3 照れる魔女
ファリエルは、リリアナのベッドを占領し続けていた。
薬が効いている間に眠り、痛みや悪夢で目を覚ます。
処刑前の拷問の傷は、まだ時折うずく。
牢屋の中ではずっと拘束されていた。その上ろくに食事を与えられなかった。
そのせいか、かなり体力が落ちている気がする。長時間起きた姿勢を保っていられない。
出された薬を飲み干したあと、すぐに横になりながらリリアナに問いかける。
「君は、どこで寝ているんだ?」
「私、どこでも寝れるんです」
笑顔ではぐらかされてしまう。
二度同じことを聞いて、同じ返答だった。
きっと無理させているに違いない――。そう思っても、弱った身体はいうことを聞いてくれなかった。
次の日になると、しばらく起き上がっていられるようになった。
するとリリアナがベッドのそばに桶を置き、そこに湯を注ぎ始めた。
「ファリエルさん、身体を拭きましょうか」
「ああ、お願いできるだろうか」
と即答した途端にはっとする。
相手は侍女ではない。命の恩人だ。
「いや、やはり自分でやろう」
「えっ」
布巾を絞っているリリアナが、ぴたりと動きを止めた。
ミルクティー色の髪を揺らしながら素早く振り返る。
「こういうのって、普通はしないですか? 実は、やったことなくて……。本で読んだことがあるというか……」
語尾を濁しながら、しおしおとうなだれる。
その反応を見て、ファリエルは自分が言葉足らずだったことに気づいた。
他人と接する機会が少ないはずの彼女が、自分の常識を疑うのは無理もない。安心させるように口元を綻ばせてみせる。
「君に触れて欲しくないというわけではない。ただ、その……恥ずかしいというか……」
とっさに嘘をつく。本当は、侍女に肌を見られることには慣れていて照れはない。
召使いたちが身の回りの世話をしてくれるのは、これまでのファリエルの日常だった。
苦しい言い訳に、リリアナが『そっか』と納得した様子を見せる。
「わかりました。はい、どうぞ」
絞った布巾を笑顔で手渡された。
ファリエルは温かく湿ったそれを受け取ると、シャツを脱ぎ、自分で身体を拭き始めた。
筋肉がこわばっていて、拭く動きすら、きしむような感覚が走る。
それどころか、薬で抑えられていた身体中の傷が一斉にうずき出した。
「くっ……」
思わず声が洩れる。
歯を食いしばり、痛みをこらえながら布巾を肌に滑らせる。
するとリリアナが顔を覗き込んできた。
「痛み、ぶり返しちゃいましたか? やっぱり私がやりますね」
「すまない。お願いできるだろうか」
「はい! お任せください!」
差し出された手に布巾を返す。リリアナは桶の前にしゃがみ込むと、改めて布巾を湯に浸した。
『このタイミングで痛みが出るってことは……』とつぶやきながら、ちゃぷちゃぷと音を立てる。
薬について思い巡らせているのか、その顔は真剣そのものだった。
ぎゅっと布巾を絞り、立ち上がる。中腰の姿勢でファリエルの肩のあたりを拭き始める。
その直後。
ぴたりと動きが止まった。
「……?」
どうしたんだ?と――聞くまでもなかった。
頬が赤らんでいた。アクアブルーの目はまん丸になっている。
視線をそらしたまま、小声で問いかけてくる。
「あ、あのっ。目、閉じててもいいですか……?」
「ああ、君のやりやすいようにしてくれて構わない」
「本当にすみません、自分でやるって言ったくせに手を止めちゃって。……拭かせてもらいますね……」
目をぎゅっと閉じて、再び拭き始める。『うう……』と弱々しい声を出す。
本で読むのと実際に触れるのとでは、きっと大違いだろう。
生身の男の身体に触れて動揺し、直視できなくなったのかもしれない。
肌を拭く動きは、どこかおっかなびっくりといった様子だった。
くすぐったさに声が出そうになり、ファリエルは唇を引き締めた。
身体を拭かれる中、まぶたを下ろしたままのリリアナの顔をじっと見つめる。
化粧をしていない女性の顔を見る機会は今までになかった。
リリアナの、なにも塗られていない肌の綺麗さに驚かされる。
緊張感した表情を、ぼんやりと眺める。
ふと、記憶の底から浮かび上がるものがあった。
誰かに似ている気がする。一体誰に似ているんだろう――。
「っ――!」
ある人の面影がよぎった。その瞬間。
どくんと心臓が跳ねた。
似ている。
あの日、出会った魔女に――。
それ以上思い出すことを、心が即座に拒んでしまう。
魔女と出会った事実が頭をよぎるだけで、牢屋で味わった痛みと屈辱がよみがえる。
動揺をリリアナに気づかれないように息を噛み殺す。
目だけを逸らし、すがるように壁を見つめる。
速くなった鼓動が耳の中に響く。
深呼吸を繰り返し、どうにか落ち着きを取り戻す。
すると今度は、別の問題が目の前に迫っていた。
――近い。リリアナの顔が、あまりにも近すぎる。
覆い被さってくるような姿勢のせいで、今にもバランスを崩して倒れ込んできそうだ。
拭くことに集中しているのだろうか。お互いの顔がぶつかりそうなことに気づく様子はない。
意を決して呼びかける。
「リリアナ、ちょっと……」
「あっすみません、痛かったですか?」
「いや、そういうわけではないのだが。これ以上近づかれると……」
「え?」
動きを止めたリリアナが、ぱっと目を開いた。
至近距離で視線がぶつかる。
リリアナの顔は、ほとんど鼻先が触れるか触れないかくらいの近さまで迫ってきていた。
「――きゃああっ!」
弾かれたようにリリアナが飛びのく。そのままバランスを崩し、床に尻もちをつく。
人はここまで赤くなれるものなのか――と思うほどに、その顔は真っ赤になっていた。
どたばたと身体を起こしたリリアナが、背筋を伸ばして肩をすくめる。
「すっすみません気づかなくて!」
「いや、僕の方こそ、ぼうっとしていてすまない」
心臓がうるさい。リリアナの照れが移ったかのように、耳に熱を感じる。
王子として生きてきたこれまでは、他人がすぐそばにいるのは当たり前だった。
でも今は――顔がぶつかる直前の、間近で見たアクアブルーの瞳が目に焼きついて離れない。
何度も息を吸い込んで、落ち着きを取り戻す。
しょんぼりしているリリアナに微笑んでみせる。
「だいぶすっきりしたよ。ありがとう、リリアナ」
「いえ……」
まだ恥ずかしがっているのか、リリアナはうつむいたまま、ミルクティー色の髪をいじっていた。
***
「ん……?」
ファリエルが目を開くと、すっかり日が落ちていた。
身体を拭いてもらっただけなのに、いつの間にか眠ってしまったらしい。
すうすうと、かすかな呼吸音が聞こえてくる。
そちらに目を向けると、リリアナがベッド脇に置いた椅子に腰かけて眠っていた。
すっかり寝入っているのか、少し首をかしげた姿勢で揺れている。
無防備な寝顔を見つめる。
ふと、身体を拭いてもらったときの、至近距離で見た表情が頭によみがえった。
とくん、とくんと心臓が弾みだす。
まさか僕が、女性に近寄られただけで動揺してしまうとは――。
婚約者や令嬢たちから腕を絡められたときは、うっとうしさしか感じたことがなかった。
音を立てないようにそっと起き上がる。眠るリリアナに小声で話しかける。
「君には迷惑を掛け通しだな。早く、回復しなくては……」
つぶやいた途端、ふと心によぎる感情があった。
この穏やかな時間を、もう少しだけ味わっていたい――。
思ったそばから首を振って打ち消す。
こんな腑抜けたことを思ってはいけない――僕は、王子なのだから。
でも。
僕は、処刑されたはずの身だ。
「僕を待ってくれている人なんて、この世にいるのだろうか……」




