雨上がりの夕方に、あの国の少女を想う
♰ BUSHKA ♰
村外れの川で洗濯をした帰り道、ブシュカは、ため池のほとりで、全身が白ずくめの男を見た。
男は、チラムのような長い筒のついたカメラを池に向けている。
ため池に出入りするダンプカーは、大量に積まれた石くれを池に注ぎ込んでいるが、対岸では、赤土で囲まれた池を拡張しようと、数機のショベルカーがひっきりなしに動いている。埋め立てたいのか、広げたいのか、なんともちぐはぐな光景だが、ブシュカにとっては見慣れたものだった。
白ずくめの男は、大きなリュックを背負い、それらの光景を引きも切らず撮影している。
やっぱり、あの人も不思議に思って写真を撮っているのね。
ブシュカが眺めていると、男はそれに気付いたらしく、手を上げて近づいてきた。
ブシュカは、咄嗟に逃げようとするが、すぐに思いとどまる。
この辺りで村人以外の人間を見るとしたら、公社の社員しかいない。公社の人間なら、決まって二人以上で行動するので、この男には当てはまらない。
だとすると、こんな観光産業も無い、インドの僻地に何をしに来たのか、興味が湧いた。
蜂避けのつもりなのだろうか、男は、頭をすっぽりと覆う、大げさなフィルターのついたマスクを被っている。
「お嬢ちゃん。お嬢ちゃんは、この先の村の子かな?」
訛りのひどい英語である。
ブシュカは、お嬢ちゃんと呼ばれるほど、若くはない。侮辱されているのかと身構えた。
クリアなシールドの向こうにある顔と目が合う。
男は、東洋人に見えた。
「ジャドゥタゴに住んでるの?」
ブシュカは驚いて、息を飲む。異国の人間が、ブシュカの住む小さくて貧しい村の名前を知っているなんて、信じられない。
「こんな身なりをしているけど、怪しい者じゃない。君たちの味方になりたいんだ」
男は、大げさに両手を広げた。
シールドの向こうの顔は、正直者のようにも見える。汗が噴き出していて、とても暑苦しそうだ。
「おじさん、暑くないの? 脱げばいいのに」
心のどこかで、男を信頼してもいいのではないかという思いが芽生えた。
ブシュカは、ずっと、自分を救ってくれる王子様が現れると信じていた。この男こそ、その救世主ではなかろうかと期待が膨らみ、胸が高鳴った。
「いや、これには、事情があってね。今は脱げないんだ」
白ずくめの装束は、異彩を放っている。
ブシュカの思い描いていた白馬の王子とは、似ても似つかない。
衣装も取らず、その理由も明かさないこの男を信じてよいのか、判断に迷う。
「ふーん」と言って、ブシュカは歩き出した。
ついてきたければ、ついてくればいい。
どうせ、盗られて困るものなんて、何もないんだから。
男は、後ろを歩きながら、自らをカワシマと名乗った。そして、ジャドゥタゴ村を取材したいのだと言った。
村に入るとカワシマは、アニクやダーシャ、アールシュといった村の子たちにカメラを向けていた。みんな、骨が曲がったり、指先が無かったりと、生まれつき障碍を持っている。
子供らに、お菓子を配り、目線の高さを合わせて、愛想よく話しを聞いている。
アニクもダーシャも心を開いて、話している。お菓子を貰えたことが嬉しかったに違いない。
ただ、村一番のやんちゃ坊主であるアールシュだけは、口を閉ざしたまま、何も語らなかった。
きっと、相対しても尚、マスクを取らないカワシマのことを信用できないでいるのだろう。
ブシュカは、アールシュの気持ちを察して、頭を撫でてやった。
「この村に、ホテルなんか、無いよ。うちに泊まっていく?」
日が暮れかけてきたので、カワシマを家に誘った。アールシュの頭を抱きながら、カワシマの反応をうかがう。
「いいんですか!? すいません。お言葉に甘えます」
カワシマは、素直に喜んでいるようである。
アールシュは何を思ったのか、カワシマの腰にぶら下がっている箱に手を伸ばした。
「あ、ちょっと」
カワシマが気付いてアールシュの手を払ったが、遅かったのか、けたたましくて甲高い機械音が辺りに響く。
驚いたアールシュが、ブシュカにしがみついてきた。
ようやくカワシマが警告音を止めた時、荷台にたくさんの村人を乗せた公社のピックアップトラックが村に入って来た。
真っ先に荷台から降りたのは、ブシュカの兄のルドラだった。
ルドラが鉱山で働いていると知ると、カワシマは俄然興味を持ったようで、立て続けに質問した。
「じゃあ、ルドラ君とブシュカちゃんのお父さんも、以前は鉱山で働いていたんだね」
「そうさ。体調崩して働けなくなったから、オレが引き継いだんだ」
ルドラは、帰宅早々の質問攻めで、不機嫌になっている。
「それは、ルドラ君が自ら志願したの? それとも公社の方から言われて?」
「両方だよ。オレたちも稼がないと食っていけないし、公社も人手が欲しいんだろ」
「お父さんは、今も体調崩しているの? どこにいるのかな?」
「死んだよ! もう、いいだろ!? 帰ってきたばっかりで疲れているんだ。少し休ませてくれよ」
ルドラが奥の部屋に消えた。
ブシュカは、いつもとは様子が違う兄に対して、心の中で詫びた。カワシマを家に誘い入れたことは間違いだったのかもしれない。
「お、お父さん、亡くなっちゃったんだ……。いつ頃?」
カワシマは、ブシュカの方を振り返って訊いた。ブシュカと目が合う。
ブシュカは、二年前に父親を亡くしていた。
亡くなる直前まで、体調が優れない日々が続き、食事もままならなくてやせ細ったが、鉱山に働きに出ていた。
ある日、鉱山で倒れ、コルカタの病院に運ばれたが、まもなくして亡くなった。肺がんだったらしい。
ブシュカの母親も、半年前から、同じコルカタの病院に入院している。
母の病も肺がんだと診断された。
ジャドゥタゴは、呪われた村である。
大人たちは次々に早世し、生まれてくる子供は、障碍児が多い。
ジャドゥタゴの噂を聞きつけてやってきたヒンドゥー教の聖者、サドゥーは、あまりの惨状に衝撃を受け、村はずれに住み着いた。
今でも、毎晩のようにお祈りを捧げている。
そんなサドゥーと、ブシュカは一度だけ、会話したことがあった。
「この村から、出た方がいい。この村には、山から邪悪な空気が流れ込んでいる。ここにいても、お嬢ちゃんは幸せになれないよ」
サドゥーは、頭こそ布を巻いているが、髭も剃らず、ふんどし一枚で、全身に白い灰を塗っている。
おおよそ聖者には見えなかった。
「出ていくアテも無いし、お兄ちゃんもいるから、出ていけないよ。それに、アールシュたちの面倒も見ないといけないし」
サドゥーは呪術や妖術を使えるというが、それでなんとかならないのだろうか。
「私には、祈ることしかできません。鉱山を閉じれば、この村も良くなると思うんだが……」
サドゥーは、虚無感に苛まれ、憔悴しきっているように見えた。
「私も、いつまでもつのか分からない。お嬢ちゃんだけでも、幸せになってほしいんだよ」
ブシュカはその日から、誰かが迎えに来てくれるという妄想を抱く。
おそらく、もう少ししたらルドラは隣村の女性を迎え入れ、結婚する。
ブシュカも、適齢期になれば、周辺のどこかの村に嫁ぐことになるだろう。
この辺りの村は、どこも似たり寄ったりで、鉱山で働くことで生計を立てている。ブシュカの旦那さんも、鉱山で働くに違いない。
ブシュカは、旦那さんが着汚してきた服を洗濯して、料理して、短い生涯を過ごすのだ。
家に数冊だけある古本。
その中の一つの雑誌が、ブシュカの妄想を勢いづける。
それには、IT企業で活躍するキャリアウーマンの記事が載っていた。取材を受ける女は美しく、表情も活き活きとしている。都会では、女性も社会進出していて、自らの能力で人生を切り開いているのだ。
ブシュカは、記事の中の女に憧れた。
自分もそうなりたい。そのためには、今のこの状況を打破しないと始まらない。
誰か、ブシュカをこの村から連れ出してはくれないだろうか。
白ずくめのカワシマにあてがったのは、裏の倉庫部屋だった。玄関横の風通しの良い部屋を勧めたのだが、カワシマの方から、そこが良いと言ってきた。
倉庫部屋は窓も小さく、コンクリートがむき出した殺風景な部屋である。
食事の支度を終えたブシュカがカワシマを呼びに行くと、カワシマは白いマスクを取り、服も着替えていた。
「どうぞ、私のことはお構いなく。自分の食事は、持参していますので」
素っ気ない返事に、ブシュカは悲しくなった。
ブシュカの人生を変えてくれる人ではないかとカワシマに期待していたが、どうやら見当違いだったらしい。
カワシマはブシュカに興味があるわけでなく、たまたま最初に出会って、たまたま泊めてもらえたから、そこにいるだけなのだ。
次の日の朝、村人を迎えに来た公社のピックアップトラックに、白装束のカワシマが近づいた。
何やら、公社の運転手と交渉しているようだが、運転手は、ずっと首を横に振り続けている。
ルドラは、食い下がるカワシマの肩を叩き、諦めろと言わんばかりに首を振り、荷台に乗り込んだ。
ピックアップトラックが村を出ていく時、それを見送っていたカワシマがリュックから携帯電話を取り出して、誰かと話しをし始めた。
話しながら、村を出ていくので、ブシュカは思わず後を追った。
村を出たところに、白いバンが停まっていた。運転するのは、インド人のように見える。
その車にカワシマが乗り込むと、鉱山のある方角に車が走っていった。
その日の夕方、家に戻ってきたカワシマは、白い服を脱いだ。もちろん、頭をすっぽりと覆っていたマスクも外している。
「自分だけ、逃げてちゃ、いけないと思ったんだ」と、カワシマは言った。
泊めてくれたお礼にと、日本製のサバの缶詰をもらった。
魚は取れても、口にしちゃいけないと母から言われていたので、ブシュカは生まれて初めて食べた。
味付けも良く、まろやかな甘みが口中に広がる。
とても、おいしかった。
カワシマが部屋からワインを取ってきた。
ルドラと腹を割って話がしたいとのことだった。
その日は、カワシマは、ブシュカの手料理も食べてくれた。
ワインで酔いが回った頃、カワシマは、鉱山の危険性を指摘した。
「やめさせる。村人にあんな危険な仕事をさせていることが許せない」
公社に押し入ってでも、鉱山を閉鎖させるという。
「だめだ、やめてくれ。そんなことはしなくていい。して欲しくない。仕事がなくなってしまう。妹も育てなきゃいけない。生活しないといけないんだ」
他に仕事が無いから仕方がないと、ルドラが訴えた。ブシュカも、兄と全く同じ意見だった。
カワシマは歯痒そうな表情をした。
カワシマは、平和で豊かな国で生まれ育ったから分からないのだ。生きてく術がいくつもある国なら、わがままも言えるが、ここでは無理だ。
「他に仕事があれば、いいんだな。仕事をもってこればいいんだな」
カワシマは眉間にしわを寄せ、何かを考え始めた。
ブシュカは、ハッとして、鼓動が一瞬止まる。
そうか、ここから逃げ出すことばかりを考えていたが、ここが変わればいいのだ。
ジャドゥタゴにIT企業がこれば、ブシュカの夢も叶うかもしれない。
やはりカワシマは、白馬の王子であり、救世主なのかもしれない。
ブシュカは、期待した。
何かが変わる。
ルドラもそう感じたのか、目を輝かせていた。
夜も更け、ジャドゥタゴの明るい未来の夢物語で盛り上がっていた頃、家の外でクラクションが鳴った。
白いバンがカワシマを迎えに来ていた。
「必ず、もう一度戻ってくるから」
カワシマはそう言い残して、バンに乗った。
♰ カワシマ ♰
「川島さん、防護服、脱いだんですか?」
黄色い放射線防護服を着て運転するラジェッシュに聞かれた。彼は現地のジャーナリストである。
「ああ、自分だけ、守られてたら、腹を割って話してくれないと思ってね」
ジャドゥタゴを後にし、コルカタに向かっていた。
「そうだったんですね。良いネタ、取れましたか?」
「ああ、たぶん大丈夫。色々と考えさせられたけどね」
道路灯も無く、舗装もされていない道が延々と続いた。
揺れる車窓からは、月明かりに照らされた原風景が広がっている。
川島は、取材として訪れた村での、刺激的な二日間を思い返していた。
――
ジャドゥタゴの近くには、いくつものウランの鉱山があった。放射性物質であるウランは核兵器の原料にもなれば、原子力発電の燃料にもなる。
核保有国であるインドでは、原子力省が委託した公社がウランの鉱石を採掘している。
採られたウランが、核兵器に使われているのか、原発に使われているのかは分かっていない。
公社は、ふもとのため池に、鉱石からウランを取り出した後の鉱滓を捨てていた。
捨て場所が手狭になってきたのか、池の拡張工事も同時に進んでいる。
川島が夢中でシャッターを切っていると、少女に見られていることに気付いた。
「キミたちの味方になりたいんだ」
快く取材に応じてもらうための常套句だったが、純粋無垢な少女には響いたらしい。
ブシュカは、本当に期待を寄せてくれているように表情を輝かせた。
村では、心を開かないアールシュに、腰につけた線量計のスイッチを押される。
川島は、思わず力強く彼の手をはらってしまった。関節から先の指が無いのがいたわしい。
放射線量が規定量を超えたことを指す警告音。
川島は、これが何なのか質問されては不味いと、慌てて線量計の電源を切った。
ブシュカの家に泊めてもらえることになったが、その時に見た数値が気になり、コンクリートで囲まれた部屋をお願いした。少しは放射線を遮蔽してくれる。
また、ブシュカは手料理を振舞ってくれるとも言ってくれたが、それも断った。
心苦しいが、放射能があるのではないかと、ゲスな勘ぐりをしてしまったのだ。
次の日、鉱山を見学したく公社の運転手に申し入れるも、拒否されたため、ラジェッシュに連絡を取り、二人で、鉱山に向かった。
ウラン鉱山では、放射線防護服を与えられることも無く、皆、村から出た時のままの服装で作業している。ヘルメットだけが支給されているらしかった。
線量計で測ると、針が振り切る。
こんな環境で作業させている公社、それを知っているはずのインド政府が、憎らしく、許せなくなってきた。
ブシュカやルドラの味方になりたいと、心から思えるようになった。
――
「川島さん、もうすぐコルカタに着きますよ。公社に乗り込むのは、明日でいいですよね」
ラジェッシュの声で、川島は、我に返った。
地平線の向こうにあるコルカタの街の光が、夜空を照らしている。
『宮殿都市』という愛称で呼ばれるコルカタは、ジャドゥタゴとは対照的に、賑やかな大都市である。
人口密度では、首都デリーやムンバイを凌ぐとも言われている。
「ああ。明日が決戦だな」
そうは言いながらも、川島には自信が無かった。
♰
いつもより涼しいと感じて、カーテンを開けると、夕立だった。
川島が帰国してから、三ヶ月ほどが過ぎた。
川島は、持っていたうちわをテーブルに置いた。
うだるような昼間の暑さが信じられないほど、冷えた空気が吹き込んでくる。
真夏の夕に降る夕立ほど、ありがたいものはない。
ノートパソコンを閉じると、部屋に灯りが無くなった。窓辺に腰かけ、都会の灯りが雨に揺れて、なんとも美しかった。しばらく、降り続いてほしいと願った。
インドでの取材を元に、新聞や雑誌に寄稿した結果、各地での講演会の依頼も舞い込んできている。
――インドを発つ前日の朝、ラジェッシュと共に、コルカタにある原子力省傘下の公社ビルに乗り込んだ。
事前にアポも取っていなかったが、日本から取材に来たことを告げると、責任者が出てきて面会に応じてくれた。
ウラン鉱山で撮影した写真を見せると、公社の責任者は、意外にも紳士的な対応をする。
「これはひどい。責任者として、知らなかったことを詫びます。現地に連絡して、すぐに対応させます。ただ……」
劣悪な作業環境を認め、改善すると約束してくれた。一方で、国策であるウラン鉱山を閉鎖することはできないとも断言した。
「なぜですか? 核の無い世界を作りましょうよ。それが、世界の潮流ですよね!?」
「核問題は、一個人がどうこう出来るものじゃないことぐらい、ご存じでしょう? 国威、国策、国際問題……それに、経済や財政面なんかも含めて、いろんな要素が複雑に絡み合っているんです。わかってください」
川島は、公社に乗り込む前から、そう言われるだろうと想像していたので、大して驚かなかった。ルドラからも、他の働き口が無いのなら、閉鎖するようなことを進言するなと言われている。
「か、彼らはどうしようも無いんですかね……。ここで働くしか、選択肢が無いんですかね」
写真の中の、鉱山で働くルドラを指さして聞いた。
「可哀そうと思う気持ちは分かります。今後は、そう思わせないように、作業環境をしっかりと整えて、対価も検討しますので、今日のところはお引き取りください」
公社を後にした川島は、ジャドゥタゴには戻らなかった。
いや、戻れなかったといった方が正解かもしれない――
夕立は、しばらくして上がった。
ジャドゥタゴで語り合った時の、期待に胸を膨らませた、ブシュカの輝いた顔が、今でも目に焼き付いている。
あの時、川島は、ワインのつまみにブシュカの手料理を口にした。
酔いが回ったせいもあってか、胸が熱くなった。
彼女は、自由の利かない、指先の無い手で、川島のために料理を作ってくれたのだから。
インド取材の記事で得た寄稿料は、約束を守れなかった償いのつもりでラジェッシュに送金している。ラジェッシュが、ブシュカ兄妹に手渡してくれると約束してくれたのだ。
資金援助したところで、根本的には、彼女らの生活が変わらないことは目に見えている。
彼女らを救おうと思えば、採掘の仕事に携わらなくてもいいような、産業を誘致してあげないといけない。
一ジャーナリストに、そんなことができるのだろうか。
「必ず、もう一度戻ってくるから」
あの時、自ら吐いたあの言葉を、決して忘れてはいけない。
ブシュカは、きっと、いつまでも覚えているはずだから。
川島が今できる、せめてもの抵抗は、原子力エネルギーを使わないということだ。
屋根に設置したソーラーパネルだけで、過ごしている。
昼間はエアコンも付けることができて快適だが、夜は、バッテリー容量もあって厳しかった。
テーブルのうちわを再び手に取り、あおぐ。
ノートパソコンを開けて、ルポルタージュの続きを打ち込んだ。
END