第3話 限界ゲーマーの爆食と着ぐるみの異邦人
「先輩! この顧客リストの整理、あとはお願いしまーす! 私、今日はギルド戦の防衛があるんで定時で上がりまっす! お疲れ様でしたー!」
時計の針が18時を指した瞬間、直属の後輩である石井ミチルが、風のような速さでオフィスを駆け抜けていった。
透き通るような白い肌と色素の薄い瞳。爽やかで清楚なオフィスカジュアルに身を包み、社内でも「今どきの可愛い若手」として可愛がられている彼女だが、俺にとっては「仕事を笑顔で丸投げしてくる自由人」でしかない。
「……おう、お疲れ」
俺は、ミチルが残していった膨大なリストの束を見つめ、無駄にがっしりした体格を丸めてため息をついた。
数日前に企画部のエース・山下恭子に押し付けられたデータをまとめ、さらに人事部のカルメンに特製スムージーを飲まされて胃腸がおかしくなりかけたばかりだというのに、今日は後輩の尻拭いである。俺のお人好しな性格は、もはや社内で完全に舐められていた。
「オラ、イチロー! そんな丸まった背中じゃ、いいアイデアなんて生まれないワヨ!」
そこへ、さらに追い打ちをかけるような大声が響いた。
振り返ると、燃えるような赤毛と圧倒的にグラマラスなプロポーションを誇る、グローバルマーケティング部のチーフディレクター、フェルナンダ・ディアスが、バインダーを片手に仁王立ちしていた。ブラジル出身の彼女は、社内の誰よりも声が大きく、そして自己主張が激しい。
「イチロー! あなたが出してきたこのプロモーション案、全然セクシーじゃないワ! パッションが足りない! 明日の朝までに、もっと魂を燃やしたプランを再提出してヨ!」
「明日の朝って……フェルナンダ、俺は今からこのリスト整理を……」
「ノーパッション、ノーライフ! あなたならできるワ、期待してるワヨ♡」
彼女はバチンと情熱的なウインクを残し、タイトなスーツのヒップを揺らして去っていった。
鬼上司の李雪課長からのプレッシャーに加え、他部署からも後輩からも無茶振りの嵐。俺の体力と精神力は、すでに限界を突破していた。
★★★★★★★★★★★
その日の深夜2時。
過酷な残業を終えた俺は、いつものように自宅近くのオアシス――深夜のコンビニエンスストアへ吸い込まれた。
会社ではコンタクトレンズでビシッと髪をセットしている俺だが、深夜は度の強い分厚い黒縁メガネをかけ、無精髭に寝癖、ヨレヨレのパーカーという、まるで別人のような干物男スタイルだ。185センチの体格の良さも、猫背のパーカー姿では単なる「大柄な不審者」にしか見えないだろう。
(今日は……とにかく腹にたまるジャンクな炭水化物と、酒のつまみが欲しい)
店内に入ると、イートインスペースの隅の席から、ズルズル、モチャモチャという凄まじい咀嚼音が聞こえてきた。
見ると、小柄な女性が、テーブルの上に大量の食料を広げて格闘していた。
「……なんだあれ」
俺は思わず足を止めた。
彼女が着ているのは「圧倒的勝利」とデカデカとプリントされたダサいロゴTシャツ。下は高校時代のものと思われる芋くさいジャージで、前髪は邪魔にならないよう頭の頂点でちょんまげのように結ばれている。
そんな限界すぎる身なりの彼女の目の前には、特大サイズのカップ焼きそば、フライドチキン、おにぎり3個、そしてエナジードリンク2本が並んでいた。まるで部活帰りの男子高校生のようなラインナップだ。
彼女は極度のドライアイなのか、分厚いメガネの奥で目を細め、スマホの画面に顔をこすりつけるようにしてゲーム動画を見ながら、カップ焼きそばを口いっぱいに頬張り、さらに手元のフライドチキンをかじり、エナジードリンクで無理やり流し込んでいる。
「んむっ……あー、エイムがブレてるなぁ……もぐもぐ……」
味わうという行為はそこにはなく、ただひたすらに「手っ取り早くカロリーを摂取する」ための無機質な作業だった。
俺の元・料理人としての本能が、またしても疼き始めた。限界まで疲弊している時にカロリーを欲するのはわかる。だが、あの食べ方は食に対する冒涜であり、何より胃腸へのダメージが大きすぎる。
俺は気づけば、彼女のテーブルの前に立っていた。
「……あの、すみません」
「んぶっ!?」
俺の声に驚いた彼女は、口から焼きそばを吹き出しそうになりながら顔を上げた。
「ゴホッ、ケホッ……な、なんですか急に。私、お金持ってないですよ?」
ちょんまげ頭の下から睨みつけてくるその顔を見て、俺は少し驚いた。ノーメイクで目元には濃いクマができているが、よく見ると顔立ちは整っている。ただ、目に生気が全くない。俺が昼間に会社で会っている『清楚な後輩』に似ている気がしたが、相手は画面に集中しすぎて視界が狭まっている上、俺のこの無精髭とメガネのオフ姿だ。会社での大柄な営業マンとは全く結びついていないらしい。
「お金なんて要求しません。ただ、あなたのその食べ方が、あまりにも勿体なくて」
「勿体ない? なにがですか。カロリー摂れれば何でもいいでしょ」
「いいえ。空腹の胃に炭水化物の塊である特大焼きそばだけを流し込めば、血糖値が急上昇して猛烈な眠気とだるさに襲われます。せっかくジャンクを食べるなら、もっと完璧な到達点に行けるんです」
俺は彼女の返事も待たず、レジへ向かって『温泉卵』と『マヨネーズ』、そして新しく『骨なしフライドチキン』を1つ購入し、テーブルに戻ってきた。
「ちょっと、勝手に何してるんですか?」
「貸してください」
俺は彼女の食べていた特大カップ焼きそばを自分の方へ引き寄せた。そして、買ってきたばかりの熱々のチキンを包み紙に乗せたまま、割り箸を巧みに使って細かくほぐし、焼きそばの上にばら撒いた。
「あっ! 美味しそうなチキン!」
「黙って見ていてください。大量の炭水化物に、タンパク質と脂質をコーティングすることで、消化吸収を緩やかにして血糖値の急上昇を抑えるんです。さらに、ここに温泉卵を落とし、マヨネーズを網の目状にかける」
濃い茶色の焼きそばの上に、黄金色の卵黄と、真っ白なマヨネーズのコントラストが浮かび上がる。ジャンクの極みとも言える暴力的なビジュアルだ。
「これを、底から豪快にかき混ぜてください」
俺が真新しい割り箸を差し出すと、彼女は文句を言いながらも、圧倒的な匂いの暴力に抗えず、言われた通りに全体を混ぜ合わせた。卵黄とマヨネーズがソースと乳化し、ドロドロの極上ソースへと変化していく。
「さあ、冷めないうちに1口、大きくすすってください」
彼女は疑心暗鬼の表情で焼きそばを大量に持ち上げ、ズズッと音を立てて口に放り込んだ。
モチャ……。
彼女の動きが、ピタリと止まった。
「……えっ」
チキンのザクッとした食感と肉の旨味が、濃厚なソース焼きそばの味わいを何倍にもブーストしている。さらに温泉卵のまろやかさとマヨネーズの脂質が、ソースの強烈な塩角を油膜で丸め、胃粘膜を優しく保護しながら、無限に食べられる悪魔的なコクを生み出していたのだ。
「美味しい……なんだこれ、美味しいっ! 脳みそが溶けそう……!」
彼女は呆然と呟いた後、もう1口、さらに1口と、貪るような勢いで焼きそばをかき込み始めた。さっきまでの「作業」のような食べ方ではなく、純粋に「食の悦び」に憑りつかれた獣のような食べっぷりだ。
「ただのカロリーの暴力ではなく、理知的なダメージコントロールですよ。ジャンクを極限まで美味しく食べてこそ、真の休息になるんです」
「最高……あなた、最高です! 私、今日からあなたをアニキって呼びます!」
Tシャツの女性は、口の周りにマヨネーズをつけながら、尻尾を振る犬のように目を輝かせて俺を見た。
「アニキって……まあ、好きに呼んでください」
俺は苦笑しながら、自分の夜食を探すため、彼女を残しておつまみコーナーへと向かった。
★★★★★★★★★★★
それから数日後の深夜。
俺は再びオフの無精髭とメガネ姿でコンビニを訪れていた。陳列棚を眺めていると、イートインスペースの隅で、不審な人物に遭遇した。
季節外れのモコモコした着ぐるみのような特大フリースに身を包んだ女性だ。フードをすっぽりと深く被っており、顔の下半分しか見えず、視界も極端に狭いはずだ。彼女は極度の寒がりなのか、店内でも小刻みに震えながら、テーブルの上にストロング系の缶チューハイを置いていた。
(まあ、誰が何を買おうが自由だ)
そう思って素通りしようとした瞬間、彼女の奇行が視界に入った。
彼女は先ほどレジで会計を済ませたばかりの『イカの塩辛』のパッケージを開け、そこに自分の大きめのマイバッグから取り出したドクロマークの真っ赤な瓶――見るからに凶悪な『激辛デスソース』を、直接ドバドバと流し込もうとしたのだ。
「おい、ストップ!!」
俺は慌てて彼女の手首を掴んだ。
「ヒャッ!? な、なによ! 離してヨ!」
フードの奥から、ボソボソとした小さな声で抗議される。昼間のフェルナンダの陽気な声とは似ても似つかない、陰キャそのものの省エネボイスだった。
「塩辛にそんなデスソースを直がけしたら、旨味が完全に死にますし、何より胃に穴が空きますよ!」
「うるさいワネ……アタシは、刺激が欲しいのヨ。日本の珍味は美味しいけど、パッションが足りないの……だから、これで魂を燃やすのヨ」
彼女は俺の手を振り解こうとするが、体格差のせいでビクともしない。それに、フードで視界が塞がっているせいで、俺の顔もろくに見えていないようだ。
「刺激を求めるのは構いません。ですが、旨味を殺し、胃壁を破壊するような辛さはただの苦痛です。辛味と旨味を共存させ、胃へのダメージを防ぐ方法を、俺が教えます。ちょっと待っていてください」
俺は一旦レジへ向かい、『クリームチーズ』と『無塩のプレーンクラッカー』を購入して、彼女のテーブルに戻ってきた。
「いいですか。激辛ソースをただの自傷行為にしないためには、緩衝材となる乳脂肪分と、旨味の土台が必要です」
俺はプラスチックのスプーンを使い、イカの塩辛とクリームチーズを小さなカップの中でよく練り合わせた。
「イカの塩辛の強烈なアミノ酸の旨味と塩気を、クリームチーズの乳脂肪分がマイルドに包み込み、胃に保護膜を作ってくれます。ここに、あなたのそのデスソースを『2滴だけ』垂らすんです」
俺が指定した通り、彼女は震える手でデスソースを落とした。俺はそれをさらに混ぜ合わせ、クラッカーの上に乗せて彼女に差し出した。
「食べてみてください。『絶望と官能のスパイシークリームチーズ』です」
彼女はフードの奥の瞳で俺をじっと見つめた後、恐る恐るクラッカーを口に運んだ。
パリッ。
静かな音が鳴った直後、彼女の体がビクンと大きく跳ねた。
「……ッ!!」
クリームチーズの濃厚なコクと塩辛の強烈な旨味が口いっぱいに広がった直後、デスソースの暴力的な辛味が遅れてやってくる。だが、チーズの油分が辛味をまろやかにコーティングしているため、舌を刺すような痛覚ではなく、脳を覚醒させるような心地よい『刺激』へと昇華されているのだ。
「……ウ、ウノ・モメント……なにコレ……」
彼女は信じられないものを見るような目でクラッカーを見つめ、ストロング系のチューハイを勢いよく流し込んだ。
「美味しい……塩辛の生臭さが消えて、辛さが最高のスパイスになってる……お酒が、無限に飲めちゃうワ……!」
さっきまでのボソボソとした声が少しだけ熱を帯びている。彼女は次々とクラッカーにディップを乗せ、夢中で貪り始めた。
「旨味と脂質をコントロールすれば、どんな激辛も最高のエンターテインメントになります」
俺がそう告げると、着ぐるみの女性はチューハイの缶をテーブルに置き、俺の顔をジッと見つめてきた。
「あなた……ただ者じゃないワネ。魔法使い? それとも、神様?」
「ただの、お節介な深夜のコンビニ客ですよ」
「気に入ったワ。……ねえ、明日からも、アタシの魂を燃やすおつまみを作ってヨ。あなたをアタシの『専属シェフ』に任命するワ」
彼女はフードを深く被ったまま、少しだけ甘えるようなトーンでそう囁いた。
俺は苦笑しながら、「俺の気まぐれが向いた時なら、いいですよ」とだけ答えた。
★★★★★★★★★★★
翌朝。
過酷な疲労のまま出社した俺は、デスクでPCを立ち上げた。
昨晩と数日前の深夜のコンビニも、随分とカオスだった。限界まで食料を詰め込むちょんまげ女に、デスソースを直がけしようとする着ぐるみの女。俺の周りには、どうしてああもポンコツで放っておけない女性ばかりが集まるのだろうか。
「先輩! 昨日のリスト整理、ありがとうございました! さすが頼れるアニキー! 今日もバリバリ働きますよっ!」
後輩のミチルが、爽やかな笑顔と完璧なメイクで出社してくる。
「オラ、イチロー! 昨日のプランの修正、バッチリだったワ! あなたのパッション、確かに受け取ったワヨ!」
フェルナンダが、タイトなスーツ姿で情熱的なウインクを飛ばしながら通り過ぎていく。
手元のブラックコーヒーをあおりながら、俺は静かに天を仰いだ。
俺が深夜のコンビニで背徳のグルメによって手懐けた『犬系後輩』と『着ぐるみの専属シェフ』が、今まさに俺の業務量を限界突破させている張本人たちだとは、俺はまだ知る由もなかった。




