時の向こう
長い電話だった。
徳田は酒井千夏に話したかった用件も忘れ、50年も昔の想い出に浸っていた。
千夏も徳田からの電話があった直前迄の憤りをすっかり忘れて、中学生時代の懐かしい想い出の中にいた。
『ところで、突然電話したのは伝えたいことが有ったんです。すっかり無駄話をしちゃいました。すみません。』
『とんでもないです。懐かしいお話が出来て、楽しかったわ。』
人間は歳をとると、声が低くなるというが、電話から聴こえてくる千夏の声は、あの頃と変わったようには感じられない。
徳田は、二年と三年の時に千夏と同じクラスで席も近い事が多く、クラスを幾つかの班に分けて行う理科の実験や技術家庭科の授業では決まって一緒の班だった。
学校という所は、どのクラスにも美人だと評判の生徒が居て、生徒達があれこれ噂にしたりしたものだが、千夏は学校でも評判の美しい生徒だった。
『実は、小田が・・小田尊ですが、判りますよね。』
『オダ・・小田君?』
『そうです、小田尊です。』
『懐かしい名前ね尊君、お元気ですか?』
『その尊のことで連絡したんです。』
『そうなんですか、どんなお話でしょう。』
『それなんですが、だいぶ長話になったので、もしよかったら会って話させて貰えませんか?』
徳田の言う意味が千夏にはよくわからなかったが、小田尊のことを、また話題に出来るのと思うと、思春期の少女のように胸がときめいた。
翌日の午後、徳田と会う約束をして電話を切った。
場所は、徳田の経営する《SAKA》だ。
千夏は、娘の美乃里が十五歳の時に離婚し、実家に戻った。
千夏は四〇歳だった。
それから二五年近くが過ぎている。
幸い両親に助けられ、子供と二人の生活は経済的に苦労はなかったが、出戻りの身に今日までいろいろな事は、当然あった。
母親に子供を預けて勤めに出たが、一年程で父親の不動産業を手伝う様になり、四五歳の時に父親が急逝すると、亡くなった父親の跡を継いだ。
社長業にも慣れた頃、母が逝き、千夏は、娘の美乃里と二人になった。
必死になって会社経営に取組み、母親としても精一杯の愛情を娘に注いだ。
その娘も、彼女が五十を過ぎた頃に嫁いで行った。
独りになった日から、時折寂しさが足元から迫り上がって来るのを感じることがある。
初めて経験する感覚だ。
地元の様子もよく判らない自分にも気付かされた。
会社の経営からも、退こうかと考え始めた頃だった。
離婚して久しい桑嶋に問題が起きたことを知らされ、怪しげな弁護士の訪問を受け、気が滅入ったところに徳田からの電話、千夏は徳田が地元で店をやっていることも知らなかった。
徳田からの電話があった翌日の午後二時過ぎに千夏は、《SAKA》を訪れた。
彼の言った通り、昼時のピークを過ぎたこの時間帯に店の中に客はまばらだった。
『いらっしゃい、昨日はとんだ長電話で失礼しました。同級生だった徳田です。』
店の奥から出て来た徳田は、目元や口元に僅かに面影を残してはいるものの、路ですれ違っても判らないほど風貌は変化していた。
それは自分も同じだろうと千夏は思ったが、『坂井さん、変わらないなあ、若い。』
徳田はそう言った。
たしかに社交辞令ではなかった。
肌の色艶、姿勢、雰囲気、どれを見ても、千夏は美しく若かった。
徳田に促された席に腰を下ろして、アイスコーヒーのストローに口をつけた。
『小田君、お元気なんですの?』
徳田の眼を覗き込むように千夏が尋ねる。
『元気ですよ。』
『そうですか、私ね高校の一年になったばかりの時だったと思うの、一度だけ飯田橋のホームで彼に会った事があるんです。それが最後だったですかね。』
『千夏さんは、それから後の尊のことを何も知らないんですか?』
『大学に入ったと言うのは、聞きましたけど、その後は、今どうしてらっしゃるの、もうお孫さんの二人や三人居るんでしょうね。』
千夏は、嫁いだ先が厳格な開業医の家だったのと、桑嶋が結婚してすぐにカリフォルニアの病院に勤務することが決まり、三年間を米国で暮らした。
帰国してからの桑嶋は、父親が院長、その弟が理事長を務める桑嶋病院の副院長に収まった。
米国での三年間と帰国後の忙しさから、千夏は学生時代の友人達とは疎遠になっている。
『驚くかもしれないけど、尊は十八歳になってすぐに、暴力団同士の抗争に巻き込まれ、結果的に人を殺してしまったんです。』
力強い何かにはじき飛ばされたような衝撃が千夏の身体を襲った。
徳田は、順を追って尊についてを話した。
運悪く対立抗争中の組の人間から襲撃されていた指定暴力団仁和会会長、佐々木鋼太郎を助けたことから、尊の人生は大きく変化した。
千夏には簡単に信じられる事ではなかった。
徳田は、その尊が長い刑期を終えて帰って来ていることとヤクザを辞めたことを話した。
長く重たい時間が続き、ため息と驚きの連続だった話に光明が見えた。
尊は、罪を償い一般人になっている。
千夏が知っている尊は、陽気な性格でいつも彼の回りには男子生徒が集まっていて笑い声が絶えなかった。
いろいろなスポーツを得意として、その中でも脚の速さは群を抜いていた。
その尊が暴力団に入り、殺人を犯し、刑務所に入りと千夏には信じられない事ばかりだったが、彼がどのような思いで生きて来たのかと思うと、その世界の人間に対して一般の人が感じる畏怖の思いは無かった。
それよりも本意ではない道を歩み罪を重ねた尊を不憫に思う気持ちが、胸いっぱいに拡がり、千夏は涙を浮かべていた。
『小田君は、今日も・・・。』
千夏が尋ねかけた時、チリンという音が鳴り、店のドアが開いた。
小田尊がそこにいた。