ティアの願い 4
アトリエという言葉に、ティアは聞き覚えがなかった。
何度も脳内で繰り返して、記憶の中の言葉を探す。
あ、と、り、え。あとり、え。
首を深くかたむけながら、ティアは目を瞑って考え込んだ。
テルおばさんは呆れるように嘆息し、ヒールに視線を送って「説明しろ」と無言で訴える。
「えーと、アトリエっていうのは、絵描きとか、創作活動をする人たちの作業場だよ」
「作業場。なんで私をここにつれてきたんですか?」
「そうじゃ、それを説明せい」
「あー、ティアは水彩画を知らないみたいだから、テルおばさん、説明してあげてくれませんか」
苦笑いをしながら彼はそう言った。
ティアもテルおばさんに「お願いします」とお辞儀をするが、テルおばさんは怪訝そうな顔でヒールを見る。
緊張する様子で冷や汗を垂らす彼。
テルおばさんは心の中で何かを確信し、厳しい表情をしながら椅子から腰を上げた。
顔を上げるようにティアへ言う。
筆を置き、椅子から腰を上げ、近くの壁に立てかけてある数枚の絵を取り出した。
「見ろ」、とティアにむかって絵を差しだす。
まじまじとティアはその絵を見つめる。
ヒールはその様子を遠くから眺めていたが、自分の失態に気づいて思わず「あっ」と声を上げた。
ティアが見つめるのは、ある一人の女性が描かれた絵画。
姿勢良く背中を伸ばし、こちらを優しい瞳で見つめている。
髪はぼさぼさで長く、その顔にはティアと同じく、痛々しい紫の線が刻まれていた。
絵の具が紙に滲むように広がっているその線が、彼女の病の酷さを象徴しているが、当の本人は生命力にあふれている。
目は輝き、希望を持って先を見つめているようだった。
「綺麗な、人ですね」
「ふん、お世辞にしちゃひどすぎるね」
「そんな!お世辞なんかじゃないです!」
「そいつは、自分の醜さを呪って死んでいったのさ。笑っているように見えるだろう。希望を持っているように見えるだろう。それは、そこにいるヒールが、余計な希望をこいつに持たせたからさ」
余計な希望?とティアは眉を寄せてヒールを振り返る。
彼は顔に影がかかるくらい俯いて、握りしめた両拳を振るわせていた。
「ヒール先生?」
ヒールがびくっと肩をふるわせる。
わなわなと何かを恐れる様子で、ティアの方を向こうとしない。
ティアは歩いてヒールに手を伸ばし、「どうしたんですか」と尋ねるが、ティアの手がその肩に触れても、一向に反応は返ってこない。
「ティア。お前もそいつに薬を作っているから治る可能性があると言われたくちだろう?同じように言われて死んでいった者が何人いたと思う?」
「な、何の話ですか」
「目を背けるな、ティア。お前は死ぬ。薬なんてすぐに出来るもんじゃないんだ。あんたのその病気の進み具合。もって数年。薬の開発には、あと何年かかるんだい。なあ!ヒールよ!見ろ!この絵を!儂が描いたこの娘達を!みんな、みんな、みんな死んだぞ!死んだんだぞお!」
俯くヒールに絵を押しつける。
ティアは呆気にとられていたが事態の異常性に気づき、止めるように声をかけたが、テルおばさんも涙を流していた。
しわしわの顔を、さらにしわしわにして、大粒の滴がこぼれていく。
絵が濡れて、水分が滲む。
「ティアよ。なぜこの国では歌や絵が盛んに行われていると思う」
「え?」
「お前が惹かれたコラールや、家々に描かれた壁画。なぜあのようなことをしていると思う」
「わ、わかりません」
「あれはな、人々の心へ安らぎを与えるためにある。この国には、これから死ぬ人が多く集まるのだ。医療技術がとても進んだ国じゃなからの。しかし、それでも救えぬ人も大勢おる。だから、この国には歌や絵が必要なのじゃ」
ティアの心に重たい感情が生れる。
美しいと思っていた壁画と、コラールの背景にある黒い悲しみがにじみ出すようにティアの瞳に映る。
思わずアトリエの外に出て、家々を見回した。
色彩豊かな動物たち、植物たち。
全ては悲しみから生れた美しい情景。
町ゆく人々の笑顔がどこか悲しげに見える。
遠くで両親に連れられた小さな子供が、顔に紫の線を刻まれていながら必死に走って遊んでいる。
笑顔が絶えない明るい病院。
全ての人は、何かを心に抱えたまま過ごしていたのだ。
救えない命、救われない命。
隠されている悲しみ。
ティアは、歯を食いしばった。
テルおばさんがアトリエを出てきて言う。
「ティア、儂は、死ぬ人を美しく、永遠に保存するために絵を描く。家族に、いつかそれを届けることも、出来るかもしれない。お前も、描くか?」
ティアはしばらく振り向かなかったが、やがて硬く握っていた手の力を緩め、優雅な動きでテルおばさんとヒールを振り返った。
彼女は微笑んでいる。
テルおばさんは驚いて目を丸くした。
「私、死にませんから」
「なんじゃと?」
「きっと、ヒール先生なら、助けてくれますから。お父さんも、それに賭けたんです。私がヒール先生を信じないと、ほんとに、助からなくなりそうです」
ティアは恐れる様子もなく言う。
ヒールがティアの名前を呼びながら顔を上げた。
テルおばさんは呆気にとられるように口を開いたままきいていたが、しばらくして引きつるように顔をほころばせる。
そして、あごが外れそうなほどに大きく口を開いて笑い声を上げた。
「はっはっはっは!大した度胸の娘じゃわい!後悔するぞ、もし助からなかったらどうする?」
「そのときは、仕方ありません。ヒール先生を恨んだりしません。これからも頑張って薬を作ってくださいって、言います」
「馬鹿たれが。死をも恐れぬその態度、愚か、実に愚か。じゃが、それがお前の生きる力か。絵でも歌でもなく、信頼かね」
テルおばさんは呆れるようにそう言い張ったが、顔は優しく笑っていた。
腰を気遣うような仕草をし、アトリエの中に帰って行く。
「ほれ、はよ帰れ。儂にもう用はなかろうて」
ほっと息をつくティアをよそにして、ヒールはまだ呆然とどこかを見つめている。
ティアがその手を握り、「帰りましょう」と声をかける。
ヒールはなんとか頷き、二人並んでアトリエを後にした。
ヒールは元気そうに歩くティアを見つめる。
どうしてこの子はこんなに強いんだろう、と思考する。
僕はこの子を救えるだろうか、と。
少しずつ、心が奮い立ってくる。
ティアの思いをむげにしてはならないと。
この子が信じているのは、神でも絵や歌の力でもなく、自分の薬なのだ。
ヒールは、握られた手で、ティアの白い手を握り返す。
その感触を感じて、ティアはヒールを見つめ返して満面の笑みを見せた。




