虚しい
雪は矛盾する心を拭うように首を左右に振り、気を紛らわす為に散策に移ることにした。どうせここからすぐに逃げることなんて人間である自分の足じゃ叶わない。それなら、烏天狗の居城がどんな作りで、ここがどんな立地なのかを知る必要がある。
幸いなことに普段見れない草花が咲いているし、高山ならではの興味深い所は多数ある。勉強したい。…………だが、
「ちょっと……着いてこないでくれる?」
「頭首様のご命令ですので」
ひとり余計なのがいる為、気軽に情報収集は出来そうにない。淡白な物言いをする灰羽に頭を抱えた雪は、くるりと背後に向き直った。
「心配しなくても逃げたりしないってば。私の足でここを下山するなんて無理、そんなの理解しているわ」
「それはこちらも分かっておりますが、頭首様のご命令ですので」
「……貴方ね」
同じ台詞のループにため息が込み上げる。何故こうも頑ななのか、こちらへの警戒心故か先程外した仮面は再び顔に戻されていて、表情も読めない。
「頭首様頭首様って、自分の意思はないの?」
「頭首様のご意向が私の意思です」
「…………」
成り立たない会話に苛立つ雪だが、これ以上は何を言っても不毛なことも分かったため会話を取りやめる。ストレスで再度込み上げてくる溜息を盛大に吐き出すと、目の前の堅物を無視して、この高山ならではの真っ青な空と、それに並ぶ赤漆の居城を見据えた。改めて全体像を見ると、益々その豪壮さに気付かされる。
豊かな緑と花に囲まれ、青々とした空が目の前にあり、白は芸術品がごとく美しい。美しい景色や綺麗な草花が好きな自分としては、この景色を拝めた部分だけはよかったと思う。
「お気に召しましたか」
「!」
先程まで石像かのように突っ立ってるだけであった灰羽が急に声を出したものだから、思わず悲鳴をあげそうになる。声をかけられるなんて思ってもいなかったから「……ええ、景色だけはね」となんとも嫌味な返事をしてしまう。
しかし、本心だ。ここは、見るもの全てが美しい。だがきっと、それは目に見えるものに限る。美しい景色と心地よい風に撫でられながら脳裏に浮かぶのは、やはり昨晩の事。
華やかな着物を着せられ、白粉を塗り唇には紅を引いた。髪には香油を落とし帯には花を飾り、“花送り”の名の通り、自分は花のように可憐な姿でまるで贈り物のように籠に入れられ、烏天狗たちに差し出された。村のみんなが満面の笑みで身支度をしてくれた。こちらの声を聞いてもくれなかった家族が、最後まで『誇らしい』と狂ったように笑っていたのを……今でも鮮明に覚えている。
村のみんなの道化のような顔が浮かび、ゾッと背筋が冷える。でも同時に仕方がなかったのかもしれないとも思う。あれだけ烏天狗に脅えていたのだから、花送りを辞めることも……きっと出来なかった。最後の最後まで、私が烏天狗に引き渡されることを黙っていたことに作為的なものを感じるけれど、でも、もし自分が両親の立場なら? そう考えたら、恨みの方向性は変わってくる。
けれど、どうしてもあの男──飛燕が悪者には見えない自分がいる。たった一日と少ししか一緒にいないのに、ふとした時に常に私への気配りを忘れないところ、そして、宝物のように大切に扱ってくれるところ、言葉が優しいところ。それらが嘘とは思えなくて、心が混乱する。
今のこの状況を作ったのは間違いなく彼だ。彼を恨んでいいはずなのに、どこか心がモヤモヤする。
「…ねえ、飛燕はどういうひとなの?」
特に何も考えずに、気づけばそんな言葉を灰羽に向かって口に出していた。
籠に乗せられるとき、村のみんなは『烏天狗様に失礼のないようにな』と気持ち悪い笑みを浮かべて私を押し込んだ。出してくれと頼んでも一切聞き入れてくれなくて、四肢を拘束されていたため自分で逃げることも出来なかった。あやかしの花嫁になるとはしらなかったし、挙句、籠の外から聞こえる烏天狗らしき声は低く高圧的だったから……殺されるのではないかと終始生きた心地がしなかった。
この城に着いて籠から下ろされて……初めて烏天狗を目の前で見た時の恐怖は今でも忘れられない。空を舞う彼らは儚げで美しく煌びやかなのに、いざそれを目の前にすれば五尺二寸六分はありそうな体格、恐ろしい鴉の面に全員が武装していたのだ。殺されると、本気で思った。
しかし、蓋を開けてみれば真摯な対応をする飛燕。怖い思いをしたし、家族と離れ離れになったきっかけの男だが…………。
やはり定まらない気持ちに胸を抑えれば、灰羽はたった一言、
「ご立派な方です」
と目を伏せて口にした。頭首様頭首様と心酔しているくらいだから、もう少し詳しい話が聞けると期待した雪は露骨に“それだけ?”という顔をする。しかし、あまりにも抽象的で在り来りな言葉だったそれは、灰羽にとって一番飛燕を表せる言葉だった。
「少し……昔の話とはなりますが、」
「え?」
“かつての烏天狗一族は荒れていた。村を襲い、食糧を奪い、女を攫い、畑を荒らし、時には武力を駆使て人を殺すこともあった。今とは程遠い……、“秩序”などありはしなかった。”
「その状況を変えてくれたのが、現頭首・飛燕様なのです」
先程少し飛燕から聞いた話だが、灰羽の苦悶な表情を見る限り、当時は相当殺伐としていただろうことが伺える。
「飛燕様は──当時の諸悪の根源であったお父上を殺し、一族を纏めあげました」
飛燕の“秩序”へ向かう厳しい規律を守れない者、怪しい動きをする者、前科が多い者、その全てを粛清し、一族を“自警団”と名乗り、あやかし達の行動の抑制へと働き始めた。最初こそ反発するものが多くいたものの、危害を加えると判断したものに対する粛清は躊躇がなかった。多くの犠牲を払い、人間たちが暮らしやすく、あやかしたちが勝手をしない世界を作り上げた。
やがてその活躍を耳にした帝の提案で都と縁を結び、“警察”として烏天狗一族の存在を確立し、文字通り秩序の存在となった。
「飛燕様は、元々争い事が嫌いなお方です。そんなあの方が激しい抗争の末手に入れた“秩序”を…………私は守りたく思います」
「…………」
灰羽の話を聞いたら胸のモヤが取れると思っていた雪は、聞いた後でもそのモヤが拭えていないことに気づく。どうしてこんな状態になっているかが分からず胸に手を当ててみる雪に、灰羽は困ったように笑って、傍らに咲く紫の花に手を伸ばす。
「この花、ご存知でしょうか?」
「え?」
「ミヤマリンドウと言います。日当たりが悪いところで生まれる花のくせに、陽の光がないと咲けない花なのです」
「日当たりが悪いって……」
綺麗に開花しているその花は、明らかに日当たりがいい場所で可憐に花を咲かせている。
「飛燕様が植え替えたのです。陽の光の元で咲けるようにと、湿った日陰から……わざわざ」
灰羽の言わんとすることが分かり、雪は込み上げてくる気持ちの波に眉を寄せた。あやかしが、人外の異物が、そんな人間らしいことを……。ううん、人間でも、そんな優しいことをする人はそういない。そんなことを、あの男がやっているとは思えなかったから、胸の中の葛藤が雪の顔を歪めていく。
ミヤマリンドウ──見たことのない花だ。きっとこの当たりでしか咲かない花、もっと言えば、どこかの冷たい日陰から連れてきてあげない限り、見れない花。
「そんな頭首様が、手に入れたいと願った女性です。私は、どんなことがあろうと、頭首が選んだ貴方を歓迎します」
“手に入れたいと願った”───これまでの経緯には不一致な言葉に雪はまた胸を描き毟られたような感覚に陥る。灰羽が嘘をついているような感じはなく、先程の飛燕が口にしていた言葉も相まって、戸惑いは募るばかりだった。
(だって、そんなはず無い……有り得ない)
今の今まで会ったことなんて一度もないし、烏天狗は遠くの空で飛んでいる姿しか見たことがない。目の前で面と向かったのは昨日が初めてだし、長年の花嫁修業中、一度だって婚約者が誰かは聞かされていなかった。
だから、普通に考えて“有り得ない”のだ。まるでずっと恋していたかのような口ぶりだが、私の生きてきた十六年間を振り返れば……結果は見えている。
急に荒波のような虚しさが襲ってきて、急に泣きたくなった。これまでの話を聞けば彼が悪い人じゃないのは分かる。けれど、その“嘘”はあまりにも残酷だ。
「(あやかしが……人間に恋をするなんて)」
絶対に、有り得ない。涙が出そうになって、雪はぐっと唇を噛み締める。なんて酷い人なんだろう。こっちが恋するした事の無い初心だからってバカにして、そんな嘘をつくなんて。そんな嘘をつかれるくらいなら、いっそ……。
「少々風が出てきました、奥方様。こちらへ」
「っ……」
───“奥方様”。
その呼称で呼ばれて、言葉が詰まる。違う。やめて、お願いだから。私は、私たちは、そんな間柄じゃない。私はあくまで“贄”で、彼にとっては、子孫を残すための器でしかない。
これだけ部下に慕われているのだ。私との婚姻を、そのような夢物語に仕立てあげていてもおかしくは無い。あやかしだって、取り繕うことくらいあるはずだ。雪はそう思うことで胸のモヤを取り払おうとした。
(……だけど、なんでだろう)
───こんなにも、虚しいのは…………。