第百五話
「何時からここがお前の世界だと錯覚していた?」
「何を言って・・・」
凌馬の放った言葉の意味が理解できなかったヴィネ。ただ、その言葉だけを発するのがやっとであった。
パチン! バリーーーン!
凌馬が指を鳴らすと、瞬間先程まで存在していた日本の街の風景が鏡のように割れ、真っ白な空間が姿を現す。
それを目にしたヴィネは言葉も失い、凌馬のほうを驚愕の表情を浮かべてただ見ていることしか出来なかった。
あり得ない。これではまるで自分が精神世界に囚われているようではないか。
だが、そんな事は絶対に不可能なのだ。精神世界を造り出せるのはサキュバスに許された特権とも呼べるスキルがあってこそだ。仮にこんなことが出来るとするならば、それは同じサキュバス───それも力の差がなければ出来る筈のないことだった。
故に、二重の意味で不可能とヴィネは考えていた。いくら規格外の力を持っていようが、凌馬はただの人間に過ぎない。サキュバス固有のスキルを持っている筈がない。そして、ヴィネはサキュバスの女王であり、魔王より力の供給も受けている。同じ種族のものに能力値で負けることはあり得なかった。
だが、現実に目の前にはそのあり得ない光景が広がっている。ヴィネの思考が停止してしまうのも無理からぬことだった。
「どうした? 何をそんなに驚いている。ここはお前にとっては見慣れた世界のはずだろ?」
凌馬の挑発ともとれる発言。確かにその通り、精神世界はヴィネにとっては現実世界と同じくらい馴染みのある空間であった。
ただし、自身がコントロールできない状況に置かれることなど一度として経験したことがなかったが。
『マルムノクス!』
「無駄だ! 既に俺が夢を変えた。一分前の時点でな。」
悪あがきをするヴィネに対して、凌馬が真実を突きつける。
何を言っている? ヴィネがそう思ってしまったとしても、だからしょうがないことだった。
そして凌馬の台詞に引っ掛かったヴィネ。
(夢を変えた? 一分前の時点でだと───まさか・・・)
認められない事態であるがそんな事を言っている場合ではない。だが、いつの間にそんな事をと思考を巡らせていたヴィネは凌馬の言葉から一つだけ思い当たることがあった。
凌馬が暗闇から飛び出してきたまさにその時、ヴィネは眩い光に一瞬だが視界を奪われていた。
まさかその一瞬で自分の術から逃れ、逆にヴィネを精神世界に陥れたとでもいうのか・・・。
「どうやら思い至ったようだな? その通り、お前が視界を奪われていたあの時にお前の術は破らせてもらった。」
凌馬の言葉に目を見開くヴィネ。
「だ、だがどうやってだ? お前はただの人間の筈だ。サキュバスのスキルをどうしてお前が使えるというのだ!」
至極もっともな意見であった。
・模倣者
私はものまね名人。お前たちの力をそのまま跳ね返そう。『たたかうにはたたかうで』、『魔法には魔法でお返し』、私に勝つには私の真似をすることだ。
○擬態
○ものまね極意
○能力値
力 ?
魔力 ?
素早さ ?
生命力 ?
魔法抵抗 ?
※模倣する者のにより変動する。(自身よりも能力値の高いものは同数に、自身の数値が上の場合は変動しない。)
凌馬は擬態によりサキュバスの種族としての特性を得ていた。もっとも凌馬は男性のため、細かく言えばインキュバスと呼ぶべきかもしれないが。
つまり、精神世界であってもスキルの使用を可能としていた。
「お前自身が俺にどういう術か見せてくれたじゃないか? それを見たまま真似ただけだ。簡単なことだろう?」
「ふざけるな、そんな事が───」
「そんな事くらい出来ないとでも思っていたのか? 言った筈だぞ、余り舐めるなと。もっとも、別にそれほど万能な能力という訳でもないぞ。一度相手の攻撃を自身で受けなくてはならない制約もあるしな。今回のような搦め手のスキルではなく即死系のものだったら流石に受けるわけにもいかないからな。苦労したんだぞ? お前の術に掛かるために限界まで抵抗力を抑え込んでなんとか掛かることが出来たんだからな。」
『術に掛かることが出来た』という聞き捨てならない台詞にヴィネが反応する。
「お前まさか最初から罠に気付いていたというのか?」
「当然だ。お前の正体がサキュバスだと分かった段階で、どういう手段を取ってくるかなどまるわかりだったからな。お前との戦闘中に対策は取らせてもらった。だが───」
そう、全ては凌馬の予定通りに事は運んでいたのだ。直接戦闘力がそれほど高くなく、まして凌馬を手駒として使おうと企んでいたヴィネを知った段階で精神攻撃をしてくることなど日本人であれば凌馬でなくとも予測は出来るだろう。
後は予定された時間に、遅延魔法で発動する『リワインドソウル』によって精神を正常な時まで巻き戻す細工をしておいた。
それによって、問題なく事を終えられる筈だった。
一つだけ誤算があったとするならば、それは凌馬が地球にいた頃と比べて心が弱く・・・というのは少し語弊があるか。彼の誤算はこの世界で人間らしさを獲得してしまったということだった。
事実、昔の凌馬であれば精神攻撃などなんの効果もなかった。ヴィネがどれ程の悪夢を見せようとしても、彼に欠片ほどのダメージすら与えられなかったことだろう。それはそのように凌馬の心が封印されていたのだ。
それは外部からの一切の干渉を拒絶させ、その身に宿っている災厄から全世界を守るために施されたものなのだから。
「俺はいつの間にかこんなにも変わってしまっていたのだな。あの時からずっと仮面を着けて生きてきたというのに、知らぬまに呪縛から解放されていたのか。」
凌馬の心は、悪夢より覚めたときから全ての呪縛から解き放たれ、まるで生まれ変わったように世界は変わっていた。
ずっと求めていたものを得ることができた凌馬。
だが、そのせいで娘の心を傷付ける結果となってしまったのだ。誰よりも、何よりも最優先で守らなくてはならないミウの心を───。
許せるはずがなかった。たとえそれが、凌馬の仕掛けたことだとしても。彼の誤算によって発生した事態だとしても。
ミウの心を傷つける直接の原因を生み出したこいつをどうして許せるというのか。
そんな事は不可能だった。凌馬の心はそこまで広くはなかった。
「本来ならあとは現実世界に戻って決着をつけるだけで良かったんだがな。だが、お前はやってはならないたったひとつのこの世のルールを破った。」
凌馬の顔がまるで悪鬼のように変わり、見る者すべてにその怒りの高さを認識させる。
ジリジリ──────
その怒りの矛先を向けられたヴィネは後退る。
「たったひとつ、俺の娘を傷付けることは何人も許されない! 分かっている、全ては俺の不始末だということくらい───それを敵のお前にすべて押し付けるのは理不尽なこともな。だがな・・・どんな理由があろうともその禁忌を犯した者はケジメをつけなくてはならない。知らなかった・そんなつもりはなかった・俺との戦いに起因した結果に過ぎないことだとしても、そんなものは免罪符にもなりはしない。」
「な・・・なにをするつもりだ?」
ヴィネはようやくそれだけを口にすることができた。だが、問い掛けたヴィネ自身が一番理解していた。
どうあれ、ろくでもないことが起きようとしていることは。
「安心しろ。殺しはしない。お前にはまだ聞かなくてはならないことがあるからな。もっとも──────命があることがイコール救いになるかどうかは保障できないがな?」
凌馬にとっては、殺すということはこれ以上の地獄からの解放にすぎなかった。だからこそ、恨みのない魔族たちは出来るだけ一撃で殺してきた。
しかし、ルールを犯したヴィネにそんな容赦を凌馬が見せるはずがなかった。