僕らには、まだ名前がない。
からっぽな少年と、からっぽになれないお姉さんの話。
命と愛の話。
結構前に書いたものを、ほとんど改稿せず載せております。
粗が多い作品ですが楽しんでいただけますと幸いです。
誤字脱字はご愛嬌。目を瞑ってください。
月明かりの下。寂れた町の路地裏、明かりもない袋小路。
僕はそこに佇む、一つの影であった。
それからもうひとつ、ついさっきまでは人間だった、50kgと少しの重さをした物体。今はまだほんのりと温もりを保ち、けれどもう動かない。
つまり、その物体は人間で──『元』人間で、死んでしまった以上生物としての機能は成さないのだ。
喉を横から突き抜けた、刃渡りの長いナイフを引き抜く。
それは最後の人間らしさを見せつけるかのように、傷口と顔面についた口、二箇所から鮮血を漏らした。血の通った、一個体のヒューマンであることを証明していた。
つい癖のように観察してしまうけれど、本来はこの一瞬、一秒も無駄なのだ。
慣れたものかのように手際よく、ことが進んでいく。実際は初めてだけれど、アドレナリンだかドーパミンだかの効果で気分がやけに高揚していた。身体が軽くて、己のものではないかのように動く。
やっちゃったもんは仕方ないし──もうどうにもならない。僕はひたすら、その行為を隠蔽するために動く。
ブルーシートを敷いて正解だった。裏山に埋めよう。どうせ誰も自分に興味なんてない。帰ったらすぐに洗濯機を回す。それから──。
ただ、淡々と。
そもそもあいつが嘲笑うのが、物を隠して、水をかけて、暴力を振るうのが悪かったのだ。なんて言い訳もするつもりがない。捕まるつもりがない。
この人生だって割とどうでもいいけれど、その『割と』が本気でどうでもよくなるその瞬間まで、自由を捨てることはしたくなかった。
自由と幸せは隣り合わせなのだ。
自由イコール幸せだと言ってもいい。
厚い雲が時間に合わせて流れ、中途半端に満月に近づいたその明かりが隙間からのぞいた。それもただ、手元が少し見えやすくなっただけにすぎない。
それならばなぜ、自由があってその上、僕はどうしようもなく不幸だったのだろうか。
ブルーシートで包んだ死体をボストンバッグに詰め、ようやく立ち上がる。
最後に軽く振り向いたのは、ただの心配性にすぎなかった。流れ作業で、軽く背後を確認した。
見上げるほどの人影。
縦にも横にも大きい。そもそも人間なのかと疑いたくなってしまうような。
見間違いかと瞬きをして、まぁそれは無意味であった。変わらず動かない人影を目を合わせようとして、月明かりの逆光で顔が見えないことに気がつく。
どうせ逃げたってボロを出すだろう。僕はただの高校生なのだ。
殺してしまっただけで。
結果的に殺すことになってしまっただけで。
人間ひとり殺したからといって急に凶悪な殺人鬼にはなれないし、ましてや精神の根本なぞはミリも変わらない。
僕はまだ、ルーキーなのだ。あるいはラッキーと言うべきなのかもしれない。この頃の僕はまだあらゆる面で初心者であり、そしてものすごく幸運であったことを知るのは、もう少し先になるらしい。
ひとまず、降伏を示すために両手を挙げた。
***
「そこにサインしろ。次は指紋の登録だ」
先ほどまでナイフを握っていた左の手は、今度はごく普通のボールペンを握っていた。
僕は左利きだ。ごく幼い頃、母親が矯正を試みたらしいが、それがうまくいかなかったのは僕が一番よくわかっている。
一般的に左利きは天才だとか言われるけれど、そんなものは所詮、血液型占いや星座占いの延長線に過ぎないだろう。当てはまるひともいれば、そうでないひともいる。世の中の全ての『占い』と付くものは、ひとつ残らずそう言えるはずだ。
字を右手で書こうが左手で書こうが、結果完成するものは変わらないのだから、どっちだっていいと思うのだけれど。
「紬──か。いい名前だ」
僕は自分の名前をいいものだと思ったことがない。
女みたいだと散々馬鹿にされてきた一因であるし、そもそも名前としてもあまりいいものではないだろう。
結局『関係の糸を広く深く紡げるひとになってほしい』というそれっぽい理由を語り聞かせられてはいたが、父親が言うには、これは母親がなりたかった名前なんだとか。
彼女が何を思って、男の僕に己の欲しかった名前を託したのかは知らない。そもそも、名前なんてただの識別のための記号に過ぎないのに。
いっそ、生年月日にその日生まれた順番、とかの番号で分類してくれればいい。
二〇〇八年六月十九日の十五番目に生まれたなら、二〇〇八〇六一九〇〇一五。見にくい字面だが、今の制度よりは幾分わかりやすいだろう。それに、昨今世間で活発に議論されている、キラキラだかしわしわだかの問題もなくなる。
僕がこの話をしたかつての友達は、とても困った顔をしていた。
そいつは、自分の名前が好きだと言っていた。
それだって人それぞれである。そんなところにぐちぐちと屁理屈を述べるつもりはない。しかし、合理的に見れば僕の意見はそれほど悪くないだろう。
「……書き終えました」
「そう、睨むような目つきをするな。我らは今日この日から、同胞となるのだから」
このひとは、よくわからない。
ゴテゴテとしたよくわからない仮面で表情は見えず、マントのような衣服を纏っているので体型すら明らかでなく、唯一与えられた情報である声すら、数秒経てばどんな声かだったかを忘れてしまいそうだ。
全く特徴がないのだ。
人間ではない可能性も、視野に入れておくべきかもしれないと思った。
「同胞、ですか」
兄弟姉妹、もしくは同じ国民であることを意味する言葉だった気がする。しかし大人に対して野暮な指摘をするものではないし、その組織がひとつの国である可能性だってゼロではない。ありえないとは思うが。
大人は僕よりも強いから、逆らわない。
後から気がついたが、これは比喩だったのだろう。僕はあまり小説を読まないほうだ。
「ああ。我が組織へようこそ、ツムギ」
このひとが今ここから忽然と消えてしまっても、僕は何も疑問に思わないのだろうなと感じた。
黒い蜃気楼のようなひとだ。
***
ここはどこなのだろう。
ひたすら無機質で長い廊下、廊下、廊下。SF映画にでも出てきそうな感じだ。
僕は、これといってSF映画を見たことがないが。
せいぜい、かの有名な『スター・ウォーズ』を知っているくらい。それも世間一般最低限の知識だけで、光る剣で戦うことはかろうじてわかるくらいだ。
「お前に教育係をつける。彼女の言うことは、基本的に聞くように」
そうだ、このひとに感じていた既視感は『スター・ウォーズ』の敵キャラか。あの真っ黒なやつだ。名前は知らない。
似ているかどうかすらも、僕の記憶だけでは危ういが。
——彼女、と言ったか。
僕はあまり、生物学上女性として分類されている人間にはいい思い出がない。
「ナナ、入るぞ」
これまたSFにありそうな感じに、ドアが横開きした。ここが、僕の『教育係』となるひとの住む場所、あるいは仕事部屋か何からしい。
そこはひと言で表せば、何もなかった。
何もないように見えた。
否、そう見えるほどに部屋が暗かったのである。月のない夜、あるいは窓のない倉庫。目が慣れるまで、幾分か時間を要した。
が、完全に僕が適応する前に、部屋の照明が点灯する。
反射的に目を瞑った。また慣れるまで少し時間をかけて、いつも通り使えるようになった眼で隣を見ると、横にいたはずの彼がいつの間にか部屋に這入っている。プライバシーとかはないのだろうか。
意外と広々とした空間だ。一通り見回してみると、雑多に散らばった書類や塵の中で、一際目立つ色があった。
金である。明るい、金髪。
「——起きろ」
金髪の女性——確かナナと呼ばれた——を、彼は軽く小突く。一体どんな仲なのだろうか。邪推するほどの情報も、そんな権利も、そもそも追求したっていいことは何もないが。
「あ〜? まだ始業時間じゃ……ん?」
ダウナーというかハスキーというか、そんな感じの声だった。芸能人にいそうな感じなのに、これといって「このひとに似ている」とは言い難い感じだ。
こういうのを、オーラがあると言うのだろうか。
僕はどちらかと言えばそれがないほうだろう。他人を殺したからといって、漫画やアニメのように悪人面になるわけでもあるまい。ごく普通の、おとなしめの男子高校生だ。
「お前、新入りか?」
そう、訊かれた。
おそらくその認識で合っているのだろう。このサイエンスフィクション的施設に足を踏み入れたのも、このひとに会ったのもこれが初めてだ。
「……無視とは、いい度胸だな」
先ほどからずっと隣にいる彼が答えてくれるのかと思っていたが、どうやら違うらしい。そうならそうとさっさと言って欲しかった。僕は察するのとか、空気を読むのは苦手だ。
「神原、紬です。初めまして」
「ふぅん……今日来るなんて聞いてないが、よろしくな」
彼女は手のひらを差し出してきた。
なぜだろうか。何か僕に見せたいものがあるか、もしくは何か試しているのか。それとも先輩だから金を寄越せと言っているのだろうか。生憎僕は、着の身着のままやって来てしまったので現金の手持ちは全くない。
そもそも原始的なカツアゲにしても、言葉が全くなしというのはどうなのだろうか。せめて人間として最低限のコミュニケーションくらいは、子供相手なのだから取って欲しいと思う。
「すみません、今は手持ちが」
精一杯考えて、穏便に済ませるための返事をした。
「何の話だよ!?」
「? ですから、カツアゲはちょっと」
「誰がカツアゲしたって? あ?」
しかし怒らせてしまったらしい。
昔っから僕は、こういう言葉選びが苦手だ。空気が読めないとよく言われる。空気みたいなくせに、一丁前に空気を掻き乱すんだねと。
「握手だよ握手! 知らんのか! お前は野蛮人か宇宙人かアホのうちどれだ!?」
「僕は人間ですから、その中だとアホかと」
空気は吸うものであって吐くものであり、読むものでは全くない。『空気を読む』なんて言葉を作ったのは、一体誰なのだろうか。
確かに、本当に空気が読めるのなら素晴らしいと思うが。火事の時とか死なずに済みそうで。こう、一酸化炭素がどこに溜まっているかとかが読めるなら、とても消防士に向いているはずだ。
「……ったく。で、ボス? こいつ、本当に入れるのか?」
彼女は椅子をくるりと回し、伸ばした足を組みなおす。
その表情は全く見えないが、別に僕らの茶番に怒っているわけではなさそうだった。
むしろ父親が姉弟を見守るような視線で——当事者がそれを言うのもおかしなことかと思うが——優しい雰囲気を醸し出していた。
だからと言って、すぐに信用することもしない。
「ああ。——この子は、お前と境遇が似ている」
「へぇ……」
初対面の、顔も何も知らない相手にわかったような顔される境遇はもち合わせていないはずだが、黙っておいた。今から無駄にピリピリしたって仕方ない。
僕を上から下までじっくりと、品定めするように眺められる。
「了解。じゃ、一から百まで叩き込んでやるよ」
ひととおりそれを終えると彼女は気だるげに立ち上がり、小さくあくびをしながら伸びた。それからストレッチのように身体を動かす。
「頼んだぞ、コードネーム『名無しのナナ』」
どうやら、彼女のそれは本名ではなく、コードネームというやつらしい。
身に纏っているのはスーツである。パンツスタイルではなく、太ももを見せるほどの丈のスカート。サイズを間違えたのかと思うくらいの短さ。上着は袖を通さず羽織るだけ。何かのキャラクターみたいな着こなしだ。
「どーこ見てんだ、少年♪」
わざとらしく顔を寄せて、彼女はそう言った。
「別にどこも」
「なんだ、つまんねー奴だな。たいていの男は、こう言えば真っ赤になるっていうのに。性欲とかないのか? お前」
もとより、そのような欲求は少ないほうである。
睡眠は三時間でこと足りるし、エネルギーも必要以上に取るのは好まない。存在が希薄なら、欲すらも薄っぺらい人間なのだ、僕は。
「まーいいよ。そのほうが向いてるからな、この仕事は」
そういえば、さっきからあのひとは『契約』『同胞になる』『教育係』とか言っていたけれど、実際何をさせられるかは全く教えられていないのだ。
にもかかわらず、僕はおとなしく話を呑んでしまった。……もしかすると、あれはものすごく危険な人間だったのかもしれない。例えば、こちらが無意識のうちに、言うことをなんでも聞かせてしまう力とか。
まるっきりフィクションみたいな話だけれど、しかし僕の物語には、あのナイフを彼女に突き刺したそのときから、すでにリアリティなんてミリも残っていない。
冗談みたいな人生だ。
駄作と烙印を押されているライトノベルに、よくありそうな展開の。
「……僕がするのは、なんの仕事なんですか」
今度こそは言葉をきちんと吟味してそう口に出したものの、しばらくは彼女から返事が返ってこなかった。
「あのひと、まーた重要なこと言ってねえのかよ」
そう、ため息混じりに毒を吐いて。
「いいか、今からお前がするのは殺しだ。殺し屋だ。お客から依頼を受け、その通りに生きている人間を殺す。尻尾巻いて逃げ出すなら今のうちだ。手を汚してからじゃ、いくら足洗ったってもう遅いんだぜ?」
***
「さて、周りのお友達より一足早い就職おめでとう。ちなみに中卒の子達のことは考えていない。高校くらいは通っとけばよかったと思ってるからな、あたしですら」
『ボス』と別れてからついさっきまで、彼女の言動にいちいち突っ込んだり指摘したりしていたら口が疲れた。僕は、普段あまり喋る人種ではないから。
「初仕事に挑むにあたって、挨拶をしてもらわなくちゃいけない奴がいる。はっきり言ってお前との相性はあまり……いや、だいぶ、極限と言っていいほど良くないとは思うが。ま、仕事のためだ」
当たり障りなく話をするのは得意なつもりだ。しかし、今まで散々空気が読めないだの何だの言ってきたからか、いや口に出してはいないが、もうこの言葉に信憑性は全くないだろう。
しかし、ある程度どんな人とでも話せると思う。相手に言語能力さえあれば。それは当たり前だと言われるかもしれないが、なんだかんだ言って難しいのではないかと思うのは、僕のコミュニケーション能力に問題があるのだろうか。そう言われても納得するしかない。
そんな心意気は、彼もしくは彼女と対峙した瞬間、散り散りと言っていいほどに消え失せた。
「なんだガキじゃねーか。お遊びなら帰れ! 俺はな、自分より年下のやつと仕事はしない主義なんだよ」
それが第一声だったからだ。
普通、初対面というのは自己紹介とか、挨拶とか、そういうのが必要なものではないのだろうか。今耳にした言葉のどこかにそのような意味の言葉が紛れているのではないかとも考えたが、しかし僕の頭脳が行き届く範囲ではそれも見つからない。つまり、正真正銘の暴言を、はじめましての状態で吐かれたというわけである。
「あー……こいつはシャルボン。ちょっとばかし生意気で性格に難がある奴だが、仲良くはせず仕事相手として接してやってくれ」
というか、このひとは僕よりも小柄なのもあって、年下にしか見えないのだが。あまり身長で人を判断するものではないが、それでも顔立ちから幼く見える。よく言えば、世間一般から見て可愛らしい部類だ。
「情報屋だからな。嫌でもこれから関わることになる」
そのうえ、服の上から見ても華奢な身体。白く細い指。
ジロジロと見回す僕を不審に思ったのか、睨むような目つきと目が合う。
「……もしかして、女の子ですか?」
僕はそう推理した。
直後、確実に空気を凍らせてしまったと自覚し、余計なことを言うのではなかったと思った。
「……うん……いや、そうだと言えば嘘になるが、違うと言っても嘘になるな。代わりにあたしが答えるが、コイツは男でも女でもない。この仕事を始めるとき、邪魔になると思ったから性別を捨てたんだと。まぁ、代名詞にするなら『彼』でも『彼女』でも、あるいは『それ』でもいいよ」
「よかねーよ、俺は物か。——どちらかといえば、男として接してくれるほうがありがたい」
彼——結局混乱を防ぐためにそう呼ぶことにした——は、白髪を揺らしてこちらを睨んだ。そう、彼の髪は白い。人工的な白。雪というよりは、塗料と比喩するほうが納得いく。
「ま、よろしくな。新入り」
そう言いつつも、彼はノートパソコンの画面から目を離さない。新入りのひとりやふたりには特に思うところのない、所謂ベテランなのだろう。
「よろしくお願いします」
横で何かの端末を操作していたナナさんは、用事を終えたのかそれをしまい、もう一度僕らに向き直る。
彼——これからはシャルボンさんと呼ぶことにする——はそれに特に反応もせず、カタカタとキーボードを打っていた。僕のいる位置からは、彼が何をしているのかは見えない。
「ま、先輩として、なんかためになるアドバイスでもしてやれよ。『年上』なんだろ?」
手持ち無沙汰になった彼女は、シャルボンさんに絡み始めた。出会ったばかりだが、それがあまりいいことではないのは僕にも理解できる。御愁傷様と思うことしか、空気同然に佇んでいる僕にはできないが。
「わかったから黙れ。ひよっこの新入りに、基本の『き』を教えてやるよ。——いいか、人間とは1割の理性と9割のカタルシスだ。覚えておけ」
手元のそれを無造作に折りたたみ、彼はこちらを見た。
「……人間の体は、60%程度が水分で構成されていると聞いたことがありますが」
何を言いたいのかはわかる。つまり、人間はその他の動物と比較されるほど理性的な生き物ではないということだろう。が、わかったようなことを言ってまた彼の気に障ってもいけない。そう考えて無難な返答をした。我ながら、いい返事ができたと思う。
「そういう話じゃねえよバカ」
ダメだったらしい。
舌打ちしつつひとしきり大きな声を出した彼は、せっかくカッコつけてやったのに、と小声で呟く。
性格に難があるのは、僕と彼のどちらなのだろうか。
「こら、あんまり吠えるんじゃない。弱く見えるぞ?」
いつの間に煙草を取り出したのか。静かに煙を吹かしつつ、興味なさそうに聞いていた彼女はにやりと笑った。
「うっせババア」
「お前な……」
キレたりキレ返したりの応酬ばかりである。やはり、こういう組織だと皆血気盛んなものなのだろうか。だとすれば、僕は相当馴染めていないのだろう。
いや、だからこそツッコミに徹するべきなのだろうか。
「ナナさんは20代でしょう。シャルボンさんから見ても、まだババアと呼ばれるような年ではないかと」
そうしてツッコんだ。
「なんでやねん」とどちらにするか迷った末、そう指摘することを選んだ。……どうやら、空気の改善にはつながらなかったようだが。
「はいはい、ありがとなツムギ。けどな、あんまりそういう感じで正論マシーンやってると、いろんな方面から恨み買うぞ?」
『正論マシーン』。今まで何度か「AIかアンドロイドみたい」と言われることはあったが、しかしmachineとまで言われることになるとは思わなかった。なぜなら、僕は正真正銘地の通った人間だからである。
「そうですか?」
人間を機械に比喩するのは貶しと同様ではないかと思うこともあったが、AIも進化している時代だ。これからは褒め言葉に転換していくのかもしれない。その中で、今この時代を生きている僕らは多少なりとも時代においていかれ、老人になっていくのだろう。
嫌なことである。それこそ機械みたいだと言われる僕でも、年老いるのは嫌なのだ。
「そうなんだよ。先輩の言うことはとりあえずなんでも聞いとけ」
自分が言ったアドバイスを適当にあしらわれたのが相当嫌だったのか、シャルボンさんはわざとらしくため息をついて立ち上がった。
「じゃ、俺はここで」
彼は猫のようだ、と僕は思う。雑種の白い野良猫。逞しく生きているのにそのうえわがままで、怒りっぽくて可愛らしい。そんな子なのだ。口に出したら、また怒られてしまいそうだけれど。
「……言っとくけど、そんな遠慮しなくていいから。どうせコードネームだし、呼び捨てにしろ」
振り返りざまに、吐き捨てるようにそう告げた。というか実際吐き捨てたのだろう。どうでもいいという気持ちで。けれど、ほんの一瞬だけ見えた横顔に照れ隠しのような赤みが差していた気がして、どう返せばいいのか迷ってしまった。
今まで意図的に、話さずにいた性別。避けていた性別。そんな概念すら取っ払ってしまった彼は、なんだか憎めない。
「一応言っとくと、あれ、アイツなりに心許してくれたってことだから」
その背中が見えなくなったのを確認してから、ナナさんが呆れたため息混じりにそう解説する。
なんだかこれは『いつものこと』のようだった。
「そうは見えませんでした」
「アイツはわかりやすくツンデレだよ。ほら——ボスとかは、感情の変化が読み取れないだろ? あの感じと比べりゃ一目瞭然だ」
そうらしい。感情の起伏が全くないのと性格の違いとはまた別物だとは思うが、まぁそれ抜きにしてもシャルボンはわかりやすいひとなのだろう。
急に怒ったかと思えば嬉しそうにしたり、あるいは頬を赤らめたり、よくわからない情報屋さんだ。この業界にいると、情緒が不安定になるものなのだろうか。ナナさんも、突然よくわからないノリになることがあって困るし。
「あとアイツ、お前と同い年だから。誕生日は一ヶ月早いから年上だ〜って言い張ってるけどな」
なぜ僕の誕生日を? ともかく、情報屋としての手腕は信用できるようだ。
それから、僕は「仕事に向けて特訓する」と言う彼女に付いて行き、殺し屋の仕事に必要なノウハウを手取り足取り教えてもらうことになった。
***
そんな生活が続いた、数日後。
殺しの技術をみっちり教え込まれた僕は、今から任務に派遣されるところである。
「おはよう、ツムギ」
「おはようございます」
当たり前かもしれないが、挨拶とかそういう習慣は、殺しの世界でも無くなるわけではないらしい。
「あたしたちが殺すのは依頼された時だけで、自分の人間性まで殺す必要がない」と彼女は言っていた。確かにその通りである。しかし、創作物上のイメージだと、殺し屋は目も心も死んでいる感じが定番だ。所詮はフィクションか、と拍子抜けした。
「ツムギ」
「どうかしましたか?」
不意に彼女がこちらを見据える。
「お前は今から、何のために殺しをする?」
間髪入れず、そんな問いを投げかけられた。まるで、一刻も早く答えが欲しいかのように。
しかし、そんな彼女の心の内をいくら考察したって仕方ない。相手が何を考えているかなんて、考えるだけ無駄だ。当たるわけがないし、当たったところで何になるのだ。
「依頼されたから、です」
僕にとっては、それ以上でも以下でもない。本当のことだ。
もう戻れないのだから、ここでやっていく。ただそれだけのこと。……後悔しているとは言わないが、元の生活に戻れるのなら、喜んでそうするだろう。
生き抜くためには、働かなければならない。それはシャルボンも教えてくれた。
誰もが、少なからず役割を持っていなければこの世界では生きていけない。『仕事』という役割。『親』という役割。『可愛い』という役割。『優しい』という役割。全人類がそうやって地球を回していく。そこで何の役割も獲得できなければ、やがて孤立していくというものだ。
ナナさんは返事をしない。だが満足はしたのか、それ以上何も言うことはなかった。
「よお、ツムギ。ついでにナナも」
そんな空気を壊した、廊下の角から現れた影は、もちろん情報屋の彼である。
相変わらず神出鬼没だ。
「ついでにってなんだ。あたしがお前よりいくつ年上かわかってんのか?」
「……二十くらい」
「違うわアホ。その半分以下だよ」
もう日常茶飯事のことになってきた漫才をふたりは終え、ナナさんは大きくため息をつく。
「まぁいい。ツムギ、これからお前にとって、事実上の初任務だ」
彼女と目が合う。空気が変わるのが——いや、動かされるのが肌でわかった。真面目モード、という感じである。
今思ったことなのだが、つくづく『気』とは便利な言葉だ。気に障る、気が利く、気が触れる。そして空気。こう、この漢字を使うだけでなんだかマイルドな表現を使った気に——こんなところにも『気』の字が——なるのだ。一体誰が、人間の感情や思うところをこの字で表現しようと決めたのだろうか。そんな風味をさせているが、風味ということは人間の感情イコール気、ではなく。つまり、この言葉を使うとき、僕らは己の気持ちを誤魔化しているということだ。
「こいつ、まだ任務行ってなかったのか。すでにある程度は経験済みかと思ってたんだが」
考え込む僕を横目に、シャルボンはそう言う。初めて会った日からずいぶん時間が経っているのだから、そう思われていてもなんら不思議ではない。
「で、ターゲットはある小企業の社長。依頼者はその会社の社員だ」
ナナさんはシャルボンの疑問に反応せず、そう続ける。
働いたことのない僕は、果たして会社というのがどんな場所なのかというのを知識でしか知らないが、その社長は、相当社員たちに恨まれているのだろう。
「複数人が依頼を?」
「いや、そのうちのひとりってだけだよ。人は群れれば群れるほど、安定性を欠く。大人数でこんな依頼はしないだろうな。そもそも、数があるなら自分らで殺りゃあいい」
殺る。今から僕は、他人に何かを託される。殺しという仕事を。
ともあれ、私怨かそうでないかは知らないが、大金を使ってまでここに依頼するということは、それほど殺したい相手なのだろう。
僕のように。
ならばきっちり殺し切るのが僕の役目で、仕事だ。
「で、そいつは今日、ゴルフに行く予定がある。移動手段は自家用車。駐車場はカメラがなく森に囲まれている。そこを上手く狙え。今言ったこと以外は、ここにまとめてあるから目を通せ」
シャルボンが、淡々と情報を並べる。一通り脳にインプットできたことを示すために、僕は彼の目を見て頷く。すぐに逸らされてしまったものの、それは彼なりの返事のようだった。
僕が、僕の手で、他人を殺す。それも他人のために。
あまり実感が湧かない。
「……ナナ? 黙ってどうしたんだよ」
「いや、なんでもない。ちなみに今回の任務には、私たちも同行する」
一瞬、彼女は遠くを見ていたように見えた。気のせいか否かは、もうわからないが。
「『たち』? 俺もか?」
「ボスの命令だ。大人しくついてこい」
彼女のヒールが、コツコツと音を立てる。その度、空気が引き締まった。
***
それからはあっという間である。
「あっ」と言う隙すら、なかったほどである。
銃弾は三発。その自動拳銃の安全装置を外して打ち込むまでの時間でできることといえば、せいぜい一度か二度の瞬きくらいだろう。
はじめに声を出したのは、シャルボンだった。
「は?」
目の前で起こったことを信じられない、というふうに、上擦った声で。
「お前……今の一瞬で殺したのか? 多分あいつ、お前の姿も見えてないぜ。死角、確実に殺せる呼吸と脈の瞬間、精神的な隙、全部読んであの速度か? ありえない……いや、実際見せられちゃ仕方ないか。ツムギ、お前には殺しのセンスがある。もしお前が、お前と同じような気持ちを抱いてるやつを救ってやりたいと思うなら、絶対この仕事で食っていったほうがいい。勧めるどころか、俺から頼みたいくらいだ」
僕の手を握り(もっとも、言い終えた直後に振り解くように離されてしまったが)捲し立てるようにそう言う。その内容の半分以上を僕は聞き流してしまったけれど、とにかく褒められるくらいには上手く殺せたらしい。
失敗ではなかったことに、ほんの少し安堵した。
「羨ましいよ。俺は体力もセンスもなかったから、こうして裏方に徹してるんだからな」
彼は寂しそうに笑った。そんな顔を見るのは最初で最後、けれど一生ものであった。
ナナさんが何も言わないことに、気づいているにも関わらずいないフリをしたのが失敗であったことを、僕はまだ知らない。知るのは、もっと後。残念ながら未来の話になるだろう。
拳銃を手にしていた手のひらを、何度か開いたり閉じたりしてみる。そこにねっとりとまとわりつくような後悔は、命の重さは、確実に前回よりも軽くなっていた。自分で生命を奪ったあとのあの鬱々しい感情が、薄れている。
それがどれだけ重いことであるか、それすらも僕は知らない。頭が良さそうなフリしたって、無知なものは無知だ。そんなことは知っている。無知の知、である。勉強が得意な風味のおとなしい子でいることで、今までそれなりに得をしてきたけれど、それでも知っているのは知っていることだけ、である。
その夜はぐっすりと眠れた。
***
もう、満月が高く昇るころ。
あたしは奴に話があった。
「シャルボン」
「……なんだよ、ツムギのことか?」
今日の仕事。あたしは単に付き添いだった。いや、それもずっと先延ばしにしてきて——ようやく今日だったのだけれど。
あたしはツムギに他人を殺させたくなかった。
アイツが望んでやったのならともかく、こんな組織で、顔も名前も知らない相手のために。そんな理由で、幼い子に人間の命を奪わせた。十五の頃からもう十年間、こんな汚れ仕事をしているあたしならまだしも、無垢で何も知らない少年が。
「ツムギはまだ戻れる」
むしろ、戻る道があるほど外れてすらいない。
あの子はまだ、自分がいるべき道すら知らないのだ。
「ついにとち狂ったか? いーや、あいつはもう『こっち側』だね。殺しに躊躇がなかった。同じ人間を、生きているものを殺すことに対する覚悟がなかった。もちろん、いい意味でな」
シャルボンは、アイツの殺しに惚れていた。単刀直入に言うならそうだ。奴を世話してやるつもりで、暴走するなら止めてやろうという気でいたはずなのに。ミイラ取りが魅入られて、どうする。
だからこそ——
「だからこそだよ。いいか? ツムギはまだ子供だ。その中でも、自分についてまだ何も知らない、自我のない、幼い子だ。自分がどんな道を歩いているのか、理解していない。道を外れていることにすら気がついていない。だからこそ戻れるんだよ。こんな汚れ仕事をするのは、あたしみたいな奴だけでいい。いつかアイツが自分の才能に気づいたら——『誰にも負けない殺しのセンスを持っている』と知ったら、どうなると思う? 答えを待たずに言うが、そりゃあ世界中の人間の首が、なりふり構わず飛んでくぜ」
「長々しく喋んなよ、字面的にみにくいだろ? お前の顔面みたいにな」
お前はいつからそんなに偉くなったんだ、と言いたい。
「……俺らの仕事を、馬鹿にしたか?」
「バカにしちゃいねぇよ」
本気でバカにしてなんかいない。
ただ、ツムギに向いている仕事じゃあない。それだけだ。
アイツは、依頼されさえすれば誰だって殺すだろう。終いにゃ、誰々が嫌いだ〜なんて話題を聞いただけで、ソイツを殺しちまうかもしれない。あり得る未来なのだ、それが。
「それにテメェだってやりたくてやってるわけじゃねえんだろ、あ?」
お前の生い立ちを、あたしが知らないとでも思ったか。
コードネーム『シャルボン』。どこかの言語で『炭』らしい。あたしは、コイツがただ燃え尽きるだけの炭っころになる前、一度だけ話したことがある。もう三年も前のことだ。
無垢な少女だったあの子も、今じゃこんなふうになって。
「ツムギを大量殺戮兵器にしちゃいけない。あの子は人間だ」
あくまで、あたしの主張はこれだけである。
この組織の仕組みがダメだとか、殺しをやめるべきだとか、そんなことを言っているわけではない。
「あいつはもう二人も殺したんだ。そんな人間が普通の世界でやっていけるか?」
「たった二人、されど二人……あたしが今まで殺した数百人に比べちゃ、たったの『た』の字もない人数だ」
命の重さがどうであれ。
あたしが見ているのはツムギだけだ。この世界丸ごと救ってやろうだなんて、大層で無謀なことは考えちゃいない。
「相対で見るなよ。俺もこの業界に肩まで浸かったが、善悪の区別くらいはつくぜ? お前はそれすらも見境無くなったのかよ、『名無しのナナ』」
生意気小僧は相変わらず舌が回るようだ。今回ばかりはコイツが言っていることも間違ってはいないけれど、それはそれ、これはこれ。あたしにとっちゃ知ったことじゃあない。
「そんなにツムギが好きか?」
そうかもな。だとして何が悪い?
「その言葉、そっくりそのまま返しておくよ。『シャルボン』」
***
ツムギは眠っている。
それもそのはず。あたしが睡眠薬を飲ませたからだ。
これから何が起こるかなんて知らない、ムカつくくらい安らかな表情で目を閉じている。その頬に一度だけ触れてみて、すぐに手を離した。
もう、これ以上情をかけてやれない。
「おい、運べ」
部下を呼んで、車にツムギを運び込む。もちろん、傷ひとつつけないよう丁寧に。
十年この仕事を続けてきたあたしが、どんな形であろうと組織を裏切る。その重さは、自分できちんと理解できているつもりだ。最悪クビだ。文字通り、あたしの胴と首は一生の別れを告げることになるだろう。
そんなふうに殺されたって、何も文句は言えない。
基本的にこの世の中では、無知は無辜であり確信犯はより悪い、みたいに言われる。そういえば、ツムギにこの場合の『確信犯』は誤用だって言われたのは、つい数日前のことだ。
で、何の話だったか——そう、だからこうやって、『こちら側』に脳天まで使っておきながら罪を犯すあたしは、殺されてもおかしくないわけである。
もう一度ツムギの寝顔を確認して、今度は触れることすらしないまま扉を閉めた。
「……達者でやれよ」
後悔はしていない。反省も。
あーあ、コイツのせいでいい迷惑だった。
あたしが十年積み上げてきたものまで、全部壊して行ったのだから。
まぁ、いいだろう。それも人生か、なんて洒落たことを考えてみる。もし死ぬとしたら、そのことは死ぬ直前にでも考えればいい。あたしは快楽主義者だからな。
快楽を貪って生きている。
だから、アイツがまだ助かると思って、こうして送り出したのにもなんら理由はない。あたしがそうしたかったからだ。自分と同じような境遇で、しかもその何倍も才能があったアイツを、放って置けなかったから。周りがどうとか関係なく、ひとりの少年を救いたかった。それがあたしのやりたかったことだ。
目を覚ますころには記憶を失う代わりに新しい戸籍を手に入れて、なんか忘れてることがある気がするな、とか思いながら普通に暮らしていくのだろう。拳銃やナイフの重さも忘れて。あたしのことも、そりゃもちろん。それがきっとごく普通の、あの少年にとっての幸せだ。
……どうせ暇だし、最期くらい書類仕事でもやってやるか。
とっ散らかった机周り。しかし、その上にやけに綺麗な紙が一枚置いてあった。
「…………!」
四文字。
たったの四文字が、でかでかと一枚の紙に書かれていた。
手書きで。
それ即ち、解雇通知。
殺人予告、ではなく。制裁だとすればこの言葉選びはおかしいが、しかし言葉も選べないほど気が動転していた。
あたしは、組織を解雇された。
***
「そっくりそのまま返しておくよ」。その言葉の意味を、俺はあれからずっと考えていた。
考えて、考えて、考え尽くして——その結果導き出した答えは。
ただひとつの答えは。
「俺、ツムギのことが好きだったみたいだ」
そうらしかった。
そして、ボスにはそれを見透かされていた。呼び出されるとか、小学生かよ。
別に、胸が高鳴るとか、ドキドキするとか、そんな覚えはなかった。それどころか、ただの少し存在感が薄い新入りだとしか、それ以上でも以下でも。
いや——評価としては、つい昨日、『地味な新入り』から『大量殺戮兵器』に変わったばかりか。
生まれてこのかた愛だとか恋だとか、そんなすったもんだに縁がなく生きてきたけれど。いや、両親が離婚したのは結局そういう悶着が原因か。それでも、普遍的なそれらが一体どのようなものかくらいは知識として理解していたし、まさかそれこそあいつみたいに、感情がないアンドロイドでもあるまい。
「好き、だったのかな。ボスにもそう見えてたのか?」
よせよ、そんな質問。俺が一番わかっている。好きだったんだろ。
無機質で、冷えていて、動くことのない表情筋に、研ぎ澄まされた頭脳に、俺は恋していた。こういうとき、これは『愛』で『恋』ではないとか、あるいはその逆とか、よく議論されるけれど、俺にはよくわからない。判断基準がないから、区別もしようがない。
「見えてはいなかったさ」
とっくの昔に捨てたはずだった。
これからの人生を人並みに生きてやろうなんていう気も、そのための常識も、まともな感情も全部。浮ついた想いなんて特に。だって、こんなのは仕事の邪魔にしかならない。生きるには金が必要だ。父さんは、金がなかったから母さんに見限られた。母さんは金がなかったから俺を捨てた。そういう経験則から、金さえあれば俺は生きていけると思っていたし、もちろん金を手に入れるためには仕事をしなければならないとも知っていた。
けれど、結局人間であることに変わりはないのだ。ツムギみたいな、ああいう一部の人間だけが、自我を捨てた至高の境地に辿り着く。それに自覚がなかったとしても、だ。
自我と自覚はまた別なのだ。俺が知っているツムギは、奴が自覚している『ツムギ』のそれに他ならないが、奴に自我なんていうものはない。正確に言えば、見聞きしたことから推測するならば——はじめに殺しをしたとき、それを捨てたのだろう。捨てざるを得なかったのだろう。己自身が果たしたい目的のために、その自身を捨てた。
こんな俺に比べたら、ツムギはとても強いのだ。
とっても。比べるなんて言葉が当てはまらないくらい。言うなれば、月とすっぽん。
仕事のために、と思って何もかも切り捨ててきたつもりだったのに、結局逆戻りだ。俺の人生、全部あいつにぶち壊された。
「伝わっていた。あの子も、いつか感情を取り戻して——いや、手に入れていけたのなら、お前の気持ちに気づくさ。そして、いい思い出として、少し後悔しながら心のうちにしたためておくだろうな」
わかったようなこと言うなよ。あいつを拾って、才能を見抜いたあんたなら、ボスならわかるかもしれないけれど、でも恋してる——患ってる人間の前で言うかよ、そんなこと。
いや、わざと言ってるんだろうな。
「……もっと、紬のことが知りたかった」
これは本心だ。口に出すことに意味があったかはわからないが、そうして見ると少しスッキリした。そんな気がした。
どうでもいいことはすぐに口をついて出てしまうタチなのに、心のうちで思うことはそこで止まっているばかりだった。もうすでにお腹いっぱいで、とっくの昔に飽和していて、我慢の限界なはずなのに。それでもまずい料理を無理やり食うみたいに何も口に出さずにいて。
それが正解だと思っていたからだ。そうやって八方美人に徹して、自我を殺した仕事人でいれば依頼も信用も得られるからだ。
「これは独り言だが——私という人間は、『ボス』という名の舞台装置にすぎないよ。君らのような、物語の中の大層な登場人物ではない」
俺は俯いていた。もうずっと。
両親を失って、ひとりで生き抜いてやろうと決めたその日から。
怖いから。そんな理由で、知っていたはずの理由からも目を逸らして、誰とも目を合わせずにのらりくらり。いい機会だ。そんなのもやめてしまおう。子供のままで、金という概念しか信用できない、情報屋の『シャルボン』は終わりにしよう。炭はいつか燃え尽きるものなのだ。
「ボス。あなたの誘いに、返事をさせてください。遅くなってしまいましたが」
捨てたものを拾い集めていきたい、なんて言わない。ただ、今あるものだけはせめて取りこぼさないように。これ以上失わないままの自分で、『俺』で、『私』でいよう。
「コードネーム『シャルボン』——白鳥朔。あなたの同胞となる覚悟はできています」
ようやく、顔を上げた。目を合わせた。
正確には、目の前にいるこのひとには目と言えるパーツはなかったけれど、それでも見据えた。
『ボス』は、重々しく頷いた。オーラのひとつ、周りの空気の一ミリも乱さず。
「いいか、朔。お前は紬に、殺し屋のツムギに、その殺人センスに取り憑かれていた。それを恋と、故意だと見誤った。ただの憧れであったのをな。……そういうことにしておけ」
ボスの言葉は痛かった。そういう比喩もあるけれど、実際突き刺されたかのように痛くて、どんな任務でもこんな思いはしたことがなかったし、きっとこれからもすることはない。
けれど、目は逸らしていない。
今まで、痛いところから——上手いこと言ったふうにするなら、熱くてたまらなかったはずの火傷から逃げ続けていた。視線を向けたくなかった。それはもう、一生治らない。
歩み直すのではなく、少し道を変えて。今までが踏み外していたのか、それとも今この瞬間踏み外したのか、それもわからないまま。
仕事ばかりだった『俺』のせいで意図的に心の隅っこまで追いやられていた、『白鳥朔』をちょっとでも報いてやろう。
***
「おかえり、紬」
そこには平穏があった。ごく普通の1LDK、玄関を開けた瞬間から、温かい料理の香りが漂う空間。
僕が持っていたはずで、見失っていたもの。
出迎えてくれた彼女は、名取由奈——もとい『名無しのナナ』。
組織を追放された、というていになっている僕らは、こうして幸せな生活を送っていた。こんな僕には、勿体無いほどに。
「由奈さん、ただいま」
「どうだ、大学生活は? 友達できたか?」
そう、僕は今、大学に通っている。あれから必死に勉強して、有名ではないがそこそこいろんな学科があるところに進学した。
あの頃、人殺しになったばかりで気が動転していたというか、何もかも失ってしまった気でいた僕が、まさかこんな生活ができるだなんて夢にも思っていなかった。というか、いまだに実感が湧いていない。
「それ、毎週のように訊くよね。僕もう二年生なんだけど」
苦笑しつつ、上着を脱いでハンガーにかける。失ってしまったはずの日常は、今やそこかしこに転がっているのだ。二年以上経っても、やはり一度失ってしまったものは目新しく——というか慣れず、こうしてぎこちなくしている。
それは由奈さんも同じ。
まぁ、彼女の方が『あちら側』にいた期間が長かったのだから、当然かもしれないが。しかしそう思ったのも束の間、彼女は僕よりもすぐに馴染んでいった。数週間で職を見つけ、あんなにだらしなかったのが信じられないほどすぐに、家事も身につけて。
今は腰のあたりまであった金髪を、肩までのボブヘアに切っている。
「今日は紬が好きなハンバーグだ」
本人曰く、「あんな生活だったから逆に適応が早い」らしい。その『逆に』が意味するところを、僕はイマイチよくわかっていないが。
「やった。飲み会断ってきてよかったよ」
「わかった。そうやってあたしのこと大好きだから、友達できないんだろ」
ご飯をよそいながら、彼女はそう笑う。こんなふうにふざけあって、笑って、ありふれた日常を送れるのが嘘みたいだ。
……なんだか、今日はいつにも増して懐古してしまうな。いや、懐かしいと言えるほどの思い出も、あるわけではないが。言葉を選んでみるならば、回顧と言い表すべきかもしれない。
「だからいるって。数人だけど」
僕らが最も悩んだのは、社会復帰でも学校への言い訳でもなく、間違いなく互いの呼び方だろう。あちらから僕への呼び名は大して変わらないが、僕はとても苦労した。響き的にはあまり変わらないけれど、本質的には全く違う。そもそも初めは僕が『名取さん』と呼び、それを由奈さんが嫌がり——という感じで、大変時間がかかることとなった。流石に、もう慣れたが。
ともあれ、ただの同棲カップルと大差ないような生活を、僕らは送っている。
しかし、過去は消えたわけじゃない。僕らの罪は、今もここにあるままだ。組織に僕が足を踏み入れた日から、あるいは彼女は『ボス』に拾われたその日から。償いなんて果たされようがない、重い罪だ。
僕がそれを自覚したのは、随分と後のことだったけれど。
人並みの生活に馴染んできたある日、僕のしたことは許されることではないと悟った。知ってしまった。同時に、僕があの頃殺しに染まりきっていなかったことに安堵した。
痛いほどに。一度は罪を償うために、自分の命を捨てようとしたほど。けれど、それを彼女は必死に止めてくれた。
だから僕らは、ひとつの布団に入った後、こう言う。
「「ごめんなさい」」
今まで僕らが軽んじてきた他者の命と、僕ら自身に。
そして。
「「ありがとう」」
今日ある命に。僕らがこんな生活を送れていることに。平穏が続いている事実に。
いつ終わるかも知れない。今かもしれないし、明日かもしれないし、あるいは何万年後かも。そんな日常が、失ったはずのそれが、とりあえず今存在することに感謝しようと、色々な気持ちに折り合いをつけて決めた。
折り合いなんてつけたとしても、それは消えたわけじゃない。けれど、そうやって見えないように目を逸らすことも、今の僕らには必要だったというだけだ。ただ、今は、受け入れられない事実を裏返して折り曲げて、それでも存在したことだけは忘れずにいよう。それが、弱い僕らが前を向けるくらい強くなるまでの約束だ。
前を向かずとも、後ろでも下でも上でも向いて、そのまま進むべきところを目指せばいい。
読むに耐えない、湿っぽくて、創作物のように綺麗に終わるわけでもないこの話を、神だか仏だかが滑稽な人間だと笑ってくれるのなら本望だ。結局僕が欲しかったのは、今ここにある温もりだけだったのだから。
もしかすると僕らは未熟なまま野垂れ死んでいくかもしれないし、自分の犯した罪とも向き合えないままかもしれない。
だからこそ人間なのだと——物語みたいに締めてみようか。




