第5章 第164話 森に残すもの
翌朝、集落の広場には木札の乾く匂いが漂っていた。
森の異常が消えたわけではない。北東部では調査隊が動き続け、黒ずんだ根や異質魔力についても監視が続いている。
それでも、衰弱していた精霊や森獣が回復し始めたことで、集落には少しずつ日常が戻っていた。
「ユウトお兄ちゃん! こっち!」
フィーナに呼ばれて向かうと、子どもたちの前に何枚もの木札が並べられていた。
昨日作り始めた、森を題材にしたカルタだ。
白露草、月雫草、木の実、森獣、小さな精霊。
形式は王国で作ったものと同じだが、描かれているものはすべてこの森で暮らす者たちに馴染み深い。
「試してみたんですけど、少し問題がありました」
セレスが一枚を差し出した。
白露草の札だ。
『しろつゆそう ねつのとき はと はなを つかう。ねはぬかず――』
「長いな」
「はい。子どもたちからも、途中で分からなくなると言われました」
近くの子どもがこくこく頷いている。
薬効も、採り方も、注意点も伝えたい。
だから全部入れた。
結果、読み札としては難しくなった。
「分けましょう」
セレスはもう答えを決めていた。
「薬としての使い方と、森での採り方を別の札にします。同じ植物でも二枚あれば、遊びながら両方覚えられますから」
「その方が良さそうだね」
エリシアも頷く。
「一つへ全部詰め込むより、覚える順番を作った方がいいでしょう」
失敗した札は捨てなかった。
裏へ印をつけて、次の試作品を作るための記録にする。
少し離れたところでは、レティシアが乾いた木札を指で擦っていた。
「こっちも駄目だな」
緑色に塗った部分が、薄く指先へ移っている。
「植物染料は森には優しいですが、そのままだと定着が弱いんです」
「なら、薄く何度も重ねる。乾かす時間も変えてみるか」
「表面を削りすぎると木が水分を吸いやすくなりますよ」
セレスが言う。
「分かってるって。だから試すんだろ」
レティシアは楽しそうに笑った。
王国で使っていた塗料を、そのまま持ち込めば早い。
けれど、この森ではそれが最善とは限らない。
同じ遊びでも、土地が違えば作り方は変わる。
俺が渡したのは、遊び方の形だけだ。
そこへ何を描き、どう作るかは、もう俺一人で決めることではなかった。
「これ読める!」
フィーナが札を一枚取る。
「『つきしずくそう』!」
「正解です」
「えへへ!」
次の札へ手を伸ばし、途中で耳が止まった。
「び……」
少し考えたあと、フィーナは俺ではなくエリシアへ向く。
「エリシア、この字は?」
「微風です」
「びふう! じゃあ微風精霊!」
嬉しそうに尻尾が揺れる。
俺は何も言わず、その様子を見て笑った。
広場の反対側では、木片芝居の試作も進んでいた。
森で迷った子どもが、小さな精霊と出会う話だ。
筋書きの形は俺が出した。
困り事が起き、主人公が考え、失敗し、それでも先へ進む。
その中身へ、この森の者たちが自分たちの知識を入れていく。
「最後に精霊が全部助けるのは違いますね」
台本を読んでいたエリシアが言った。
「精霊は、人を助けるためだけにいるわけではありません」
「じゃあ、主人公が自分で出口を探して、最後に精霊が目印だけ教える?」
「それなら自然です」
近くで聞いていた里の者たちも頷いた。
少しずつ形が変わっていく。
それが面白かった。
昼過ぎ。
俺は治療所へ向かった。
セレスは、昨日まで保護していた森獣の様子を一頭ずつ確認している。
「もう大丈夫そう?」
「この子は帰せます。でも、こっちの子はもう一日ですね」
迷いなく判断している。
「今回、俺は何度セレスに止められたんだろう」
「数えますか?」
「やめとく」
セレスが笑った。
けれど俺は冗談だけで済ませなかった。
「俺も回復魔法は使えるし、【鑑定】で身体の状態も見られる。でも今回、セレスがいなかったら余計なことをしてた場面が何度もあったと思う」
セレスの手が止まった。
「それは……私も、最初から全部分かっていたわけではありませんよ」
「うん」
「精霊の身体も、森の薬草も、知らないことばかりでした」
彼女は眠る森獣へ布を掛け直す。
「でも、分からないなら診て、考えて、それでも足りなければ知っている人に聞けばいいんだって分かりました」
穏やかな声だった。
「前は、ユウトさんみたいに全部分かれば、もっと役に立てると思っていたんです」
俺は何も言わず聞く。
「でも、全部知っている必要はないんですね。必要なことを知って、それを治療へ使えればいい」
「俺も同じだと思う」
「ユウトさんも?」
「俺が全部決める必要はないって、今回よく分かった」
【鑑定】で情報を出す。
セレスが治療を決める。
エリシアが精霊と意思を交わす。
それぞれ違うからこそ、できることが増える。
「じゃあ、次に無茶しそうになったら私が決めますね」
「それは話が違わない?」
「治療上必要な判断です」
「絶対違うと思う」
セレスは楽しそうに笑った。
夕方、広場へ戻ると、エリシアが一人で森の門を見ていた。
昔、彼女もそこを通って外へ出たのだろう。
「何見てるの?」
「少し思い出していました」
エリシアは門の向こうを見る。
「ここを出た日のことを」
彼女は大きな荷物も持たず、研究用の杖と数冊の魔導書だけを抱えていた。
森の外へ行って何を知るのか、と後ろから問われた。
当時のエリシアは、振り返らなかったという。
「何て答えたの?」
「『それを知るために行きます』と」
「エリシアらしい」
「そうでしょうか」
「うん」
エリシアが小さく笑った。
「止めてくれた人たちが間違っていたとは思っていません。この森の知識を守る人も必要ですから」
広場では、子どもたちが試作カルタを囲んでいる。
セレスは薬草札を直し、レティシアは染料の重ね方を試している。
フィーナは文字を読み、アイリスはなぜか札取りに本気だった。
「でも、外へ出た私も間違っていなかったと思います」
「うん」
「外で得た知識を、こうして持ち帰ることもできましたから」
その顔には、もう「帰る」という言葉への迷いはほとんど残っていなかった。
夜、冒険者ギルドから正式な報告が届いた。
北東部の調査は、エルフィナの調査隊と精霊術師たちが引き継ぐ。
エルダートレントについては討伐対象から外し、異常を抑える行動が確認された個体として経過観察する。
黒ずんだ根と異質魔力については、由来不明のまま保存調査を継続する。
俺たちは、王国内で確認した黒い異常の記録と、グランバルドで見つけた黒ずんだ鉱石についての記録の写しを残した。
似ている部分はある。
だが、まだ同じものとは断定できない。
だから、それぞれを別の記録として残す。
翌朝。
俺たちは森の門の前に立っていた。
「また来てね!」
子どもたちが手を振る。
「もちろん!」
フィーナが両手を振り返した。
「次はもっと読めるようになってるから!」
アイリスも静かに頷く。
「次は札取りでも負けぬ」
「まだ気にしてたの?」
「勝負は勝負でござる」
笑い声が起きた。
エリシアは最後に森を振り返る。
長い間、遠くなっていた場所。
それでも今は、戻ってこられる場所になったのだろう。
「行きましょう」
「ああ」
俺たちは歩き出す。
しばらくして、アイリスが山の連なる方角へ目を向けた。
次に向かうのは竜王国ドラグニア。
彼女の故郷だ。
「……ようやく、帰る時が来たのでござるな」
その声は静かだった。
けれど、いつものアイリスより少しだけ硬かった。
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