19.空飛ぶ猫
――ハルトラ。
思わずそう、呼びかけそうになる。
それほどに目の前の魔物があの猫によく似ているからだ。
もちろん体躯の大きさは明らかに違う。だけど、茶トラの模様はそっくりだ。四本足だけ白い靴下を履いたように見えるのも。
カワムラに《魔物捕獲》されていた頃は、黒い靄のようなものに全身を覆われていて、殺戮本能だけの獣のようだったのに。
「クルルル……」
でも今、目の前にいるソイツにはあのときと異なり、意志があるように見えた。
さらに黒フードをはじき飛ばした後、確かにその大きな猫は俺に視線を合わせたのだ。
ぴこぴこと耳を動かし、黒目がちの瞳を何度か瞬きさせて、俺のことを興味深そうに見つめている。
「――ナルミくんッ!」
時間にしてはほんの数秒の弛緩した空気を切り裂いて、一人の少女が俺を呼んだ。
振り向いた先、声の主は戸坂直だった。
木渡中学校三年二組。出席番号十五番。
俺の出席番号の一つ前だから、グループ分けでたまに一緒になる。
ショートボブに丸フレームの眼鏡。
それにクラスで最も身長が低いので、ほとんど小学生のような幼い外見だが、いつも物静かで声を荒げる場面など一度も見たことがない。
だからこそ、そんな彼女の行動に、驚かずにはいられなかった。
トザカは黒フードが脱げるのもお構いなしに、俺の名を呼んでいる。
その右の頬には毒々しい赤い蝶が舞っていて……いや、いま注目すべきはそこじゃない。
「っう……あああ……ッ!」
トザカは、エノモトの脇腹を短剣で刺していた。
見覚えがある。エノモトが腰に挿していたものだ。トザカはそれを掠め取り、エノモトの腹を刺したのだ。
動けず悶えるエノモトの手からユキノを取り戻したトザカが、切羽詰まった表情で叫ぶ。
「その魔物はあなたの言うことを聞く! すぐに指示して、ナルミさんを連れてここを脱出しろって!」
「…………!?」
予想外の展開に俺はたじろいだ。また何かの罠か?
いや、でもこの状況で罠を仕掛ける理由はない。マエノたちは俺をここで確実に仕留めたかったはずだ。トザカの行動は完全にその目的に反している。
マエノが血走った目でトザカを睨みつけ、ホガミに支えられながら憎々しげに叫んだ。
「トザカぁ……ッ! おまえ……!!」
違う。
トザカナオが、マエノたちを裏切ったのだ。
ならば――と思う。
トザカのことは信じられない。当たり前だ。
それでも、今は言う通りに動いたほうがユキノが助かる確率が高まる!
「ハルトラッッ!」
その名前で呼んだのは、何か考えがあってのことではなかった。
ただ俺は、それ以外の名前でその生き物を呼ぼうとはなぜか微塵も思えなかったのだ。
ばらついた魔法攻撃を器用に避けながら、魔物がぴくっと顔を上げる。
「頼む、ユキノを助けたい! ユキノを拾い上げて、ここから逃げてくれッ!」
「グァウッ!」
返事とも雄叫びともつかない声が応える。
ハルトラは立ち上がろうとする黒フードの群れを爪で蹂躙すると、颯爽と身を翻してユキノの元に走った。
トザカがしゃがんだハルトラの背に意識のないユキノを押し上げる。
ユキノは自分では掴まることもできなかったが、ハルトラは地を這うような姿勢で俺の前まで走ってきた。
「くッ……!」
目の前で腰を屈めた瞬間に一気に飛び乗る。
全身の毛が柔らかいので着地に支障はなかった。俺が片手でユキノの身体を抱いたのを確認すると、ハルトラは出口に続く穴に向かって勢いよく駆け抜けた。
「逃がしてどうする! 追え、追え!! はやくっ!!!」
焦ったマエノの声だけが木霊するがそれだけだ。
痛めつけられた人間では魔物の足には追いつけない。
ハルトラは全てを置き去りにして全力で出口に向かっていく。
姿勢を低くしがみつくような格好をしながら、俺はユキノの様子を見遣る。
微かに胸は上下しているが、瞳は固く閉じ、頬も唇も血色が悪い。
いつもユキノの回復魔法に助けてもらっておきながら、俺はユキノが辛いときに何の助けもできていない。
「ごめんな……」
血がかなり入り込んでいて右目はうまく開けない。
無事な左目だけを僅かに開けて、背後の様子を確かめる。
幸いと言うべきだろう、誰も追ってきていない。
これだけ距離が開けば、魔法攻撃も届かないだろう。
ほっとしたのも束の間、
「…………!」
洞窟の外から、何かの物音が響いてきた。
――大量の足音だ。
それに……金属がガチャガチャと当たっている音が聞こえてきた。
射す日光の加減からして出口はかなり近いが……このまま進んでいたら恐らくぶつかる。
でも、追われている以上は止まるわけにはいかない。
俺は覚悟を決めて、ユキノを抱く腕の力を強くする。
ハルトラも俺の思いを感じ取っているのか、さらに走る速度が加速していく。
そして洞窟を抜け、久方ぶりの眩しい光に包まれる瞬間、
「飛べッッ!!」
思いきり叫んだ。
――ダン! と。
前足で思いきり地面を蹴り上げる。
後足のバネを活かして踏み切り、さらに、上に。
俺たちを乗せたハルトラの身体が、遥か頭上に飛び上がる。
空を飛んでいる。
ほんの一瞬かもしれないけど、それでも今、ハルトラと一緒に青空の中を飛んでいる。
汗と泥にまみれた髪の毛がふわりと浮き上がる。血がこびりついた頬に当たる風が気持ち良い。
もしかしたら太陽にだって届くのではないか。
そんな夢物語を、描いてしまうくらいに、その一瞬は特別だった。
「――っシュウ?」
細く開いた片目で地上を見る。
大量の兵士たちを率いてきたのか、呆気にとられた顔のレツさんが洞窟の前に立っていた。
でも、こんなところで止まるわけにはいかない。
俺は目線を前方に戻し、そっとハルトラの背を撫でた。
レツさんの呼びかけには答えないまま、俺たちはその場から逃走を果たしたのだった。
+ + +
ハルトラが立ち止まったのは二十分ほど走り続けてからだろうか。
草原を抜け、森の中に入ったハルトラは、しばらく進むと一回転した後に腰を下ろした。
それは森の入口にほど近い場所だった。
切り株が何本かあって、開かれた場所にはこれ見よがしに山小屋が建てられている。
俺は山小屋の様子を注意深く見つめた。
小さくおざなりな造りの丸太小屋だ。
視線を移すと、小屋の前に立てかけられた看板には「ご自由にお休みください」の文字があった。
冒険者用に造られた休憩施設みたいなものだろうか?
幸いにも周囲に人の気配はしない。
俺はユキノを両手に抱きかかえ、そっとハルトラの背から下りた。
俺たちが下りても、ハルトラはその場から動こうとはしない。呑気に指を舐めている。
俺とユキノの活動範囲は城下街【ハルバン】と【ライフィフ草原】に限られていた。
地理に疎い俺の指示では、こんな場所まで辿り着けはしなかっただろう。
未だ、何故この魔物が俺の言うことを聞いてくれたのか理由は分かっていないが、助けてもらったのは紛れもなく事実だった。
「ありがとう、助けてくれて」
「ニャア」
まさしく猫の声でハルトラが鳴く。久しぶりに自然と笑みが零れた。
「あー、イテテ。全身の筋肉が痙攣してる……」
が、表情はすぐに凍りついてしまった。
間違ってもユキノの声ではない。
振り向いた先、ふらふらと覚束ない足取りでその少女が現れた。
「トザカ……!」
ここまでどうやってついてきたのか。
そんなことは考えずとも明らかだ。ずっとハルトラの横っ腹にしがみついていたのだろう。
俺は右目が使えなかったから、左はともかく右側までは注意が至らなかったのだ。
自分の間抜けっぷりに反吐が出る。それにユキノを抱えていて両手が塞がっている以上、剣もすぐには構えられない。
「ああ、キミがあたしを警戒するのは当然。でも殺すのはちょっとだけ待ってほしい」
トザカは両手を「降参」の形に挙げながらも、どこか眠そうな目をしつつマイペースに言った。
「心配なら今すぐあたしの足首の腱でも切るといい。一般の女子中学生を行動不能にするにはそれくらいで充分だ」
「…………っ?」
「でも手首はしばらく勘弁してほしい。《異常回復》をナルミさんに使ってあげたい、その後なら構わないから」
「……君は……」
俺は戸惑った。それはトザカの言葉にだけではない。
トザカの態度は自然だった。一片も取り乱してはいない。
それどころか、彼女は教室に居たときとほとんど様子が変わっていない。
この世界に降り立ってから接したクラスメイトのことを思い返せば、有り得ないほどに落ち着き払っているのだ。
その異様なまでにいつも通りの態度は、俺の戦意を萎えさせてしまった。
眼前のトザカこそ、すぐさまそれを感じ取ったのだろう。思慮深げな瞳を俺の腕の中のユキノに向ける。
「分かってくれて助かる。じゃあナルミさんを連れて早くあの小屋の中に行こう。治療のあと寝かせてあげたいから」
「…………」
俺がまだ警戒を解かないのを理解したのだろう。
トザカは率先して歩き出すと、何でもないように建てつけの悪いドアを開けてみせた。
それからわざと中に入ってみせて、無表情のまま振り向く。
「罠なんかないよ、安心して。あたしもこんな場所知らなかったんだから」
さすがにそこまでされて怪しい、などとは宣えない。
俺はユキノを抱えたまま、トザカに続いて小屋の中に入った。




