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Death Simulator SS1 -注)これはデスシム本編ではありません-  作者: kouzi3
エピソード2 「伝説の古代神」現象
3/5

(3) 「伝説の古代神」現象 <前編>

・・・


 あの、最大領土の領主が、

 デスシムのサービス開始直後に利用したという

 「伝説の古代神」現象。


 その原理を知り、

 力を手にした「彼」は、

 デスシム世界で、何を夢見るのか?


・・・

・・・

 

 極秘のプロジェクト…だと言っても、綻びは必ずある。

 何故なら、それがプロジェクトである以上、必ず人間が関わっているからだ。

 そして、人間というものは不完全であり、セキュリティ担当者がどれだけシステム上で強固な対策を施したところで、その不完全な人間の関与を完全に断ち切らない限り…秘密が完全に守られるなどという保証は得られないのだ。


 そして、彼は偶然にして、その情報を手に入れた。


 おそらくは極秘裏に進められていた社会実験のようだったが、何か想定外のトラブルでも起こったのか、不用意にも彼が用を足している個室の外で、小用を足しながらひそひそ話をする若い技術者風の声が2つ、そのサービスの開始予定日などの情報について言い争っているのを聞いたのだ。


 本来は社会実験とのことだが、それはシムタブ型MMORPGとして公開され、少なくともプレイヤーにはゲームとして参加してもらう…とのことだった。

 サービス名称は分からない。

 サービスの開始日も、予定であって本当にはいつ頃なのかまでは分からない。

 しかし、彼は根気よく待った。


・・・

 

 毎日、シムネット上のプレスリリースや、店頭におけるパッケージ販売のアナウンス・シートなどをチェックして周り、それらしいサービスやゲームタイトルが発表されるのを地道に調べて回ったのだ。


 その間、いくつものメジャー・タイトルの新バージョンの公開や、メジャーなメーカーの新規タイトルの発表などがあった。

 当然、彼はそれらのタイトルも1番乗りの栄冠をつかみとるべく、情報を手に入れれば可能な限り急いでそれらのタイトルにサインインした。

 お陰で、いずれのタイトルでも、遅れてサインインしてきた他のプレイヤーに対して、序盤からある程度のアドバンデージを得ることができ、トッププレイヤーの列に名を連ねることができた。

 しかし、メジャーなタイトルは、期待するプレイヤーの数も当初から多く、公開と同時に多くのプレイヤーがサインインしてくる。だから、彼が期待する「少人数で仮想世界を独占する」というような状態を経験することは、まず無かった。


 彼が、偶然耳に入れたその社会実験に興味をもったのは、それが秘密裏に開発されているということと、公開に関するアナウンスが全くされていないにも関わらず、公開開始予定日がどうやら間近に迫っているらしかったからだ。

 それならきっと、サービス開始直後には、まだそのサービスの存在を知る者自体が少なく、彼にも十分にサービスへの1番乗りを勝ち取るチャンスがあると思えた。


 しかし、彼は、いったいどうして、シムタブ型MMORPGのサービス開始後1番乗りのプレイヤーになどなりたいのだろうか?


・・・

 

 それは、少し前に踏んでしまった地雷…もとい、うっかり手を出してしまったクソゲーで、廃人クラスのゲーマーを自認する彼をして、価値観がひっくり返るほどの衝撃を感じる不思議な体験をしたからだ。


 そのゲームは、本当にクソゲー、クソゲー中のクソゲーと言って良い、駄目駄目なタイトルだった。

 何せ、プレイヤーの死亡判定が厳しすぎて、ほんのちょっとしたことですぐに死んでしまうのだから。

 「いつか、どこかで、落とし穴3」という名のそのゲームが、第1作目からクソゲーと名高いタイトルであることは十分承知していた。

 狭いダンジョンで壁と接触したら…死亡。

 2メートル程度の段差を飛び降りたら…死亡。

 水に落ちたらその瞬間に…溺死。

 「いつか、どこかで…」どころの話ではない。タウンもフィールドも、ある意味落とし穴だらけだった。

 クソゲーとして有名でありながら、何故か「2」が発売され、そして今回の「3」では、落とし穴の出現タイミングが絶妙に調整(メーカー談)され、ゲーム性が向上したというガセネタが流れ、彼は、迂闊にもそのガセネタに載せられてしまった一人だった。

 いや。普通ならそんなガセネタを信じることはない。

 けれど、その噂の中には、ゲーム世界の基盤となるシステムのクリエイターとして、あの栗木栄太郎が参加しているというものがあったのだ。

 栗木が関わったゲームの世界は、他のゲームと比べようも無いほど精緻な描画エンジンを搭載し、まるで本物の世界のようだ…という評価は、誰もが認めるところだった。


・・・

 

 そして、彼は見つけてしまった。

 「いつか、どこかで、落とし穴3」のパッケージに、本当に「栗木栄太郎」の名前が印字されているのを。


 シムネット上での噂によると、栗木栄太郎は新しいタイプの描画エンジンを開発し、そのテストも兼ねて、敢えてプレイヤーの少ないこの「いつか、どこかで、落とし穴」シリーズへと、その技術を提供したのだという。


 難しい理屈は分からないが、それまでのようにシステム側が専用のハードウェアやゲーム・エンジンなどのプラットホームによって3D的なグラフィックの全てを描画するのではなく、一人一人のプレイヤーが見る夢に指向性を与えて重ね合わせ、そして束ねるための描画エンジンをシムネット上のクラウド・サービスとして実現している…らしい。

 要するに、一人一人のプレイヤーが目にする仮想世界は、デフォルトでそのプレイヤーが夢で見るのと同じ程度のリアリティを備えており、さらに描画エンジンがシムネットに散らばる無数のビッグデータから抽出した「世界のイメージ」に基づく補正を行うことで、個人の夢に見られるような、人が平然と空を飛んだり、脈絡もなく変身したり…といったデタラメなイベントが発生しないようにコントロールし、本物の世界と見紛うほどのリアリティを生み出す…ということのようだ。


 さすがにデマだとは思うが、噂では、その無数のビッグデータの中には、シムネットに接続した全ての人間の脳…とその記憶…が含まれているとか…いないとか。

 もし、本当だとしたら、そのゲームに接続していない者のイメージまでをも借りて仮想世界を生み出しているということになるが…。


・・・

 

 いくら栗木栄太郎でも…さすがに、それはねぇ…という気持ちと、いや、あの栗木栄太郎ならやりかねない…という思いの両方が、彼の心を落ち着かなくさせて…


 その数分後には、彼は「いつか、どこかで、落とし穴3」の中の世界に入っていた。

 さすがに「史上最高のクソゲー」と名高いシリーズのリリース直後の新作だけあって、多くのゲーマーたちは様子見を決め込んだらしく、彼の他にはログインしているプレイヤーはほとんど見あたらなかった。

 有名な会社が運営するメジャーなタイトルでも、サービス開始直後は様々なバグが発見されたり、予期せぬトラブルが発生したりするものだ。

 だから、いつもであれば彼も、マイナーなメーカーの新作ゲームをプレイする時には、勇気ある人柱的プレイヤーのレビューなどを待って、そういった不具合が一通り落ち着くまで様子見をするのだが…今回は、別だ。

 栗木栄太郎の新技術を盛り込んだ仮想世界を、誰よりも早く体験したかったから。

 そして、栗木栄太郎は…というかその新技術は…彼の期待を裏切らなかった。


 (…うぉぉおおおおぉぉっ…鳥肌立ったぜ。何だよ。コレ?…このクオリティ!)


 始めに「光」を感じた。

 彼は、それまで「光」というのは目から入力される刺激情報だとばかり思っていた。

 しかし、それは間違いなのだと知った。

 「光」には「匂い」もあれば、「圧力」…いや、「肌触り」か?…もある。

 いくつものMMORPGなどで仮想世界を体験してきた彼だが、これまでその仮想世界に違和感を覚えたことは特に無かった。


・・・

 

 だが、違うのだ。違和感を覚えていなかったワケではなかったのだ。違和感はありながらも、所詮、仮想世界とはこんなものだ…という諦めを持って受け入れて、それを問題にしなかっただけなのだ。


 だから、恐ろしかった。


 急に、彼は不安を感じて両腕で自分の体を抱きしめ、ガクガクと震えた。

 先ほど立った鳥肌は、クオリティに対する感動によるばかりではなかったのだ。

 いつもなら、「ここはゲームの中の仮想世界。さぁ、割り切って楽しもう!」…と無意識に考え、安心してサービスを享受するだけで良かった。

 しかし…あまりにもリアルすぎるこの感覚。


 「…こ、これって…ほ、本当に…仮想世界だよな?…こ、この俺の体…ほ、本当にPCプレイヤーキャラクターなんだよな?」


 当たり前のことを口に出して確認しなければ押さえられない不安。

 そう。余りにリアルな仮想世界へ身を投じた彼は、感覚的には、着の身着のまま見知らぬ土地へと一瞬にして転送されてしまったかのような錯覚に襲われたのだ。

 シムタブを飲み込んだ途端、仮想世界をログインするのではなく、意識を失い、その間に、誰かにどこかへ拉致され…そして目を覚ました。

 そう言われた方が納得いくほどのリアリティ。

 光だけではない。

 手の甲や首筋の毛を撫でる風。その風のそよぐ音。吸い込む空気の味や匂い…。


・・・

 

 ご丁寧に耳鳴りまで聞こえる。

 いや。耳鳴りどころか、自分の鼓動や唾を飲み込む音までも。

 唾を飲み込む…などと意識したとたん、口の中に唾液が満ちあふれてくる。


 様々な音や感覚…刺激が多すぎて目眩がする…

 

 ………などということは決して無い。

 確かに、一瞬、賑やかすぎる…とか、情報量が多すぎる…とか、そのように感じてしまったことは否めない。

 だが、それは彼が、既存のフルダイブ型MMORPGと比べようとして陥った錯覚であり、少し冷静になってみれば…これはむしろ現実の体が普段感じているのと全く変わらない、極めて当たり前の感覚なのであった。


 自然だった。

 現実と比べて全く違和感の無い、当たり前の感覚だった。

 だから彼は、何度も自分の腕や体を撫でさすっては確認してしまう。

 これは本当に仮想世界なのか?…と。


 「あ」


 取りあえず声を出してみる。

 喉元から胸にかけて、声帯の振動が伝わってくすぐったい。

 しかし、それも普段何気なく声を出している時にも感じている振動と同じだった。


・・・

 

 彼は、これが現実世界なのか、仮想世界なのか…ジッとしているだけではどうにも判別がつかなかったため、不安を振り払う意味も込め、取りあえず歩き出した。

 そして、それにより、その直後、この世界が間違いなく仮想世界であると知った。


 地面が…ない。


 「あ」


 ログイン後、2度目に声を発したのを最後に、彼は死亡判定をくらって強制的にログアウトさせられたのだ。「いつか、どこかで、落とし穴3」の世界から。

 せっかくの超リアルな仮想世界へと赴きながら、間抜けなことに彼は、2度「あ」と口にしただけで強制退去させられてしまったことになる。


 「落とし穴の出現タイミングが絶妙に調整された…んじゃなかったのかよ?…」


 ある意味、絶妙だった…と言えなくもないが…やはりクソゲーはクソゲーだ。

 現実世界で覚醒した彼は、「いつか、どこかで、落とし穴3」のパッケージを地面に叩きつけようとして、大きく腕を振り上げたものの…そこで動きを止める。

 そして、振り上げた手が掴むパッケージを上目使いに見上げた。

 パッケージの中には、まだ沢山のシムタブが入っている。


 それを、床にぶちまけてしまったら…拾い集めるのが大変だ。

 現実的な思考で想像し、その後の苦労を回避するため、彼は怒りを収めた。


・・・

 

 シムタブというのは風邪薬の錠剤タブレットのようなものをイメージすればよい。

 風邪薬と同様にパッケージの大きさは様々だが、彼が手にしている「いつか、どこかで、落とし穴3」は60錠入りだった。

 基本的に1日1~3錠程度の服用が推奨されていて、1日1錠ずつ使えば約2ヵ月、3錠だと20日間プレイできる…ハズなのだが…。


 「おいっ!…おぃおぃ。このペースで死んだら、1日で全部いっちまうぞ!?」


 声を荒げる彼だが、心配は無用。

 パッケージに「健康のため、1日のログインは3回までに制限されています」と記されているように、4錠目を飲んでもプレイを続行することは出来ないようになっている。

 いや。そもそも、4錠目を飲もうという気になる者がいないように心理的なリミッターも仕掛けられているらしい。

 シムタブには、飲みやすいよう味付けがされているのだが、3錠目を服用しログアウトした後は、そのシムタブの味が途轍もなく不味く感じるような生理反応が起こるようにナノマシーンが働くという。

 廃人クラスのゲーマーの一人である彼は、当然、シムタブの標準仕様であるこの仕組みを熟知しているのだが、あまりの腹立たしさについつい大げさな表現で愚痴を言ってしまったのだった。


 彼は、大きく深呼吸をして平常心を取り戻す。

 よし。取りあえず、アレは仮想世界だ。間違いない。どんなにリアルでもゲームだ。

 そして、あれ程までにリアルなゲームは、これまで体験したことがない。


・・・

 

 さすがは栗木栄太郎が開発した新型描画エンジンだ。

 彼は、プレイヤーの数が増えて混雑する前に、あのリアルな仮想世界を思う存分に楽しんでやろうと決意する。

 初雪が積もれば、誰よりも先に足跡を付けたい…という欲求は人の常だ。

 彼は、まるで子どものようにワクワクした気持ちで、先ほどの超リアルな仮想世界の様子を思い起こす。


 しかし、それにしても…と、彼は思う。

 さっきは、いきなりゲーム世界にPCとして出現したような気がするが…。

 サインイン・プロセス的なものは省略されていたのだろうか?


 多くのRPGでは、サインイン時には自分のPCの名前やスタイル、能力や装備、職業や所持金などの初期値を選択するためのプロセスが用意されている。

 しかし、先ほど体験した「いつか、どこかで、落とし穴3」では、そのようなプロセスが一切無しに、いきなりメイン・ステージに放り出されてしまったように思う。


 「チュートリアルさえ、無かったよな?…マジかよ?」


 違う意味で「落とし穴」だった。

 まさか、そんな不親切なシステム設計があり得るとは思ってもみなかった。

 だが、あの栗木栄太郎が開発に関わっていると知った時点で、予測すべきだったのかもしれない。

 噂では、栗木栄太郎はかなりの変わり者で、かつ、ひねくれ者なのだという。


・・・

 

 しかし、どれだけ風変わりな仕様であろうと、現実と区別がつかないほどのリアルな仮想世界に初めて足跡を残せるチャンスを逃すワケにはいかない。

 彼は「今度こそは簡単に落とし穴に嵌らないぞ!」と心の中で誓って、2錠目の「いつか、どこかで、落とし穴3」のシムタブを口に放り込む。そしてさらに、コップ一杯の水を飲んで、胃へと流し込む。


 水に溶けやすいシムタブは胃の中で溶け、メインの成分であるナノマシーンが能動的な作用により胃から血管へと吸収される仕組みになっている。そして、血管を通って脳へと到達したナノマシーンが、量子通信によりシムネットを通じてプレイヤーの意識を仮想世界へと接続するのだ。

 だから、シムタブを服用後、ゲーム世界へ入り込むまでの感覚を言い表すとしたならば、空腹時にビールの中ジョッキを一気に飲み干したあとに訪れる酩酊感の後、強い酒を何杯も大量に飲んだかのように一気に酔いが回って、気が付いたら翌朝だった…という感覚にとても良く似ている。効き始めるまでの時間も、だいたいあんなイメージだ。


 そして、彼の目の前には再び、あの現実ソックリの仮想世界が広がる。

 彼の仮想の体に与えられた、ありとあらゆる感覚センサーに、これまた現実の世界と同様に様々な感覚が入力される。

 1度目のログインとは違い、心の準備はしっかりと出来ていたつもりなのに、彼は再び裸で広野に放りだされたような落ち着かなさを感じて震えてしまう。

 高所恐怖症の人が、その場所の高さを承知の上で登っても、やはり高いところではお尻がもぞもぞしたり、下腹部に圧迫感を覚えてしまったり…酷い場合にはパニックに陥るのと同じように、分かっていても抑えられるものではないようだ。


・・・

 

 いや。実際、この「いつか、どこかで、落とし穴3」というゲームは、そのゲームの基本コンセプト上、どこに立っていても「命を落とすほどの高所」に立っているのと変わりがなく、極めて危険な状態に置かれていると考えるべきだ。

 だから、高所恐怖症でなくても、怯えて当然。


 ある意味、地上3000mの高さでの綱渡りの方がまだマシと言えるだろう。

 綱渡りなら、どれだけ細く不安定であろうと、少なくとも綱の上という「次に足を踏み出すべき場所」が分かっている。

 しかし、この世界では、自分の周囲の何処にも100%安全な地面が無いのだ。

 どこに落とし穴が開いているのか、全く予測できないのだから。

 マインスイーパーという大昔のコンピュータ・ゲームの感覚に近いだろうか?

 いや。アレも最初の一歩は一か八かかもしれないが、そこで無事なら周囲の危険度のようなものがヒントとして示されるから、今のこの状況に比べれば全てが安全地帯に等しいだろう。

 仮に次の一歩は安全かもしれない。

 しかし、その次の一歩は、最初の一歩と全く同じ確率で落とし穴が待っている。

 いや。同じ確率かどうかも不明なのか?

 歩けば歩くほど、落とし穴が現れる確率が上がっていくとしたら…

 これはもう、自殺的なゲームであり、少なくともフルダイブ型で楽しめるようなカテゴリーのゲームとは言えないような気がする。

 無駄にリアルなだけに、恐ろしさが倍増…どころか、何乗にも高まっている。


 「…今、君。『無駄にリアルだ』…とか、考えただろう?」


・・・

 

 突然、かけられた声に、彼は文字通り飛び上がるほどビックリし、思わず後方へとよろけそうになった。

 体が後方へと倒れるのを踏みとどまろうと、一歩、左足を下げようとしたところ…


 「おっと。不用意に後ろに足をだしたら危険だよ。そこは、落とし穴だ」


 …と、誰かに横から腕をつかまれて支えられた………横から?

 直前まで、そこに誰か居ただろうか?

 まるで忽然と現れたかのように思われるその男は、全身を黒いスーツでバッチリと固めて、言葉を交わさなくても「慇懃無礼」を絵に描いたような人物であろう…と思わせる傲岸不遜な表情でニヤニヤと笑っていた。


 「…あ、ありがとう。か、感謝する…」

 「いやいや。どういたしまして…だ」


 うまく言葉が出ない中、辛うじて彼が礼の言葉を述べると、ニヤニヤとした表情を崩さないまま、その男がそれに答える。堂々と胸を反らしたまま。


 「…っていうか。アンタ。今、俺の心を読んだのか?…それに、何故、落とし穴の位置が分かる?」


 貸し切り状態で無くなったことを残念に思う気持ちより疑念の方が大きくて、礼の言葉もそこそこに、矢継ぎ早に質問をしてしまう彼。


・・・

 

 「おや。本当に『無駄にリアル』だと思っていたのかね?…むぅ。心外だな。『そんなコト思っていない』という答えを期待していたんだが…ちょっと傷ついたぞ、私は」

 「…こ、心を読んだわけじゃ…ないのか…」

 「心が読めるなら、わざわざ君に声をかけたりなんかしないよ。別に会話なんてしなくとも心を読めば良いんだからな」

 「で、では、ここに落とし穴がある…というのも?」


 適当に言っただけで冗談だったのか…まったく…驚いて損をしたぜ…と、彼は苦い顔をしながら「ここ」と言い示した地面の上に足を置き、体重をかけ…


 「あぁ…気を付けたまえよ。そこの落とし穴は相当に深いからな」


 …と言う男の呑気な忠告を耳にしたのを最後に、再びログアウトした。


 「ふざけんなよ!!…このっ………」


 再びシムタブのパッケージを大きく振りかぶり、地面に叩きつけようという衝動に襲われ、それをギリギリの所で我慢して、呼吸を荒くして固まる彼。


 はっ、は、はぁ、はぁっ…はぁ……は………ふぅ。

 精神修養用のソフトを購入したつもりは彼には無かったが、この僅か数分の間に、彼の忍耐力は数ランク、アップしたような気がする。

 荒くなった呼吸を、短時間で意識的に整えることが出来るようにもなった。


・・・


 こうなると意地でも「いつか、どこかで、落とし穴3」を攻略しないと気が済まなくなってくる。

 いや。普通のプレイヤーなら、こんな理不尽な仕打ちにあう「クソゲー」は時間の無駄にしかならない…と、さっさと断念するものなのだが、そうならずに、闘志を燃やしてしまう辺りが、彼もまた「廃人」と呼ばれるレベルのゲーマーである…という証だった。


 というか、早く再ログインしないと、あの男に色々と先を越されてしまいそうで、何だか癪だった。

 もちろん、あの男の他にも、より以前にログインしているPCが居るかもしれないが…


 「…あの野郎。おちょくりやがって…」


 顔を思い出すだけ、声を思い起こすだけで腹が立つ。

 他のプレイヤーにどれだけ先を越されようと、もう問題ではない。

 あの妙にスカした慇懃無礼な男。アイツが無様に落とし穴にはまるところを、絶対に笑いながら見てやる!…という不毛なモティベーションが、彼を突き動かす。

 口の中に放り込んだ本日3錠目のシムタブ。

 今度こそは、直ぐにログアウトするわけにはいかない。

 これでログアウトしたら、今日はもうログインできなくなってしまうのだから。


 緩やかな酩酊感の後の急激なブラックアウト。

 3度目でもやはり消えない、リアル過ぎる世界への鳥肌を伴う驚愕。

 妙に寝覚めの良い覚醒時のように、瞬間的に視界に広がる超リアルな仮想世界。


・・・

 

 「やぁ。お帰り。割と早かったね」


 今度は、彼の目の前に、最初からあの黒服の男がニヤニヤと笑って立っていた。

 挑発しているつもりなのかもしれないが、ここで頭に血をのぼらせてはますます相手の思う壷だ。ここは、ひとつ余裕を見せた大人の対応で、この男の期待を裏切りつつ、反撃の機会を伺うべきだろう。

 ムカっ…とした心の裡を面に出さないように拳だけを強く握り締めて、彼は極めて平静を装って男に正対する。極力、大人な対応を心がけ…


 「さ、さっきは、すまなかったな。せっかく、アンタが忠告してくれたのに…」

 「いやいや。まさか、私も、本当にあの場所に落とし穴があったなんて、驚いたよ」

 「なっ!?」


 平常心を保とうとする彼の努力は、またしても一瞬で破綻した。

 一体、この男は何なのだ!?

 彼は荒波に翻弄される漂流者になったような気分で、あんぐりと口を開けたまま男に何も言い返せず、固まってしまう。


 「何はともあれ、2度も連続して落とし穴に落ちて、懲りずに直ぐログインしてきたのは、君が初めてだ。おめでとう。今、この仮想世界は、ほぼ君の貸切状態だよ」


 ぱちぱちぱちぱち…と、乾いた拍手の音を響かせて、男が微笑む。

 その、ヒトを馬鹿にしたような笑みにムカツクことで、皮肉にも彼は我に返った。


・・・

 

 というか、ちょっと待て。今、この男は何と言った?

 …君が初めてだ…?…ほぼ君の貸切状態?

 何故、そんな事がこの男に分かるというのか。…いや。待て。これもまたブラフ?


 いや。今、この男は「2度も連続して…」と言った。

 2度目の落とし穴については、この男の目の前で落ちたのだから知られていて当然だが、1度目に落ちたときには周りに誰も居なかったと思うが………つまりは、ずっと観察されていた…ということ…か?

 そう考えた途端、彼の胸に大きな疑念が急激に沸き起こる。

 いくら「クソゲー」と評判のゲームだろうと、ゲームへのサインイン直後に、これほどまでに不愉快な落とし穴を仕掛けたりするだろうか?チュートリアルすら無く。

 「クソゲー」の定義など明確には定まっていないだろうが、通常は、プログラマーの腕が悪くてバグだらけであるとか、シナリオ・ライターのセンスが無くて面白味に欠けるだとか…システムの設定が細か過ぎたり大ざっぱ過ぎてゲーム世界に集中できなかったり、ユーザー・インターフェースが最悪の出来だったり…そんなところだろう。

 だが、この「落とし穴」の設定には、そんなどころではなく、明らかで確かな「悪意」を感じる。

 だから、彼は思わず口に出して訊いてしまった。


 「…ひょっとして。まさか、アンタが、落とし穴を…?」


 一瞬の男の顔。悪魔というのは、きっとこういう表情をしているのだろう。

 彼は凄まじい恐怖に襲われてフリーズしそうになってしまった。


・・・

 

 …が、その男の顔は、その一瞬後には、それまでと変わらぬ慇懃無礼さでニヤニヤしているだけの(その男としては)普通の表情に戻っていた。

 今のは…目の錯覚だった?…そう自分の目を疑ってしまいそうになる。

 しかし、間違いない。この男は…たちが悪い。


 「私が?…落とし穴を?…どうしたと?」


 ほらね。やっぱり、そうきたか。

 だから彼も、やっと気持ちを戦闘モードに切り替えて相応の態度をとることにした。


 「…まぁ。そう言うだろうな。アンタなら…。訊いた俺が馬鹿だったぜ」

 「むむむむむ。君は、もう…私の全てを見切った!…とでも言うのかね?…そこで、諦めずに、もう一歩踏み込んで『貴様がやったに違いない!』…ぐらいに決めつけてみたらどうかね?…そうしたら、私の答えも変わるかもしれないよ?」

 「面倒くせぇ…。っていうか、そもそも、アンタ誰だ?」


 すると、また一瞬、悪魔じみた顔つきを見せ…また、ニヤニヤと笑う黒服。


 「ふふふ。やっと、一番初めに問うべき質問に辿り着いたね。そうだよ。本来、初対面の人間と出会って最初にすべき質問はそれ。名を問うことだと私は思うよ」

 「…だったら、さっさと名乗れや。テメェ。…っていうか、名前とか以前に、テメェは一体何なんだ?…俺と同じプレイヤーだとは…とても思えねぇな」

 「おや。私への呼び名が『テメェ』になったな。ランクアップだね。光栄だな」


・・・

 

 「面倒くせぇ…って、さっきも言ったよな?」

 「おいおい。そんな怖い顔で睨みなさんなよ。恐怖に萎縮して、答えたくとも答えられな…あぁぁぁああああ、ちょっとま、待った、待ったって。名乗る、名乗るから。そんな風に興奮して前に踏み出すと、また………落ちるぞ?」

 「!」


 踏み出そうとしてた足を、ギリギリのところで堪えて、彼は辛うじて立ち続ける。

 元の場所から一歩も動かない…いや、動けないまま。


 「…良く堪えたね」

 「うるせぇ…くそっ」

 「例えば、私がこの『いつか、どこかで、落とし穴3』というゲームにおけるフィールド・モンスターであるとしたら…」

 「なんだと!?」

 「君の仮説…『私が君の心を読み、かつ、君を意図的に落とし穴に落としている』…は、一応の説明が付く」

 「…マジかよ…」

 「とすると…私の名前は『サトリ』だ」

 「………ちょ、ちょっと待て…よ。おい。こんな…モンスター…聞いたことねぇぞ」

 「さぁ。さぁ。どう倒そうか?…ん?…どうする?…早く攻略法を検討しないと、またまた、穴に落としちゃうぞ?…んん?どうだ?はははは」

 「じょ…冗談だよな…な?」

 「もちろん!」


・・・

 

 殺意が燃え上がる。

 もちろん…「冗談だ」なのか、それとも、もちろん…「冗談ではない」なのか。

 どちらとも受け取れる答えを敢えて選んでいるに違い無い。

 だが、その表情を見れば分かる。

 というか、これまでの会話のパターンからしても間違いない。

 この男が、フィールド・モンスターの「サトリ」などでないことは明白だ。


 「…で?…本当は何なんだ?」

 「ちぇっ。つまらない奴だな。最初に見た時の君は、何にでも新鮮な反応を見せる初々しさがあって、面白そうだとおもったんだがな」

 「ガッカリさせて悪かったな」

 「どういたしましてだ。別に気にすることはない。システム側の担当者である私にとって、君はお客様だからな。ヨウコソ『いつか、どこかで、落とし穴3』へ。どうだね。このゲームの仮想世界のクオリティは?…なかなかのモンだろう?」

 「………」


 モンスターというのも嘘っぽいが…今度は、システム側の担当者…だと?

 次々と主張を変える男の正体に、彼は困惑というより疑惑の眼差しを向けてしまう。


 「いや。これは本当だって。私だって、それほど暇ではないからな。冗談を連発なんかしないさ。君、さっき『チュートリアルも無いのかよ』って思ったろ?…そんな不親切なゲーム、あるわけないじゃないか。だから…名乗るまでもなく私の役目を分かってもらえると思ったんだがな」


・・・

 

 またしても彼の心の中を読めるかのような発言。

 システム担当者というよりは、まだ「サトリ」というモンスターであってくれた方が納得出来そうな気もするが…どちらにしても気味の悪い奴だ。

 というか…「暇じゃない」…って…ふざけるなよ…この野郎。

 …と、彼は歯ぎしりしそうになるが、それを気取られるのも癪だから、ストレスだけが堆積していく。


 「信じるも信じないも君の自由だが…信じなければ、ゲームのメイン・シナリオへは進めないよ。いや。進んでも良いが、さっきと同様に、一歩進むごとに落とし穴の餌食になることだろうね。最悪、20日間で一歩も進むことなく、パッケージ内のシムタブを全部、使い果たしてしまうだろうね。お代は先にいただいているから、こちらはそれでも、一向に構わないが」

 「…だったら。さっさと、チュートリアルらしいことを話せよ!」

 「そんな頭ごなしに命令されたら、萎縮して話せなくなるだろ…。もっとこう、相手の人格を尊重した上でだな…」

 「知るかよ。説明するのがテメェの仕事なんだろ?…これがチュートリアルっていうなら、テメェはNPCのハズだ。客であるPCの俺が命令して何が悪い!」

 「むぅ。確かに…私の設定はNPCだが…私にだって心はあるんだぞ」

 「だから、そんなの知ったことか…っていってんだろ!?…テメェの役目を果たせよ。さっさと。それがチュートリアル担当のNPCの仕事だろうが」

 「ちぇっ。本当につまらない奴だな。君は。…だが、まぁ、確かに正論だ。あ!…そうだ。次回、私が、こういったゲームシステムの開発に関わる機会があったら…システム側にもNPCだけじゃなく、PCを配置しよう!…うん。名案だ。ありがとう!」


・・・


 意味不明の理由で感謝されても、困惑が増すだけだ。彼は、無視することにした。

 妙にテンションの高い黒服の男に、彼は黙って冷たい視線を向ける。


 「それでは、非常に大きな収穫もあったことだし、そろそろ君を虐めるのは止めて、チュートリアルをするとしよう」


 何やら満足したらしく、黒服の男は急に表情を改め説明を始めた。「そろそろ君を虐めるのは止めて…」の部分には、色々と複雑な思いもあるが…それをツッコムと話が長くなるだけなので、彼は黙って頷くことにした。


 「さて、ではまず、このMMORPGゲーム『いつか、どこかで、落とし穴3』を上で、最も重要な基本動作について教えよう」

 「…最も重要な基本動作…そんなものがあるのか?」

 「あぁ。これを知らぬから、君は2度も高価なシムタブを無駄にしたんだ」

 「また、いい加減なことを言うつもりじゃねぇだろうな?」

 「さぁ。言うかもしれないな…」

 「テメェ…」

 「いい加減なことと捉えるか、天与の一言と捉えるかは君の心の持ちよう次第だ。どちらになるか、私には保証できんよ。聴いてみてから、判断するのが大人の対応というものじゃないかな?」

 「くそっ…いちいちかんに障る言い方をしやがる。…なら話せ。さっさと」

 「あぁ、話すとも。それがシステム側の担当…NPCたる私の務めだからな。では、最も重要な基本動作を言うから、その通りに動いてみたまえ…まずは、右足を出して」


・・・

 

 「………まさか、また落とそうとしてないだろうな?」

 「もちろん!…うぉっと、怒るなよ。ま。怒ったところで、その場所に突っ立ったままの君には何もできやしないがね。信じなければそれまでだが、これは一応チュートリアル担当のNPCとしての発言だ。私の言うとおりに動けば落ちないハズだよ」

 「ハズ…って…テメェ」

 「少なくとも今からの5歩は絶対に落ちないと保証しよう。万が一、落ちてログアウトしたら、そのままパッケージを持って販売店に怒鳴り込むと良い。きっと、満額返金してくれるだろう。それでも、腹立ちが納まらないなら訴訟でも起こすと良い」

 「ほ、本当だな。分かった。取りあえず信じてやるから、もう一回言え!」

 「では、両手を握って腰の横に…」

 「…って、おい!…さっきは、そんなコト言わなかっただろ!?」

 「そうだったかな?…それはすまない。きっと言い忘れたんだな。とにかく、これが最も重要な基本動作であることは間違いないんだ。さぁ、早く。両手を握って腰の横に」

 「くっ…わ、わかったよ。こ、こうか!?」

 「うむ。そうそう。君、なかなかに筋が良いぞ」

 「こんな単純な動作に筋も何もあるか!…で、次は?」

 「次は、こんな感じに、右足を出して…」


 黒服の男が右足を前に踏み出しながら左拳を前方に突き出すので、彼もそれを真似する。

 おそるおそる踏み出した一歩がしっかりと大地を踏みしめ、彼はホッとした。

 この世界へ来て、初めての一歩だった。地面を踏んだ右足の裏から返ってくる抵抗。足裏に伝わる硬い感触。彼は、思わず嬉しそうな顔を黒服の男へと向けてしまう。

 それを見て満足そうに頷く黒服。続けて、次の指示を出す。


・・・

 

 「左足を出す…と」

 「こ、こうか?」


 今度は、逆の左脚を右足より前に出し、さっき前に突き出した左拳を後に引くと同時に右の拳を前へと突き出す黒服。彼もそれを真似する。

 落ちない。

 右足同様、左足の裏にも同じく大地の反発を感じる幸せ。

 知らず知らずにほころんでしまう彼の表情。つまりは満面の笑み。

 そして、急激に込み上げてくる黒服への信頼感。

 今まで何かとケチを付けたり、疑ったりしてきたことが、何かとても申し訳ないことに思えてくる。

 彼は、心の中で詫びつつ、目で次の指示を要求する。

 それに頷いて、黒服が口を開き…


 「歩ける」


 …と言って、そのままスタスタスタと3歩進んだ。

 その動作をスタスタスタ…と真似終えた後、反射的に彼は、ツッコんでしまう。


 「あたりまえだろ!!」

 「おや?あたりまえでない動きを期待してたのかね?…最も重要な『基本動作』だと、始めから言ったハズだが?」

 「うぅっ…」


・・・

 

 『基本動作』なのだから…通常は『あたりまえ』なことに決まっている。

 …黒服の言うことは正論だ。彼は、言葉につまって呻いてしまう。


 「君は、あたりまえだと怒るがね、21世紀の前半には、日本中でこの基本動作を唄いながら確認し、歩けるということが如何に幸せなことかを噛みしめる様がTV番組で放映されていたという記録も残っているんだぞ。実際、君だって、今、一歩足を踏み出す度に、至極嬉しそうな表情をしていたじゃないか」


 反論できない。

 確かに彼は、今、歩きながら満面の笑みを浮かべていたのだから。

 黙ったままの彼を一瞥し、黒服の男は言葉を続ける。


 「このゲームの特徴は、言うまでもなく『落とし穴』だ。他のゲームには無い、全く予測不能に出現する落とし穴こそが、このゲームをこのゲームたらしめているんだ。君のように、『歩ける』という奇跡を『あたりまえ』などと言って憚らない奢った人類に、普通に歩けることの素晴らしさを思い出して貰う。それが、このゲームの主題テーマだ」


 男は言い切って、どや顔で胸を張る。なるほど…と思わせる主張ではあるが…


 「…そんなご大層なテーマがあるってことは…理解したけどよ。だからって、サインイン直後の…チュートリアル前に落とすってのはどうなんだ?…先に、言ってくれよ」

 「先に2度も落ちているからこそ、君は普通に歩けた事に感動を覚えたハズだ。それに、チュートリアル前には落ちない…という先入観こそが、最大の落とし穴だとも言える」


・・・

 

 どうやら…この「いつか、どこかで、落とし穴3」における「落とし穴」とは、物理的な「穴」だけを言うのでなく、心理的な陥穽…いわゆる思考の盲点をも差すらしい。


 「さて、取りあえずこれで、チュートリアルのファースト・ステップは終了だ」

 「も、もうかよ?」

 「セカンド・ステップに進むためには、君がファースト・ステップの基本動作『歩く』を、ちゃんとマスターしたかどうか確認する必要があるんだが…そこで、君に質問だ。君が次に踏み出す一歩…その足を下ろす場所に、地面はあると思うかい?」

 「え?…いや。そりゃ、あるだろう?…まだ、チュートリアル中なんだから。ま、まさか…無いなんてことがあるのか?」

 「ほう。言った傍から心理的な意味での『落とし穴』に嵌っているな。さぁ、迷え。良く考えるが良い。くどいようだが、このゲームの主題は『落とし穴』を通じて『普通に歩けることが如何に幸せかということに気づいてもらう』というものだ。因みに、私が、さっき君に保証した『今から5歩』というのは、すでにファースト・ステップ中に歩行済みだからお忘れなく」

 「…ま、マジかよ?…そ、そんな馬鹿なゲームあるか?…次の一歩でまた落ちるようなことがあったら、初日は5歩あるいただけで終了ってことになるぞ」

 「何を今更。これは誰もが認める『クソゲー』だよ?…君は、それを承知でログインしているんじゃないのかね?」

 「くっ…くそっ。ひ、開き直りやがったな…テメェ」

 「さぁ。どうする?…状態の種類『落とし穴』か『地面』か…で言えば、答えは2つに一つだから、確立は五分五分だ。…だが、このゲームはクソゲー中のクソゲー。落とし穴の出現確率は、ひょっとしたら9割以上かもしれない」


・・・

 

 黒服は笑みの色を深め、またしても悪魔じみた表情になる。

 今までは、その表情は一瞬で元に戻っていたのだが、今回はその表情をキープしたまま、彼の顔を覗き込んでくる。


 (…『落とし穴』が…9割以上だと…?…くっ。あり得るぜ。このクソゲーなら…)


 男にそう言われるまでは、さすがにこれ以上「落とし穴」に落ちることは無いと高を括っていたが、何故だか今は「落とし穴」に落ちるイメージしか湧いてこない。

 彼のこめかみから冷たい汗がしたたり落ちる。


 「さぁ。どうする?…因みに、私が意図的に君の足下に『落とし穴』を生み出している…なんていうことは無いから安心したまえ。それだけは、先ほどと同様に保証しよう。一歩踏み出して、落ちるかどうかを確かめるか。それとも、君が今日はもう自分からログアウトするというなら、ログアウト・コマンドの使い方だけはレクチャーしよう」

 「…く。どちらにしても、ログアウトするんじゃねぇか!」

 「いやいや。いやいやいや。そんなことはない。運良く落ちずに済めば、ちゃんとチュートリアルの続き、セカンド・ステップを受けさせてやるよ」

 「う、運が…良ければかよ?…くそっ」


 彼は、額にもビッシリと汗を吹き出した状態で、自分の足下を見る。

 落とし穴があるのかどうか、どれだけ目を凝らして注視しても判別がつかない。

 右足と左足…どちらを踏み出せば、落ちない確率が高いのだろうか?

 かなりの時間、地面を睨みつけて迷った末に、彼は、おそるおそる左足を前に出す。


・・・

 

 そこで、彼は「はっ!」と閃いた。

 既に前に出した左足へと体重を移動しようとしていた彼は、ぐらぐらと体を揺らしながらすんでの所でそれをキャンセルする。


 「へへへっ。よう、オッサン。閃いたぜ。何も、馬鹿正直に一歩踏み出すこたぁねぇんだ。後足に体重を残したまま、前足で地面の有無を確認しながら慎重に歩きゃぁ良いんだろ?…それがこのゲームの攻略法ってことだ。ざまぁみやがれ!俺は気づいたぞ!」

 「ほぅ…」


 一転して勝ち誇ったように朗々と語り出す彼を、感心したように黒服は見る。

 その表情の変化を見て彼は、その考えが間違いでは無いと確信した。

 右足に体重を残したまま左足を前へ出し、左足のつま先で前方の地面の有無を確認する。

 ひょっとしたら9割以上の確率で落とし穴が存在するかもしれない…という黒服の言葉が頭に焼き付いているため、まるでプールサイドから水面に足を着けるかのように、慎重に左足のつま先を下ろす。

 無い。

 水面どころか、虚空を踏んだかのように…何の手応えもない。


 「…や…やっぱり…落とし穴だったか。ふぅ。危なかったぜ。だが、これで、この方法が間違ってないってことが証明されたワケだ。このまま地面の感触を探せば…」


 黒服にワザと聞こえるように喋り、その表情の変化を確かめながら、彼は左足の位置を少しずつ変えて、地面の感触を探っていく。


・・・

 

 …だが。無い。

 右も左も、そして後にも足を引いて探ってみるのだが、彼の周囲のどこにも地面の感触を見つけられない。

 円を描くように左足のつま先を動かして見るのだが…虚しく空を切るばかりだ。

 不安になって黒服の顔を再度確認する。

 先ほどと同じ、感心したような顔。…のままであるはずなのに、何故か今は冷たく見下したような目で、哀れむような表情をしているようにも見える。


 「…な、何だよ?…コレ。ど、何処にも地面が無いぞ?」

 「ふむ。そのようだな。君もつくづく不運な奴だな。お気の毒に…」

 「う、運が悪いとか…そういうレベルの話じゃないだろ?…コレ!おいっ!」

 「おっと、気をつけたまえよ。君は今、右足と同じサイズしかない高い崖の上に片足で立っているようなものだぞ…」


 掴みかかって文句を言おうとした彼だが、黒服の言葉で自分の置かれた状況を思い出し、ぐらぐらと体を揺らしながら何とか踏みとどまる。

 そして、今、男から指摘された状況をリアルに想像してしまい、高所恐怖症のパニックのような状態になる。


 はぁっ…はぁ…はっはっ…と、呼吸を荒くする彼。


 ひょっとして、ジャンプすれば地面のあるところまでいけるかもしれない。

 しかし、どこへジャンプすれば安全だと言えるのか?


・・・

 

 眼球がグリグリと不規則に動き、必死に安全な地面を検索するが、そんなコトをしても落とし穴かどうかの見分けなど付かない。

 それどころか、その所為で平衡感覚が失われ、右足一本で立っている状態の彼は、グラグラと不安定に体を揺らしてしまう。


 黒服は何も言わず、まるで空っぽな無表情で、無様にぐらつく彼を見ている。

 何故だ?

 さっきまで、直ぐそこ…数歩先の位置に立っていたハズの黒服が、一歩も歩いた様子が無いのに、遙か遠くから観察されているようなきがする。

 恐ろしいまでの孤独感。孤立感…


 「あ」


 一陣の風が、不意に吹いた。

 不安定な一本足で、グラグラと揺れながら堪えていた彼にとって、その風の一押しは致命的な一押しとなった。

 ついにバランスを崩して、左足へと体重を移してしまう。

 視覚的には地面に見えていたそこは、先ほど探った時と同じように何の手応えもなく…次の瞬間には、ポッカリと口を開けた黒い穴へと変化した。

 そして、彼は落とし穴へと俯せに落ちていく…。


 彼の主観時間だけなのかもしれないが…スローモーションのように、妙にゆっくりと時間が過ぎていく。重力加速度を感じながら落ちているにも関わらず。


・・・

 

 そのゆっくりとした落下の最中に、彼は考える。

 こんな…こんな理不尽な仕打ちがあるか!…と。

 その思考を切っ掛けとして、彼の胸の中に猛烈な怒りが込み上げる。

 ふざけるな。ちくしょう。このまま、また自分はログアウトしてしまうのか?

 そして、一晩、悶々としながら…いや、鬱々とかしながらか…とにかく、やり場の無い怒りを持てあまして眠れずに悶え過ごすことになるのか?

 諦め。後悔。悔恨。痛恨。遺恨。ドロドロと渦巻く、表現しようのない感情。

 コマ落としのように落下する感覚の中で、彼は、冷ややかに自分を見下ろす黒服の視線を感じる。


 認めない。認めたくない。認めてたまるものか。

 アイツは言った。

 「2度も落ちたからこそ、普通に歩けるということの幸せを実感できた」…と。

 そうだ。もう、2度も落ちた。

 そして、あたりまえに地面を踏みしめるその感覚が、如何に素晴らしいものかも十分に思い知った。

 ならば、2度落ちたので十分ではないか?

 それなのに、何故、俺は今、3度目の落下をしなければならないのか?


 彼は、激しい思考の混乱の中、無意識に手を伸ばす。

 その手は、黒服の襟首を掴んで締め上げようと…

 しかし、届かない。

 もう既に、気が遠くなるほど遠くにいるように感じられた。


・・・

 

 その間にも彼の体は、どんどんと落下して行く。

 嫌だ。いやだいやだ嫌だ。いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ…

 繰り返しすぎて「嫌だ、嫌だ!」なのか「ダイヤ、ダイヤ!」なのか聞き分け出来なくなるほどに、彼は落下という運命に抗おうと必死に手を伸ばす。

 手を伸ばした先には、黒服が佇んでいる。

 哀れむような顔をして…


 その顔を見た時、ついに彼の中で何かが爆発した。

 俺が落ちていくのに、何故、アイツは立っている?

 八つ当たりにも似たその思考に、彼は「はっ」とする。

 そうだ。アイツは立っている。間違いなく、アイツの立っている場所には地面がある。

 そう確信した瞬間。

 彼の腕は…


 伸びた?


 不自然な程に長く。

 黒服の足下の地面を掻き抱くような形で、彼の両腕が伸びる。そして、しがみつく。

 無我夢中でしがみつく。しがみつく。しがみつく。

 そして…

 落下は止まった。


 「ほう…。面白いところにしがみついているな。君は…」


・・・


 「へっ!や、やったぜ!…ざまぁみろだ!俺を甘くみるなよ。こう見えても、他のメジャーなMMORPGじゃ、常にトッププレイヤーに名を連ねる俺様の洞察力を持ってすればな、自分の立っている位置以外に絶対に落とし穴じゃない場所がもう一箇所あることなど…お、お見通しだぜ」

 「ふむ。洞察力か?…で、その自分の立ち位置以外で絶対に落とし穴じゃない場所…というのは、どこの事だね?」

 「どこ…って。テメェの目は節穴か!?…たった今、この俺様がこうして手をかけている場所に決まってるだろ!…テメェの立っている足下だぜ。テメェが立っていやがる以上、そこには絶対に地面があるってことだ。テメェの足下にしがみついて見下ろされるのは屈辱的だが…落ちてログアウトするよりはマシだからな。さあ!早くセカンド・ステップとやらを始めやがれ!」


 一歩を踏み出しても、格好はどうあれ落下死してログアウトすることはなかった。

 ならば彼には、チュートリアルの続きを聴く資格があるハズだ。

 しかし、その彼の言葉に、黒服の男は不思議そうに首を傾げて言う。


 「はて?…私の目はもちろん節穴などでは無いが…君の目には、私の足下に地面があるように見えるのかね?」

 「…何?」


 何を馬鹿な…と思いながら、彼は自分の両腕でしがみついている、黒服の足下を見る。

 

 何も…無い。


・・・

 

 その事実を目で確認した瞬間。

 彼は、再び落下した。


 「嘘だろ!?…ぅわわぁああぁあぁぁぁあああああああああ…」


 その直前まで彼の腕に感じられていた大地からの反発力は、一瞬にして消え去り、彼は虚空を掻き抱くようにジタバタと暴れながら落ちていく。

 過去2度の落下時よりも、随分と長い落下フェーズの中で、彼は聞いた。

 黒服の男の残念そうな声を。


 「ふむ。惜しいところまで行っていたんだがな。まだ、この世界の本質を完全に理解するには至っていなかったようだ。だが、なかなかに筋は良い。ログアウトしたら、今、君に何が起きていたのか…良く思いだしてみるが良い…」


 自分の叫び声よりもずっと小さな声でありながら、何故か黒服の男の言葉は妙にハッキリと彼の耳に聞こえた。


 「…次にログインできるようになるまで、一晩、ゆっくりと考えるんだな。頭を冷やして、先入観に囚われることなく…そうすれば…きっと…」


 自分の存在さえも不確かになるほどの闇の中へと落下していく彼は、ログアウト・フェーズへと移行する不快感の中で、黒服の言葉を何度も反芻した。

 後から思えば、その言葉こそが…チュートリアルのセカンド・ステップだった。


・・・

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