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異世界医療は専門外です  作者: へもまる
第1章 貴様共の勇者を選べ/Choose Your Champion
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第8話 「医師の覚悟」

 ハウンドウルフに弾き飛ばされた後、渡瀬はすぐに起き上がるときょろきょろと周囲の様子を探った。

 全身が土にまみれているが、四肢は動くし体のどこにも強い痛みはない。

 先程まで周囲に満ちていた獣の気配が消え去っている。

 本来ならばパーティーの間で弛緩した空気が流れていてもおかしくない状況だが、リナの仲間たちの表情はこわばったままだった。


 ハウンドウルフに襲われたあの瞬間、渡瀬はリナにとっさにかばわれたことに気づいていた。 

 

 猛烈に嫌な予感がした。 


 リナの体は渡瀬の1mほど右手に転がっていた。

 仲間たちが既に集まっているが、リナが体を起こそうとする様子はない。

 渡瀬はリナの元にこけつまろびつ駆け寄った。


 息はあった。

 しかし、自分の予感が外れてはいないことを渡瀬は一瞬で理解した。

 

 彼女の息は荒く、端正な顔立ちは苦悶に歪み、顔色は驚くほど蒼白になっていた。

 鉄製の胸当ては見るも無惨にひしゃげて、左胸の下あたりからはじわりと血がにじみ出ている。

 仲間たちがしきりに声をかけているがリナは苦しそうに喘ぐだけで目を開くことすらできない。

 

 仲間を押しのけてすぐそばに駆け寄り腰を落とす。

 周囲の仲間の目に不審の色が宿っていることにもかまわず、傷口を見ようととっさに胸当てを外して服をたくし上げた。

 控えめに膨らんだ乳房と肋骨の浮き出た痩せた体が目に入る。

 左の胸の下にある傷口からの出血は幸いにも少なかったが、殴打を受けた皮膚は青黒く変色し、肋骨が不気味な角度に曲がっていた。


 脈拍を確認しようと首筋に手を伸ばしたとき、ソニアが渡瀬の肩を強く掴んだ。

 掴んだ肩を引っぱり、ソニアは渡瀬の耳元で声を張り上げた。 

「おい!さっきから姫様に何をし」

「時間がねえんだ黙って見てろ!」


 渡瀬はソニアの言葉を遮って叫んでいた。

 周りの仲間たちも、渡瀬自身でさえ自分が大声を出したことに驚いた。

 

 ソニアは気圧されたように一歩身体を引いて口をつぐむと、渡瀬に分かるように耳元で太刀の鍔を鳴らした。

 背中から刺々しい気配が伝わってくる。

 これが殺意だとすぐにわかった。

 リナに何かあったら斬るという合図だった。

 

 上等だと思った。


 リナたちが来なければ異世界に転移したことにすら気づかいていなかったのだ。

 あのまま病院に捨て置かれていたら時を待たずに餓死していたのは間違いないのだ。

 ついさっきもオオカミの襲撃からリナに庇ってもらわなければ、今頃全身バラバラになって獣たちの腹の中に収まっていただろう命だ。


 命を賭けるのに、これ以上のタイミングはない。

 覚悟が、決まった。


 

 手首に指を添えるが脈はほぼ触れない。首に手を沿わせると、首の血管にはかすかに脈を触れた。

 橈骨動脈拍動触知なし、総頸動脈は拍動を触知。

 これから推測できる収縮期血圧は60以上90未満、紛れもないショック状態である。

 

 その身を挺して自分を助けた少女は、いまこの瞬間、生死の境目をさまよっている。

 

 渡瀬は投げ捨てた自分のリュックをたぐり寄せると、ジッパーを開いて中身を地面にぶちまけた。

 聴診器を見つけると耳に装着し、チェストピースを胸に当てる。

 目を閉じて耳に意識を集中させた。

 ――左肺の呼吸音がほぼ聞こえなかった。

 指で左胸を叩くとまるで太鼓のような高い音が伝わってきた。

 

 胸部外傷と肋骨骨折

 急速に進行する血圧低下と呼吸状態の悪化

 頸静脈の怒張

 片側の呼吸音消失と打診鼓音

 

 身体所見の全てが“緊張性気胸”を示していた。


 もはや一刻の猶予もなかった。


 地面に散らばった荷物の中からパッケージされたピンク色の針を探す。

 18(ゲージ)注射針。

 見慣れた渡瀬にとってさえ不気味な太さがある。

 採血などには太すぎて使えず、主にアンプルから注射器に薬剤を吸い出すときに使われる針である。


 注射針のパッケージをはがし、キャップを外してリナの体に向き直る。

 プレッシャーはない。

 呼吸器疾患を専門とする人間として何度も経験してきた手技である。


 緊張性気胸によるショック状態の場合、何よりもまず脱気が必要である。

 左の第2肋骨と第3肋骨の間を指で探る。

 狙うポイントを定めて息を整え、右手に構えた注射針をリナの胸に垂直に突き立てた。

 

 リナは苦しそうに顔をしかめたままで、針を刺した痛みにさえ気づいていないように見えた。

 渡瀬もまた表情を変えることなく、同じ様に肋骨の間を狙って2本目の針を構えた。



 3本目の針を刺し終えた頃には、リナの様子は幾分か良くなっているように見えた。

 呼吸はまだ荒いが、顔色にはわずかに赤みが戻り始めている。

 胸腔内に溜まっていた空気が外に逃げ、心臓の圧迫が取れてきているのだとわかった。

 

 しかし今はまだ脱気が済んだだけで、これから胸腔内に溜まった空気を持続的にドレナージする必要がある。

 もしかしたら血胸になっているかもしれない。

 ドレナージには専用のチューブや吸引システムが必要だが、かさばるためリュックには入れてきていなかった。

 

 まだ治療が必要だが、とりあえず窮地は脱した。

 渡瀬はほっと一息ついて周囲を見渡した。

 リナの仲間たちは怪訝な顔をしていたが、明らかに落ち着いたリナの様子を見て、自分のやったことにも納得しているようだった。

 

 渡瀬はゆっくりと立ち上がって、ガヤルドたちに状況を説明した。


「とりあえず、今できる治療は終わりました。あとは胸に溜まった空気を吸い出す治療が必要なんですが、それができる道具はあの遺跡の中にあります。街に戻るよりもずっと早いと思うんで、今からリナさんを担いで遺跡に戻りたいと思うんですが……」


          †


 ガヤルドは落ちつきを取り戻したリナを見て、思わず息を呑んだ。

 

 リナがハウンドウルフに襲われて怪我を負った時、自分たちは狼狽えるばかりで何もできなかった。

 顔色が青白く、呼吸が弱々しくなっていくのをみて、半ば諦めかけてすらいた。

 

 しかし、この謎の男は瞬く間に遺跡で集めてきた道具を使ってリナの息を吹き返してみせた。

 治癒魔法すら使わずに。

 

 男が治療の続きのためにまた遺跡に戻りたいと言っている。

 なぜ遺跡の中にそんな道具があると知っているのか。

 古代文明の道具の使い方をどこで学んできたのか。

 こいつは……

 

 ガヤルドの疑問は本人の意識しないまま、端的な言葉になって口をついた。


「お前は……一体何者なんだ」


          †


 ガヤルドの疑問に、渡瀬はなるほどと思った。

 渡瀬自身としては自己紹介を済ませたつもりだったが、リナやガヤルドたちの中では自分は記憶喪失の迷子の扱いだったことを思い出す。

 もう一度自己紹介すれば、今度は信じてもらえるかもしれない。


「あの病院の医者ですよ。専門が呼吸器内科なんです」


 そう言って遺跡の方向を指差す渡瀬の表情はどこか得意気に見えた。

今回出てきた専門用語については後ほど補足解説を投稿します

→1/11追記 ちょっと遅くなりそうですスイマセン

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