18.選択
しばらく声も出なかった。
確かに、《来訪者》であろうと血蝶病に感染する可能性はある、とラングリュート王は説明していた。
だからといってだ。
突然、三十人のクラスメイトの内の十五人が同じ病に罹るだろうか?
――結論は頭の中ですぐに出た。そんなことは有り得ない。
例えば空気感染や飛沫感染する病だったとすれば、絶対に無いと保証はできないが、王はそんなことは一言も口にしていない。
それに彼らは一週間ずっと城に留まっていたという。もし城内に発症者が居たとすれば、みんな魔物になって【ハルバニア】は未曾有のパンデミックに陥るはずだ。
でもそうじゃない。
だとしたら目の前の十五人は、何者かによって人為的に感染させられたのではないか。
知らず喉が震える。急に酸素が薄くなったような錯覚を覚える。
「なん――」
「なんではもう、禁止だよ」
エノモトはどこか寂しそうな顔をしていた。
まるでこの会話が終わるのを、終わらせる本人が最も残念がっているような不思議な表情だった。
「もういいだろ。オレたちに大人しく殺されてくれよ、ナルミ」
前半はエノモトに向けて。
そして後半を俺に向けて言ったマエノは、ゆっくりと目を眇めた。
エノモトに続いて彼もフードを取っている。右目の下にはっきりと、血蝶病の発症を表す蝶の形をした赤い痣が浮かび上がっていた。
痣自体はエノモトに比べると小さく、育っていないように見える。そこから来る余裕なのか、マエノは緩く首を振ってみせた。
「オレはそんなに悲観的じゃない。他の仲間たちもそうだ。お前を殺して、オレたちは次のステップに進むんだ」
「どういう、意味だ?」
「そのままだよ。だって魔物になるって理由で城の兵士たちや冒険者に無抵抗で殺されるなんて、できっこないだろ? そこでオレたちは話し合ったんだ。幸い時間はたっぷりあったしな」
「ハヤト、それ言う必要ある?」
マエノの言葉を一旦遮ったのは隣に立ったホガミだった。
フードの上からでは目元までくらいしか見えないが、普段の印象と異なり随分と陰鬱な表情をしている。
「……あるだろ。何も知らないで殺されるなんて、さすがにナルミが可哀想だ」
「何それ……」
「クラスメイトへの説明責任だ。喋れる範囲のことなら、伝えても問題ないだろ? ……でさ、ナルミ。オレたち決めたんだよ。オレたちが生き残るためにはオレたちを狙う奴らを片っ端から殺らなきゃならない。でも品行方正に日本で生きてきたオレたちに、結構殺人っていうのはハードルが高い」
マエノが何を話しているのか理解できない。
右から左に流れていく……。
「ハードルが高いけど、生きるためには致し方ない。慣れるしかない。それならまず殺してもあんまり良心が痛まないクズみたいなヤツで練習しようという話になった。そうナルミ、お前だ」
マエノは爽やかと学校中で評判の笑顔で俺の心臓を指差した。
「安心してくれ、ちゃんと多数決で決めてるぞ。過半数が賛成したんだ。お前が殺されるのは民意だ」
「ハヤト……」
一瞬、声のないざわめきのようなものが静かに洞窟内に広がり、波打った。
ホガミが力無く名前を呼ぶ。マエノは気にする素振りもなく歯を見せて笑う。
ホガミやエノモト以上に、たぶんマエノの精神は限界を迎えて壊れてしまっていた。
そして一方的な善意により殺される理由を教えてもらった俺はといえば、どうだろう。
まだ剣を握れている。頭は冴えているか。怒りはあまりない。悲しみも、寂しさも、わからない。
マエノの言葉に嘘はない。彼らは俺を殺す気だった。もしユキノが機転を利かせて《自動回復》を掛けてくれていなかったらとっくにあの世行きだ。
じゃあいま俺は、どういう顔をしている?
「全員、武器を構えろ」
義理はこれで果たしたと言わんばかりに、マエノは周囲の黒フードたちにそう指示する。
マエノは自身も長い剣を両手に握ってみせる。
しかし誰も続こうとしない。躊躇いがある。恐らくマエノの容赦のなさに、どこかで反発が生まれている。
「構えないヤツはナルミの代わりに練習台になってくれるのか?」
それでも脅迫じみた文言が続くと、武器を手にしない人物は一人もいなかった。
「魔法は使わない。全員ナルミを殴って刺して穿って射抜いて切って裂いて殺すんだ。全員一斉にだ。俺たちはクラスメイトなんだから」
途端、頭の奥底で声が響く。
頭が重くなるが、振り払えない。
それはいつもいつもきこえている声だ。
――やさしい人になりなさい、と母が呪文を唱える。
俺は母がそう言うたびに「うん」と頷いた。そうすると母さんが喜んで頭を撫でてくれるからだ。
そうされるのが心地よかったから、俺は何度も「うん」と応じた。その言葉の意味は、その頃はまだよくわからなかった。
今ならよくわかる。
つまり母は一方的に搾取されよと息子に頭上から告げているのだ。
何をされても平気な人間なんかいないのに平気な顔をしてあげなさい。
殴られて死に絶える瞬間まで微笑んで「良い人生だった」と振り返りなさい。
だからいつもいつもこの声は俺が迷っているときばかり響き渡る――
「大丈夫だよナルミ」
汗が頬を伝う。
震えたまま動けない俺に向かって白刃が振り下ろされ、
「ナルミさんにはちゃんと俺たちと同じ痣をプレゼントするからな」
世界が反転する。
――――――
――――
――
「に~は~は~」
特徴的な笑い声。
そのまま振り下ろされれば、俺の顔面を縦に裂くだろう抜き身の刃の上に、物理法則を無視したその人が気ままに腰を下ろしている。
完全に景色が止まっている。切羽詰まったマエノの汗まみれの顔も、剣先も、周りの黒フードたちの動きも。俺自身もそうだ。
いや、それなら、止まっているのは時間か。
「よう、久々。アンタの女神さまだぞい」
女神さま……。
唯一その場で自在に動くことを許された、黒ジャージが似合う金髪の子どもが、凶器の上に小さなお尻を置いて足をぷらぷらさせている。
「このままだときれいにお陀仏する冴えない新人俳優クンに向けてお茶の間からクレームしにきたぞ。アタシは真っ当な視聴者のひとりでもあり、テレビ局のスポンサーでもあるからにゃあ。ようこそイカサマ、これぞ十八番ってね」
切られかけた俺の口が俄に蠢く。
俺はどうすればいいですか。
「にゃっは、そうさねぇ。そう難しく考える必要はないと思うが? 女神は基本的に求めてるモノを人間に与える。アタシがアンタに恵んだのは、そういう類の都合良い奇跡だ」
でも使えない!
何度も何度も願った。だけどリブカードにはリミテッドスキルの表記が出なかった!
「カードが何だかはよく知らん。だがスキルはずっと所持していたぞ。アンタが自分の願いを心の底じゃ認めていないせいで、いつまでも上手く使えないだけにゃ」
俺の願いは、妹を……ユキノを助けることだけだ。
前の世界でも、今の世界でだって、それ以外を望んだことなんてないのに。
「違うねえ。いや、それも限りなく純粋な思いには違いない。だが残念と言うべきか? 今までアンタがひた隠しにしてきた欲望は、妹を助けたいという願いを確実に上回ってる。アタシが叶えたのはそっちだ。女神といえど、願いはふたつも叶えられないからにゃあ」
俺の願い……。
本当の、願い……。
でも、それは、
「でもやさしい人らしくない? ははぁ、マザコンは結構だが母の願いを叶えるためだけにアンタは生まれてきたのか?
でもクラスメイトだし? にゃっはっは、一度殺されかけた時点で正当防衛が無事に発動、めでたく無罪放免じゃーん?
でも躊躇ってる人もいるようだ? うるせー! 爽やかイカれ男のイカれ具合にドン引きしただけだー! アンタを殺すって気持ちは誰も怯んでねえ問題ねえー!」
女神さまは剣先でじたばた暴れた。
どういう理屈なのか、そもそも理屈なんて当てはまらないのか、マエノの持つ刀身はそうするとビョンビョンと上に下に柔らかく跳ね返る。
しばしのトランポリンを楽しんだ女神さまはかなり息が上がっていた。
「ぜえ……ぜえ……じゃーアタシは帰る。実を言うとこのままアンタが殺されても構わないんだ。殺されない方が面白いってだけの話だからな。妹ともども不様に殺されても逆に涙出るくらい笑って楽しむくらいの心持ちだ、にはは。……まぁできれば」
女神という形容があまりに似つかわしくない邪悪な微笑みで、クレームの内容は締め括られた。
「できれば、もっとド派手に踊ってくれよナルミシュウ。アタシを退屈させないでくれ」
そしてその可憐な姿はいつの間に消え失せていた。
――
――――
――――――
可哀想な子ども。
いろんな人からそう言われて、鳴海周は生きてきた。
実際、可哀想だったのだと思う。哀れで、みすぼらしくて、しみったれた子どもだった。
父親にぶたれる。母親に先立たれる。
義理の母親に罵られる。クラスメイトに虐められる。
それでも味方は一人だけ居た。無条件に自分を信じてくれる同い年の妹の存在が唯一の救いだった。
今度こそふたりで幸せになろうと誓った。
でも次は、この世界は妹をも奪うのだという。
……憎い。
許せない。嫌い。汚い。
怖い。煩わしい。恨めしい。
そう認めるのをずっと耐えてきた。
耐えれば、いつか、幸せが訪れると信じていた。
でもその幸せを奪うというなら。
俺は彼らから奪い返さないといけない、
止まっていた時間が動き出す。
「――ッ!」
今まさに俺の命を断とうとする切っ先を。
一歩後ろに下がって紙一重で避けた。
「な――?」
右の目蓋が切られる。血が勢いよく迸った。
たぶんマエノは何が起こったのかよく分からなかったのだろう。
でも俺は一度も目を閉じなかった。薄皮一枚を切られる瞬間さえ目を見開いていた。
飛び散った血にマエノが呆ける、その一瞬の隙を突いて俺は距離を詰める。
完全に下向いた両手を思いきり蹴り飛ばす。ぎゃっ、と短い呻き声と同時に剣がはじき飛ばされ、ぬかるんだ地面に沈んだ。
「ハヤト!」
マエノに駆け寄るホガミの横。
片手剣を斜めに振って二人をまとめて牽制し、背後の一人を蹴り飛ばす。もう片目に血が入り込んでよく見えない。
このままじゃ遅かれ早かれ囲まれる……ユキノを連れて、早くここを……。
「――グルアッ!」
獣の唸り声が洞窟内に響き渡ったのはそのときだった。
反射的に声のした方を振り向けば、既にそれは残像だった。
登場と同時、死角になった右側の黒フードたちが、まとめて薙ぎ払われる。
「う、うわっ……!」
突然の出来事に、明らかに怯んだ二人ごと口に咥えてぶん投げる。
刃物などお構いなしに襲いかかっては、鋭い爪で牙で蹂躙する。
四足歩行の大型魔物。
その来襲により、完全にマエノたちの戦線は瓦解していた。
そもそも未だリーダーらしいマエノが手首を押さえて呻いているのだ。ほとんど泣き叫ぶような調子で逃げ惑う者も居る。何とか戦おうとするものの武器ごと吹っ飛ばされる者も。
俺は右目の目蓋のあたりを片手で抑えながら必死に思考を巡らせた。
思いがけない事態だが、間違いなくこれは好機だ。
この隙にエノモトからユキノを救い出し、一緒に脱出しなければ。そう思って走り出す。
その澱んだ視界に、たった一瞬、あるものが映り込んだ。
「あ……」
魔物の舌べら。
その奥に仄かに輝く印がある。隷属印だ。
一度つぶれて消えかけたものの上から、また新たに刻まれ直したような跡が見えた。
「おまえ、あのときの……」
俺は思わず立ち止まって、その魔物を呆然と見詰めた。
以前見かけたときとは、今は姿形が違う。
春に会った茶トラの猫。
あのハルトラにそっくりの姿をした魔物が、そこに居た。




