第9話 「医療と魔法」
病院へは15分ほどで着いた。渡瀬の大きなリュックをレヴェ爺に預け、身軽な状態で走れたのが大きかったと思う。
渡瀬は、自分がどれだけこのパーティーの足手まといだったかを思い知って申し訳なくなった。
病院についた渡瀬たちはまっすぐ救急処置室に向かった。
救急車で搬送された患者など、急を要する病や怪我の治療を一手に引き受けるスペースである。
当然、気胸の治療に用いる道具も一通り揃えている。
部屋の中央のベッドにリナを寝かせる。
血圧や血中酸素飽和度のモニターを付け、点滴をつないで急変に備えた。
いよいよ気胸の治療の続きを行う。
ベッドの頭の部分をギャッチアップし、渡瀬はリナの側面に構えた。
気胸のドレナージチューブを挿入するのは第5肋間中腋窩線上。つまり体を横から見たときの脇の下の真ん中を通る縦のラインと、5つ目と6つ目の肋骨の間の高さとの交差点である。
そのポイントを中心にイソジンで消毒をし、1%キシロカインで丹念に局所麻酔を施す。
麻酔を終え、渡瀬は滅菌処理されたゴム手袋を装着する。
メス刃で皮膚を軽く切開し、鉗子でゆっくりと切開部を押し広げていく。
筋肉をより分けている抵抗が急に途切れ、胸腔に入ったと分かったその瞬間、赤黒い血があふれ出してきた。
肋骨骨折で血管を傷つけ、吹き出した血が胸腔内に溜まっていたのだろう。
その痛ましい様子に、背後で仲間たちが息を呑むのがわかった。
血の流出が止まると、いよいよトロッカーを挿入する。チューブの内腔に硬い芯を入れたもので、これを使ってチューブを胸腔内に留置するのだ。
押し広げた切開部から慎重にトロッカーを押し進め、ある程度まで進めたら芯を抜いてチューブをクランプする。
チューブの先を3つのボトルがつながったチェストドレーンバッグにつなげてクランプを解除した。
陰圧に保たれたボトルがリナの胸腔内に溜まった空気を吸い出してポコポコと音を鳴らした。
後はチューブをつないだ部分をずれないように縫合し、治療を終える。
渡瀬は安堵のため息をつくと、心配そうに様子を見守っていた仲間たちを振り返って笑顔を浮かべた。
†
「あ、起きてたんですね。具合、どうですか?」
渡瀬がリナの病室に入ったとき、リナは既にベッドを起こして朝食をとっている所だった。
ソニアはリナのベッドの隣に並べた椅子に座り、甲斐甲斐しく食事の介助をしている。
「うん。大丈夫、もう痛みもないし、息苦しい感じもなくなってるから」
リナはそう言って笑ったが、渡瀬にはどこか弱々しい笑顔に見えた。
リナが続ける。
「……あの、ごめんなさい。目が覚めた後、ソニアに全部聞いたの。治癒魔法も使わずに私の怪我を治してくれたって。初めに会ったとき、ワタセは、自分は医者だってそう言ってたのにね。私、あなたの言うこと何も信じてなかった。全部ただの妄想だろうって……」
リナはか細い声で謝ると申し訳なさそうに頭を下げた。
渡瀬は予想外の言葉に慌てた。
「いえ! 別にあれはいいんです。そう取られても仕方ない状況でしたし。それよりリナさんは僕を助けようと、ここから連れ出してくれたじゃないですか」
本当に謝らなければならないのは自分の方だと渡瀬は強く思う。
「それに、リナさんはオオカミから僕を守ってくれました。今、リナさんが大怪我をしているのは全部僕のせいです。僕が怪我を治療したことに関して、リナさんに礼を言われるようなことは何もありません。本当にお礼を言わなければならないのは僕の方で」
リナは声を張り上げて渡瀬の謝罪を遮った。
「違うの! そもそもあの場でハウンドウルフに囲まれるようなことになったのも、全部私のせい。こんな小さなパーティーであなたを街まで安全に運べる保証なんてなかったのに……」
「いえ、でもそれは」
リナの謝罪に反論しようとした渡瀬の声を、リナは手をかざして再び遮る。
「だから! だからね、今回のことはお互い様ってことで、水に流しましょう? みんなこうして無事だったんだからいいじゃない。ね?」
リナはそう言うと、渡瀬に向かって右手を差し出した。
渡瀬はまだリナの話に納得しかねていたが、自分よりずっと年下の子に諭され、その上まだ駄々をこねるのも申し訳なくなって、おずおずと握手に応じた。
リナは渡瀬の手をつかんだまま、満面の笑みを浮かべてこう続けた。
「じゃ、これでその敬語も無しね。名前も呼び捨てでいいから。ワタセも年下の女にヘコヘコするの嫌でしょ?」
別に嫌ではない。それどころか渡瀬はタメ口で喋るほうがよっぽど気疲れする性格だった。
しかしそれがまた、相手との間に壁を作っていると思われる要因なのも理解していた。
「……はい。じゃなくて、うん、分かった」
渡瀬は渋々頷いた。
リナはそれを満足気に見届けると、突然ニヤリと笑ってテンション高めにこう言った。
「でさ、ワタセってこの遺跡に詳しいんでしょ?」
身を乗り出し、目をキラキラさせて尋ねるリナに、渡瀬は気圧されるように一歩引いた。
遺跡かどうかは知らないが、まぁ確かに、自分がこの病院に詳しいのは間違いない。
渡瀬が控えめに頷くと、リナは更にテンションを上げてまくし立てた。
「だよね。ずっとここで働いてたんだもんね。実は私、こういう古代の遺跡が大好きなの。でね、今日はもう日も暮れてきたし、もう一泊ぐらいは装備にも余裕あるし、できればこの遺跡の中を案内して欲しいなって思って」
リナが期待を込めた目で渡瀬の顔を見上げる。握手の形のまま固まっている渡瀬の右手をリナが両手で包み込む。
昨日この病院を出る前、お宝が見つからずにパーティーの皆が落ち込んでいたにも関わらず、リナだけがソワソワと嬉しそうにしていた理由がようやく分かった。
この子は、いわゆる考古学オタクなのだろう。
せめてもの罪滅ぼしに、自分のできることは何でもしてあげようと渡瀬は思う。
「ええ。僕でよければ喜んで」
リナは弾けるような笑顔を浮かべると、一刻も待ってられないと機敏に動き出した。
じゃあ早速行きましょ、とベッドから飛び出そうとするリナを渡瀬は慌てて押しとどめる。
「ちょちょ、ちょっと待って下さい。まだ胸の傷が治ってないんです。それまではあまり無理な運動は控えてもらって」
リナはハッと気づいた顔をした。興奮で、自分が怪我をしていることすら忘れていたらしい。
「じゃあ、パパッと治しましょ。これ別に治癒魔法使ってもいいのよね」
「? ――ええ、どうぞ」
渡瀬が首をひねりながら答えるや否や、リナは小声でぼそぼそと呟くと、淡く光りだした右手を左胸の傷口に近づけた。
渡瀬は目を見開いた。
先ほどまでリナの呼吸に合わせて小さい気泡を立てていたドレーンバッグが、急にコポコポと音を立てるのをやめたのだ。
胸腔につながったドレーンバッグへのリークが止まった。
これはつまり、肺に開いた穴が塞がったことを意味する。
詠唱をやめたリナは顔を上げ、何でも無いことのように言った。
「これでいいわね。じゃあ行きましょ?」
渡瀬は、唐突に突きつけられた自分の存在意義を揺るがす光景を呆然と見つめていた。