重ね続ける問
愛とは何だったのだろうか。
皴だらけになった妻の手を握りながら私は考える。
五十年以上を共に過ごした妻が静かに瞑目した。
私は泣いていた。
その涙は妻に対しての物であるのは間違いなかった。
けれど、その中に愛があったのか私には分からなかった。
感情でぐちゃぐちゃになっていた心の中、それでもどこかに冷め切った自分が居た。
「お父さん」
震えて泣き続ける私の両肩を抱いた娘も、今年中学生になったばかりの孫も号泣していた。
不思議な確信があった。
娘と孫は心から妻のことを愛していたに違いない。
何故なら娘からすれば最愛の母親だった。
いわゆるお祖母ちゃん子であった孫からしても、私の妻は大切な人であっただろう。
そして、何より二人は妻と血が繋がっていた。
けれど、私は。
「おいていかないでくれ」
抑えきれない感情を心から零してしまった言葉がどこか白々しく私には思えて仕方なかった。
愛とは何だったのだろうか。
通夜も告別式も終わってから随分経ってからもまだ私は考えていた。
妻の居ない生活は一言で言えば寂しかった。
何となく声を出せば返って来る言葉が今はない。
居間の中に響く自らの声があまりにも寂寥としたものに思えた。
そんな想いを打ち消すため、私は思わず呟いていた。
「独りは面倒だ」
何故、わざわざ自ら気分の悪いことを考え、声に出しているのかもわからなかった。
誰も座っていない椅子を見つめているのが辛かったが、その感情さえも自分で無理に作り上げているもののような気がした。
愛とは何だったのだろうか。
塞ぎこんでいる私を心配した娘夫婦に勧められた映画を見て思った。
時代背景は私と妻が生きた頃だった。
「この頃ってこんな感じだったの?」
孫に問われた私は安心させるため笑みを顔に張り付けながら答えた。
「そうだなぁ。懐かしい」
嘘ではなかった。
滑稽なほどに美化されているが当時に浸ることが出来るほどに精巧だと思えた。
あるいは本当にこのように過ごした者たちも本当に居たのかもしれない。
しかし、映し出された世界の中、恋に落ちて永遠の愛を誓う若者達が酷く羨ましく思えた。
愛とは何だったのだろうか。
私と妻は見合い結婚だった。
名前だけは会う前に知らされていたが、顔を見たのは出会った日が初めてだった。
美人ではないが及第点だ。
これが若く愚かで殴りつけたくなるほどに恥ずかしい当時の自分が抱いた第一印象だった。
ずっと後に聞いたところによれば妻もまた同じようなことを考えていたらしい。
いずれにせよ、私達は夫婦となった。
当時は強要とか強制という想いはなかったが、今にして思えばそれに近い感覚があったように思う。
不思議なものだった。
まるで学校の級友といきなり夫婦にさせられたような困惑があった。
いや、面識もない相手だったのだから、実際にはもっと酷いだろう。
私と妻は始め互いの両親を真似るようにして振舞うだけだった。
つまり、私は仕事へ行き、妻は家で家事をする。
それが慣れてきたら、身体を重ね、子を作る。
目まぐるしく生きていたはずだった。
その中には間違いなく、人が言う愛があったはずだった。
それでも振り返ってみれば思い出されるのはあまりにも淡々とした生活ばかりだ。
一度だけ、妻に聞いたことがある。
「好きな人はいたのか」
「ええ。いましたよ」
その答えの響きだけが今も妙に思い出される。
愛とは何だったのだろうか。
娘は愛していたと断言が出来た。
自分と血の繋がりがあったから。
少なくとも、自分に連なる者であると実感があったから。
しかし、妻と私には血の繋がりがなかった。
嫌な言い方をすれば、私はただ延々と他人と生活をしていただけなのだ。
組み分けのように振り分けられた相手と共に、まるで試験で良い点数を取るように先達の歴史を丁寧になぞる。
それだけだった。
本当にそれだけだった。
だからこそ、ようやく私は自分の内にある答えを理解した。
そうだ。
私は妻を愛してなどいなかったのだ。
答えが出てから余生が少しだけ楽になった。
けれど、本当に少しだけだった。
答えが出た後に残された時間はほんの僅かばかりだった。
日々死に向かって歩いていくのを実感する。
多くの人の手を借りて繋いでいく生に、どれほどの価値があるかも分からない。
「おばあちゃんが居なくて寂しくない?」
色んな人に聞かれた問に私は慣れた様子で答える。
「寂しいよ。とっても」
心にもない言葉だ。
けれど、そう答えるたびに命がさらにすり減っていく気がしていた。
死が訪れた。
苦しみが消えていた。
ぽつんと独りきりで立っていた私が真っ先に考えたことはやはりあの問だった。
愛とは何だったのだろうか。
答えは出ているはずだったのに。
「随分待ちましたよ」
声がしてそちらを向けば妻が居た。
「待っていたのか」
「ええ。先に行っても良かったのですけれど」
嬉しさより申し訳なさが勝った。
けれど、それを口に出すことが出来ないまま私は苦笑いをするだけだった。
そんな私に対し、妻はやや間を置いた後に言った。
「待っている間、考え事をしていました」
「考え事?」
「ええ。愛とは何だったのかと」
虚を突かれて口をぽかんと開ける私に対して、妻は言葉を選んでいるのか、慎重に一字一句を繋げながら言う。
「泣いているのを見ました。あなたが。手を握ってくれているのも覚えています。多分。きっと、私はそれを嬉しかったと思ったんです。ですが。それでも、分からなかったんです。死んでしまってからも。あなたが来るまでに答えを出すつもりだったのですが」
切られた言葉から彼女が答えを出せなかったのだと知った。
故に、私は言った。
「同じことを考えていたよ」
「あなたもですか」
「あぁ。出て来た答えは最悪だったが」
恥じるように顔を下げた私に、場違いなほど心地良い妻の声が聞こえた。
「同じ答えかもしれません」
「そうか」
顔をあげた私の前に苦笑いを浮かべた妻の顔がある。
「案外、皆さまそんなものなのかもしれませんね」
「そうなのかもな」
生前と同じように私が手を差し出すと妻が重ねて握り返す。
「それじゃ、逝きましょうか」
「あぁ」
歩きだす。
歩き続ける。
その最中、出ていたはずの問いが浮かぶ。
愛とは何だったのだろうか。
「なぁ」
妻に呼びかければ。
「何でしょう?」
妻は淀みなく返してくれる。
「待っていてくれてありがとう」
「どういたしまして」
あるいは。
愛とはもしかしたらこのようなものなのかもしれない。
私は共に生きた妻の手を握りながら静かに二人で新しい場所へと同じ足取りで向かった。