第9話 広報のミスと包み込むコンビーフマヨ
金曜日の19時。
俺は、オフィス街から少し離れたお洒落なイタリアンバルのテラス席で、目の前の光景にひどく胃を痛めていた。
「橋本さん、お仕事手伝ってくださって本当にありがとうございましたぁ! 今日は私のおごりですから、遠慮しないでたくさん食べてくださいねっ♡」
ふわりと巻かれた髪から甘い香水を漂わせ、完璧な小悪魔スマイルを向けてくるのは、企画部のエース・山下恭子だ。
体にフィットしたオフホワイトのニットワンピースに、華奢なアクセサリー。誰がどう見ても「完璧なデート」のシチュエーションである。
彼女が抱えていた膨大なデータ入力を俺が引き受けたお礼として、なぜか二人きりで食事に行く流れになってしまったのだ。社内を出る時、周囲の若手男子社員たちから向けられた嫉妬の視線が今も背中に突き刺さっている気がする。
「いや、山下さんのおごりというわけには……それに、そのサラダだけで足りるんですか?」
俺の目の前には、ガーリックの効いた厚切りステーキや濃厚なカルボナーラが並んでいる。しかし、彼女の前に置かれているのは、キヌアとベビーリーフが乗った意識の高い『オーガニック・デトックスサラダ』一皿だけだ。
「はいっ! 私、夜はあまり炭水化物を摂らないようにしてるんですぅ。橋本さんの男らしい食べっぷり、見てるだけでお腹いっぱいになっちゃいます♡」
彼女は小首を傾げ、フォークで葉っぱをツンツンと突きながら可愛らしく微笑んだ。
……嘘だ。
俺は内心で盛大に突っ込んだ。
彼女の視線は、俺のステーキから滴る肉汁と、カルボナーラの濃厚なチーズソースにガッツリと釘付けになっている。
無理もない。深夜のコンビニに集まるポンコツ同僚たちの正体を確信してしまった俺は、知っているのだ。目の前で「夜はサラダだけ♡」と微笑むこの完璧な美女が、昨日の深夜2時、スウェットと伊達メガネの限界オフ姿で、新作の激ウマチキンを巡って後輩と殺気立っていた「万年ダイエッター」であることを。
(あの時、チキンとキャベツを巻いたブリトーを誰よりも幸せそうに頬張っていたじゃないか……!)
知らぬは本人のみ。俺一人が彼女の裏の顔を知っているというプレッシャーで、せっかくの高級イタリアンも味が全くしなかった。
★★★★★★★★★★★
恭子との緊張感あふれるディナーを終え、一度アパートに帰ってから残った仕事を片付けていると、時刻はあっという間に深夜2時を回っていた。
俺はコンタクトを外し、分厚い黒縁メガネに手入れをサボった無精髭、ヨレヨレのパーカーといういつもの「深夜の干物男」スタイルに着替え、深夜のコンビニエンスストアへと向かった。
自動ドアを抜けると、イートインスペースの隅に、どんよりとした暗雲を背負った人影があった。
彼氏のお下がりのような大きめのネルシャツに、色落ちしたダメージデニム。適当に下ろしただけの髪。
健康的な小麦色の肌を持つ、広報の元気印・前田奈緒美だ。
今日の昼間、彼女は顔面蒼白になって営業部のフロアに駆け込んできた。来週開催される大型イベントのプレスリリースにおいて、開催日と会場の記載を間違えたままメディア各社へ一斉送信してしまうという、広報として致命的な大ミスをやらかしてしまったのだ。
パニックになって泣きじゃくる彼女を見かねて、俺は自分の業務を後回しにし、一緒にメディア各社への謝罪と訂正の電話回りを手伝った。なんとか事無きを得たものの、彼女の落ち込みようは尋常ではなかった。
そして今、深夜のコンビニで、彼女は「特大サイズのバケツ型バニラアイス」と「パサパサのプレーンクラッカー」をテーブルに置き、虚ろな目で宙を見つめている。
(……この前と同じだ。極度に落ち込むと、味のしない冷たいもので無理やり胃を満たそうとするんだな)
俺は小さくため息をつき、彼女のテーブルに歩み寄った。
俺の姿を見るなり、彼女はハッと肩を震わせ、赤く腫れた目を向けた。
「あ……。この前の、神様みたいなご飯を作ってくれた、お兄さん……」
「こんばんは。また随分と、心が冷え切るようなメニューを選びましたね」
俺が静かに声をかけると、彼女はポロポロと涙をこぼし始めた。
「……本当は、お兄さんが来るのを待って、助けてもらおうと思ったんです。でも……今日の私の失敗は、誰かに優しくしてもらえるようなレベルじゃなくて……。私みたいなダメ人間は、こういう味のしないものを食べて、自分を罰しなきゃいけないんですぅ……」
以前交わした「また落ち込んだらここで待ち伏せしていいですか?」という約束。彼女はそれを忘れたわけではなく、むしろ大切に思っていたからこそ、自責の念に駆られて救いを求める権利を自ら放棄しようとしていたのだ。
その不器用で真っ直ぐな自罰感情に、俺の『お節介』が発動した。
「冷たいお菓子で胃を冷やして自分を罰しても、起きてしまったミスが消えるわけじゃありませんよ。むしろ自己嫌悪が加速して、来週からの気力まで奪われてしまいます。……待っていてください。食べる資格がないなんて言わせない、すべてを包み込むような温かいものを作りますから」
俺は彼女のアイスとクラッカーをそっと横にどけ、店舗の棚から『パックご飯』『コンビーフの缶詰』『マヨネーズ』、そして『刻みネギ』と『醤油』を購入した。
以前、彼女に『コンビーフ・チーズ丼』を振る舞ったことがある。だが、今の彼女に必要なのは、チーズのまろやかさよりも、もっと直接的に脳の報酬系を刺激し、痛んだ心を強制的に修復するジャンクな暴力だ。
俺はレジでパックご飯を熱々に温めてもらい、イートインスペースに戻った。
真新しい割り箸を使い、ご飯のフィルムを開ける。
「温かいご飯の上に、コンビーフをほぐして乗せます。白飯の熱が、コンビーフの赤い肉の繊維をゆっくりと解きほぐし、凝縮された牛の旨味が蒸気と共に立ち上ってきます」
パサついていたコンビーフが熱を帯び、キラキラと真珠のような輝きを放ち始める。彼女がゴクリと喉を鳴らす音が、深夜の静寂に響いた。
「前回はチーズを使いましたが、今日は落ち込みきった心を一気に引き上げるため、もっとジャンクに振り切ります。……ここに、マヨネーズを網の目状にたっぷりと絞り出します」
「マ、マヨネーズを……そんなに……!?」
溶けかけた肉の脂の上に、真っ白なマヨネーズが幾重にも重なっていく。
「そして、その上から醤油をひと回し。マヨネーズの酸味と油分に、醤油の香ばしさと塩気が加わることで、味の輪郭が爆発的に際立ちます。最後に、刻みネギを山盛りに乗せて完成です」
それは、見た目からして背徳感の塊だった。
とろけたコンビーフの赤、たっぷりのマヨネーズの白、焦がし醤油のような茶色、そしてネギの鮮やかな緑。
「『特製・コンビーフマヨ醤油の背徳マウンテン』です。さあ、冷めないうちにかき込んでください」
俺が割り箸を差し出すと、彼女は震える手でそれを受け取った。
マヨネーズと醤油が絡んだコンビーフと熱々のご飯をすくい上げ、大きな口を開けて頬張る。
「……ッ!!」
食べた瞬間、彼女の瞳に一気に生命力が吹き込まれた。
熱々の白飯によって解き放たれたコンビーフの濃密な肉感。それをマヨネーズが包み込み、醤油が全体の輪郭をくっきりと浮き上がらせる。泣きじゃくっていた彼女は、咀嚼するごとに生気が戻っていき、まるで砂漠で水を吸い込む乾いた大地のようだった。
「美味しい……なにこれ、美味しいぃぃっ!」
ハフハフと熱さに声を漏らしながら、一心不乱に頬を膨らませて丼に向き合う彼女。さっきまでの自罰的な暗さは消え、口内から脳へと送り込まれる圧倒的な熱量に、その表情がどんどん解けていく。
「マヨネーズと醤油が……お肉の脂と絡まって……ううっ、お米が止まらないですぅ!」
山盛りだったご飯がみるみるうちに吸い込まれていき、彼女は最後にふぅっと長い息を吐き出した。冷え切っていた胃袋が熱量の塊で満たされ、ようやく血色が戻った彼女の顔には、本来の清々しさが宿っていた。
「少しは、元気が出ましたか?」
「はい……! お腹がいっぱいになったら、なんだかクヨクヨ悩んでたのがバカみたいに思えてきました」
彼女は少し照れくさそうに笑い、テーブルの上に置かれた空の容器を見つめた。
「私、今日のミスで本当に落ち込んでたんです。でも……営業部の、橋本先輩っていうすごく優しい先輩が、自分の仕事を放ったらかしにして、ずっと私の尻拭いを手伝ってくれて……」
自分の名前がいきなり飛び出し、俺は心臓が跳ねるのを必死に抑えた。
「私、あの先輩にばっかり頼ってて、本当に情けなくて。……だから、こんなところで落ち込んでちゃダメですよね。来週からは、もっともっと頑張って、絶対に橋本先輩の役に立つ後輩になります!」
彼女は両手でポンと自分の頬を叩き、気合を入れ直した。
俺の目の前で、俺に対する感謝と決意を、これ以上ないほど真っ直ぐな瞳で語る奈緒美。
メガネと無精髭の変装をしているとはいえ、昼間の苦労がこんな形で報われるとは思いもしなかった。俺は込み上げてくる嬉しさと、強烈な気恥ずかしさをごまかすため、わざと無愛想な声を出した。
「……その橋本さんという人も、あなたが元気になってくれるのが一番嬉しいと思いますよ。だから、土日でしっかり休んで体力をつけてください」
「はいっ! お兄さん、今日も本当にありがとうございました! 私、お兄さんの作るご飯が世界で一番大好きです!」
彼女は立ち上がると、俺に向かって90度の深いお辞儀をし、太陽のような笑顔を残して夜の街へと駆け出していった。
嵐が去った後のイートインスペースで、俺は一人、冷めたコーヒーの缶を握りしめていた。
つい数時間前は小悪魔な恭子と緊張のディナーをこなし、深夜は奈緒美に手料理を振る舞って涙ながらに感謝される。
彼女たちの裏の顔をすべて知ってしまった俺のプレッシャーは計り知れないが、それでも、彼女たちが美味しそうに俺のご飯を食べて笑顔になってくれる瞬間だけは、どうしようもなく満たされてしまうのだ。
(……俺のこのお人好しの病も、相当重症だな)
空っぽになったコンビーフの容器を片付けながら、俺は誰もいない深夜のコンビニで、小さく、しかし確かな温かさを持ったため息をこぼしたのだった。




