勝て、その恐怖に
一方、ディグは家屋の陰に身を潜めていた。
……なんだよアレ……なんだんだよアレ!?
明け方に空で響いた轟咆。隣家の住民が上げた悲鳴にディグも慌てて空を見上げた。
――そこに絶望がいた。
アレを同じ生物として捉えることができない。存在の次元が違う。目にしただけで臓腑が凍てつき、抗う意思など抱くことさえ許さない。
こんなボロ小屋に隠れたところで、アレは家ごとディグを蹂躙するだろう。まるで羽虫を払うような気軽さで、地上を這うだけの自分たちは、欠片の慈悲もなく鏖殺されるのだ。
魔獣が放たれた。黒い飛竜だ。背中からリザードマンも地上に降りてきた。
そこから先の状況はよく覚えていない。
悲鳴がそこかしこで木霊していた。ディグは隠れているだけで精一杯。見つかれば確実に殺される。
しかし途端に辺りが静かになったのも覚えている。しかし顔を出すことができなかった。まるで内臓を鷲掴みにされるような強烈な悪寒に襲われ、意識を保つだけで精一杯だった。
体が震えた。濃密なまでの死の恐怖。
直後、再び轟音が轟いた。
「うわぁっ……!」
ディグの隠れていた建物が一瞬で吹き飛ばされた。体が投げ出され地面に転がる。空を見上げれば、そこにはもう一匹、別の鳥の姿をした怪物が出現。先に現れた青い蛇のような化け物と争っていた。
まるで状況が呑み込めない。
しかし、これまで静まっていた魔獣の咆哮が再び上がった。思わず耳を塞いだ。
すると、目の前にリザードマンが一匹、ゆらりとディグに振り向いた。無機質な眼がこちらを見つめてくる。感情の読めないソレはディグに強い嫌悪感を抱かせた。
今度こそ、ディグは死を覚悟した。
どのように殺されるのか。隣の家に住んでいた男のように、体の一部だけ残して生きたまま貪り喰われるのか。
手足をバラバラにされ、臓腑を零し、ひととしての尊厳を踏みにじられながら、醜い肉の塊に成り果てるのか。
それは、いったいどれだけの苦痛を伴うのだろう。惨たらしい死に様を想像してディグは失禁した。涙も溢れた。
「た、助け……」
――しかし、想像したような死は、訪れなかった。
代わりに彼を襲ったのは、天地が裏返ったのかと錯覚するような衝撃だった。
大地が、文字通り爆ぜた。
途端、地中から現れる巨大な木の根。ソレは無数に枝分かれした細い根を蠢かせ、地表を呑み込み、ディグに襲い掛かろうとしていたリザードマンを絡め取って圧殺した。
もはや頭が考えることを放棄しそうになっていた。
「は、ははは……」
笑いが漏れた。ひとはあまりにも埒外な事態に遭遇すると感情さえまともに機能しなくなるらしい。
が――不意に、彼の鼓膜に女性の悲鳴が聞こえた。
ハッとして周囲を見渡す。しかし木の根に視界を阻まれ、どこに誰がいるのか分からない。
「メイ……」
その名を口にした途端、彼の中で嫌な想像が駆け抜けた。
先ほど自分の身に起きていたかもしれない、凄惨な死に様。ディグの脳裏に、リザードマンに襲われる少女の姿が映し出される。
「メイ!」
考えるより先に足が動いていた。崩壊した家の中から転がってきた斧を拾う。無数の木の根を躱し、彼は走った。
向かう先は、集落代表の家である。
◆
「ひぃっ!」
メイの喉が引きつった。家の玄関、窓……外界へ至る出入口全てが家具で封鎖されていた。
しかし、壁を突き破る様に外から鋭い爪が突き刺さり、引き抜かれた隙間から爬虫類のおぞましい瞳が中を覗き込んでくる。
ガンガンと音が鳴る度にメイは震え、父のボルは棍棒を壁に叩き付けて威嚇し、魔獣を一時的に遠ざける。
だがそんな抵抗を嘲笑うかのように、リザードマンは再び壁に爪を立て、中に侵入してこようとしていた。
メイの母親はあまりの恐怖に意識を失い、娘の腕に抱かれている。
「このっ!」
父は壁を突き破った魔獣の爪に棍棒を叩き付けた。体液を飛ばして爪が砕け、耳障りな金切り音と共に魔獣の気配が遠ざかる。
「お、お父さん……」
「くそっ……一体どうなっている!?」
この辺りにリザードマンなど棲息していなかったはず。加えて、空に現れた長大な躰を持つ巨大な蛇のような魔獣。
咄嗟に出入り口を塞ぎ、一時的に魔獣の侵入を食い止めることはできた。
しかしそれも時間の問題だろう。もはや、いつ壁を破られてもおかしない。
「くそ、くそくそくそ!!」
父は地団駄を踏んだ。なぜこうなった? 川を魔獣に堰き止められ、生活が困窮。領主に救援を願っても、返ってくるのは『しばし待て』という言葉のみ。
状況の打開も成されぬまま、挙句に魔獣の群れによる襲撃だと?
「なぜ、こんなことに」
「――お父さん!!」
頭を抱えるバルの耳に娘のひっ迫した声が届く。彼女の視線を追うように振り返る――直後、壁を突き破ってリザードマンが侵入してきた。バルは魔獣の侵入に驚きを示すより先に、反対側の壁まで吹き飛ばされた。
「がっ!?」
これまでに感じたことのない衝撃に呼吸が止まる。手足が痺れてまともに動けない。
メイが父を呼ぶがその声さえ届かなかった。
爪でチマチマと壁を破壊するのに飽いたのか……それとも、最初から『そうできた』にも関わらず、獲物が恐怖するのを愉しんでいたのか。
リザードマンの硬質な躰による突進で壁はいともたやすく突破されてしまった。
「――っ」
メイは魔獣と目が合った。強い恐怖の前には悲鳴も上がらないのだと知った。
魔獣の話は周囲の大人からいくらでも聞いていた。
しかし実物と対面するのはこれが初めて。それは話に聞くより何十倍も鮮明に、メイに原始的感情を呼び起こした。
――怖い。
集落の成人した大人よりも高い背丈。四肢の先には鋭い爪が並び、覗く口内には鋭利な牙が隙間なく敷き詰められている。
「あ」
魔獣がこちらを見た。武器を手にした父ではなく、自分を。
その視線が雄弁に物語る――『柔らかそうなメスの肉』と。
殺される。しかもただ殺されるのではない。生きたまま、食い殺される。
「ぁ……あぁ……」
逃げたい逃げたい逃げたい。なのに足が動かない。ガタガタと体が震えていう事を聞かない。歯が鳴って悲鳴も出てきてくれない。
股間に生暖かい感触が広がった。すえた臭いが鼻につく。
しかし、メイはその瞬間、魔獣が嗤ったように見えた。
「い、いや……」
ゆっくりと近付いてくる魔獣。涙も鼻水も溢れ、ぐちゃぐちゃになった少女の頭に、大きく開かれた口が迫り――
「なにやってんだっ、てめぇぇぇぇぇぇぇっ!!」
家の外から、ディグが飛び込んできた。
彼は手にした斧を振り上げ、背中を見せていた魔獣の背中に叩き付けた。
GEEEEEEEEEEEEEEE!!
青い血飛沫がリザードマンの背中から噴き出した。
悲鳴を上げて襲撃者に振り返るリザードマン。
ディグは立て続けに次の一撃を叩き込む。
しかし魔獣は太い腕を横薙ぎに振り回し、ディグの手から斧が飛ばされた。
「こ、の」
ディグに食らいつこうする攻撃を身を低くして回避し、彼は手に魔力を込めると、
「――『ウォーター・ランス』!!」
リザードマンの顎から頭頂部を射抜くように水の槍を打ち出した。
リザードマンの血でディグと家の壁が汚される。
頭部を破壊された魔獣は、しばらく彷徨うようにフラフラと動いていたが、やがて動かなくなり、床に倒れた。
「はぁ、はぁ、はぁ――」
「ディグ!!」
「メ、メイ……」
放心したディグに、メイが抱き着いた。
「ばっ、お前。俺、今すっげぇ汚ねぇ」
「ひぐ……ひぅ……うえぇぇぇぇぇぇぇぇん!!」
自身が汚れるのも厭わず、メイはディグによけいしがみつくと、大声を上げて泣き始めた。
途端、ディグの目にも涙が浮かび、自分とメイが、生きていることを実感した。
気がつけば、ディグも彼女の背中に腕を回し、嗚咽を漏らした。
まだ、一歩外に出れば脅威はそこにある。それでも、今だけは、安堵に涙する時を、ディグは欲した。
同時に、ディグにとってのメイという存在が、どういった相手なのか……それが、確定した瞬間でもあった。




