居場所
やがて、出立した烏天狗達が視界で認識出来なくなった頃。雪は一息ついて、踵を返した。ひとまず、朝食を取らなくては。毎日の日課であり、本日の重要イベントである“お茶出し”の時間は、朝食後だ。
「奥方様、朝食のご用意が出来ておりますので中へ」
「えっ、私まだ……」
「本日は出立もあり朝も早かったので、私が担当致しました。お口に合えばいいのですが」
「…………」
灰羽の自然な優しさが更に胸に杭を打つ。ここから出た後、もし見つかって捕まったとしたら──もうこんなふうに優しい表情で私を見てはくれないだろう。脱獄した生贄に待つのは厳しい罰のみ。あやかしの逆鱗に触れれば最後、待っているのは死か、死と同等の生き地獄。
優しい飛燕や灰羽のそんな姿を想像したくもなくて、雪は現実から逃れるように顔を逸らし、ぐっと歯を食い縛るとふところを撫でた。
着物の内側でカサ、と音を立てたのは、いつぞやか飛燕の部下である烏天狗が教えてくれた植物から作った眠り薬だ。人間には効かないが、あやかしにのみ効果があると聞いた妙薬。相当な効力らしく、一口口にすれば数分で強い眠気が襲い、最低でも一日は眠ったままになるらしい。
自分で試して見たものの、やはり人間には効果が無い。その為、一発本番になってしまうのがこの作戦の肝だが、失敗は許されない。
灰羽が用意してくれた朝食を口に運びながら今日の流れを頭でシミュレーションする。
この日のために、毎朝一族の皆にお茶を煎れる習慣を作ってきた。だから、お茶にこの薬を混ぜれば、彼らが口にする分には何の問題もない。ただ問題点といえば、烏天狗は鼻がいいというところだ。念の為それらにも保険はある。嗅覚を麻痺させるという花を昨日のうちに城中に飾り、行けた水にはそれぞれ感覚を麻痺させる毒を流しておいた……が、それがどのくらいの効果を発揮するのかは今のところ不明瞭だ。
薬といい花といい、自分が人間故に効果がいまいち掴めない所が不安点であるが、こればかりは祈ることしかできない。
食後間もなく、雪は厨房に足を運んだ。
今城に残っている烏天狗は灰羽を含めて九人。灰羽以外は皆、全六ヶ所に渡る見張り台務めになるため、朝のこのタイミングでお茶を飲ませれば、烏天狗を分散させることも出来る。あとは灰羽の様子を見て、効果が出れば、眠った後に痺れ薬を飲ませて拘束させれば問題ない。
(付よまわれ……)
サラサラと粉薬が湯に溶け込んでいく。それを優しくかき混ぜて、匂いを確認した後に湯呑みを盆に並べていく。
間もなく、茶を盆に乗せた雪が露台に集まった烏天狗たちの元へと顔を出せば、「待ってました!」とこれから見張りに向かう烏天狗たちが当然のように降りてくる。これから半月間は交代も無くほぼ無休で見張りに務めなくてはならず、大変な思いをすることだろう。
「いつもありがとうございます、奥方様」
「これを飲まねば一日が始まりませぬな」
嬉しそうに湯のみを受け取る彼らの反応を見る限り、やはり私は茶を入れるのは得意らしい。子供の頃から施されてきた花嫁修業の中でも茶を煎れるのは割と上手く、まさかそんなちょっとした特技が役に立つなんて思いもしなかった。
(けれど、それはいつもと違うものよ)
あなた達にとって、良いものでは無い。何せ、毒花から作った強い薬が入っているのだから。
チクリと痛む胸を誤魔化しながら、「どうぞ召し上がれ」と作り笑いを落とした。これ以上の情けは無駄だ。いっそ、早く薬が効いて眠ってくれた方が有難い。
「いただきます、奥方様」
灰羽がにこりと微笑む。その笑顔から逃れるように、ひとつずつ盆から消えていく茶を俯瞰して、動悸する胸の音の反響を聞いていた。どうなるか分からない目の前の未来に、気が狂いそうだった。
***
それから約半刻後くらい経った頃、効果はで始めた。共に書物の整理をしていた灰羽がガタリと膝から崩れたのだ。
「……灰羽?」
まさか薬の効果が、と期待し近づけば、目元を手で覆いながら「いえ、何故か……」と意識が朦朧としていながらも懸命に立ち上がろうとする灰羽の姿があって、雪は静かに目を細めた。自分が作った薬の効果を目にして、嬉々とする。
「朝も早かったし、睡眠不足なのよ」
「ですが、私は……」
“烏天狗なのに、そんなはずない”。そう言おうとしたであろう灰羽は到頭立っていられなくなる。彼の言うことは最もだ。烏天狗は……いや、“あやかし”は、人間のように睡眠を取らなくても活動できる。朝より夜が得意で活動的になるとい性質こそあれど、バランスのいい食事を取ったり睡眠を取る必要性はさほどないのだ。故に、一日起きていることも普通にできる。そんな灰羽がこんな状態になるということは、確実に“効いてきた”証拠───。
「ほら、無理しないで休みなさい。私の仮眠所貸してあげるから」
書庫にこっそり作った勉強スペースに敷かれた柔らかい布の上まで灰羽を誘う。これは恐らく、体を横にした瞬間に落ちる。そう確信できるほど灰羽の身体は力が入っておらず、女一人で寝所まで運ぶのはさすがに無理だと判断した。
「……すみ、ません…………奥方さ、ま……」
体を横にした瞬間、そう言ってぴくりとも動かなくなってしまった灰羽に小さくごめんと言って布団を掛けてやる。薬を流し込ませ、一応呼吸を確認し、生きていることを確認した後に立ち上がって自室へ向かう。
動きやすい着物に着替え、防寒羽織りを着た。ただでさえ足場が悪い山だ、下に向かえば向かうほど急斜面になるはず。しかし、時間が無い。灰羽たちがいつ目が覚めるかも定かじゃないから、なるべく急いで山を降りなくてはならない。
山下りなど未経験な為胸に一抹の不安を抱えながら、部屋の隅の衣紋掛けに目を移す。ここに来た時に飛燕がくれた、雪をイメージした静かだけど鮮やかな印象の着物だ。あまりに綺麗な着物だから、あの日以来着てないけど…………。
「……持っていくなんて、できないわよね」
そんなこと、する権利がない。いい思い出だけ持っていこうなんて卑怯なことを考える自分に吐き気がする。
嘲笑めいた息をつき、雪は踵を返して城を出た。追っ手が来てもいいように地味な色合いの着物と羽織を来て、頭に布を巻いた。その姿は宛ら逃亡犯のようで、いっそ笑いが込み上げてくる。
「さようなら…………」
私の、居場所だったかもしれない場所。
皮肉の交じった言葉を吐き出して、雪は下山をはじめる。冷たい風が頬を撫でた。