第6話 「病院の外の世界」
渡瀬は困惑していた。
当直室で寝ていたら見たこともない金髪の女の子と大男に起こされて、迷子の子供さながらに連れ出されたのがつい先ほどのこと。
その後二人は外来受付前のホールで彼らの仲間とおぼしき連中と合流し、深刻な面持ちで自分の処遇について話し合っていた。
「やっぱり、少なくとも組合までは連れて帰るしかないと思うの」
金髪の女の子が仲間を見渡しながら言った。
「まぁ姫様の決めたことなら、わしは従うよ」
まるで魔法使いのようなローブと杖を身につけた老人が渋々といった感じで頷いた。
「私も何も異存ありません」
濃紺の服に身を包んだ背の高い女は恭しく頭を下げた。
「よかったな、見つけたのがうちの姫様じゃなかったらきっと置いてかれてたぞ」
大男はそう言うと、ガハハと笑いながら渡瀬の肩を叩いた。
訳がわからなかった。
こいつらにどこに連れ去られるのか考えると笑い事ではないが、渡瀬の脳は目の前の光景をありのままに受け入れることを拒否していた。
さては病院スタッフのドッキリ企画ではないのか。
どこかにハンディカメラを手にした同僚が控えていて、撮ったビデオを後で編集して忘年会の出し物にでもするつもりではないのか。
そうとでも思っていないと、寝ている間に自分か世界のどちらかががどうにかなってしまったことを認めなくてはならないのだ。
渡瀬は手を控えめに上げながら、おそるおそる切り出した。
「あの……、自分の家すぐそこなんで、僕のことは放っといていただいていいんd」
「大丈夫!」
言い終わる前に話を遮られた。女の子は身を乗り出して両手で渡瀬の手をぐっと握ると、聞き分けの悪い子供を説得するように一言ずつ力を込めながら言った。
「きっと記憶も戻るわ。組合に戻って知り合いに会えばすぐに思い出すから。困ったときは助け合わないと!」
「あ、ありがとうございます……」
勢いに呑まれ、渡瀬はついお礼を言ってしまった。
未だにこの女の子が何のことを言っているのか、自分はなぜ連れてこられたのかすらわかっていないが、若い女の子に手を握られるという経験に乏しい渡瀬は、ただただ極度の照れと緊張から肩をこわばらせ目を伏せるばかりだった。
「任せて!」
女の子は胸を張って自信たっぷりに頷いた。
初心な少年なら一発で恋に落ちるような、それはそれは良い笑顔だった。
その後、女の子は今の状況を簡単に説明してくれた。
なんでもここはつい先日発見されたばかりの遺跡で、自分は仲間とはぐれた冒険者らしかった。
今はショウキ?を浴びて記憶が混濁しているが、街にもどって休息を取ればじきに自分の名前も思い出すだろうとのことらしい。
なるほどなるほど。渡瀬はとりあえず頷いておいた。
言いたいことはあるが、女の子の説明はそれなりに筋が通っていたし、なによりどんな意図があろうとも見ず知らずの自分をこうして助けようとしてくれる人間に水を差すようなことはしたくなかったのだ。
「私のことはリナでいいわ。で、左から順にガヤルドとソニアとレヴェ爺」
いきなり名前を呼び捨てでとはずいぶんと積極的な子だな。どう見ても俺の方が年上だろうに物怖じするような感じもないし。渡瀬はぼんやりと考えた。
リナは続けて尋ねた。
「とりあえず、街に着くまであなたのことはなんて呼べばいいかしら。さっき名前聞いた時なんて言ってたっけ?」
「あ、渡瀬浩三です。ワ タ セ コ ー ゾ ー 」
「じゃ、コーゾーでいい?」
いいわけがない。
金髪の女の子に下の名前を呼び捨てにされるなんて、恥ずかしくてたまったものではない。
「ああいえ、渡瀬でおねがいします」
「じゃあワタセで。よろしくね」
何のてらいもなく満面の笑顔を向けるリナに、渡瀬は無性に恥ずかしくなった。
†
一行はとりあえず病院の中をもう少し探索していくことにした。
パーティーを再度二つに分け、渡瀬はリナ・ガヤルドペアと行動を共にすることになった。
リナ・ガヤルド・渡瀬の3人はとりあえず探索の続きをしようと救急外来に戻った。
ガヤルドはお宝お宝と口ずさむほど上機嫌で、渡瀬にはそれがなんだか申し訳ない気分だった。
病院には確かに高価なものがごろごろしているし、MRIのような大型機器なら何億円にもなるが、素人には何の価値もないガラクタもいいところだ。
冒険者だか盗掘団だか知らないが、その名の通りの金銀財宝目当てなら無駄足もいいところだろうと思う。
その一方でリナは宝よりもこの病院自体に興味があるようだった。
彼女の言い方に倣うなら遺跡と言うことになる。
なるほど遺跡としてならこんなに保存状態のいいものはそう無いだろう。
インターネットは使えないようだが、それ以外なら電子機器ですらいつも通りに稼働できているのは一体どういった理屈なのか。
病院の屋上に設置されているソーラーパネルがまだ働いているのかもしれない。
空き巣そのものの様子で棚という棚を漁りまわっているガヤルドを横目に、渡瀬は救急外来を目的もなくぶらついていた。
ふと思いついて、救急処置室の自動ドアを開けてみる。
患者が救急車で搬送されたときに処置室に運び込むための、病院の外とつながっているドアである。救急車から降ろしたストレッチャーがそのまま通れるように、大人が両手を広げても塞げないほど幅広に作られている。
足下のセンサーにつま先を蹴り入れると、自動ドアはギシギシと聞き慣れない音をたてながらゆっくりと左右に開いた。
そして、渡瀬は初めて病院の外の世界を目の当たりにした。
――外は、濃い緑の世界だった。
まるで北国の深い山奥のような針葉樹林の生い茂る森。
地面も丈の低い草で覆われている。
一歩外に足を踏み出して振り返ってみると病院の壁面は蔦で覆われ、白い壁は半分も見えていない。
本来そこにあるはずの、救急車専用の停車スペースとその奥に広がる一般駐車場、そして道路の向こうに林立していた調剤薬局やホテルは影も形も見当たらない。
まぶたをこすってもう一度目を見開くが森はどこまでも森であり、見慣れた街の影はまるで最初から幻だったかのように跡形すら見つけられない。
渡瀬は、ここに至ってようやく、異世界転移という言葉を、現実のものとして受け入れた。
異世界転移に気付いた渡瀬が最初に感じたのは、未知への好奇心でも冒険の日々への期待でもなく、猛烈な危機感であった。
今や自分はこの世界では頼れるものなど誰も居ない孤独な存在である。
誰も自分を知らないし、何も自分の身分を保証してくれない。
ここがどこなのかわからない以上、元に戻れる保証もどこにもない。
なにより、元の世界がどうこう言う前に、今晩の宿や明日の飯の種すら定かではないのだ。
安定した生活を送ってきた渡瀬にとって自分の身分や生活の基盤が脅かされるのは初めての経験であった。
自分の価値は自分で作らなければならない。
そしてこの異世界における自分の価値は、医療の知識と技術があること、ただそれ一点である。
診察室に置きっ放しになっているリュックサックを持ち出すと、渡瀬は役に立ちそうな薬品や器具を片っ端からかき集めては詰め込み始めた。