無駄
───それから数日、雪は一心不乱に山を下りた。
女の足で経験もなく山を下りるのは簡単な事じゃなかった。
突き出した岩に何度つまづいたか覚えていない。
下山を始めて間もなく、鼻緒が切れて使い物にならなくなった草履は捨てた。
裸足で歩いた地面はまるで刃を突き立てられたかのように痛くて、皮膚が破れてたくさん血が出た。
人が歩く道など用意されているはずもなく、草木を掻き分けながらやっとの思いで進んだ。
休みながら降りていたらその前に捕まってしまうと思い休まずに足を進める。何より、今休んでしまうと気絶しそうだったから。この疲労加減じゃ、“少し休む”という制御が利かない。
それほど、雪の意識は朦朧とし始めていた。
「……あっ!」
足が縺れ、傾斜した地面に沿って身体が反転した。
まずいと思った瞬間には全身に痛みが伴っていて、斜面を下り落ちていく。
やがて大木にぶつかる形で受け止められ、肺が圧迫するような感覚に呼吸を奪われた。
「はぁ……はぁ、……ぐっ!」
打ち付けた全身よりも激しい痛みを訴えた腕を抑える。
おそらく、骨が折れた。
身体を起こそうにも力が入らず、雪は呼吸が整うまで待つことにする。
(……これも、罰なのかな……)
運命から逃げた“罰”。
露出した手足は木々に引っ掻かれ傷だらけだし、足は皮膚が裂けて見るに堪えない。
腕は折れてしまったし、服に隠れてはいるが打撲や捻挫で服の内側も酷いことになっているだろう。
こんな傷モノ状態で、“烏天狗の妻”に戻ることなど有り得ない。
この時点でもう、後戻りは出来なくなった。
……なんて。
「…………バカみたい……」
ぐっと土を握り締める。
この状況を己で作っておきながら、まだ未練たらしいことを言っている自分が腹立たしい。
包丁で指を切っただけで大騒ぎした飛燕が頭に過ぎる。
『女が傷を作るな』って怒られた。
そんな彼が今の私の姿を見ればなんて言うだろう。軽蔑するかな。いや、もしかしたらそれ以前の問題かもしれない。
(……これだけ汚れてしまったら、もうおしまいね)
雪は己の醜さに苦笑し、折れていない方の腕の力を駆使して体を起こす。
どうせもう元には戻れない。
どれだけ汚くなっても、あの人には関係ない。
今はそれよりも、前に進まなくてはならない。
ここで止まる訳には行かない。
大木に頼って何とか足を奮い立たせ、杖になりそうな都合のいい折れ木を支えにして歩を進めた。
朝日を三回見たと言うことは、もう三日が立った。
きっと、灰羽たちが私を探している頃だ。
いくら鼻がいいにしてもこの広い山の中から探し出すのはきっと難しい。
何より、私がいなくなったことを飛燕に伝えに行く可能性だってある。
そうなったら……彼が戻ってきたら……、きっともう手遅れだ。
雪はなんとか意識を前へ向ける。
飛燕が戻ってくる前に、灰羽たちから見つかる前に、村にたどり着かなくちゃ。
何も出来ないままゲームオーバーなんて嫌だ。絶対に、絶対に。
雪は目に滲む涙を誤魔化すように空を見上げた。
夕日の色に染まった空には、烏天狗ではなく鷹が飛んでいた。
***
やがて、夜明け頃。
混濁してきた意識の中、漸く生まれ育った村の入口が見えてきた。畑に囲まれた村は、古民家がいくつも隣合っていて荷を運ぶための馬の馬舎が点在している。
(───ああ、)
村だ。私が生まれ、育った故郷。
山のすぐ麓にあるが、すごく遠く感じていた。飛燕たち烏天狗の羽があれば、きっとすぐに来られる距離…………私は、三日近くもかかってしまった。けれど、戻ってこれた。自分の足で、ちゃんと。
涙で滲む目を擦りながら、村の出入口まで足を進めれば、ぼとりと何かが落ちる音が前方から聞こえる。顔を上げれば、カゴを落とした母の姿があって、目を見張った。
母は元々朝が早い人だった。誰よりも早く起きて、井戸から水を組み、朝食の準備をするのが母の仕事だった。他にも馬の餌をやるために早起きしている数人がいて、見知った顔のみんなの存在に胸に何かが混み上がってる。
「お……母さん……」
ずっと会いたかった人がそこにいる。雪は涙を滲ませて、ずり、と傷だらけの足を引き摺った。母は目を見開いて、恐る恐るこちらに足を運ぶ。きっと驚かせてしまったのだろう。雪は少しでも母を安心させるために優しく微笑ん
───パンッ!!
「何をしているんだいアンタは!!」
肌を打ち付ける音と重なって、怒声が早朝の村に響く。何が起こったかわからない雪は打たれた反動で横を向いたまま唖然とした。ヒリヒリと痛む頬の感覚が、混濁とした意識を取り戻すきっかけとなった。しかし、未だに自分が何をされてどうなっているのかが理解できない。
「あぁぁぁあぁあぁぁ……! 烏天狗たちの奇異に触れる……!なんてことをしてくれたんだ!このッ、このっ!」
今度は思い切り押し飛ばされ、倒れ込んだ私に馬乗りになる形で更に顔を殴られる。その間も母は何かを叫んでいたが、言葉を聞きとる余裕などなかった。身体中がボロボロで、腕も足も痛いはずだし、今も殴られているのだから、痛くてたまらないはずなのに……何故か、痛みを感じない。
「昨日、烏天狗が来たよ!あんたが居なくなったって!! ふざけやがって……っ、贄になった娘がノコノコと帰ってくるんじゃないよ!この穀潰し!!親不孝者!」
子供の頃見た事がある馬の調教のひとつに、ムチでばしばしと叩かれる躾があった。痛そうだと他人事のように見ていたが、こんな感じなのかと、この状況でそんなことを考える雪の精神は普通ではなかった。
あんなに優しかった母に繰り返し殴られる最中視線を上げれば、いつの間にか集まった村人たちがまるで怪物を見るかのように私を見下ろしていた。厄介者を見る目だ。私を引渡す時は、その前までは、あんなにも友好的で優しかったのに。
「はよ帰っておくれ!それかここで死にな!村であんたを囲ったなんて思われたら、あたしらが殺されちまう!」
顔を真っ青にした母は雪を一蹴りすると、汚物に触れたかのように身体を払って上から睨みつけた。雪は虚ろな目で色を取り戻してきた空を見上げながら、手を伸ばす。
(──私、一体何を期待していたんだろう)
もう、全身の感覚がない。痛みを感じないということは、もう壊れてしまったのだろう。
ここに来れば、きっとみんな、いつものみんなに戻る。本当は私を贄になんてしたくなかった、仕方がなかったんだ。だからあんなふうに冷たい言葉を吐いたし、あんな結果になってしまったんだ。家族は、村のみんなは、みんな私を愛してくれていた。愛情だってちゃんと感じてた。だから、そう…………私が望めば、きっと、みんな一緒に逃げてくれるはず。私と共に生きてくれるはず。だって私は、みんなの“家族”だから───。
「………………はは、」
我慢ならない笑いが込み上がってくる。傷だらけで土埃に塗れた手を見上げると涙が流れた。
「……汚い」
とても女の手には思えない。こんな手になってまで、頑張って降りてきた背後の山。私にとって唯一の希望だった目の前の人達。……やはり、人生など思い通りにならないのだ。どれだけ望み、焦がれても……無意味なものは無意味なのだから。
雪は最後の力を振り絞って身体を起こす。騒ぎに気づいた父や兄も家から出てきていたらしいが、助けるどころかみんなと同じ表情をしている。しかし、それが雪に冷静を与えてくれた。たとえ血が繋がっている“家族”だとしても……ここまで“人間”は非情になれる。つまり、私が“そうであって欲しい”と願ったことは、時に見当違いにもなり得る。全ての“家族”という団体に当てはまるとは言わないが、少なくとも私の“家族”は……そうだったんだ。
「来な!」
私を捕らえようとした母の手を振り払う。
「触らないで」
初めて向けた軽蔑の目に、母はカッと顔を赤くして声を荒らげる。
「あんた、親になんてことを…!」
「あんた達なんか親じゃない」
「なっ……!」
「人間ですらない。烏天狗たちがどうこう言ってるけど、あんたたちの方がよっぽど残酷で奇怪だわ」
そんな雪の言葉を皮切りに、村人から怒声が弾け出す。ふざけるな。化け物と一緒にするな。生贄のくせに。混ざりものが。死ね。消えろ。村から出ていけ。そんな言葉が鈍器のように投げかけられる。
雪は心底己のした行動の無意味さを痛感する。この人たち相手にまともに会話など出来ない。この村は歪んでいる。婚約者を告げずに花嫁修業をさせたことなんていっそ問題じゃない、この厚顔無恥な人間たちを“私を愛してくれる人達”だと思い込ませられていたことこそが、狂っているのだ。
昔一度、厳しい母の教えに疲れて家出した時、家族が迎えに来てくれた。『雪は頑張っているのに、無理をさせてごめんね。少しずつでいいからね』と母は謝ってくれて、そんな日があったから私は次の日からも頑張れた。けれど今思えば、私を迎えに来たのは心配した訳じゃなく、“生贄”を逃がさないためだったのかもしれない。それ以降、母が優しくしてくれたのは……また逃げられないようにかもしれない。父や兄が美味しいものを優先的にくれたのは、健康的な贄にするためだったのかもしれない。
「…………」
地面に転がる杖を拾い、踵を返して歩き進め始める雪に「どこに行くんだい!」とまたも怒声を上げる母を無視する。最初から最後まで、私を心配することはなかったそれに、最早なんの感情も浮かんでは来なかった。これが、“失望”というものか。
(私は、何のために…………)
こんな人達だと知っていたら……全てが嘘だと知っていたら、山を降りたりなどしなかったのかな。それでも、家族に会いに山を降りたかな。わからない。けれど、
(なんて、無駄に命を懸けてしまったんだろう)
会いたくて仕方なかった家族に会って、今はもう顔すら見たく無くなってる。元々この村に居場所なんかなくて、次は追っ手から逃げなくちゃならない。逃げる体力なんてありやしないのに、自分を守るために、生きるために、歩かなくちゃいけない。誰も守ってはくれないから。
「……はは……」
こんな時に浮かぶ顔が、よりにもよってあの男なんて。本当の意味で居場所をなくしてしまった今、どうこう思ったところで遅いけれど。