天女――空の女の知への憧れ――
天女がいて、ある日彼女は住みなれた空の国を離れ地上へと出かけていった。
どうして地面へ、あの汚れた大地へ降りていく必要があったのか?
無論、その必要はなかった。ただの興味本位である。
しかし何分にも空の国はあまりに満たされていた。
不足するものもなく、安穏とした心持ちで毎日を怠惰に過ごすのみだった。
空の国の人間たちは、そのためだろうか、何に対しても関心というものが薄かった。
そして天人たちには珍しく、その天女は好奇心というものをそなえていた。
当然、空の国ではその心が満たされない。
誰に聞いても腹の減らないメカニズムはわからないし、なぜ天がこのように暖かで安定した大気に満ちているのかを理解している人などいなかった。
天女は早々と自らの限界を知った。ここにいても何もわかりっこない。
だから、地上へ降りていったのである。
遙かな距離を、彼女は天の羽衣の力で降りていった。
なぜこのように浮遊できるのか、彼女もまた知らない。
そういう風になっているのである。
そして空を見上げると、もはや空の国は見えなかった。
羽衣の導きがなければ、天女でさえ空の国に帰ることは出来ないのだ。
降りたところは、湖のほとりだった。
はじめて見る水に、彼女は心を動かされた。
どうしてこんなにも透明なんだろうか。触ると冷たい。快い。
地の人々の理ではそれがはしたないことであるとは知らず、彼女は羽衣を脱ぎ、水を浴びはじめた。
そこへ男が現れた。
彼は湖のそばで漁を営み、小さな畑で自分のための野菜を作っていた。そして最近、たった一人の身寄りだった祖母に死なれていた。
彼は寂しかった。
そしてその日の漁に出ようとしたとき、素裸の天女と出会った。
彼は一目で心が奪われた。天女はそれほど美しかった。
天女も男を見た。男に対して、天女は興味を抱いた。
決して人並み以上の顔だちではなかったが、天女にとっては、地上の人間が珍しかったのである。
「あんた、こんなところで何を……」
顔を赤くしながら、男は言った。
目を反らそうとしながらも、ちらちらと天女の白い肢体を目に焼き付けていた。
天女は一糸まとわぬ姿のまま、そのことについて疑問を覚えずに答えた。
「わたしは、空の国からやってきました。ここに来れば、この世の理がわかると思ったものですから」
男にとってその言葉の意味はさっぱりわからなかった。
ちょっと頭のおかしい女だろうか。
どこかでそういぶかりながらも、男は小さな声でいった。
「そうか。……まあ、服をきなよ。みっともない。見てるこっちが恥ずかしい」
男の様子で、やっと自分がおかしなことをしていると知り、女はうなずいて服を着た。
男は女を愛した。愛について何ら知らない女にそれを説明するのは、男にとって一苦労だった。
地上に降りた女は不思議なことに空腹を覚えはじめ、今まで知らないその感覚に戸惑った。
しかし女には地上において何らの生活能力がない。食べることさえしていなかったのだ。
やむを得ず、男から施しを受け、それが何日も続くうち、女は男の家へ居つくようになった。
そして女は地の国の生活を知っていくこととなった。
それは、知識という面では到底満足できるものではなかったが。
男は魚を取る。しかしそれがどういう種類の魚なのか、なぜ朝方に漁をはじめるのか、なぜそのような漁の方法をとっているのか、など一つとして知らなかったからである。
ただ、男は経験の通りに漁を行い、魚を得た。
女もそれを手伝い、魚を取る喜びを覚えるようになった。
そして男は、やがて面と向かって、天女に自分の心を伝えるようになった。
しかし天女にはそれはわからない。
空の国には、愛というものがなかったのである。人は蓮の花から生まれるのだから。
「好きって、どういうことですか。つまりわたしは、あなたにとって何だというのですか」
「またそれか。つまり、それは……おれはさ、お前にずっとここにいて欲しくて……」
「ずっとここにいるではありませんか。あなたのお世話になって。それではいけないというのですか」
「でもな、それは……」
男には学が足りなかった。うまく説明が出来なかったのである。
けれども、女に自分の心をつつみ隠さず伝えていくうち、女は少しづつ理解を示しはじめた。
やがて女はいった。
「あなたは何度もわたしを好きだとおっしゃいました。……そういうことであれば、わたしも、あなたが好きなのかもしれません」
女はどこか、まだぴんと来ない様子だったが、それでも確かにそう言った。男は笑顔を浮かべた。
「じゃあ、結婚しよう。そうしよう」
「結婚? それは、一体、なんなのです」
万事そういう調子だったが、男は根気よく女に教えた。
女は不思議そうな顔をしながらも、男の言葉を了承した。
なんだか騙しているような気になりながらも、男は、女を妻に出来たことを至上の喜びとした。
そしてその日から二人は、夫婦としての生活をはじめたのである。
時が流れ、子どもが生まれ、男と女の生活は次第に張り合いを増してきた。
女には、まだこの世の謎の多くがわかっていなかったものの、毎日の生活に流され、不満足ではあるが、どこか芯の通った生活に納得はしていた。
しかしある日、このような考えが女に生まれた。
「このままではおそらく、この世のすべてはわからないだろう。夫と手を取り合っても、無理なことだ。しかし、こうして多少なりとも地上の知識を得たいま、漁に追われることのない天の国に戻ってしまえば、少しは前に進めるのではないか」
その日から女の表情に曇りが見られるようになった。
その考えが頭にこびりついていたのである。
そして、依然として男は女を愛していた。
女の顔の曇りの原因を男は尋ね、やがて女は正直に答えた。
「一度、空の国に帰りたいのです。そしてわたしの抱いていた、あの、焦がれるような知への想いを成就させたいのです」
女が家から離れてしまうことは、男にとっては辛かった。
二人いる子どもはもう大きくなってはいたものの、まだ親が恋しい年頃だったし、働き手の一人としても女が必要だった。
だが、女と話をするにつれ、最後には男は了承した。
「そういうことなら、許そう。お前は元々、空の国の人間なのだから。好きなようにするといい。そして、いつでも戻ってくるといい」
男がそういったとき、女の胸の中に、何か心の揺らぎがあった。
これはなんだろう?
女は戸惑いを覚えながらも、男に別れを告げ、押入れにしまってあった天の羽衣に再び袖を通した。
羽衣を着た天女は空へ浮かんだ。
地面へ目を向けると、夫と二人の子どもがこちらへ手を振っている。
女はその様子をじっと見つめながら、さっきの揺らぎを考え続けた。
空の国までは、思っていたより短い時間で着いた。
おそらく、はじめに地上へ降りたときは不安だったのだろう。
未知への旅立ち。それが時間を長く感じさせたのだ。
空の国は相変わらずだった。
薄いもやに満たされていて、暖かい。
そして空腹は覚えない。
女は立ち尽くしたまま、様々なことを考えた。
ここでは、立ったままでも疲れるということなどない。
じっと時間をかけ、ゆっくりと考えを進めた。
空腹を覚えないというのはどういうことか。そしてこの暖かさは? おそらく、異相が違うのだ。地上の生活とここは、根本的な理屈が異なっている。もしや時間の流れがないのではないか。
だとすると、どうして天人たちは成長をする? それはつまり、空の国の子どもたちは……、
子どもたち。
そこまで考えたとき、天女の脳裏に、自らの子どもたちの姿が浮かんだ。
その声も、頭の中で明瞭に響いた。
やがて連鎖的に、子どもを抱いたときの夫の喜びを思い出し、はじめて愛を告げたときの恥ずかしげな夫の微笑みが瞳の奥に瞬いた。
女は発作的に空の国から飛び出した。
天の羽衣の速度は、忌々しいほどに遅かった。
やがて男の家が見え、地に足が着くと、かけるようにしてその家の扉を叩いた。
扉が開き、夫と二人の子どもが並んで顔を出した。天女に気がつくと、男が笑っていった。
「案外、早かったな」
そして子どもたちが言った。
「おっかあ、お帰り」
疼くような心の暖かさを覚えながら、女はいつのまにか涙を流していた自分に気がついた。
女はそのときはじめて悟ったような気がした。
わたしは勘違いをしていた。いや、知らなかったのだ。謎を追い求めていたくせに。知を求めていたくせに。
これが……、そう、これこそが……。
「あなた、わたしの願いどおり、わたしは一つ、新たな知を得ました。これが、愛なのですね」
女は天の羽衣を脱ぎ捨てると、空へと放り出した。
それは女の意思のとおり、空の国へと向かって、ゆっくりと浮かんでいった。