事件の螺旋はまだ続く
紅い。
紅い。
夕暮れの空が簡素な住宅街の天上に広がっていた。
棚引く雲も黄金色に輝きそれぞれの家からは団欒の声やテレビの音が騒めくように広がっている。
東京の片隅。
その住宅街の一角に段々になっている家々の間を縫うように階段があり、その踊り場に一人の女が仰向けで倒れていた。
胸元が大きく開いた派手な紫と黒のドレスに長いウェーブの掛かった髪が広がっていた。
眼は開いたまま虚を見つめ瞳に生気はなくガラス玉のように動く気配はなかった。
踊り場のコンクリートには血が広がり、彼女が既に死んでいることを無言で教えていた。
もう指先一つ動かない。
動くことはない。
階段の上からそう思いながら一人の女性が見下ろし、恐る恐る一歩二歩と後退ると夜の闇へと切り替わる間際の宵闇に紛れるようにカッと踵を返すとその場から逃げるように駆け出した。
後には静寂が広がり都会の死角のような階段の一角でこの日、この瞬間、吉田律子と言う女が死んだことに気付く人間はいなかった。
ただ周囲では温かな家庭の団欒の空気と騒めきと、少し離れた道路や通りでは家路に急ぐ人々の姿と雑踏が広がっていた。
君に辿り着くための事件推理
2004年6月7日。
梅雨の手前の空は清々しいほど晴天で明るい陽光が燦々と地上に降り注いでいた。
2人は車から降りると周囲を見回した。
先までは寒い真冬。
雪国にいたのだ。
それが今は初夏と梅雨の間である。
気温は低くない。
仁と真里奈は上に羽織っていたジャンバーとオーバーを脱いで車の後部座席に置いて携帯の時間を見た。
間違いなく2004年6月7日であった。
と言うか、この気候の差は疑いようがない、と言う感じである。
仁は大きく息を吐き出すと
「これだけ短期間に初夏、真夏、真冬に、梅雨入り前を体感すると身体に堪えるな」
とぼやいた。
真里奈は笑顔で
「私は大丈夫です」
とさっぱり答えた。
仁は目を細めて
「なんか、俺がじじいに思われているような気がするな」
とぼやいた。
真里奈は業とにっこり笑って
「そんなことないですよ」
と言い
「だって、仁さんと私10歳しか違わないんですよ?」
と告げた。
たかが10歳。
されど10歳である。
仁はムムッと「10歳か…デカいな」と心で突っ込みつつ
「先ずはホテルを探して宿泊先を確保しないとな」
その後で筈木樹と接触する
「野宿するわけには行かないからな」
と告げた。
勿論、東京は2人のホームグランドである。
新潟や徳島のように土地勘がないわけではない。
それだけホテル探しなどは楽と言えば楽なのである。
仁は中野区の簡素な住宅街を見回して
「さて、筈木家に行きやすくて交通アクセスの良いところへ移動するか」
と告げた。
真里奈も頷いて
「そうですね」
私も東京ならバッチリなので
「どこでも大丈夫ですよ」
と答えた。
東京にはホテルが溢れるほどある。
2人が今いる中野駅の周辺にもホテルはあるが、その後の行動を考えて仁は車を走らせると新宿へと向かった。
筈木樹の実家は東都電鉄明大前にあり、中野駅もそれほど離れている訳ではない。
ただ、列車などのアクセスを考えると新宿の方がよいと判断したのである。
仁は新宿駅の近くにあるビジネスホテルグランドキューブ新宿にツインルームを1つ取った。
荷物を置いて真里奈に留守番を頼むと一人で出掛けた。
東京から新潟、徳島と移動した。
そして色々なところで宿泊だ。
移動費も生活費も使って、持っていた紙幣は底をつき始めていたのである。
仁は地金商へ行くと金を換金して現金を手に入れた。
これで当面は生活していける。
だが、と彼は思うと
「金にしておいたのは正解だが…このままずっと遡っていくとヤバいな」
と呟いた。
預金はほぼほぼ金に替えたがどれだけ遡るのかによって何れは底をつく。
仁はホテルに戻りながら不意に
「…アルバイト…考えるか」
日払いの一日バイトあるよな
と呟いた。
時間を飛び越えるという非現実的な中で何処か現実的な思考を巡らせていたのである。
仁は高層ビルが立ち並ぶ新宿の駅前を出て行き交う人々と車の騒々しさの中で駅の直ぐ側にあるビジネスホテルグランドキューブ新宿の中へと入っていった。
今回はちゃんと真里奈は部屋で待っており仁を出迎えた。
真里奈は12階の1203号室に戻った仁に
「おかえりなさい」
と言い
「すみません」
あの、大丈夫でした?
と聞いた。
全ての費用を仁が出してくれているのだ。
その金額を考えるとかなり凄いものだと真里奈は感じていた。
しかも、このまま遡っていけば費用はもっと嵩むことになる。
そして、今の西暦2004年は年号で言えば平成16年。
まだまだ『少し昔』と言う感覚で済んでいる。
だが。
だが。
吉田律子の事件は西暦1978年…昭和53年の5月。
昭和だ。
真里奈にすれば歴史を感じる時代である。
東京だってどんな風になってしまうのか不安がないわけではなかった。
少し不安でくじけそうであった。
真里奈の顔に浮かぶ不安な表情に仁は心の中で小さく息を吐き出して
「まあしょうがないか」
もう三か月も経つし見知らぬ場所の見知らぬ時代だ
「俺でも不安がないわけでもないからな」
と心で呟き
「よし、筈木樹の実家を明日尋ねる」
と告げた。
真里奈は頷き
「はい」
と答えた。
「それで本当の気持ちを聞いて伊藤杏奈さんの窮地を救わないとですね」
仁はそれに頷き
「それと高津光男の母親の吉田律子の事件についても調べていく」
彼の母親は東京のキャバクラで働いていたそうだからな
「問題は警察の情報を手に入れることが出来ないってことがな」
今の俺は刑事どころか種にすらなってないからな
と告げた。
真里奈はハッとすると
「あ、私もです!」
と答えた。
…。
…。
いやいやいや、俺が種になっていない時点でそれ論外だからな!と仁は心で突っ込み
「あ、ああ。そうだな」
と辛うじて己の気持ちを抑えた。
仁は唇に指先を当てて
「出来るとしたら彼女が働いていたキャバクラで情報を得ることだな」
と呟いた。
「裏取りっていうのはそう言うもんだからな」
そう言って手帳を見せた。
「これは使える」
真里奈は大きく頷くと
「私は図書館で新聞を調べます」
意外と情報一杯載っているんですよ
「ちょっと行き過ぎだと思う感じもありますけど」
と告げた。
仁は苦く笑って
「確かにそれはある」
偏りもあるからな
と言って
「だが、そこから事実だけを拾い出せばそれなりに役には立つから頼む」
と告げた。
真里奈は笑顔で
「はい!」
と答えた。
「東京だから図書館の場所も分かりますから大丈夫です」
真里奈にとっても東京はホームグランドである。
図書館の場所などもよくわかっている。
仁は笑顔で
「じゃあ今日は食事をしてゆっくりするぞ」
と呼びかけた。
「時戻りをしてから調べて調べてとひっきりなしだったからな」
セルフのガソリンスタンドでガソリンも入れておきたいし
「ついでに上野でも散歩するか」
どうだ?
真里奈は目を見開くとパァと表情を明るくして
「上野公園!」
とベッドから腰を上げた。
仁は目を細めて笑みを深めた。
時間は昼の11時30分。
昼食には良い時間であった。
仁はセルフのガソリンスタンドでレギュラーを満タンにすると上野公園へ行き、不忍池の周囲にある一軒の洒落たイタリアンレストランへ真里奈を連れて行った。
店内は洋風の作りで壁にはドライフラワーの飾りなどがあって愛らしくも落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
2人は店に入ると入口側の奥にある席に座った。
真里奈は窓の外の池を見つめながら
「凄くいい雰囲気ですよね」
と言うと
「上野公園には麗華と良く遊びに来ました」
定番です
と笑った。
仁は微笑み
「じゃあ、食事後は上野公園を散歩だな」
と告げた。
真里奈は笑顔で
「ひっさしぶりー」
嬉しい
と答えた。
こうして見れば真里奈は極々普通の高校生である。
だが、時間を飛び越えて事件を解決しながら懸命に運命に立ち向かっている姿は強い大人の女性にも見える。
仁は真里奈に抱く感情がどういうモノかを感じながら
「まあ、俺は見守りおじさんでいいさ」
と心の中で呟いた。
ウェイトレスが来ると真里奈はメニューを見ながら
「私、ボロネーゼで」
と告げた。
仁はメニューを手に
「あー、俺はペスカトーレで」
と告げた。
真里奈は肉系が好きである。
仁は意外と魚介類が好きなのだ。
真里奈は左手でフォークを持つと食べ始めた。
右腕はあれから今もぎこちなくしか動かない。
食べる時は常に左手で食べている。
彼女はあの事件の当事者である。
だが仁すらつい忘れてしまうくらい明るく強く頑張っている。
仁は優しく見守るように見つめ
「美味いか?」
と聞いた。
真里奈は笑顔を見せると
「はい」
と答えた。
空は快晴。
桜の季節が終わった木々は緑が映え、観光客などが上野公園の大通りを行き交っていた。
2人も食事を終えると上野公園の桜並木をゆっくり歩きながら陽の光を浴びて散歩に繰り出した。
真里奈は携帯を出すと
「やっぱり電波はダメだけど写真は撮れるから」
と仁の横に走ると腕を組んで笑顔で自撮りをした。
仁は苦笑しながら
「よし、じゃあ俺も記念に残しておくか」
と言うと自身の携帯で真里奈を抱き寄せて写真を映した。
真里奈は燥ぎながら
「あ、全部終わって元に戻ったらLINEで送ってくださいね」
私も送りますから!
と告げた。
仁は笑うと
「よし、じゃあ色々撮っておいてやるか」
連投してやろう
「覚悟しろ!」
とビシッと告げると携帯を構えた。
広々とした真っ直ぐな通りに両側には桜の緑が陽光に輝く。
真里奈はその枝を手にするように左手を伸ばして
「仁さん、今日は残念ながら葉桜ですけど~」
戻ったら桜の時期に来ましょ!
「デート!」
と笑顔で告げた。
仁はその様子を動画で撮りながら
「そうだな」
桜を見にこよう
「約束だ」
と告げた。
真里奈は仁に向いて
「はーい!」
と手を振って応えた。
2人は夕暮れまで遊ぶと夕飯もレストランで食べてホテルへと戻った。
翌日から気持ちを切り替えて、ひき逃げ事件を止めるべく動き出した。
真里奈と仁はホテルを出ると筈木樹が暮らしている明大前へと向かった。
筈木樹は彼女と引き裂かれながらも最終的には結婚し結ばれたのだ。
もし。
もし。
筈木樹がいま伊藤杏奈の手を掴み未来へ生きていく気持ちがあるのならば彼女がひき逃げ事件を起こす前に救ってほしいと思ったのだ。
明大前駅の駐車場に車を入れ、仁と真里奈は駅の周辺から広がる住宅街を進んだ。
一戸建てばかりではなくマンションなども立っており、パラパラとだが人々の姿も見受けられた。
10分ほど歩いて少し大きな二階建ての住宅の前に仁は立つと表札を見て
「ここだな」
と告げた。
真里奈はそれに大きく頷いて
「筈木さんが家にいますように」
と祈るように呟いた。
仁は筈木家のインターフォンを強く押した。
家の中からピンポーンと音が響き、少しして一人の男性が姿を見せた。
「どちら様でしょうか?」
真里奈は直感的に
「この人だ」
と心で呟いた。
仁もそう感じたものの出てきた男性に頭を下げ
「こんにちは」
と挨拶をした。
男性は仁を見ると戸惑い気味に
「は、はあ…こんにちは…」
と返した。
仁は顔を上げて
「初めまして、俺は川原仁と言います」
と告げた。
それに男性は固唾を飲み込みながら
「川原…さんですか…その…何か御用でしょうか?」
と聞いた。
真里奈は沈黙を守って仁を見た。
仁は指先を唇に当てて少し考え
「俺は伊藤杏奈さんと徳島で知り合って」
貴方を尋ねました
と答えた。
男性は目を見開くと
「伊藤…杏奈…彼女と」
と一歩足を踏み出して
「あの、その…俺に何を…いや、何を言いに来られたんですか?」
もしかして
と呟いた。
真里奈は目を瞬かせて
「やっぱり、貴方が筈木樹さんですね?」
と聞いた。
男性は頷くと
「はい、筈木樹です」
と答えた。
真里奈は真っ直ぐ見つめて
「正直に答えてくださって良いんです」
杏奈さんのこと…どう思われていますか?
「家族の反対があって結婚されなかったと噂で聞いたんですけど」
と告げた。
筈木樹は周囲を見て
「良ければ、中へどうぞ」
と2人を招き入れた。
彼は仁を気にしながら2人をリビングに招くと
「彼女は元気でしたでしょうか?」
と言い淡く笑むと
「実は当時の私には親が決めた婚約者がいたんです」
もちろん私が決めたわけではなくて
「彼女を連れていくまで知らなかったんですが」
と告げた。
そして、小さく息を吐き出して
「貴方が…彼女を幸せにと言うのなら…私にいう必要はないと思いますが」
と切なげに笑みを浮かべ
「元々、私と杏奈は大学で知り合い好きになって結婚する約束をしていたんです」
でもそういう事情で家族中から大反対されて
「特に杏奈には両親がいなくて天涯孤独だというのもあって家族の反対は凄かったです」
それでも
と言いかけて一旦言葉を切り、直ぐに
「杏奈は私の家族の反対の理由を知って身を引くように故郷の徳島へ戻ったと言う訳です」
ただ家が決めたいい名づけの女性には結局のところ『そんな人がいる相手と結婚しても自分はきっと幸せにはなれないから』と言われて
「彼女自身も自分を愛してくれる人と結婚したいと婚約破棄をされて想いを遂げるように勧められました」
と告げた。
「ですが…私は」
仁は頷いて
「…徳島へ行かれなかったんですね」
と告げた。
筈木樹は頷いて苦く笑み
「私は彼女が自分を裏切ったと憤慨してもう誰かと結婚しているんじゃないかと思って」
いやそうじゃないな
「本当は彼女から拒否されることが怖くて行けなかったんです」
知らなかったとは言え許嫁がいたのに結婚の約束をしたわけですからね
「だから私の事はもう気にせず」
彼女を幸せにしてください
「必ずお願いします」
と深く頭を下げた。
仁は一瞬「ん?」と顔を傾げた。
誤解されている気がしたのだ。
真里奈はそれに
「あ、仁さんは伊藤杏奈さんとは全く関係ないです」
と慌てて告げた。
「仁さんはー、私の大切な人です」
咄嗟の言い訳である。
筈木樹と仁は同時に
「「は??」」
と真里奈を見た。
真里奈は笑顔で
「もし、まだ貴方が杏奈さんを愛しているならその思いを伝えてあげてください」
取り返しがつかないようになる前に
「それを告げに来たんです」
と告げた。
樹は目を見開くと
「え?」
何か彼女にあったんですか?
と腰を浮かした。
真里奈は頷いて
「はい」
と答えた。
仁はハッと驚いて
「お、ちょ…と待て」
と言いかけた。
まさかまだ起きていない事件の事を言うのではないかと焦ったのである。
真里奈は樹を見ると
「杏奈さんは一人で頼る人もいなくて激務に激務を重ねています」
多分貴方と別れてから一人で生きて行かなきゃって必死なんだと思います
「それで…一か月後にあんな事故を…」
と言い
「彼女が罪を犯してから救いの手を伸べてもダメです!」
好きなら愛しているのなら
「いま救いに行ってあげてください」
と告げた。
「お願いします!」
樹は戸惑いながら
「事故?罪?」
一ヵ月後って?
「一体、彼女に何が起きているんですか?」
と聞いた。
仁は「いったー」と天を仰いだものの
「いえ、それくらい伊藤さんは懸命に一人で生きようとしているという事で」
貴方が彼女との未来を考えていないならこのまま暮らしてください
「けれど未来を共に生きたいという気持ちがあるのなら」
いま徳島へ行って彼女に思いを告げて助けてあげて欲しいと
「彼女は貴方を恨んでなどいません」
だからこそ責めもせずに身を引いたんです
「彼女をまだ愛しているのなら、いま!勇気を出してください」
と言って真里奈に指を向けると
「と、彼女は言ってます…」
と解説者のように告げた。
仁は立ち上がって、なおも言葉を紡ごうとした真里奈の腕を掴んで立ち上がらせると
「以上!」
お邪魔いたしました!
と頭を下げると引き摺るように家を出た。
真里奈はアワワと家を出た後に
「仁さん」
と呼びかけた。
仁は少し歩いて筈木家が見えなくなると
「大丈夫だ」
と告げた。
真里奈は驚いて
「え!?」
と仁を見た。
仁は大きく息を吐き出し
「恐らく筈木樹は彼女を迎えに行くと思う」
と優しく目を細めて笑みを見せた。
真里奈は少し立ち尽くして仁の手をそっと握りしめると
「本当ですか?」
と告げた。
仁は真里奈を見つめ返し
「ああ、事故を起こした後に東京へ逃げた彼女と再会して結婚しているんだ」
もう全てが過去だったら
「彼は結婚などしないだろう」
今もなお未婚というのもな
「彼女を忘れられないからだろ」
それに俺を彼女の新しい彼氏と勘違いしてあれほど切ない表情を浮かべたくらいだからな
「彼女を愛しているんだろ、今も」
わかるさ
と微笑んだ。
真里奈は笑むと
「そうですね」
勇気を出して徳島へ行ってほしいですね
と頷いた。
そしてクスッと笑うと
「でも、私…仁さんに何時も助けてもらってばかりですね」
と告げた。
「本当に仁さんがいなかったら…ここまでもたどり着けなかった」
仁は真っ直ぐ見つめてくる真里奈を優しく抱きしめると
「…俺の方が助けられている」
君は素敵な女性だ
と告げた。
「最後の扉は何時も君の懸命さが開いている」
真里奈は驚いたもののそっと腕を回して
「ありがとうございます」
と微笑んで答えた。
陽光は音もなく降り注ぎ暫くのあいだ2人を包み込んでいた。
2人は筈木樹がどうするのかを確認するために翌日の朝に再度筈木家へと向かった。
もちろん、伊藤杏奈を救いに行くか行かないかは筈木樹の自由だ。
強制するつもりはない。
もしも、助けに行かないのならば自分たちが彼女を説得する心づもりはあった。
原因は一人で生きて行かなければという強迫概念からくる激務の連続による疲労である。
しかも、事故を起こして林一馬を置き去りにして逃げてしまった逢魔が刻に湧き出た心の弱さ。
彼は救急車を呼べば助かったかもしれないのだ。
どれほど恐ろしくても。
どれほど怖くても。
逃げてはダメだったのだ。
その罪は彼女の心を食み続け、最終的に彼女自身を殺してしまったのだ。
真里奈と仁は翌日筈木家を訪ねた。
インターフォンを押すと一人の老婦人が姿を現して
「どちら様ですか?」
と2人を見つめた。
真里奈は彼女に
「筈木樹さんはおられますか?」
と聞いた。
婦人は怪訝そうに
「樹は出掛けていますけど」
と告げた。
仁はハッとして
「その、徳島ですか?」
と聞いた。
婦人は戸惑いつつ
「ええ、もしかして何かお約束が?」
と聞いた。
仁は笑顔で首を振ると
「いえ、昨日…そういう事を言っていたのでもしかして~と思いまして」
と告げると頭を下げて
「ありがとうございました」
と礼を言って立ち去った。
そう、筈木樹は徳島へと向かったのである。
間違いなく伊藤杏奈を手に入れるために心を決めて旅立ったのだ。
どちらにしても彼は1年後には彼女と再会し結婚しているのだ。
ならば、彼女が罪を犯してしまう前に2人が手を繋ぎ合うのが良い。
彼女の罪は巡り巡って彼女を殺すだけでなく、彼女の愛する息子の命すら奪っているのだから。
2人は筈木家から立ち去り、少し離れた住宅街の通りの一角に辿り着くと大きく息を吐き出した。
真里奈は笑顔で仁を見つめ
「本当に良かったです」
これで三人が救われるのなら
「本当に」
と告げた。
仁も頷き
「ああ、そうだな」
本当に幸せになって欲しいな
と答え
「取り敢えずこっちで吉田律子の事件を調べられるだけ調べて…もう一度だけ筈木樹の様子を覗き見てから徳島へ行くか」
と告げた。
真里奈は大きく頷くと
「はい!」
と答えた。
1978年の5月。
26年前に東京の片隅で起きた高津光男の母親である吉田律子の殺害事件。
彼女を殺した人物は現在も、そして、未来の2023年でも真相は分からずコールドケースである。
しかし、彼女が殺されたことによって息子の高津光男は女性に対して歪んだ感情を持つようになり数人の女性を手にかける事件を起こしたのである。
その中の1人…井上由子の死が巡り巡って真里奈と山王寺蓮と仁の姉の川原心音と筈木樹の息子である筈木一郎を襲った東都電鉄新宿無差別殺人事件へと繋がっているのである。
この事件を止めなければあの無差別殺人事件を止めることは出来ないのだ。
解決しなければ未来へ戻っても真里奈の恋を始めることが出来ないのだ。
2人は吉田律子殺人事件の解決へと乗り出したのである。
最後までお読みいただきありがとうございます。
続編があると思います。
ゆっくりお待ちいただけると嬉しいです。