第2話 ダイエットの葛藤と、堕ちたウェルネス
「橋本さぁん、お疲れ様ですっ! あの、明日の夕方までにこのデータ、まとめてもらえませんかぁ? 橋本さんなら絶対完璧にやってくれるって、私信じてますからっ♡」
昼の14時。社内で最も華やかな空気を纏う企画部のエース、山下恭子が、俺のデスクに分厚いファイルの束をコトリと置いた。
ゆるふわに巻かれた髪、計算し尽くされた完璧なオフィスカジュアル。ふっくらとした唇からこぼれる愛嬌たっぷりの笑顔に、周囲の男性社員たちはデレデレとしているが、直撃を受けた俺の胃はキリキリと痛んだ。
「……山下さん。これ、本来は企画部の仕事では? それに俺、今日は少し風邪気味で……」
「えー? でも営業部の意見も反映させたいなって。ね、お願いっ! 風邪薬、あとで差し入れしますから!」
小さくウインクされ、俺の「お人好し」という不治の病が発動する。喉の痛みをごまかすためのマスクの下で小さくため息をつき、結局断りきれずにファイルを受け取ってしまった。彼女は「さすが橋本さん! 頼りになりますぅ!」と機嫌良く去っていく。完全にいいように使われている自覚はあるが、彼女の笑顔には抗いがたい引力があるのも事実だった。
「ヘイ、イチロー! ワット・アー・ユー・ドゥーイング!? 姿勢が悪すぎるわよ!」
恭子と入れ替わるように、今度は背中をバシッと強烈な平手打ちが襲った。
振り返ると、健康的なオリーブスキンとグラマラスなプロポーションを誇る人事部ウェルネス担当、カルメン・ベガが、太陽のようなビッグスマイルで立っていた。
「デスクワークばかりで体が丸まってる! はい、今すぐ立って! スクワット20回! レッツゴー!」
「いや、カルメン……俺は今からこの膨大なデータをまとめなきゃいけないし、喉が痛くて声も枯れてるんだが……」
「ノー! 不健康な体から良い仕事は生まれないわ! ほら、私の特製・無農薬ケールとキヌアのグリーンスムージーを飲みなさい! 免疫力がアップして胃腸が浄化されるわよ!」
かすれ声の抗議も虚しく、有無を言わさず芝生をミキサーにかけたような強烈な青臭さの液体を押し付けられる。
スペイン出身の彼女は「歩くパワースポット」と呼ばれるほど陽気でポジティブだが、その健康指導は軍隊並みに厳しい。俺のような不健康な残業社員は、彼女にとって格好のターゲットなのだ。
「……いただきます」
ドロドロの液体を鼻をつまんで流し込み、俺は白目を剥いた。
鬼上司の李雪課長だけでなく、他部署のエースや後輩にまで振り回される毎日。俺の体力は、常に底をつきかけていた。
★★★★★★★★★★★
その日の深夜2時。
残業を終え、心身ともに限界を迎えた俺は、いつものように自宅近くのコンビニエンスストアへ吸い込まれた。風邪気味のせいで声はすっかり低くかすれ、目深に被ったニット帽と大きなマスクのせいで、我ながらかなり怪しい出で立ちになっている。
(今日は……とにかく塩分と温かいものが欲しい)
ふらふらと弁当コーナーへ向かった俺は、低カロリー食品の棚の前で、頭を抱えて唸っている女性を見つけた。
大きめのスウェットに、ゆるいレギンス。前髪をクリップで適当に上げ、大きな伊達メガネをかけた彼女は、スマホの画面と商品とを交互に見比べては「ああっ、もう!」と地団駄を踏んでいる。
「春雨スープなら100キロカロリー……でも、これだけじゃ絶対お腹すく……カツ丼が食べたい……でも明日むくんじゃう……あああっ、神様!」
万年ダイエッターの葛藤である。
深夜のコンビニには魔物が棲んでいる。疲労とストレスで「濃厚なものを食べたい欲求」と「体型を維持したい理性」が激しく衝突するのだ。
俺は彼女の横に並び、商品棚から迷わず『濃厚豚骨醤油・カップ春雨』を手に取った。
「……極限状態での我慢は、かえって体に毒ですよ」
「えっ……?」
スウェットの女性が、ビクッと肩を揺らして俺を見た。すっぴんでメガネをかけているせいか、やけに幼く見える。
彼女の目は「誰だこの大柄な不審者は」と警戒していた。ニット帽とマスクで顔のほとんどが隠れている上、酷い声枯れのせいで、俺の声は普段とは似ても似つかない低いノイズのようになっていたから無理もない。
俺は少しだけ距離を取り、手にしたカップ春雨を示した。
「炭水化物を抜こうとして春雨を選ぶのは悪くありません。ですが、具材のないスープだけでは血糖値が急上昇し、すぐに空腹感が押し寄せて結局リバウンドします。脳と胃袋を完全に満足させるには、正しい『脂質とタンパク質』の補給が必要です」
「正しい、脂質……?」
警戒しつつも、彼女の伊達メガネの奥の目が興味に惹きつけられている。俺は彼女に促し、ホットスナックのケースから『唐揚げ串』を1本、そして冷蔵コーナーから『温泉卵』と『とろけるスライスチーズ』をカゴに入れさせた。
彼女がレジで財布から小銭を出して会計を済ませるのをしっかりと見届けてから、俺はイートインスペースの給湯器で春雨スープにお湯を注ぎ、3分待った。
蓋を開け、濃厚な豚骨醤油の香りが立ち上る中へ、串から外した唐揚げをダイブさせる。さらにその上にスライスチーズを乗せ、最後に温泉卵を落とした。
「唐揚げの衣が、熱々の豚骨スープを吸って柔らかくなります。そこに熱で溶けたチーズの脂質と、温泉卵のタンパク質が絡みつく。これにより消化吸収が緩やかになり、1杯のスープが『完全な食事』へと昇華するんです。低カロリーの春雨が、圧倒的な満足感に包まれる瞬間です」
俺がそれを差し出すと、彼女は「ごくり」と喉を鳴らした。
彼女は震える手で割り箸を受け取ると、チーズがとろけた唐揚げと春雨を一緒に持ち上げ、思い切り口に運んだ。
「んむっ……! ぁっ……」
食べた瞬間、彼女は雷に打たれたように肩を震わせた。
サクサク感を残しつつスープを吸った唐揚げから、ジュワッと肉汁と豚骨の旨味が溢れ出す。そこにチーズの塩気と卵のコクが完璧なバランスで絡み合い、彼女の口内に至福をもたらしているのがわかった。
「美味しい……美味しすぎる……なにこれ、天才……?」
彼女は顔を覆い、全身から力が抜けたように深く息を吐き出した。
「カロリーと脂質は、決して敵ではありません。中途半端に我慢してストレスを溜めるより、一度ガツンと脳を満たした方が、確実によく眠れて明日の活力になりますから」
「はふっ、はむっ……うう、理屈はわかったけどぉ、やっぱり悪魔の食べ物じゃないですかぁっ!」
彼女は文句を言いながらも、満面の笑みでスープの最後の一滴まで飲み干してしまった。
食べ終わった彼女は、少し甘えたような声で「ごちそうさまでした……あの、またこれ、作ってくれますか?」と聞いてきた。俺が頷くと、彼女は嬉しそうに小走りで店を出て行った。
★★★★★★★★★★★
それから数日後の、同じく深夜2時。
俺の風邪はだいぶマシになったものの、まだ喉にはかすかな違和感が残り、今夜もマスク姿でコンビニを訪れていた。
自分の夜食を探すためにスナック菓子の通路へ向かった俺は、そこで「不審な人物」に遭遇した。
目深に被ったキャップに、体型を完全に隠すダボダボの黒いウインドブレーカー。さらに黒いマスクで顔の下半分を覆い隠し、背中を丸めてコソコソと棚を物色している。
警戒して距離を取ったが、どうやら万引き犯ではないらしい。彼女はカゴの中に、商品を次々と放り込んでいた。
だが、その中身が異常だった。
真っ青な原色のグミ、海外製の強烈な人工甘味料を使った蛍光イエローの炭酸飲料、成分表がカタカナの添加物で埋め尽くされているであろう、真っ赤な激辛チーズスナック。
彼女はそれらを震える手で抱え込み、「ハァ、ハァ……ケミカルな匂い……たまらないワ……」と怪しい声で呟いている。
ドンッ。
俺が不注意で隣の棚にぶつかってしまい、音を立ててしまった。
「ヒャッ!?」
不審なウインドブレーカーの女性は短く悲鳴を上げ、手から真っ赤な激辛チーズスナックの袋を取り落とした。
俺は慌ててそれを拾い上げ、彼女に差し出した。
「すみません、驚かせてしまって。……それにしても、すごい色のスナックですね」
「アッ……ミナイデ! ワタシ、ガイコクジンダカラ、ニホンゴ、ヨクワカラナイネ!」
彼女はなぜか頭を抱え、わざとらしいほど不自然なカタカナ口調の日本語で叫んだ。マスク越しに見える瞳は、自分の買い物を覗き見られたことに激しく動揺している。どうやら、自分の素性を隠すために必死で変な外国人を演じているらしい。
「いや、日本語ペラペラですよね……。別に、何を買おうが個人の自由でしょう」
「ダメなの! アタシは……アタシは、オーガニックでヘルシーじゃなきゃいけないの! なのに、体が……無性に人工着色料と保存料を求めてしまうのよぉ!」
設定を保つ余裕もなくなったのか、彼女は半泣きでしゃがみ込み、普段の流暢な日本語で叫んだ。
どうやら、日頃極端な健康志向の生活を強いられている反動で、深夜にケミカルなジャンクフードへの渇望を引き起こしているらしい。俺はカゴの中の蛍光色の食品たちを見て、元料理人としての本能からふとあるアイデアを思いついた。
「空腹の胃に、その強烈な激辛スパイスのスナックを直接流し込むのは、胃粘膜を荒らすだけの自傷行為です。せっかく罪悪感に塗れるなら、胃腸へのダメージを和らげつつ、最高に体に悪そうな味を作りましょう」
「えっ……?」
俺の提案に、彼女はきょとんとした。
俺は彼女に『電子レンジで溶けるチーズ』のパックを追加でカゴに入れさせ、レジへと向かわせた。彼女が慌てた様子で会計を済ませるのを待ち、一緒にイートインスペースへ移動する。俺はその横に設置されている客用の電子レンジにチーズのパックを放り込み、熱々に温めた。
「まず、この激辛スナックの袋を開け、上から今温めたばかりのドロドロのチーズを流し込みます。チーズの乳脂肪分がカプサイシンの刺激を包み込み、胃への負担を劇的に軽減してくれるんです」
袋の中に熱々のチーズを流し込むと、人工的なチーズの香りと刺激的なスパイスの香りが熱によって立ち上り、強烈なジャンク臭が漂い始めた。
「そして、これを振ります。チーズとスナックが完全に絡み合うまで。……はい、完成です。『ケミカル・ナチョス』」
「オー・マイ・ゴッド……」
袋の中を覗き込んだ彼女は、その強烈な原色のコントラストと暴力的な香りに、ゴクリと息を呑んだ。
彼女はマスクをずらし、指で真っ赤なスナックを1つ摘み上げ、口に放り込んだ。
ザクッ、ドロォ……。
「……ッ!!」
食べた瞬間、ウインドブレーカーの女性は天を仰ぎ、そのまま机に突っ伏した。
激辛スナックのザクザクした食感に、ドロドロの濃厚チーズが絡みつく。舌を刺すような人工的な刺激はチーズのまろやかさによって絶妙な旨味へと変換され、脳を痺れさせるような圧倒的な満足感をもたらしているのだ。
「美味しい……美味しすぎるわ! なにこれ、最高にギルティ! 私の細胞が、ケミカルな味に歓喜しているわ!」
彼女は机に顔を伏せたまま、恍惚の表情を浮かべて長い溜息をついた。
あっという間にケミカル・ナチョスを平らげると、彼女は俺の袖をギュッと掴み上げた。
「あなた、天才ね。……お願い、これからも私の『共犯者』になって?」
甘く、どこか艶やかな声で囁かれ、俺は「はあ、まあ……俺の風邪が治って、またここに来る時なら」と曖昧に頷くしかなかった。
★★★★★★★★★★★
翌朝。
風邪の症状もすっかり引き、声も普段通りに戻った俺は、いつも通りに出社してPCに向かっていた。
深夜のコンビニには、本当に色々な人間がいるものだ。スウェット姿でダイエットに葛藤していた彼女も、ウインドブレーカーで怪しい日本語を使ってまでケミカルな味に狂っていた彼女も、素直でどこか憎めない人たちだった。
「ちょっと橋本さぁん! 昨日お願いしたデータ、まだですかぁ? もー、しっかりしてくださいよっ♡」
デスクの横から、企画部の山下恭子が完璧な笑顔でプレッシャーをかけてくる。
「ヘイ、イチロー! 今日は顔色がいいわね! さあ、今日も私の特製ケールスムージーを飲んで、目を覚ましなさい!」
逆サイドからは、カルメンが芝生味の液体をジョッキで差し出してきた。
(……うちの会社の人たちも、あのコンビニで会った素直な女性たちみたいに、少しは隙を見せてくれればいいのにな……)
俺は心の底からそう思いながら、無機質なPCの画面に向かって、深々とため息をついた。
昨晩と数日前の夜に俺が餌付けした『深夜の悪魔』と『ケミカルの共犯者』が、今まさに目の前で俺を追い詰めている張本人たちであることなど、夢にも思わずに。




