そらよなの手記
本作は、個人の体験と公的記録をもとに構成された手記形式の文章である。
私は歩いていた。スマホを確認した、今は朝の3時ぐらいだろうか。スマホには12月の表示がされている。このままで行くと神戸空港へは朝の6時には着くだろう。
しかしキャリケースは頑丈なものだ。貝塚市から神戸のポートアイランドまでの約40kmをキャリーケースで引っ張っているが壊れる気配がない。
厳密には途中までは電車があったが、神戸空港まで行く途中の電車で終電となり途中駅にて降ろされたのだ。
ふと神戸空港へ行く途中の人工島で立ち止まった。静かだ、ここまでで静かなのは久しぶりという感覚と解放感、そして不安が入り混じっている。
日中であるならば、神戸空港まではモノレールでアクセスできるのであろう。
しかし朝になると騒ぎになる。そう呟き私は足早に神戸空港を目指した。
私は神戸空港から朝一の那覇行きのチケットを購入し、スーツケースを預け入れると同時に保安検査を通った。一安心である。ここからは警察が来ても安全だろう。
待ち時間もそこそこに飛行機に案内され座席に座る。私が指定したのは飛行機の右窓側の座席であった。そしてウイングレッドを見ながら呟いた。
はぁ…。それが自然と自由への安堵感という確信に気づくと同時にこの判断に間違いがないという確信に繋がったのだ。そう、感覚ではなく確信としての行動を後押しするかのように飛行機が加速する。座席に身体が押し付けられる感覚と解放感から私は離陸中の飛行機の窓からスマホで動画を撮った。
飛行機が離陸する。追手は来ないだろう、これで自由だ。その言葉の重みと本当の自由は自身で判断し行動しなければ守れないという責任の甘さを噛み締めながら私は神戸空港を飛び立った。
那覇に降り立つ。スマホの電源を入れる。まだ私の行動は表層の問題にはなっていないようだ。
12月の那覇は暑かった。神戸空港で着ていたダウンジャケットをスーツケースに仕舞う。
しかし一体私はどこに行けばいいのだ。那覇空港のターミナルを出るとタクシーが止まっていた。しかし私には行く宛がない。何故なら那覇に来た目的は旅行でも観光でもないからだ。
私は重たいキャリーケースを引きずりながら、那覇空港を左側へと横切る。空港を出て暫くすると橋が見えてきた。12月の沖縄はやはり暑い。そう感じながら橋を渡っているとスマホに友人から連絡があった。
どうやら消えた私の場所を知りたいようだ。私は隠す必要はないため答える。「沖縄ですけど。」
友人はこの回答に納得したのか、意図を汲んだのか電話を切る。
スマホで沖縄の地理を調べる。
私は呟く。空港から美ら海水族館まで徒歩で88km。
スマホには水族館までの道順ではGoogle Maps が88kmを表示している。バスだと2時間程度の距離であるが、私には目的地がない。
「行くか…」本日、何度目になるか解らない言葉を呟き重たいスーツケースを引きずりながら徒歩で目的地ではない水族館を目指す。
この選択肢が不正解でないことを確信しながら。
日本の精神科病院の閉鎖病棟とは収容所だろうか。
このことについて心理学者でない私の意見は、日本の精神科は収容所であると答える。何故なら精神科病院が収容所として機能していることは事実だからだ。
時を戻して私が精神科の閉鎖病棟に入った時の話をする。
7月3日の夕刻に私は家族ではない人へ大阪府貝塚市の木島病院という精神科に連れて行かれた。精神科医師でも話せばわかるという感じであったが、実際の精神科病院は異なっていた。
まずは診察である。診察と聞くと問診と投薬があると考えられるが、私の場合では数分で医師から任意入院と強制入院を選べと言われ、私は入院の拒否を選ぼうとしたところ、強制入院を選べば医療保護入院にすると医師から言われた。
診察室の状況としては体感数分である。男性の看護師が2名、主治医となる副院長の西村医師が1名。私の後ろにはJT社員の津村という男がいる。私の主治医の名前は西村という精神保健指定医である。
その後は数分で閉鎖病棟へ直行である。私は暴れたり暴言を吐いたことはない。
しかし、この医師の選択肢になにの違いがあったのだろうか。
なお、私の場合には7月から12月末迄の治療は投薬が0であり、治療は閉鎖病棟での収容のみであった。
その間に私が行ったこととして、心理士による知能検査、各種の心理学的エビデンスのある検査を行い退院請求を出し続けた。
私の閉鎖病棟からの最終的な退院ルートは割愛する。理由は関係者への影響である。
私の退院請求を行った方法を記載すると、まずは入院の主訴である知的障害の除外、弁護士を使っての退院請求、普通に精神科閉鎖病棟に勤務する医療機関の看護師への退院請求である。
では精神科の閉鎖病棟に入院するのはそもそも間違いかという問いが表れる。誤解がないように言うと、精神科に通院はしても入院はするなと断言してもよい。
理由は複数あるがメリットも挙げる。まずは精神科の閉鎖病棟に入院している場合だが提携司法書士に障害年金の依頼を行う際には、ほぼ確実に障害年金が受給できる。
障害年金が降りた場合には司法書士に患者が年金を得た額により、成功報酬として数百万円を司法書士へ支払う必要がある。賛否が別れるのを承知で考えると閉鎖病棟での入院について、これは患者にも利点と言える。
ではデメリットはあるのか?という疑問点も出るであろう。
閉鎖病棟最大のデメリットは入院期間中の患者が無事では済まないと言う点である。精神科の閉鎖病棟に入院してる人は問題がある人が多数であり、殺人犯や放火犯、反社、男女が区切られていないなどがあり、また夜間は看護師が少ない。つまり、殺人犯や反社と繋がるルートを病院のシステムが許容していることが問題である。
私の短い精神科での入院期間中でも、同病棟内での死亡事故が行われた。
もし仮に患者として精神科に入院する場合、生き残る手段の一つとしては看護師への媚びを行うべきである。
精神科の閉鎖病棟から退院する場合には、正式に退院したいと言えばいい。
これは任意入院でも医療保護でもその他の強制入院でも同様である。
退院を拒否された場合に次に行う方法としては主訴の欄を潰せば退院できると考えられる。
主訴と言うには患者の困っていることだが、知的障害を理由に閉鎖病棟への入院はあまり好ましくない。
つまり私は心理師のアセスメントで知的障害とパーソナリティ障害関連は潰せると考えた。
しかし結果はテストでの知能指数検査で高得点を出したとしても閉鎖病棟からの退院は拒否された。
精神科の閉鎖病棟からの退院方法はいくつもある。今度は弁護士を使っての退院請求ルートである。しかし弁護士を使っての退院請求ルートは私が任意入院であるため封じられていた。よくできているものである。
私は医師に退院をしたいと伝えたが退院を拒否された。理由はKYだからとのこと。私はKYとは?と聞くと医師は「空気読めないのKY」とのこと。
この時点で季節は9月から11月であり、私は大学の留年と学費を自身で支払っていたために困窮をした。
話は変わるが自動車の運転免許証である。私の運転免許証については知的障害を理由に精神科医師の意見書から返納扱いとなった。
光明池運転免許センターへ連れて行かれた私は運転免許証の取り消しを言い渡され反論した。しかし、免許センターの職員は医師の意見書に記載の知的障害がなくなれば復活すると言い、免許センターの職員からこのままでは帰されないと言われ、知的障害ではないのであれば免許は復活するとの言葉を信用して、免許を一時停止処分とした。
しかし後にわかったことだが、私の運転免許は返納扱いとなっており免許は復活はしなかった。
時を12月に戻そう。
私は空港から那覇市内まで歩き格安のドミトリーに入った。
まずはドミトリーで重たいスーツケースを開ける。パスポートと財布、スマホ…PC、あとは着替えがあるぐらいだ。
財布を開ける。クレジットカード数枚に各種キャッシュカード、キャッシュカードは証券会社にも紐付いている。貯蓄は大学に行きながらでも数年間は凌げるであろう。
でも大学近くの家を借りるのか。ふとぼやきが出る。
しかし財布の奥、そこには公安委員会発行の運転免許証返納証があった。
知的障害じゃないと診断されたら免許は復活するだろう。免許センターでは医師の診断書を提出すれば免許は復活すると聞かされたからだ。
ドミトリーに併設されている洗濯機に着ていた服をコインランドリーへ入れて、着替えを買いに外を歩き考えた。
これが自由か…国際通りを歩きながら私は閉鎖病棟という異常性を思い出した。
後のカルテ開示から木島病院は警察に届けるべきか、私の行動は夕方迄「消えたこと」すら不明であったようだ。
そして、またスマホが鳴る。おそらく親から「どこにいる?」と聞かれるであろう。答えは「那覇。」それを答えても無意味であると私はそっとスマホを仕舞う。
そして呟く「んぁ、ドコって那覇っすよー…?」聞かれてもいない問いに普段の口調で答える。
「那覇かー…。」
二度目は力無く呟き、そして溜め息が出る「はぁ…」
私はお金で解決できる問題と解決できない自由を考えながら国際通りを歩く。




