朝
閉まった引き戸を見つめながら、足元から崩れていく。
引き戸が締められるその一瞬までもこちらを睨みつけていた付き人達を見る限り、歓迎されていないことは確かだ。……いや、先程までの己の行いを見れば、歓迎するしない以前の問題だ。頭首を守るのが部下なのだから、彼らの警戒心は至極当然のことだ。
でも、だからといってあの男に優しくなんて出来ないし、現状を受け入れることも出来ない。今日になるまで何も知らなかった私にとって、それはあまりにも過酷だ。
雪は己を慰めるように身体を抱きしめ二の腕を摩った。
寒い。怖い。緊張の所為か、全身の筋肉が痙攣しているような気がする。汗が冷えて身体も冷たい。
(これから、どうしよう……)
村には戻れない。戻ったところで、きっと居場所なんてない。あの飛燕という烏天狗だって、今日は妙に聞き分けがよかったけれど……明日からはどうなるか分からない。殺される可能性だって充分にある。
そう考えたら、今ある命さえ奇跡のように感じて肝が冷える。震える身体を守るように再び抱きしめた。
(死にたくない、死にたくない、死にたくない)
前の生活に戻りたい。家族と共に寝て、ごはんを食べて、今までは禁止されてたけど……本当は両親の農家の手伝いだってしたい。やりたいことはいっぱいあるのに……どうして私ばかりこんな目に遭わなくてはならないのか。こんな高い山、己の足で降りることなどきっと出来ない。何より、烏天狗たちが囲っている以上、逃げることなど不可能だ。
その晩。八方塞がりなこの現実に、雪は枕に顔を埋め声を押し殺して泣いた。その微かな嗚咽を戸を挟んで聞いていた存在があることを、この日雪が気づくことは無かった。
***
──翌朝。
雪は戸から差し込む微かな陽の光で目が覚めた。
頭が働かないまま体を起こし昨日はどうやって寝たんだっけと思い返すが、烏天狗たちが部屋を出ていった後の記憶が朧だった。ちゃんと寝床に入って寝た覚えがないが、しっかり布団を掛けているし……無意識ながらにちゃんと入ったのかなと朧気な意識の中で思う。
泣き腫らした痛む目元を擦り、鉛のように重い身体をなんとか立たせて、締まり切った窓を両手で開く。
「……っ!」
───綺麗!
思わずそう声に出していた。開放的な空と俯瞰する一面の景色は鮮やかで、遠目に集落や海も見える。その事実が、この山が一帯で特に高山であることを物語っていた。
見上げた空には巡回をする烏天狗と鷹が競い合うように飛んでいる。その様子がなんだか異様で、思わず手を伸ばした。
昔からこんな風に……飛んでいる烏天狗に手を伸ばしていた気がする。村にいた頃より確実に手が届きそうな所にいる烏天狗の存在に、複雑で、割り切れなくて、胸に棘が刺さったような痛みを感じる。飛んでいる姿は、あんなにも綺麗なのに───。
「昨日式を挙げたばかりだと言うのに、もう浮気か」
「!?」
伸ばした手を取るように重ねられた大きな手に心臓が飛び跳ねた。反射的に身体を反らせば、昨日とは打って変わる山伏装束に身を包んだ飛燕の姿があった。烏天狗の正装とも言えるその衣装を着た彼の顔には昨日のような鴉の面は無く、昨晩よりもはっきり顔が見える。
「天を泳ぐ烏天狗に見惚れるのは求愛も同然。浮気は良くないな、雪」
「なっ……」
戯言を述べる飛燕に雪は顔を真っ赤にして、せめてもの反抗にと睨みつけた。そういうつもりがないのをわかった上でそんなことを口にしているのだから、尚更タチが悪い。
「……ところで、」
すると、次の瞬間 飛燕は眉を顰めて距離を詰めてくる。唐突な距離感の近さに雪はびくりと身体を強ばらせて後退するが、既に飛燕の指は雪の目元に触れている。
「……っ、何よ」
背はとっくに壁に着いていて、これ以上の逃げ場がない雪は精一杯の威嚇で飛燕を睨みつける。しかし、当の本人はこちらの顔をじっと観察するだけで何も言葉にせず、謎の時間が経過する。
そんな彼を訝しみ「いい加減離してよ!」と声を荒げれば、「……いや、」とだけ返ってくる。やがて開放された雪は、急いでそこから離れる。ただでさえ大男な上 羽まで生やして威圧的……そして何より、異物の“あやかし”なのだ。気軽に近づけるほど、心を許してはいない。許してはいけない。
雪は警戒を怠らず、飛燕とは反対の壁にぺったりと張り付いていると、昨日から何度目か分からないため息をついた飛燕は、ほら、とたとう紙に包まれたものを雪の方へと無造作に投げた。
自分の前の床に落とされたたとう紙を俯瞰すれば、飛燕は妖艶な顔で微笑む。
「今日は領地を案内する。それに着替えたら出てこい」
「はっ?」
「着替えの共が必要と言うなら、手伝ってやらんこともないが?」
「っ、馬鹿じゃないの!?」
さっさと出てけ!と声を荒らげて飛燕を部屋から追い出すと、怒りを込めて勢いよく引き戸を閉める。強制的に締め切られた引き戸をくつくつと笑いながら見つめた後、飛燕は朝食を用意するように部下に声を掛けた。