その剣は誰がために 4
夜更けにも関わらず、グリーフ国の内部ではちいさな明かりを手にしながら人々が駆け回っている。
夜逃げを企画している者達は、もう一瞬の猶予もないとして、近隣に住む住民に声をかけながら軽やかに動く足に鞭打って必死に逃走を図る。
足の悪い老人達や、病に苦しむ者たちは、不安の中で神へ祈りを捧げていた。
アトリエで絵を描き続けるテルおばさんは、開けた入口の向こうで人々が走り回るのを感じながら、目の前の絵を貫きそうな眼光を放ちながら見つめている。
筆先に優しく絵の具を滲ませ、鮮やかに絵を演出していく。
「今更、この老婆が逃げたところで、どうなるんだ。今、儂に出来ることは、この絵を完成させることだけさ。死ぬのなんか怖くねえ。儂に最後の望みをかけた患者に、がっかりされた方が儂はつらいんじゃ」
外から避難を促す掛け声が聞こえてくるも、彼女は聞こえない振りをしているのか絵から身体を反らそうとしない。
ただ静かに、筆を握りしめながら落ちついた顔でキャンパスと向き合う。
そこには、紫の線が顔と腕に大きく刻まれている、ティアの姿が描かれていた。
ティアは、教会の祭壇の前で、とびきりの笑顔をして立っている。
鮮やかな色彩が、彼女の生き生きとした強い信頼の力を演出している。
教会に差し込んでくる天使の梯子のような日の光が、彼女を天使であるかのように錯覚させる。
「へへ、ティア。お前がいらないと言っても、儂はお前の未来を祈らずにはいられないのさ。お前が、その病気を克服して、誰よりも長く生きるための祈りを込めて、この絵を、書くのさ!」
テルおばさんが絵の具を彼女の顔に塗りつけた。
次に腕にも、同じように色を塗っていく。
美しい、汚れを知らない白い肌。
絵画の中で生きる彼女は、紫の線を克服していた。
テルおばさんは穏やかに微笑み、満足そうに息をついて筆を床に落とした。
軽やかな音が響く。筆先の水彩が床を微かに彩っていく。
彼女はその絵を抱えて、急ぎ足でアトリエを後にした。
逃げ出すために必要な荷物など何も持たず、その絵画だけを強く胸に抱いて。
病院の奥の奥では、ヒールが資料をまとめて大きな鞄に詰めている。
紙一枚一枚のまとめられた内容を素早く確認しながら大国へ送る研究成果を選別する。
焦った様子の彼のもとに、一人の看護婦が同じく焦燥感を醸しながら入室した。
彼女の後ろからは患者達の不安そうな叫び声が微かに聞こえてくる。
「全患者への伝達は終わりました。少し混乱している様子が見られますが、いずれ落ち着くかと」
「そうか、ご苦労様。君たちも、なんとか時間を見つけて家のことをしておいで。すまないが、先に逃げていいよとは、いえないんだけどね」
「ふふふ、そんなの、わかってますよ。患者のために、身をささげる覚悟くらい、みんな持ってます」
「そんなに……無理しなくていい。いつも、救えない命のために君たちは頑張ってくれてるんだ」
ヒールはねぎらうつもりで優しい声音で述べたが、その看護婦は表情を一変させ、急速に彼へ近づくと、その頬に平手打ちをした。
高い音が部屋の中に一瞬轟き、彼から意識を少しの間奪った。
何をされたのか、ヒールはわからなかったが、じんじんと傷む頬に、ようやく事態を把握する。
「な、なんで……?」
全く理由が思い当たらず、ヒールは情けない声で聞いた。
看護婦は怒ったような顔つきで息を荒くして彼を見つめる。
何か強く言おうとしている素振りが見られたが、それ以上突飛な行動を取ることはなかった。
やがて落ち着いて呼吸が整い、表情から怒りが消えていく。
ふう、と一息ついて。彼女は踵を返しながら告げる。
「救えない命なんて、言わないで下さい。あなたが救わなくて、誰が救うんですか」
看護婦は暗い表情のまま去って行く。
ヒールは呆気にとられていたが、やがて胸の内にじわっと広がってくるものがあり、手のひらで胸に触れた。
脳裏には、今まで看取ってきたたくさんの患者達や、今も尚苦しみ続ける人の姿が、夢物語のように、水彩画のように浮かんでいる。そして、ティアの姿も。
『私、死にませんから』
『きっと、ヒール先生なら、助けてくれますから。お父さんも、それに賭けたんです。私がヒール先生を信じないと、ほんとに、助からなくなりそうです』
彼女の覚悟が胸に刺さる。
ヒールは涙がこぼれそうになるのを押さえながら、必死になって再び書類に目を通した。
絶対に、絶対に助けなければならないと、いや、助けたいのだと、強い感情が嵐のごとくわき起こる。
脳内で何かが分泌されて、今は疲れを全く感じない気がする。
ヒールは、先程よりももっとてきぱきとした動きで資料の厳選を進めていく。
先程の看護婦が、申し訳なさそうに部屋を覗きに来たが、彼の様子を見て、黙ったままその場を後にした。




