第1話 氷の女帝と深夜2時のアメリカンドッグ
「橋本さん。この提案書、先方の課題に対する解像度が低すぎます。やり直しです。明日の朝10時の会議までに再提出してください」
絶対零度の声が、残業組がまばらに残るオフィスに響き渡る。
声の主は、俺の直属の上司である営業部課長、李雪。中国から日本の難関大学へ留学し、トップの成績で卒業後、圧倒的な実力で最年少課長に上り詰めたエリート中のエリートだ。
タイトなオーダースーツに身を包み、艶やかな黒髪と切れ長の瞳を持つ彼女は、誰もが振り返るアジアンビューティー。しかし、その美貌以上に恐れられているのが、自分にも他者にも一切の妥協を許さない完璧主義な仕事ぶりだ。社内では密かに「氷の女帝」と呼ばれている。
「……申し訳ありません。すぐ修正します」
俺、橋本一郎は、身長185センチ、体重80キロオーバーの無駄にがっしりした体を縮こまらせ、深々と頭を下げた。
自分で言うのもなんだが、外見だけならハリウッド俳優のように見えなくもないらしい。だが、中身は筋金入りのお人好しで、他人のフォローばかり引き受けて自分の首を絞める要領の悪い男だ。
李課長の冷徹な視線を背中に浴びながら、俺は自分のデスクに戻り、重いため息をついた。
結局、提案書の修正が終わったのは深夜1時半。
終電はとうの昔になくなっており、俺はタクシーで自宅のアパート近くまで帰ってきた。
「……疲れた」
スーツの上着は会社に置いたまま。ネクタイを外し、シャツの袖を乱暴に捲り上げて、ひんやりとした夜気を深く吸い込む。
激務の連続で、帰宅して自炊する気力など残っていない。実家が定食屋で、昔はスパイスからカレーを仕込むほどの料理好きだった俺だが、今の平日の夕食はもっぱら外食か中食に頼りきりだ。
だが、俺にはこの絶望的な深夜の帰宅路において、唯一の「オアシス」がある。
煌々と光る看板。自動ドアが開く時の無機質な電子音。
深夜のコンビニエンスストアだ。
店内に入ると、深夜特有の静寂と、少し人工的な蛍光灯の光が俺を出迎える。
「限られた予算と既製品という制約の中で、いかに最大のカロリーと幸福感、すなわち『背徳感』を生み出すか」
それが、料理の道を半ば諦めた俺が現在見出している、食に対するクリエイティブな挑戦だった。
まずはホットスナックのケースを確認する。深夜2時という時間帯ゆえ、残っている商品は少ない。フライドチキンが1個、コロッケが2個、そしてアメリカンドッグが1本。
よし、今夜のメインは決まった。
次に俺は、最後のアメリカンドッグに合わせるサイドメニューやアレンジ素材を探すべく、店内をゆっくりと巡回し始めた。
その時だった。
弁当コーナーの前に、奇妙な人影が立ち尽くしているのに気づいた。
毛玉だらけのエンジ色のジャージに、ボサボサに乱れた髪。顔の半分を覆うような分厚い黒縁メガネをかけた女性だった。足元は健康サンダルで、まるで休日に一歩も外に出なかった限界大学生のような出で立ちだ。どうやらその分厚いメガネは度数が全く合っていないらしく、彼女は商品を顔のすぐ近くまで引き寄せて、虚ろな目で睨みつけている。
別に珍しい光景ではない。深夜のコンビニには、様々な事情を抱えた疲れた大人たちが集まるものだ。俺は気にせず、カップ麺コーナーへ向かおうとした。
だが、すれ違いざまに彼女のカゴの中身が見えてしまい、俺は思わず足を止めた。
カゴの中に入っていたのは、「激甘チョコチップメロンパン」と「激辛・獄炎豚骨焼きそば」、そして「特濃のむヨーグルト」。
(……なんだ、あの地獄の狂宴は)
俺の料理人としての、いや、一人の食を愛する人間としての本能が強烈な警鐘を鳴らした。
激甘と激辛を交互に食べるという発想自体は悪くない。だが、チョイスがあまりにも暴力的すぎる。甘ったるいホイップクリームと、舌の痛覚を破壊する獄炎スパイスが胃袋の中で混ざり合い、そこに特濃のヨーグルトが粘り気を与える……想像しただけで胃酸が逆流しそうになった。
彼女はさらに、追い打ちをかけるように真っ赤なパッケージの「激辛スナック菓子」に手を伸ばそうとしている。
ストレスで脳が完全にバグっているとしか思えない。あれはもはや食事ではない、胃腸に対する無差別テロ行為だ。
気づけば、俺の元・料理人としての本能が、持ち前のお節介な性格と結びついて暴走し、見ず知らずの不審なジャージ女に向かって声を発していた。
「……あの、待ってください」
「ひゃっ!?」
彼女は肩をビクッと跳ねさせ、黒縁メガネの奥の目を丸くして俺を見た。
深夜に突然大柄な男に声をかけられれば、誰だって警戒するだろう。俺は慌てて両手を胸の前に上げ、敵意がないことを示した。
上着を着ておらず、ネクタイも外しているため、昼間の『縮こまった営業マン』とは少しシルエットが違って見えたのかもしれない。あるいは、彼女の度が合っていないメガネのせいか、彼女は俺の顔を見ても特に知人だと気づいたような反応を示すことはなかった。
「あ、すみません。怪しい者じゃありません。ただ、その……あなたのカゴの中身を見て、つい」
「私、の……カゴ?」
「はい。お節介かもしれませんが、その組み合わせは、胃腸がパニックを起こす最悪のマリアージュです。もし激務のストレスか何かで、手っ取り早くジャンクな刺激とカロリーを求めているのでしたら、そのチョイスは絶対におすすめしません」
俺が真顔でそう告げると、彼女はぽかんと口を開けた。
よく見ると、すっぴんの肌は透き通るように白く、レンズ越しの瞳は知的な形をしている。だが、今は完全に思考が停止しているのか、「はあ……」と間の抜けた声を出した。
「疲労が限界に達している時、脳は極端な味を求めがちです。しかし、そこを少しだけ理知的にコントロールすることで、深夜のジャンクフードは至高のエンターテインメントへと昇華するんです」
「え、えっと……?」
「もしよろしければ、俺に今夜の夜食をコーディネートさせてもらえませんか? その『獄炎焼きそば』を買うのと同じ値段で、はるかに上質な背徳感をお約束します」
俺の異様な熱弁に気圧されたのか、それともただ単に疲れていて考えるのが面倒になったのか、彼女はコクリと頷き、持っていた激甘メロンパンと激辛焼きそばをそっと棚に戻した。
「……じゃあ、お願いします」
「お任せください。今夜はこれ一択です」
俺は彼女を促してレジへ向かい、店員に最後のアメリカンドッグを注文した。彼女が小銭入れから代金を支払うのを見届けてから、俺は温かい商品を受け取り、イートインスペースへと案内する。彼女もトボトボと後ろをついてきた。
(あ……そういえば俺が食べるつもりだった今夜のメインディッシュ、あっさり譲っちまったな……)
席に向かう途中、ふとその事実に気づいたが、持ち前の損な性分はどうしようもない。まあいい。残っていたコロッケでも後で買えば済む話だ。今は目の前で胃腸を破壊しようとしていた遭難者を救助するのが先決である。
「アメリカンドッグの真髄は、そのシンプルな構造に隠された『完璧な調和』にあります。そして、それを完成させるための儀式がこれです」
俺はレジでもらってきた小袋のパキッテを手に取った。
「多くの人は、これを適当に全体にかけてしまいます。しかし、それは素人のやり方――最高のソース配分は、こうです」
俺はパキッテを真ん中で折り曲げ、アメリカンドッグの先端、最初にかじりつく部分にだけ、ケチャップとマスタードをたっぷりと、分厚く乗せるように絞り出した。赤と黄色の鮮やかなコントラストが、ジャンクな食欲を激しくそそる。
「先端にソースを集中させる。これにより、一口目に圧倒的な『味の暴力』が口内を支配します。ケチャップの強烈な酸味と甘み、マスタードのツンとした辛味が、衣の油と混ざり合う。さあ、冷めないうちに一口目をいってください」
俺の謎の熱量に押され、彼女は両手でアメリカンドッグの串を持ち、先端のソースがたっぷりついた部分にガブリとかじりついた。
サクッ。
深夜の静かなイートインスペースに、小気味良い衣の音が響く。
直後、彼女の目が驚きに見開かれた。
「んっ……!」
「どうですか? サクサクの衣を突破した瞬間、中から熱々のソーセージの皮がパリッと弾ける。そこに溢れ出す肉汁。それを、先ほどの濃厚なソースが迎え撃つ。ジャンクの極みでしょう?」
彼女は無言でコクコクと激しく頷き、夢中の様子でもぐもぐと口を動かしている。
「そして、ここからが第二形態です。二口目以降は、あえてソースを追加せず、そのまま食べてください」
「そのまま……?」
「ええ。一口目の強烈な刺激の後だからこそ、衣そのものの『ほんのりとした甘さ』が際立つんです。アメリカンドッグの生地は、実はホットケーキミックスのように甘い。肉汁のしょっぱさと、生地の優しい甘さのコントラスト。これこそが、最後まで飽きずに食べられる黄金のバランスなんです」
彼女は言われた通りに二口目をかじり、そして――フワッと、顔をほころばせた。
「……美味しい」
それは、普段どれほどの重圧を抱えているのか想像もつかないほど、無防備で、純粋で、子どものような極上の笑顔だった。
毛玉だらけのジャージ姿で、すっぴんの限界OL。だが、その瞬間だけは、どんな着飾った美女よりも魅力的に見えた。
「よかった。胃腸を破壊する前に止められて正解でした」
「……ふふっ。変な人。でも、本当に美味しい。なんだか、すごくホッとしました」
彼女は大事そうにアメリカンドッグを食べ進めながら、小さく笑った。
俺たちはそのまま、お互いの名前も、素性も知らないまま、深夜のコンビニで少しだけ言葉を交わした。仕事がしんどいこと。でも、こうやって美味しいものを食べると少しだけ救われること。
俺にとっては、いつものお人好しとお節介から出た、ほんの気まぐれな行動だった。結局俺の夕食は冷めたコロッケ2個になってしまったが、彼女のあの笑顔が見られたなら、安いものだと思った。
「ごちそうさまでした。……あの、師匠」
「し、師匠?」
「はい、食の師匠。私、本当に食べ物のセンスがなくて……また、美味しい組み合わせ、教えてくれますか?」
彼女の控えめな上目遣いに、俺は思わず苦笑して頷いた。
「ええ。俺がここに来る時間なら、いつでも」
こうして、俺と彼女の奇妙な「深夜の秘密の共有」が始まった。
この時の俺は、完全に無自覚だった。
目の前でケチャップを口の端につけながら無邪気に笑うこのジャージ姿のポンコツ女性が、数時間前まで俺を冷酷に詰めまくっていた、あの「氷の女帝」李雪課長と同一人物であるなどとは、夢にも思っていなかったのだから。




