闇に蠢く悪の絆
人生は自分の物だからと安心しているととんでもない事が起きる。
何か得体の知れない力に振り回されてしまう不運の人生物語。
その中でも精一杯生きた男。
いろいろなことが重なり不運にも投獄された主人公が、永い懲役を終えて社会に戻る。
還暦を遠にすぎた男は、堅気になることを決める。
堅気になって故郷と言える神楽坂に戻る。
中学時代の友人が主人公を迎える。
この街には、主人公の初恋の人坂井千夏が離婚して戻っている。
彼女の身に災難が起きる。
そして主人公は初恋の人を救うために再び、修羅の道へ戻っていく。
主人公と初恋の人の老境の恋はどうなるのだろうか。
新橋の方向に中央通を行き、銀座六丁目の交差点を右に曲がると、間口の広くないビルが軒を連ねている。どのビルもテナントは飲食店、それもクラブがその大半を占めている。
そのうちの一つのビルの六階に《鳳》〜おおとり〜というクラブがある。
ボックス席の並ぶ店内の奥に、人目に付きにくい様に設えた部屋がある。
ドアを開けた中は、15名ほどの人間がゆったりと接待を受けられる空間になっている。
高級店などによく見られるVIPルームということだろう。
政治家、芸能人、スポーツ選手など、各界の著名人達が頻繁に利用している《Club鳳》。
この個室に4人の男が、その倍の人数のホステスに囲まれて酒を酌み交わしている。
中央に座っているのは、仁和会若頭で組長代行の工藤博則。
ホステスを間に挟んで左右に、弁護士の村上豊昭、不動産会社の経営者、鳴海士郎が座っている。
数日前に坂井千夏の家を訪れた二人だ。
そして、彼等に身柄を拘束されているはずの千夏の元夫、桑嶋が和やかに工藤の対面に同席している。
『どうですか、会長の引退は。』
村上が、メタルフレームの眼鏡越しに工藤の顔色を覗きながら尋ねる。
『多分、来週の初めに発表するんだろう。』
『いよいよ、代行の時代ですね。
いつなんですかね、時期は。』
『年明けじゃないかな。』
『おめでとうございます、代行。』
『まだ早いよ。これから跡目の根回しやら大変になる。
跡目の候補は俺だけじゃないから、この話はここまでだ。』
工藤は話題を変えた。
『悪いけど、呼ぶまで席はずしてくれるか。』
促されたホステス達は部屋を出て行く。
『それで、どこまで進んでるんですか先生。』
四人だけになると弁護士の村上は話始めた。
『桑嶋さんの元のカミさんには会って来ました。
まあ、びっくりしてて、中々飲み込めなかったようですけど、期日は昨日でしたが、連絡は来なかったです。明日軽く追い込みます。』
『お手柔らかにお願いします。』
『桑島さん、安心して下さい。あなたの元奥さんに恐い思いなんかさせませんよ。ただね、あの女を大人しくさせないと病院にも迷惑掛けてしまいますからね、まぁ、今は元の奥さんに骨折ってもらいましょう。それに、簡単に一億って言っても現金を揃えるのは時間はかかりますよ、不動産を担保にとなればねぇ。』
千夏の許を訪れた弁護士も不動産会社の社長も、仁和会の工藤との繋がりがあった。
今回の問題は彼等が描いた絵図、言って見れば狂言だった。
その事にまだ気付いていない桑嶋が、三人からすれば笑いを堪えるのに困るほど滑稽に見えた。
千夏は尊の言う通りに村上が指定した期日が過ぎても連絡を取らずにいた。
いつ彼等から連絡が来るかと気が気ではなかったが、徳田の勧めで彼の所有するマンションの空いている部屋に身を隠していたので、乗り込まれる事への心配は無かった。
このマンションは、徳田の父親がケーキ屋を営んでいた生家の土地に建てた賃貸マンションで一階でコンビニを経営し、最上階に徳田夫婦と長男夫婦が住み、一階のコンビニは長男夫婦がその経営を任されていた。
ケーキ屋は、徳田の代で閉業している。
その三階の空部屋に千夏は匿われている。
千夏の住まいには時折、徳田が様子を見に行っていたが、変化は起きていない。
桑嶋から千夏への連絡もなかった。
もちろん千夏は不安な気持ちだったが、自分の身に起きていることをあの尊が知っている。
そのことが、言い表せない程の安心感になっていた。
千夏は、もしあの時、尊の前に座っていた自分が、四谷駅で電車を降りなかったら、二人のそれからがどうなっていたのだろうと、今の年齢で考えたところで意味のない事を想い自嘲気味な笑顔の自分に気がついた。
千夏が、徳田のマンションの部屋で、たわいも無い想いに浸っていた頃、尊は神楽坂に近い九段の喫茶店で尊の右腕だった西田竜二と会っていた。
『オヤジ、この村上って野郎は本家の顧問弁護士です、それと鳴海は工藤のオジキの企業舎弟で、もっぱらオジキの金儲けを仕切ってます。』
『この話は、工藤が絵図描いてるってことか。』
『多分、そうじゃないですか。』
『医者に美人局仕掛けた女はまだ判ってませんが、明日には誰だか判ると思います。』
『世話かけたな、もうひと息たのむわ。』
尊は、そう言うと封筒に入れた現金を西田の前に置いた。
『すみません』と会釈して封筒をしまう西田。
尊は、テーブルの上の濡れた伝票を拾い上げるようにして、席を立った。
靖国通りに夕闇が迫っていた。