第2話 「異世界転移」
……誰かが肩を揺さぶっている。
渡瀬は、自分がいつの間にか診察室の机に突っ伏した状態で寝ていたことに気がついた。
首と腕がこわばってぴくりとも動かせない。口は半開きで、白衣の袖がよだれでベトベトになっている。
……誰かが頬を指でつついている。
普通なら当直医を叩き起こすのは院内用PHSの役目である。自分はPHSの着信音に気づかないほど深く寝入ってしまったらしい。
大方、看護師か当直事務が起こしに来たのだろうと渡瀬は思った。
無視して寝続けようかとも考えたが、いつまでもペトペトペトペトと頬を突っついてくるのでいい加減に気づかないふりも難しくなってきた。
狸寝入りを続けるのもバカバカしくなって、言い訳を口にしながらゆっくりと顔を上げた。
「あー、すいません。PHS鳴りました? 全く気づかな……く……てぅぇ?」
変な声が出た。
顔を上げた先、目の前に金髪の女の子がいた。
思いがけないものを見たという様子で目をまんまるに見開いている。
「っきゃあああああああああ!」
女の子は悲鳴を上げるやいなや部屋の外に逃げ出してしまった。
え? なんで? 誰?
事態に全く付いていけない。顔を見て悲鳴を上げられる理由が全くわからない。
もしかして自分の顔になんかついてるんじゃないかと手でペタペタと確かめるが、額に白衣のしわの跡がついている他は何もない。
そもそも診察室に女の子がいた理由がわからない。西洋人のような金髪碧眼の女の子。
この病院には外国人の職員なんていなかったはずだし、そもそも働くにはまだ若いように見えた。
見舞いに来た人が迷い込んだのだろうか?
それとも、おかしいのは自分の方なのかもしれない。
寝ている間に知らない何処かに連れて行かれたとか?
不安に思って周囲を見渡すがどう見てもいつもの診察室だ。
寝ぼけ眼には眩しい蛍光灯の白色光。白い壁に覆われた狭い部屋。机と診察台と三つの椅子。電子カルテを積んだパソコンはいつの間にか電源が落ちている。
部屋の入口に目をやると、診察室のドアは開けっ放しになっている。
さっきの女の子の足音が駆け足で遠ざかっていくのが聞こえる。
女の子を追いかけてみようかと一瞬腰を浮かせかけたが、あまりに非現実的な状況に立ち上がる勇気が出なかった。
まず状況を整理しようなんて理屈で心底ビビっている自分を正当化させた。
数十秒の間、ぼんやりと壁を見つめていた。
気を取り直してせめて時間か着信履歴だけは確認しておこうと胸ポケットからPHSを取り出したが、電源ボタンを押しても画面は暗転したままでうんともすんとも言わなかった。
首を傾げつつ机の上に鎮座している電子カルテ用のパソコンの電源をつけてみると、今度はあっさりと動き出した。
OSが起動していつもの窓のロゴが映る。電子カルテが起動する。
救急外来の項目を開くと、患者の受診履歴が全くのゼロになっている。
故障でもしたのかと思う。
不審に思ってパソコンの裏をのぞき込んでもLANケーブルは確かにつながっている。
電子カルテは診療録だけでなく、検査のオーダー、検査結果の参照、処方箋の発行などすべての業務を司る、まさに病院の心臓である。もしこれが故障すれば病院の全機能が停止すると言っても過言ではない。
当然のように院内LANの保全には万全の体制が取られている。
壊れるなんてことはめったにないはずだった。
はて、と首をかしげる。自分が寝ている間に病院に何かあったんだろうか。
画面上部の日付が書いてあるスペースは、なぜか西暦が9999年でカンストしている。
ダメだこれ本格的にぶっ壊れとるわ、と渡瀬はため息を付いた。
曜日表記も何故か日曜日になっている。昨日は金曜日だったから30時間睡眠かタイムスリップでもしてない限り今日は土
「おい」
「!!!!……ッ!?!!?!」
低い男の声が突然頭上から降ってきた。
自分でも意外なくらい無茶苦茶に驚いた。反射的に声の方を向く。のけぞった反動で座っている椅子のキャスターがガタガタと音を鳴らした。
2mはあろうかという見上げんばかりの大男が部屋の中に入ってきていた。
パソコンに気を取られていたためか全く気配に気づかなかった。
驚きすぎて声すら出なかった。ただあんぐりと口を開けて遥か頭上にある男の顔を見上げた。
短く刈り込んだ黒髪、西洋人のような彫りの深い顔。まるでハリウッドのファンタジー映画に出てくる戦士のような風貌である。
あまりにでかすぎて、狭い診察室の中では一人立っているだけで窮屈そうにすら見える。
渡瀬の貧弱な身体では、逆立ちしても勝てそうにない体格であった。
「こんなところで一人で何してんだ」
大男が低い声で尋ねた。
怒らせたら最後かもしれないという恐怖から、逆らおうなんて気は全く起こらなかった。
“こんなところ”という単語に違和感を覚えないでもなかったが、とりあえず正直に答える。
「あ、えっと……俺、いや自分はここの病院の医者で……あの、今は当直中です」
「医者? どういうことだ。仲間はいないのか」
「……?」
仲間? 仲間というか、病院の職員ならそこらじゅうにいるはずだ。
どうも話が噛み合っていない。
答えあぐねていたら、大男の背中から女の子がひょっこり顔を出した。
さっき悲鳴をあげて逃げていった子だ。高校生ぐらいだろうか。
後ろに一本に束ねた金髪が動きに合わせてふわふわと揺れている。ゴールデンレトリーバーのしっぽみたいだな、と渡瀬はぼんやりと考えた。
女の子が声を振り絞るようにして尋ねた。
「あの、あなたのお名前は?」
「あ、渡瀬です。渡瀬浩三。ほら、これ」
胸ポケットのクリップを外して顔写真付きの名札を突き出す。
大男は名札を受け取ると、目を細めてじっと見つめる。がすぐに興味をなくしたようでこちらに向き直った。
「読めんな」
「あ、すいません。海外の方ですか?」
大男は渡瀬の質問には答える素振りすら見せず、まるで職務質問でもするかのような無機質な声で続けた。
「お前は、どこに住んでいる」
「……あ~、病院の宿舎ですね。ここのすぐ隣りにあるんですよ。徒歩3分ぐらい」
「この建造物の、すぐ、隣」
「ええ、すぐです」
そう言って渡瀬は宿舎のある大雑把な方角を指差した。
大男は指差した方角を眺めると、得心がいったような、嫌な予感が当たってしまったような顔をしてつぶやいた。
「……瘴気にやられたな」
小さく頷きながら、大男と女の子の二人はじろじろと渡瀬の体を見回している。かと思うと二人は困ったように顔を見合わせて小声で話し出した。
小声ではあるが、目の前で話されているせいで内緒話も何もあったものではない。渡瀬には全部聞こえていた。
「……仲間はいないのよね」
「あとで爺さんたちにも聞いてみるが、まずいないだろうな。いたらこんな状態で放置してねえだろ」
「そう……、とりあえずみんなと合流しましょう」
女の子がこちらに向き直る。渡瀬を見る目は、なにか可哀想なものを見る目だった。
「……あなたも、付いてきて?」
逃げ出す度胸も持ち合わせていなかった渡瀬は、ただただ神妙に頷いた。