22.やさしい殺人
戸坂直は、どこにでもいるような女の子だった。
どこにでもいるような、という例えをすると、「ではどんな?」と思われるかもしれない。
でも本人はそれ以外に自分を形容するに相応しい言葉を知らない。
身長がクラスで一番低くて、ついでに鼻も低い。
顔立ちは可愛らしいと言われることもあるが、悪く言うと子どもっぽい。
そしていつもむっつりと不機嫌そうに唇を閉じている。教室の隅で難しい題の本を黙々と読んでいる。
するとすぐに、可愛げのない子、という風に周囲からの評価は改められる。
そして戸坂直がどこにでもいるような女の子だったように、彼女が生まれ育ってきた家も、どこにでもあるような中流家庭だった。
あの日までは。
+ + +
「殺して」
聞き間違いではなかった。トザカは確かにそう言った。
硬直する俺に、畳み掛けるように喋る。
「あたしは魔法耐性が強いから。殺すくらいの勢いでやらないとリミテッドスキルは奪えないよ」
何故? 何のために? 疑問だらけで思考が回らない。
トザカは冗談を言っている顔ではない。
そもそも真面目な彼女が嘘や冗談を口にするところを見たこともない。
でもそんなの、尚更おかしい。
「何でそんな……。承諾できるわけないだろ」
ぐらり、と唐突に目の前の身体が傾いだ。
トザカは小柄で身長も低い。受け止めるのに困難はなかった。
が、触れた途端、異様な体温に驚く。
「熱が……!」
「……症状の進行が、あの中でダントツだった。痣も大きくなってるし……それにひどい目眩もずっとしてる。遅かれ早かれ、魔物になるんだろうね」
その頬に浮かんだ痣が、燃え上がるように脈動している。
それを見て戦慄した。まるで今にも蝶が羽ばたきそうだ。
そして蝶は限界まで育ったとき、この小さなクラスメイトを造作無く食らい尽くしてしまう――そんな怖ろしい想像が頭の中を駆け巡った。
「自分が、少しずつ自分じゃなくなってくのは、怖い」
「トザカ……」
トザカは小さく囁き、柵をよじ登るようにして再び立ち上がった。
両手を柵の上に投げ出すようにして身体を支えている。そうしないと真っ直ぐに立てないのだ。
俺は躊躇いながらも手を離した。彼女の意志を尊重すべきだと思ったからだ。
「少しだけ、あたしの話をしてもいい?」
やがて、多少は症状が治まったらしいトザカがぽつりと呟いた。
俺が無言で頷くと、どこか遠くを見ながらゆっくりと語り出す。
「あたしは平凡な、どこにでもいるような女の子だった。そしてあたしの家は、どこにでもあるような家で、毎日フツーに楽しく暮らしてたよ。……でもある日、そんな世界が一変してしまった」
トザカは深く息を吸った。
その弾みに、喉の奥が震えるような音を立てる。
「叔父が人を殺したの」
息を呑む。トザカは口元を大きく歪めた。
「その日から全部、おかしくなった。ほとぼりが冷めるまでは、祖母の家にあたしだけ引き取られることになった。
でも知らない土地でも恐怖は続いた。片時も休まらなかった。あたしは周りの目を気にして、親戚に人殺しがいる人間だってバレないように、とにかく必死で……必死で、毎日、どこにでもいる子どものふりをしてた」
さらに血を吐くような声で、
「誰にも関わりたくなかったの。何が理由でそのことを悟られるか分からないもの。なるべく目立たず暮らしてたかった。キミがホースの水をかけられたり、ボールをぶつけられたり、体操服を裂かれたり、コンパスで刺されたり、それに大切にしていた猫に、あんなこと……腕と鼻を骨折してたときもあったよね。転んだなんて嘘だって、気づいてたのに」
矢継ぎ早に言葉を放つ全身ががたがたと大きく震えている。
俺は思わず彼女の肩を支えた。それでもトザカの震えは止まらなかった。
「ごめんね、言い訳にならない。こんなの見て見ぬ振りをした理由になってない。ほんとはわかってるの、ごめんなさい」
「……トザカが悪いわけじゃない」
「病気になったのは罰みたいなものなんだよ」
トザカは首を持ち上げて俺を見た。
その凍りついた灰色の瞳の中で、俺は、どんな顔をしていただろう。
確かに目にしたはずなのに、よくわからなかった。
「だけど、だからこそ……あたしは誰も殺したくないっ。叔父みたいに、罪のない人を刺して、あたしのお父さんやお母さんに、大好きなみんなに……迷惑をかけたくない。産んだことを恥じてほしくない。絶対に……ああなりたくない。だから、身勝手なのはわかってるけど」
お願い、と。
柵から手を離したトザカは深く頭を下げた。
「あたしを殺してほしい」
「――――駄目だ」
トザカは俺の拒絶がきこえなかったように早口で言う。
「あたしに掛けられた制約の中には、自死を防ぐモノもある。どうせ魔物に成り果てて討伐されるか、追っ手に殺されるかしかない。ならキミがあたしを殺して。これから十五人殺す、その手始めと思ってくれれば」
「駄目だ。俺にはできない」
「……そう」
同じ言葉を繰り返すと、トザカははぁと溜息を吐いた。
諦めてくれたと俺は気を抜いた。
「じゃあ、こうするしかない」
ふら、とまたトザカの身体が傾いた。
俺は目眩を起こしたのだと思い、それを支えようと上半身を前のめりにする。
しかしそれは勘違いだった。
トザカの手が、俺の腰に挿してあった片手剣を一気に引き抜いたのだ。
「これでもまだ断るつもり?」
「トザカっ……!」
抜き身の刃を向けられ俺はたじろぐ。
トザカは細い両手でやっと剣を支えているが、足元が覚束ない。今にも倒れそうな顔色だ。
「グゥアッ!」
異変に気づいたハルトラが素早く起き上がり、目にも止まらぬ速さで接近してくる。
頼りない柵を、前歯が木っ端微塵にへし折った。
そして目の前のトザカに向かってその鋭い爪が振り下ろされ――
「やめろッ、ハルトラやめろッ!! 攻撃しちゃ駄目だっ!」
俺は必死にトザカを守るように立ちはだかった。
トザカは既に両手から剣を取りこぼしている。剣の柄は俺の方を向いて落ちていた。
自棄になっただけで彼女にはもともと俺を傷つける意志なんてないのだ。
「グル! グウウウッ!」
ハルトラの目は血走り、牙を剥き出しにして唸っている。
怒っているのだ。主人である俺が刃を向けられたから。
「ハルトラやめてくれっっ! 頼むッ……!」
「クルル……」
それでも何度も言い聞かせるようにお願いすると、やがて勢いは止まった。
悄然と鳴いたハルトラが後ろに下がる。それからトボトボと、また元の定位置に戻っていった。
「…………ごめんね」
「いいよ、もう」
振り返ると、ハルトラと同様にトザカがしょんぼりと俯いている。
俺は苦笑しながら、その傍らに落ちている剣を拾おうと腰を落とした。
「諦めるのは早すぎる。血蝶病の治療法だって、今はなくてもいずれ見つかるかもしれないし、それに本当に魔物になるのか? それだって王が吐いた嘘かもしれない」
「ポジティブすぎる希望的観測だ」
「いいんだって、それで」
「………………ナルミくん。キミは優しすぎるよ」
消え入りそうなほど小さな声音でトザカは囁いた。
「…………?」
違和感があった。
俺はゆっくりと視線を持ち上げる。
トザカの左胸に深々と刺さっていた。
俺の剣だ。
――俺が、拾うタイミングに合わせて屈んで……。
自分で剣身を握って、胸を刺し貫いた?
「な、んで……」
座り込んだトザカの青い唇から、ごぷりと、血の泡が噴き出る。
とても握ってはいられなかった。俺が剣から腕を離しても、小屋の壁を貫通して突き立った剣はびくともしない。
「優しさは、今のうちにできるだけ捨てるべきだね。少なくとももう元クラスメイトには向けない方がいい。大切なものを失ってからじゃ……遅すぎる」
切り裂かれた両手を、その力ない身体を、胸から溢れた鮮血がさらに濡らしていく。
トザカは眼鏡のフレーム越しに瞳を僅かに開き、ひゅー、とか細い息を吐いた。
「ねえ、ちゃんと、持っていって」
彼女が何を言いたいのか。
それだけは考えずとも分かる。
もう断ることはできなかった。
「《略奪》……」
生まれて初めて使う魔法は――血の臭いがした。
トザカの全身から、光の波めいたものが棚引き、俺の身体に向かってくる。
それを俺は立ち尽くしたまま受け取った。目を開いたトザカは、俺の顔を見上げるようにして……不器用に少しだけ、ぎこちなく笑ったらしい。
「……ああ、大丈夫。もうキミのリミテッドスキル……、見えない。ちゃんと、渡せた……」
駄目だ。
このままトザカを――この女の子を死なせてはいけない。
「願いは何だ」
「……え?」
俺の問いに、トザカがゆっくりと双眸を見開く。
「なに、言ってる。だからこれが、あたしの」
「違う。ぜんぜん足りてない」
「なにを……」
「洞窟で助けてもらって、ユキノの命も救ってもらって、リミテッドスキルももらって……それで俺はキミを殺すだけだなんて、そんなの取引とは言わない」
俺はその場にしゃがみ込んだ。
服が赤い血に浸っていく。そんなことはどうでもいい。
どうだって良かった。ただ、一言一句も聞き漏らさず、彼女の最後の言葉を聞き届けたかった。
「もう一つでも、二つでも、何個でもいい――叶えるから、言ってくれッ」
「…………じゃ、あ」
トザカは血塗れの手を差し出してきた。
驚くほど小さな手だった。
握られているのは――リブカードだった。
「あたしを、キミの……シュウくんの旅に、一緒につれていって」
「分かった」
カードごとその手を両手で包み込み、そっと引き寄せる。
どうにか笑った。笑えていたはずだ。
声は震えたかもしれないけど、ちゃんと俺は伝えられたはずだ。
「一緒に行こう、トザカさん。俺とユキノと一緒に、世界の果てまで」
覗き込んだ瞳から、ぽろぽろと涙が伝う。
虫の息のような儚い声だった。
それでも彼女は、こう答えたのだと思う。
「うん」
戸坂直は死んだ。
死に顔は穏やかで、まるで笑っているようにも見えた。
+ + +
にゃあ、と可愛らしく猫が鳴く。
その声に呼ばれたのだろうか。
同い年の妹の、目蓋が震える。
徐々に瞳が開かれていき、少し眩しそうにしながらも……開き切って、それから首をこちらに傾けた。
「兄さま……」
「うん。ユキノ」
俺は寝台の脇に寄り掛かって床に座っていた。
俺が答えると、ユキノは口元に弱々しい笑みを浮かべる。
その露わになった額を、ぺしっと柔く猫が叩く。
ユキノは目線で頭上を追うようにした。
「兄さま、あのね、ハルトラがいます……ここは天国でしょうか?」
「ううん、違うよ」
トザカが死んでしまった後、案内するハルトラについていった先に花畑があった。
白い、マーガレットによく似た花がたくさん咲いたきれいな場所だった。
俺はそこに彼女を埋葬した。
土を戻し終わるときには、巨大だったハルトラの身体はいつの間に縮んで、本当にあのハルトラにそっくりの姿になっていたのだ。
「兄さま、泣いていらっしゃるのですか?」
俺はその言葉に驚いたが――何も言わず、首を振った。
トザカの言っていた通りに少量の回復薬を飲ませる。
それからぽつりぽつりと、ユキノが倒れてから今までに起こった出来事を話した。
ユキノは大きく表情を動かすことはなく、静かに俺の話を聞いていた。
トザカのことは顛末まで話さなければならなかったが、彼女の過去の話には触れなかった。
少なからずユキノはショックを覚えていたようだった。ユキノとトザカは中学三年間同じクラスだったのだ。俺の知らないところで交流もあったのかもしれない。
俺は最後に、「ユキノ」と改めて呼びかけた。
謝りたかった。俺の所為で危険な目に遭わせ、怪我まで負わせてしまったことを。
でも、ユキノはきっと笑って首を振るだろう。それなら俺が今言うべきことは、謝罪ではないのだと思えた。
「これからのことについて俺の意見を伝える。だからユキノも、一切気を遣わないでいいから……自分自身の、素直な気持ちを教えてほしい」
神妙な面持ちでユキノが首を縦に動かす。
俺は頷いてから、話し出した。
「……目立たず、ひっそりと、二人で生きていけたらいいなって思ってたんだ」
「はい」
「でも異世界に来ても、そう簡単にはいかないらしい。……だから、俺は」
何が正しいのか。
何が間違いなのか。
分からないままだ。
それでも、気持ちは固まった。
「クラスメイトを一人ずつ殺そうと思う」
ほんの数秒。
それとも数分の沈黙を挟んでからだったろうか。
「――――はい、兄さま」
視線を合わせた先。
ユキノは、口元に怖ろしいほど美しい微笑を湛えていた。
「ユキノもずっと、そうしたいと思っていたのです」
第1章「兄妹の新生活編」完結です。また、本日タイトルを1部変更しました。
次回からの第2章も、がんばりますので引き続きよろしくお願いいたします!




