最後の決戦
一夜が明けた。
宿を出たアレスは、町の先にそびえる山脈を見上げ、次いで辺りを見渡した。
朝霧に濡れる通り。シンと静まり返り、冷えた空気の中にはアレス一人。
「行くか」
デミウルゴス――世界に絶望を振りまき、混沌に陥れようとしている最強最悪の魔神。
かつて、その名は創造神として崇められていた……しかし、神はひとに牙をむき、その創造という人知を超えた力で魔獣を生み出した。
魔獣はひとを、村を、町を襲い蹂躙していく。その力はひとに太刀打ちできるものではなく、老いも若いも、男も女も関係なく、多くの命が殺された。
それでもひとは小さな力で抗い続け、実に数千年もの間、魔神と、魔獣と争ってきたのだ。
そんな状況を憐れに思ったか、女神はひとに力を授けた。
――『ジョブ』と呼ばれる力を。
ひとは誰しもが、成人するのと同時にジョブを授かる。
『騎士』、『魔術師』、『賢人』、『僧侶』、『戦士』……果ては『詩人』、『踊り子』、『鍛冶師』など。
直接戦いに秀でた力もあれば、それらを補助するモノ、生活の役に立つモノまで多岐にわたる。
一つのジョブを得る者もいれば、中には複数のジョブを有する者もいる。
そして、そんな数あるジョブの中で、最も異質とされる力――『勇者』
あまた存在するジョブの力を、見ただけで複製、行使できる。その破格さから、かつて勇者の力に目覚めた者は、例外なく波乱に満ちた人生を歩んできた。
アレスもその例にもれず、力の覚醒と同時に『魔神討伐』という任を任された。もう三年も前の話だ。
しかしいくら強力な力を持つ勇者の力も、目覚めたばかりのまっさらな状態では使い物にならない。
故に、彼は世界各地を練り歩き、魔神を倒すことができるほどに強力なジョブを求め続けた。
そんな中で仲間になったのが、王国の大貴族の娘であるマルティーナとソフィア、そして異国からこの地に流れ着いたトウカである。
三人ともに希少、かつ強力な戦力を発揮できるジョブに目覚めた逸材で、彼女たちの存在がなければ、アレスは今日まで生き延びることはできなかっただろう。
三年……旅の中でアレスは多くの出会いと別れを繰り返し、ついに魔神が潜むとされる荒野に挑めるまでに成長した。
あとは、この力で魔神を討伐するだけ……
しかし、
町と荒野とを隔てる険しい山脈。
頂は氷雪に覆われ、吹き荒れる風はそこを行く者の熱と体力を奪っていく。
かつて荒野に派遣された調査隊も通ったであろう命がけの山道。狭い足場、見下ろせば深い谷が口を開け、そこを通る者を奈落の底へと誘おうと手招きしている。
途中で見つけた洞窟で暖を取り、ひと時の休息に体を癒す。
「……」
揺れる炎を見つめながら、アレスはとある村で出会った妖しい女のことを思い出していた。月も陰り、星明りさえ満足に届かないような暗い夜のことだ。
『ねぇあなた……よければわたくしから情報を買いませんこと?』
異様な気配を漂わせる女だった。だというのに、アレスはまるでかがり火に引き寄せられる虫のように、彼女に魅入られそうになった。
被り物に隠れた顔の半分、そこから覗く、闇夜の中でも赤々と映える唇。娼婦のように艶があり、聖女のように楚々として……そこにいるかさえ希薄なくせに、瞳が彼女を捉えて離さない。
『なんだ、あんたは?』
『ふふ……そうですね……では、ただの占い師、ということでどうでしょう』
妙な言い回しだ。もはや自分から怪しんでくれと言っているようなものではないか。
しかし女はこちらの反応を見るや、
『そう警戒しないでくださいませ……わたくしはあなたの味方ですよ、勇者様』
ゾクリと、肌が泡立だったのを覚えている。愛用の剣に手を掛け、いつでも切りかかれるよう身構え、
『わたくしを切り捨てるおつもりですか? せっかく、魔神の情報をお持ちしたというのに』
『っ!?』
『ふふふ……知りたいですわよね、かの暴虐の神がもつ権能……力の正体を』
『……貴様は、何者だ?』
『ただの占い師、ですわ……ただ、少しばかり、神と因縁のある、ね』
『……情報の対価は?』
『あら?』
女は意外そうに首を傾げた。
『わたくしが言うのもおかしな話ですが……こんな得体の知れないオンナの情報を買うと?』
『ああ』
魔神デミウルゴス。かつて創造神であったという情報以外、一切が謎に包まれた存在。魔物を生み出すというその力意外に、どんな能力を持っているのか、その姿形も分かっていない。数千年……魔神と相対し、帰って来たものはいなかった。
『ふふ……さすがは勇者様。勇ましいですわね。その輝く魂、目が焼かれるよう……故に、わたくしが求めるものは一つ……あなたの命、魂を求めます』
『それは、今この場でか?』
『いいえ……あなたが全てをなした、その時に』
『……わかった。了承しよう』
どのみち、このまま無知に魔神と戦っても、勝てる見込みは薄い。ならば少しでも情報を得て、勝利への手札を握っておくに越したことはないだろう。たとえそれが、真偽も定かではない代物だったとしても。
『分かりました。では、お教えしましょう――あの神について、わたくしが知りえる全てを』
そうして知った、デミウルゴスの能力――
弾ける薪木の音に、アレスは意識を現実に引き戻す。
「とてもじゃないが、生きて帰ってくることはできそうもない」
女から聞き出したデミウルゴスの力は、アレスの想像をはるかに超えていた。
曰く――魔神には一切の魔術が通用しない。そのくせ、相手はこの世界に存在する、あらゆる魔術を行使してくるときた。
それだけではない。デミウルゴスは魔獣の生みの親。つまり、どんな時であろうと、魔力が続く限り魔獣を生み出し続けることができる。
最強の守り、最強の攻め、そして魔神を守護する魔獣という存在。
それらを突破して、魔神本体を叩くことができねば勝機はない。
だが、果たしてそんなことが本当に可能なのか?
『可能性はありますわ』
『たとえ神とはいえ、アレも永き時を経て疲弊してきている』
『魔力は全盛期と比べて遠く及ばず、ひとの身でも手が届くかもしれない』
『魔術に対する鉄壁の守り……それを崩すことは、勇者様であるあなたなら可能なはず』
デミウルゴスの守りの正体……それは、あらゆる魔術による現象、物質化を無効にする魔力障壁によるものだという。
それを突破するためには、展開された障壁の魔力以上の魔術をぶつけて相殺しるより他にない。今のデミウルゴスの魔力量なら、勇者が持つ全魔力をもって、一度くらいは剥がせるかもしれない。
「……文字通りの自爆特攻、か。笑えない話だ」
しかし――その時近くにいる者は、まず助からないだろう。それはつまり、彼と共に苦楽を共にしてきた仲間を、確実に死に追いやるということ。
……できるかよ、そんなこと。
自分だけが死ぬならそれでいい。ただ、絶対の終わりが決まった戦いに、彼女たちを参加させることはどうしてもできかなった。
だが、彼女たちはいずれも責任感が強く、世界を救うためならばたとえ命に代えてでもデミウルゴスを討とうとするだろう。
故に、アレスは彼女たちを自分から遠ざけるため、自ら『嫌われ者』になることを選んだのだ。
……ほんとに良かった。俺に見切りをつけてくれて。
ギリギリだった。この山に入ってしまえば、引き返すことは難しい。
あの町が、最後だった。アレスは赤い炎の揺れに、安堵の息を吐き出す。白く、一人で凍える極寒の中、彼は小さく笑みを零す。それは、苦笑だ。
……いい奴らすぎるんだよ、ほんと。
そんな彼女たちにしてきたことを思い出し、罪悪感に苛まれる。もっと他に、彼女たちを自分から遠ざける方法はなかったのか。今更に後悔の念がわいてくる。
「まぁ、許してくれとは言えないよな」
だからせめて、
「魔神を倒す。それが俺にできる、せめてもの」
彼女たちへの贖罪になればいい、そう思わずにはいられなかった。
◆
山の頂から下界を見下ろす。見渡す限りの荒地。生あるモノの姿はなく、さながら墓地のよう。
山を下り、目に見えて草木の姿が少なくなっていく。
そしてついに、岩肌と乾いた大地のみが延々と広がる赤茶けた地を前に、アレスはいよいよ最後の時が近づいていることを実感する。
瞳を閉じ、荒れる砂塵の中に魔力の流れを感じ取る。
……あそこか。
大気の中に、ひときわ太い魔力の道が視えた。
被り物を目深にかぶり、砂塵が舞う風の中を進んでいく。
砂と乾いた空気が喉を裂き、視界を奪う。アレスは肌に触れる魔力の流れだけを頼りに、ひとり荒野を行く。
……どれだけ歩いただろう。途中、調査隊と思われる残骸を踏み越え、魔力の軌跡だけを頼りに、もはや方向感覚もあいまいになってきた頃。
「ここか」
魔力の流れの大本。まるで空間に穴が開いているのかと思える異様な光景。
ぽっかりと口を開いた次元の裂け目。まるで景色がヒビが入っているかのように、穴の周囲を放射状の亀裂が走る。
アレスは瞑目し、次に目を開くと無言で足を踏み出した。
迷うことなく歩を進め、彼は穴を潜り抜ける。
途端――一気に視界は切り替わり、
「ここは――」
磨き抜かれた床はアレスの姿を映し出し、荘厳と佇む柱には精緻な彫刻が施されている。
薄く青みを帯びた空間。天井から降り注ぐ光の柱が、幻想的な世界を演出する。
そのあまりにも美しい光景に、アレスは思わず呼吸さえも忘れてしまう。
が、
『――何者だ?』
「っ!?」
ふいに、空間全ての空気を震わせるように、声が響いた。
直後、陶器が砕けるような轟音と共に、眼前の景色が割れ、
――ソレは姿を現した。
「デミウルゴス……!」
「如何にも。我こそは創成よりこの地を収める創造の神――デミウルゴス。ひとよ、我が居所に何用で参った?」
ただの言葉。それだけ押しつぶさそうな圧力が重くのしかかる。虚空に浮かぶソレは、まるで十代の少女を思わせた。
ガチガチと音を鳴らす歯車が幾重にも重なり形作られた巨兵の肩に腰掛け、ソレは隠さぬ殺意でもってアレスを見下ろしてくる。
自身の身の丈より長い白金の髪が揺れ、神秘の光を宿した紫水晶の瞳でアレスを見下ろす。思わず見惚れてしまいそうになるほどの精緻な顔立ち。白磁を思わせる肌から放出される魔力は可視化できるほどの濃度。
間違いなく、目の前のコレこそが数千年にわたる仇敵であると、アレスは確信する。
素直に言おう、まるで勝てる気がしない。
しかし、アレスは奥歯を噛みしめ、神の圧力を前に声を張る。
「数千年にわたる戦いに、決着をつけにきた!」
腰にはいた剣を抜き放ち、少女の姿をした神へと突き付ける。
「は……矮小なひとの身で、この我と相対そうと? それもたった一人で……無謀を通り越して愚かの極みよ。もはや怒りもわかず、呆れ果てる」
途端、デミウルゴスは目を細め、薄く酷薄な笑みを浮かべた。
「だが、ここまで来たその貴様の武勲を湛え、我が力の一端を見せてやろう。その栄誉を抱いて死ねることに歓喜せよ」
巨人が動く。
「俺は、勝つ……っ!」
己を鼓舞し、剣の柄を強く握りしめる。
「大言を吐く……できるものならやってみるがいい。もっとも、我に触れることができればの話だがな」
「ああ……やってやるさ!」
そのために今日まで旅を続けてきた。
勝機はわずか……だが、無駄死にはしない。
……必ず目の前のこいつを、地獄へ道連れにする!
「行くぞぉ!!」
こうして、世界の命運を賭けた最終決戦の火蓋が切られた――