暮れの残業
三題噺もどき―ひゃくななじゅうご。
お題:左目・キーボードを叩く音・制服
「……」
夏の日差しが徐々に和らぎ、季節が移ろいつつあるように思える今日このころ。
もっとも、それを感じるのは朝晩のみで。日中は、いまだに暑さを残したまま。その痛く熱のこもった季節は健在である。
「……」
そんな夏の暮れ。残り香のように夏が残るその日。
外は静かに陽が傾き始めている。
日差しは柔くなっているが、この時間の西日というか、沈みかけのあれは。その光そのものが目に痛いから正直勘弁してほしい。あのオレンジというか白というか。肌ではなく、目に、視覚に、直接攻撃してくるあれは、どうも。
夏に限ったことではないが。毎日なのだが。よろしくないよな。目には。
「……」
そんな時間に、1人でキーボードを叩いていた。
仕事中である。より正確に言うなら、残業中。
数分前には他にも人がいたが、各々タスクを済ませ、帰路についた。
彼らは仕方あるまい。家庭がある。家族がある。帰る家がある。帰れば迎え入れる者がいる。「ただいま」と言えば「おかえり」と返ってくる。あたたかな、ここではない別の自分の居場所がある。
―ここにしか、居場所がない自分と違って。
「……」
カタカタとキーボードを叩く音が響く。
1人分のその音は、やけに部屋に響く。なんだか仕事をしている実感がわくから、何気に好きだ。この時間は。
ひとりきりで。少し薄暗くなったこの部屋で。画面と紙とキーボードとにらめっこしながら。叩いて、打ち込んでいくのが。
静かに、淡々とできるから、とても。いい。
「……」
カタカタカタカタ―ひたすらにキーボードを叩く音が響く。
先程、帰り際の同僚に、早めに帰れよーと言われたことをふと思い出した。
そう言われても、正直家に帰る用事というものがさしてないのだが―と思いつつ、一応時間を確認する。
―ん、まだ大丈夫だろう。帰って風呂に入って寝るだけの時間はまだ先だ。夜は、適当に牛丼でも食べて帰るとしよう。あそこもそれなりの時間までやっているし。…とりあえずは、その時間まで仕事しよう。と、その後の計画を軽くたて、作業に戻る。
カタカタカタカタ―
「……」
1人分のキーボードを叩く音。
壁に跳ね返り、鼓膜を震わす。
「……ん、」
心地の良いその音に耳を任せて居たら、顔面を違和感が襲った。
今日半日以上、こうしてにらめっこをしていたせいか、瞼が痙攣しだした。
「……、」
左目。
ビクビクと震える。
全く、こういうのが突然やってくるから。仕事と体の良好な関係というのはうまく築けない。それなりの年数働いているはずなのに。
いつまでたっても、うまくいかない。
「――っふぅ…」
しかしまぁ、そんなことを嘆いても意味がないので。
―というか、瞼の痙攣がうっとうしくて、集中できない。大人しく警告に従い、一息つく。
「――」
軽く伸びをして。背もたれに思いきり体重をかける。
窓際の机、そこが定位置―というかデスクなのだが。逆さになった視界の端に、窓の外の景色が飛び込む。
「……」
何か声が聞こえると思ったら…。
外には地元の高校の制服に身を包んだ生徒が数名。楽し気に会話をしながら、歩いていた。時間的に部活帰りだろうか。何部かは分からないが。運動部だろうか。吹奏楽部という線もあるな。あの学校は、ジャージで帰宅するのをよしとしなかったから。そのうえ、部活にあまりいい思い出がないので、推測は立たない。
「―――」
ふと。
本当に唐突に。
それこそ、左目の痙攣が突然訪れたように。
視界に突然彼らが訪れように。
「――」
―あの頃に、戻りたいと思ってしまった。
「――」
なぜかは分からない。
いい思い出はたいしてないし。むしろ苦い思い出の方が思いだしやすい。
それでもなぜか。
あの頃に。
何も知らなかったあの頃に。
自分が知ってることが、すべてだと思っていたあの頃に。
それだけでなんだか生きていけるような気になっていたあの頃に。
人生は順風満帆なのだと勘違いしていたあの頃に。
「――」
こんな不毛な。意味も、価値もない。
自分の人生において。これの意味なんてない。
無意味も同然の、こんなことしている、自分よりは。
あの頃の自分の方が、よっぽど―
「―――ふぅっ…」
溜息と共に、呼吸と共に、その思いを吐き出す。
そんなの今更だ。
もう遅い。
考えたところで、それこそ不毛だ。
余計なことだ。
それより今は、すべきことがある。
「……」
シン―と静寂の広がる部屋に。
キーボードを叩く音が響き始める。