Epilog Ⅰ
全体を大幅に改変しました(5/20)
西の空が暖色に輝き始める。
ようやく大通りを歩く人も減ってきて、各々の家で床につく準備を始める時間。
通りをはさむ形で並ぶレンガ造りの家々。
その中の一つに、大きな男と小さな女が、ちょうど今日を最後にする約束で住んでいた。
男はその巨大な身体がようやく収まる椅子に腰掛けて、気難しい顔で目の前の暖炉で小さな炎が揺れるのを眺めている。
暖炉の上には、長らく使われていないと分かるボロボロの剣が置かれていた。
隣の部屋から包丁で調理をしている音が聞こえてきて、グツグツと煮え立つ鍋から食欲をそそる香りが届けられる。
「お父様、夕餉が出来ました」
「うむ、ティア。ありがとう」
ティアと呼ばれた小さな女は、父である男のもとに食事を運んでいく。
暖炉の前に置かれた大きめの机を、料理が埋め尽くそうとしている。
徐々に増えていく山盛りの皿。
仏頂面だった男の顔が、運ばれてくる料理の量から焦りに染まっていく。
「こんなに食べきれるか……?」
「お父様は昔から食いしん坊でしたから、大丈夫です」
「俺も歳を取ったと思うのだがな」
ティアが男の対面に腰を下ろした。
彼女の行動は、すべてが一つの芸術のように行儀良く、男はその姿に惚れ惚れと感じ入る。
胸元まで伸びる髪を耳元にかけ、「では」、とティアが前置きするのに合わせて、男も頷いてみせた。
目の前に広がる品々に一礼し、二人は食事を始める。
しかし、ティアがナイフとフォークを使って料理を口に運ぶのに対し、男は不器用そうにフォークを一本力強く握り、切り分けられた肉に突き刺す。
男には腕が一本しかない。
残った一本は古傷だらけで、男が戦士であったことを物語っている。
「食べづらくないですか?」
「問題ない」
「良かったです。うまく出来てるか不安だったので……」
ティアがほっと胸をなで下ろす。
上品に口元に当てた左手の薬指から、光が瞬いた。
シンプルな、目立たない指輪。
多くの場合は婚礼に使われるもので、王族や金持ちのための、他人に誇るようなきらびやかなものではない。
しかし、男には眩しすぎる。
ぴかぴかと、彼女を祝福するように輝くそれに、男は言葉を失っていた。
「お父様、どうしました? 手が止まっております」
「いや。君と取る食事は、これで最後なのかと思うと、少し、な」
「最後ではありませんよ、また、生きてる間は何度でも、会いにきますから」
「君が生きてる間なんていうと、凄く嫌だな」
「ごめんなさい。別に、含みはありませんよ?」
いたずらっぽくティアが身を揺すりながら笑う。
男は勘弁してくれと言わんばかりに肩をすくめてため息をついた。
気を取り直してフォークを構え、今度はスープの中に浮かぶ野菜を突き刺して口元に運ぶ。
味を舌に覚えさせるように、いつもより長く咀嚼した。
――この料理も、礼儀正しい動作も、言葉遣いも、俺が教えたものではない。ティアは、変わってしまった
明日、ティアは結婚式を挙げる。場所は、この大きな街の中心部にある教会。
男と、加えて婚約者の一家が共に下見へ向かった。
天使が住んでいるのかと疑うほどに、神秘的な空間が広がっている。
その美しさを形容する言葉を探しながら眺めるティアとは違い、完全に異界を見ているようで、男は教会に入ると動けなくなってしまった。
人々が賛美する神を模した、鮮やかなステンドグラスから入ってくる光に、ただ目を細めている。
「お父様、いかがですか、ここ」
娘がふと近くに寄ってきて問う。男は自分の過去を呪った。
この美しい世界を表現するだけの感性を備えていない自分を責める。
頭を掻きながら、投げやりに「良いんじゃないか」とだけ述べた。
娘が婚約者の方を向いて歓声を上げている。
名も知らぬ芸術家の描いた絵画を鑑賞している様な気分で、男はその光景を黙って眺めていた。
食事を終えて、男は娘と一言も言葉を交わすことなく、床につこうとした。
無駄に広々とした寝室。
本棚一つ置いておらず、ただベッドが窓際にひとつ構えられている。
男はそこに寝そべり、なかなか閉じてくれない瞼に苦悩を感じる。
窓から覗く夜空から、丸い月が顔を照らしつけてきた。
そのまぶしさに呻りながら不機嫌そうに寝返りを打つと、扉が優しく数回たたかれる。
「お父様?もうお休みになりましたか?」
「……いや、まだだ」
ティアが控えめに会釈をしながら入室してくる。
男は振り向かず、先ほどまで気に入らなかった星空をごまかすように眺め始めた。
彼女が近くに寄り、「お父様」と呟くが、男は振り向かない。
背中に感じる娘の気配。確かにそこにいるはずなのに、もういない気持ちにもなる。
「お父様、あの、明日は、あの」
「なんだ?」
「……楽しみ、ですか?」
ティアが不安そうに聞く。
男は視線を夜空から落とし、小さく頷いて、「ああ」と肯定した。
その声の暗さに気づかないほど娘は鈍感でない。
ティアはその大きな背中に手を置いて言う。
「私、お父様のおかげで、こんなに幸せです」
「……そうか」
「でも、私のせいで、お父様が、これ以上傷つくのなら、私、結婚なんてしたくありませんから」
男は冷たい声で告げる。
「馬鹿者。そうしたら親不孝者としてたたき切る」
「……」
「お前が、幸せになってくれたから、俺は救われるんだ。全てを捨てて、お前を、幸せにした自分を、褒めてやれる」
男は失った腕の傷口を撫でる。
ティアもその手に自分の細く小さな手を重ねた。
彼女の手は少し冷たい。
きっと娘がもうすこし幼ければ、男はその手を抱えて温めていただろう。
しかし今、娘は嫁にいく身。
もう、それは自分の役割ではないのだと、痛感する。
「明日が楽しみだ。お前の美しい姿を見るのが」
「美しいでしょうか、私」
「誰がなんと言おうと、俺にとっては世界一だ」
男がようやくティアを見る。
瞳を潤ませる彼女を、頬を染めながらまっすぐ見つめて、男はぼそぼそと呟いた。
「結婚、お、おめでとう、な。」
「それ、初めて言われましたよ」
「うるさいぞ。まったく、お前も生意気になった」
「それは、彼の影響かもしれません、ふふ」
二人で笑いながら、泣く。
歯をむき出して二カッとしてみせる男の顔に、ティアが上品に笑って見せる。
幾多の困難を乗り越え、今、幸せをつかんだ親子である。
男の名は、元王国最強騎士ウオール。明日、その娘が、結婚する。