この大空をポケットにつめて
「待ってよ、あきら!」
けたたましい蝉の鳴き声に混じって、トーンの高いひろみの声が聞こえてくる。あきらは近くにあった木の幹に手を置き、後ろを振り返った。重なり合うようにして茂る木の葉の間から、真夏の日差しが細い柱となって地面に振り注ぎ、地面には水玉模様の木漏れ日が投射されていた。あきらがじっとその場で待っていると、イヌマキの木の影から息を切らしたひろみがひょっこりと現れた。額には玉のような汗が浮き出ていて、よれたTシャツの首元からは、わずかに浮き出た鎖骨がのぞいていた。
「そんなもたもたしてたら置いてくぞ」
あきらはようやく追いついたひろみにそれだけ伝えると、進行方向へと向き直り、若鹿のように軽やかな足取りで再び走り出した。ひろみも負けじとあきらを追いかける。イヌマキの幹に手を添え、かすかな陽光を糧に生い茂る若草を踏みしだき、二人は颯爽と林の中を駆け抜けていく。そこには学校で出された算数の宿題も、意地悪をしてくる兄弟も、夏の終わりの気配も存在しなかった。そこにあったのは、自然が織りなす和音と木漏れ日と戯れてはしゃぐ二人の嬌声だけだった。風が吹き、二人のはるか上空で葉々が擦れ合う音が聞こえる。一匹の蝉が木の幹を離れ、ジジジという羽音を響かせて飛び上がった。
あきらとひろみは林の中を抜け、開けた神社の敷地へと出た。急に立ち止まったあきらの背中に、ひろみが勢いよくぶつかり、二人はもつれあうようにしてやわらかな土の上へと寝っ転がる。汗でほんのりと湿った衣服に土とほこりがこべりつく。あきらとひろみはあおむけになったまま顔を見合わせ、さし合わせたように同じタイミングで笑い合う。
「僕も、あきらと一緒に二学期の授業を受けたかったな」
ひとしきり笑い合った後、あおむけになった状態でひろみがぽつりとつぶやいた。水晶のように澄んだ青色をした大空の端っこに、沸き立つように天に向かって伸びる入道雲が見える。それはまるで、はるかかなたにある宇宙へと手を伸ばそうと、ぐっと背伸びをしているかのようだった。
「そんなこと言ってもしょうがないだろ」
「まあ、そうだけどさ」
ひろみは不服そうな表情を浮かべながらあきら方へ向き直った。額には絹のように細かな前髪がくっついている。太陽の日差しのまぶしさから、ひろみはくっきりと線の入った二重瞼の目を細めていた。
「あきらは福岡に行ったことあるんだっけ。どんなとこだった?」
「そうだなぁ」
あきらは無意識のうちにひろみから目をそらしながらつぶやいた。
「でっかいビルがいっぱい建っててさ、……なんというか、すごい窮屈だった」
「へえ」
ひろみはあきらをじっと見つめがら相槌を打つ。あきらはその視線を感じながら、ひろみを見つめ返すことができずにいた。ひろみがこの島を出ていくということを知る以前には当たり前にできていたことが、なぜかいつの間にかできなくなってしまっていた。狭い狭い島の中で、あきらとひろみは生まれた時からずっと一緒に遊んできた。そんなひろみとの関係をぴったりと言い表す言葉など、そう簡単には浮かんでこない。友達でも、家族でもない。それよりもずっと、心の奥底で結びついた何かだった。
あきらは手のひらを空にかざす。真夏の太陽に透かしてみると、日焼けした手の中に、かすかに赤い血潮が流れているのが見える。いつものように遊び、いつものようにはしゃぐ。泥だらけになるまで遊びまわって、しょうもないことで笑い合う。別に特別なことではないはずなのに、身の丈に合わない理想を抱いているわけでもないのに、どうして時は流れ、すべてを持ち去ってしまうのだろう。ふと横を見ると、ひろみもまたあきらと同じように手のひらをかざしていた。横から見ると、長いまつげとつんと尖った鼻先が一層際立って見えた。
「この空をさ、ポケットに入れて福岡に持っていけたらいいのに」
ひろみがぽつりとつぶやく。あきらはたまらず噴き出してしまい、ひろみは不思議そうな表情を浮かべた。
「僕、なんか変なこと言った?」
「ひろみって時々、信じられないくらいメルヘンチックなことを言ってのけるよな」
ひろみはバツの悪そうな顔をし、それがさらにおかしくなってあきらは大声で笑いだす。すると、その笑い声につられるようにしてひろみも笑い始めた。夏の蝉に混じって、二人の笑い声が境内の中に響き渡った。
太陽が一瞬だけ雲に隠れ、再び顔をのぞかせた。陽の光は明るさを増して地上へと降り注ぎ、歩道の敷石に照り返って、周囲を白く染め上げる。風が吹き抜けると同時に、林の中の木漏れ日が揺れ動き、まるで二色だけでできた万華鏡のようだった。あきらは顔を横に向けると、それに応えるようにひろみもあきらの方を振り向いた。
「あっちいってもさ、ずっと友達だから。何年後も、何十年後も、ずっと」
「本当?」
ひろみの言葉にあきらは力強くうなづいた。
「だからさ、元気でやれよ。手紙出すからさ」
「でもさ、あきら、字書くのめちゃくちゃ下手じゃん」
ひろみは仰向けのまま、茶化すように笑った。その笑い声は風鈴のように透き通って、はるか遠い都会まで続く空へと吸い込まれていく。あの青空をポケットに入れて持っていくことはできないけれど、涼風と林の香りで縁取られたこの一瞬だけは持っていくことができるかもしれない。セミの鳴き声が少しづつ遠ざかっていく。腹回りを太らせた入道雲は、遠い山並みの奥へといつの間にか流されてしまっていた。むせかえるような夏草と乾いた土の匂いが鼻腔をくすぐった。
腕が疲れ、あきらは空にかざしていた手をすとんと地面に落とした。跡を追うようにして、ひろみも手を下す。仰向けに開かれたあきらの掌に、ひろみの手の甲がすっぽりと収まった。ひろみの手は小さく、汗でしっとり濡れていた。あきらはその手をどけようとはせず、代わりにゆっくりと、ひろみの手の甲を握る。二人分の血潮が脈打つ音が伝わってくる。二人は何も言わないまま、ずっと空を眺め続けた。どこか遠くで、誰かが二人の名前を呼んだような気がした。




