わった気がした。
その部屋の奥から聞こえてきていたのだ。
ヒールが扉を開いたままにして行ったので、ティアはその部屋を覗いた。
ベッドの上で丸くなって座っている女の子がいる。
ヒールはその傍らに腰掛け、声をかけた。
「どうしました? 何か不安ですか?」
「いいえ、先生。不安なんかじゃありません。もうすぐ戦争になるらしいではないですか。私は、病気で死ぬくらいなら、どこかの名も知らぬ兵隊に刺し殺されても良いかと思いまして。その方が楽かもしれないと。でも、いざとなったら、怖いんです」
饒舌に話す彼女は、ティアがあのアトリエで見せられた絵に描かれていた少女だった。
あのときの印象とは全く違い、何日もまともに眠れていないことを主張する隈と、痩けた頬が彼女の状態を物語っている。
ティアは酷く衝撃を受けて、息をのんだ。
「まだ死ぬと決まったわけではありませんよ。そんなに、弱気にならないでください」
「……先生には、分かりませんよ。死が目の前にあるかのような、この感覚。先の見えない暗闇が、視界を埋め尽くそうとしてくるんです。もうまっくらですよ」
彼女はやや投げやりに話す。
ヒールはそんな彼女をすこし難しい顔をして見つめていた。
「もう、諦めますか」
「え?」
「確実に治る病気では、確かにありません。私が不甲斐ないばかりに、もう何人もの患者を死なせてしまった。それでも、あなた方は救えない命ではないと、私は思っています。あなたを助けたい、一心なのです。しかし、それを強制することは出来ません。薬を飲まず、ナイフで首を切って楽になるのも、選択肢の一つでしょう」
彼女はヒールの言葉に驚いたようで、呆然としたように彼を見つめている。
ヒールが死ぬという選択肢を提示してきたことに驚いたのか、彼女は先程までの鼻をすするようなものではなく、大きな叫び声を上げてヒールの膝に泣きついた。
「死にたくない! 死にたくない! 死にたくない! 生きたい! もっと生きたい!」
病院のまどから、どこまでも聞こえそうな叫びに、ティアは思わず口元を押さえてその場を後にした。
自室に戻り、慌ててベッドに座る。
耳を塞ぎ、声を遮るがいつまでも聞こえてくる彼女の声。
「死にたくない」という思い。
ティアの脳裏には、ウオールの笑いかける顔や、病気となった自分に向ける寂しげな顔が浮かぶ。
もう一度、会いたいと、心から願う。
何度も何度も、「お父さん」と呟いた。
それが彼女にとって、「生きたい」という言葉だった。
――ゴーン ゴーン ゴーン ゴーン
はっとして、涙がこぼれそうになっていた目元を腕でぬぐい、窓から顔を出して教会の塔を見上げた。
重厚な音を鳴らす鐘が、鳴らされている。
それが何をしめす合図なのか、ティアには分からなかったが、ただ事でないことは理解できた。
病院の前の通りを歩いていた数少ない人々が、突然焦って走り出す。
そんな人もいれば、家から寝間着のまま子供を抱えて出てくる親もいた。
ティアの部屋にヒールが入室してくる。
怒鳴りつけるような大きな声で彼が言った。
「ティア! 逃げるぞ!」
「な、なにがあったんですか?」
「来たんだよ、敵が。戦争が始まるんだ!」




