一緒に登ってみようよ、蜘蛛の糸
熱い、痛い、苦しい。
そんな感情も薄れてしまうほど俺は長い間ここ地獄にいた。
もうここに来てから何百年、いや何千年経ったか覚えていない。
生きている時に親を殺し、兄を殺したことは覚えている。多分それが原因で、俺は地獄に堕とされた。
だけど、なんでそんなことをしたのか思い出せない。最近は自分の名前すら思い出せなくなってきた。
ここでの生活はシンプルだ。太陽はなく、明かりは地上にある炎だけ。なので朝昼晩の区別は無い。そして、常にあらゆる方法で殺され続ける。
周りは刀山と剣樹で溢れていて常に身体は切り裂かれ、そこらじゅうにいる大蛇や火を吹く虫に絶え間なく命を侵される。
たまに歩いている鬼に見つかると、舌を引き抜かれ、身体中に釘を打ち付けられる。
唯一、罪人には移動の自由があった。まあどこにいっても死に続けることは変わらないのだが、俺はなんのあてもなく、ただひたすら地獄を歩き回っていた。
いつものように剣樹の森を抜け、臓物を引きずりながら歩いていると、なんとも異様な光景に出くわす。
少女がいた。それもとびっきりの美少女だ。肌は褐色で、髪は白銀で肩まで伸びている。だが異様なのはそこではない。彼女は笑っていたのだ。
ここで会う人のほとんどは苦しみに叫び、呻き、血反吐を吐いている。長く地獄にいた者ほど感情を失い、やがては殺され続けるだけの生きる屍になる。
そんな中で、笑顔でいることなどまずない。ありえない。俺は数百年ぶりに見た笑顔に惹かれ、つい彼女の元に足を延ばす。
「あ、あうっ」
言葉を発しようとするのはいつ以来だろう。声を発した途端咳き込み、膝をつく。背中に刺さっていた剣が肺を貫いていたせいで喋りづらいことに気づき、慌てて剣を抜く。
「あ、あの!ゴホッ、君は、何をしているの?」
少女は少し困惑しているような顔でこちらを見る。
「何をって・・見てわからない?クライミングしてるのよ」
「は?・・クライミング?」
そう、彼女はあの険しい斜度の刀山を笑顔でスイスイと登っていたのだ。
「その通り、クライミング!一般的にはロッククライミングだけど、この場合はソードクライミングかな?」
そう言った彼女は血だらけになって自分を支えていた手を刀から離し、おおよそ20メートルくらいの高さから両足を折りながらも着地し、身体を引きずりながらこちらに向かってきた。
「というか、ここで喋れる人に会えてびっくりしたわ!ここの人はみんな呻き声しか出せないのかと思ってたの」
「はぁ、まあ地獄だからね、ここ」
人と言葉を交わすことにあまりにも久しぶりすぎて、自分がちゃんと会話できているのか不安になる。
「そうだ、せっかくだし友達になろうよ!見た感じ年もそんなに離れていないみたいだし。私の名前は翡翠 蓮!あなたは?」
「俺の・・名前は・・・神田 太郎。ああ、そうだ、それが俺の名前だ」
「ふふっ、何よ、もしかして自分の名前忘れちゃいそうだったの?思い出せてよかったわね、太郎」
太郎、あまりにも久しぶりに自分の名前を他人から聞くことが嬉しくて胸が熱くなる。
「ところで、蓮はなんで刀山なんかに登っていたの?」
「あー、それはね、あれに登るための練習をしてたの」
そう言って蓮は空を指差す。そこには天から垂れる一筋の銀色の糸があった。
「・・・・糸?」
「そう、糸!あんなこれ見よがしに垂れているなんて、登れって言っているようなものじゃない!?クライマーとしては挑戦せずにはいられないのよ!」
蓮は興奮気味に話す。そういえば地獄に垂れる糸の話ってどこかで聞いたこと気が・・ダメだ、思い出せない。
「私ね、実は何度もあの糸に挑戦した事があるの。でもいつも途中で切れちゃって。切れるタイミングもバラバラ。だから切れる前より早く登り切れるように練習してるところなの」
そう言って彼女は細い腕に、確かに存在する実用的な力こぶを見せてくれた。
「それになんか分からないけど、ここなら怪我しても治っちゃうじゃん?だからいくらでも無茶なクライミングに挑戦できちゃうわけ!もう私にとって最高の場所だよ!」
地獄でそこをポジティブに捉えることある?と言う言葉が喉から出かけたが、グッと堪える。
「じゃ、私はまた登るからお喋りはここまでね。じゃあね太郎」
「えっ」
驚くほどあっさりと蓮は会話を切り上げ、また刀山に登ろうとする。もう少し話していたかった太郎は呆気を取られる。
なんとなく、今ここで別れてしまったら二度と蓮と話す事ができない気がした。そう思った瞬間、自然と言葉が出ていた。
「お、俺も!俺も一緒に登ってもいいかな!?この地獄から出られるかもしれないし!練習、付き合ってもいい?」
数秒、蓮の表情が固まった。しかしその後すぐに満面の笑みが広がった。
「もちろん!一緒に登ろう!誰かと一緒に登ったほうが楽しいもの!」
そう言い、彼女は猛スピードで駆け寄り、俺の両手を掴んで上下に振る。
「あっ、初めて太郎の笑顔を見たわ」
「えっ、俺?」
そう言われて自分の顔を触ってみる。確かに、俺は数百年ぶりに不器用な笑顔をしていた。
—-
蓮の練習はとても厳しい。時に刀山の険しい崖を登りながら握力と足腰の筋肉を鍛え、時に彼女が何度か登った時に千切れた糸を使って登る練習をした。
血の滲むような努力、というより血を出し、命を削りながらの練習だったが不思議と苦痛より充実感の方が上回った。
それに失敗して怪我をしたり死んでもやり直せるここは、蓮の言うとおり理想的な環境だ。
そしていくばくかの時が過ぎた頃、ついに本番に挑戦する時が来た。
俺は改めて地上から遥か上空までぶら下がっている糸を見た。もしこの糸を登りきったら晴れて地獄とおさらば。でもそれは同時に蓮との充実した日々が終わることを意味する。そう考えると手放しでは喜べなかった。
「じゃあ、私から登るから、少し距離を離してついてきてね」
そう言って登り始めた蓮の登りのフォームは洗練されていて美しい。あんな細い手足のどこにこの細い糸を登る力があるのだろうか。
続いて俺も登り始める。練習し始めた頃は全く登れなかったこの糸も、今ではスイスイと登れる。一生懸命練習した甲斐があった、素直にそう思う。
こうして俺たちの挑戦が始まった。登り始めた時はいつ糸が切れるか分からない緊張感があったが、時間が経つにつれそんな心配も薄れていった。
そこから俺たちは、ひたすら登った。下を見ると今まで見てきた刀山や剣樹、蠢く鬼たちがジオラマのように小さく見えた。
「なあ蓮、ひとつ聞いていい?」
「ん?なに?」
ただ地道に糸を登ることに飽きが生じ、俺はずっと胸にしまっていた疑問をぶつけてみる。
「蓮はさ、なんで自分が地獄に堕ちたか覚えている?」
もしかしたら無神経な質問をしたかもしれない。でもどうしても蓮が地獄に堕ちるような極悪人には見えなかった。
「うん、覚えているよ。私ね、両親を殺したんだ」
「えっ」
あまりにもスラっと出た衝撃的な一言に一瞬たじろぐ。
「ふふっ、意外って顔してるね」
「そりゃあ、だって!蓮はそんなことする人には見えないから」
「そうだったらこんなところにいるはずないでしょう。私も、太郎も」
言葉に詰まる。そんな俺の姿を横目に、蓮は淡々と話し始める。
「私はね、生前の頃もロッククライミングが大好きだったの。それを教えてくれた父とは毎週末一緒に山に出掛けては登っていたわ」
「お父さんと仲良かったんだ」
「もちろん!お父さんは私の自慢の師匠よ!」
蓮はフンスと鼻から息を吐き、自慢げに言う。
「その日はね、いつものように父と山に出かけて行ったの。でも頂上まで後一歩のところで運悪く父が足を滑らせて山から落ちそうになって」
「うん」
「父は先に行けって、俺は後から追うって言ったの。だから私、先に頂上まで登り切った。でもしばらく待っていても父は上がって来なかったから、山を降りてみたら・・」
蓮はそこで一呼吸おく。
「案の定、父は落下死していたわ」
「えっ・・」
「でもね、それを見ても私何も感じなかったの。その時私の中にあったのは山を登り切った達成感と充実感だけ。そう家に帰って母に言ったら、化け物って言われちゃってさ」
ここで蓮は今までの淡々とした口調をやめ、感情を取り戻したかのように抑揚をつけて話し始める。
「笑えるよね!?自分の娘のことを化け物だなんて!それから、父の葬式をした次の日だったかな?母は包丁を持って私に切りかかってきたわ」
「蓮は、どうしたの?」
「もちろん抵抗したよ、死にたくなかったもん。でも母と組み合っている時、包丁が母の胸に刺さって・・即死だった」
それって正当防衛じゃないのか。喉まで出かけた言葉を俺は抑えた。
「母の死体を見て、それでもやっぱり何も感じなかった。で、その後すぐに家の近くにある山に登りに行ったの。そうすれば登ること以外考えなくてもいいから。でも考えないようにすればするほど、頭の中がどんどんぐちゃぐちゃになっていって、それで足を踏み外して、気付いたら地獄にいたって感じ、かな」
「そっか・・ごめん、嫌なこと思い出させちゃって」
「え?いや、別に?」
あれ?と思い彼女の顔を見る。そこにはいつもと同じ笑顔が広がっていた。
「父を助けなかったのは私にとって山登りの方が重要だったからだし、母がなんで怒っていたかも、正直よくわからない」
「そ、そうなの?」
「うん。だから生きてる時はそういう余計なことを考えるのが煩わしかったわ。でも地獄では登ることだけ考えてられるから居心地がいいし、私、案外ここ好きだったりするよ」
そう言って、蓮はニカッと笑う。
確かに、彼女は普通では無かった。でも嫌いじゃない、俺はいつの間に彼女の正直なところに惹かれた。
すると、ちょうど蓮の掴んでいる上の糸からチリチリと音が聞こえてきた。二人で慌てて上を見ると、いつの間にか糸が切れそうになっている。
「蓮!」
俺は迷わず自分の掌を彼女の臀部に当て、力の限り上に押し出した。その瞬間、蓮が掴んでいる上の部分の糸が切れたが、押し出された蓮はその更に先の、まだ宙にぶら下がっている糸を掴むことに成功した。
俺だけが、重力に逆らえず真っ逆様に落ちていった。
「蓮!いけ!どこまでも上に!」
それしか言えなかった。蓮は落ちていく俺の方に手を伸ばして何か叫んでいるけど声がどんどん遠くなって聞こえない。
落下しながら俺は目を瞑る。ああ、ここまで登ったのに悔しい。でも、蓮を先に行かせられたのは俺にしては良くやった。彼女ならきっとどこまでも上にいける。
そう思った瞬間、何かが腰に巻きつき、俺の落下を止めた。
「太郎!」
聞こえなくなったはずの蓮の声が近くで聞こえた。目を開けると彼女の右手から伸びている銀色の何かが自分の腰に巻き付いていた。
「・・ロープ?」
「そう、今までに落ちた分の糸を集めて、ロープを作ってたの!役に立ってほんとよかった!」
フンスと鼻を鳴らしながら彼女は自慢げに言う。でも、さっきの話を聞いた身としてはどうしても別のことが気になる。
「どうして、俺を助けたの?一歩間違えたら自分だって落ちてたかもしれないのに」
「だって、太郎はまだ役に立つと思ったから!さっきも自分を犠牲に私を助けてくれたし」
いつも通りの笑顔で蓮は答える。
「・・・・じゃあ、もし俺が何もできてなかったら、どうした?」
「そんなの、見捨てるに決まってるじゃない。登るのに役に立たない人は必要ないもん」
ああ、そうだ。蓮はやっぱりそういうやつなんだ。彼女に悪意など一切無い。ただ純粋に物事の価値基準が登るのに役に立つか、そうでないかだけなんだ。
「ふふふ、はははははっ!」
「うわ!どうしたの太郎、急に笑い出して!?」
俺は心の底から込み上げる感情を抑えることができなくなった。そんな俺を蓮は怪訝な顔をしながら見つめる。
実は、蓮と一緒に過ごすうちに、俺は少しずつ前世の記憶を取り戻していた。
生前、俺は父、母、そして兄の四人家族で暮らしていた。兄はとても優秀で、いつも両親から褒められていたのに対し、俺は何をやってもダメだった。
両親は決して俺を兄と比べて非難するようなことはしなかった。でも両親の俺を見る目はいつも怖かった。なんでお前は兄のように出来ないんだと言われているかのようで。
結局家族を殺した時の記憶はまだ戻ってない。ただ生前に、俺に本音で話してくれる人がいなかったことだけは覚えている。
それに引き換え、蓮は率直に自分の本音を言ってくる。それがどんな残酷な内容でも、ありのままを伝えてくれることが何よりもうれしい。
「俺、ここで蓮に出会えてよかったよ」
「え?何よ急に、照れるじゃない」
急に気恥ずかしくなり、二人で笑い合った。
その後、彼女のロープを伝い、俺もまだ宙に残っている糸を掴み直した。そしてまた二人で登り始めた。
それから、また長い時間登った。登っているうちに完全に下が見えなくなり、そして雲の中に入った。雲で周りは何も見えなかったが、俺達はひたすら糸を伝って上り進んだ。
そしてある地点から雲を抜け、俺らはついに地上に辿り着いた。
「やった・・やったよ太郎!頂上だ!」
「本当にここが・・地獄から抜けたのか?」
辺りを見渡すと、濃霧が立ち込めて数メートル先も見えない。しかし足は確実に大地を踏み締めており、糸もこれ以上伸びていない。どうやらここが終着点のようだ。
蓮はとにかく登れたことの充実感でハイになっており、辺りを所構わず走り回る。俺はそんな彼女を宥めつつ、追いかけるように濃霧の中を進んだ。
目の前の濃霧を掻き分けながら蓮の走った方に進むと、蓮が何かの前で立ち止まっているのが見えた。
一体何があるんだ、と思いながら蓮の前にある物を見る。そこには木製の、簡単な作りの看板があり、こう書いてあった。
『到達おめでとう。あと七層で終わり』
・・・・・・・・は?
そしてその看板から先の濃霧が次第に晴れて行った。しかしそこに広がっていたのは・・あらゆるところから叫び声が聞こえる、新たな地獄だった。
俺はその場で膝から崩れ落ち、発狂した。まだ、まだこの地獄が続くのか。さっきまで胸中にあった登頂の達成感は消え、ただただ絶望が広がってた。
しかし、その絶望感は隣から聞こえる笑い声に遮られた。
「ははは、はははははっ!ねぇ、太郎!ここはまだ頂上じゃないって!まだ上があるんだって!また登れるね!!」
俺は涙を拭い、蓮の顔を見た。心底喜んでいる顔がそこにはあった。そうだ、彼女は異常なんだ。
蓮は笑うのをやめず、尻餅をついてジタバタと笑い続ける。やがて絶望に打ちひしがれていた俺も、それにつられて笑い始める。
「そうだ、蓮!こうなったらどこまでも行こう!俺たちで地獄を登頂しよう!」
「うん!一緒に登ろう、太郎!」
蓮と一緒にいると絶望しているのが馬鹿馬鹿しくなる。
きっと俺なんて彼女からしたら取るに足らない存在かもしれないけど、それでも彼女といればこんな地獄も楽しく思えてしまう。
さて、ここはどんな地獄だろうか。
足早に駆けていく蓮を追いかけて、俺は燃え盛る大地の中へ足を踏み入れていった。