第16話 「挫折と決断」
司教が倒れた次の瞬間には、トラフトとギセラは司教の元に駆け寄っていた。
サリアは涙を浮かべて立ち尽くし、メイドと思しき女性がサリアを後ろから抱き留めている。
「ドレイク様! 分かりますか?」
トラフトが主の肩を揺すって意識を確かめた。
ドレイク司教はうずくまったまま喘ぐようにぱくぱくと口を動かしたが、声にはならなかった。
ひと言断ってから仰向けに寝かせ、服をめくりあげる。
でっぷりと肥え太った二段腹はいつものことだが、今日はへその周りに見慣れないものがあった。
臍を覆うように、皮膚が赤黒く変色していた。
ドレイク司教はこの聖国の根本たるベルコ教の司教、つまりは五指に入る権力者である。
トラフトとギセラは真っ先に暗殺を疑った。
「ギセラ! 私の部屋から薬が入った袋を取ってきなさい!」
「は、はい!」
ギセラはトラフトの言葉に従い、宿屋の階段を駆け上がった。
大きな足音をたてながら、すぐに白い布袋を抱えて降りてきた。
トラフトとギセラは考える。
仮に暗殺のために毒を盛られていた場合、ここから救命するのは極めて困難である。
トラフトは再び、弟子に指示を飛ばした。
「ギセラは治癒魔法を! 私は薬草で解毒を試します」
ギセラは目を閉じ、両手を胸の前で握って詠唱を始めた。
数秒の後、強く明るい緑色に光り始めた右手をドレイクの右腹部に近づけた。
解毒を行う場合、身体のどこを痛がっていてもその患者の右腹部、つまり肝臓に魔法をかけるのが最も効果が高いとされている。これは師トラフトが発見し、世に広めた解毒法であった。
仮に解毒が出来なくても、治癒魔法には鎮痛効果がある。
傷ついている部位に魔法が届けばこのドレイク司教のもがくような苦しみも軽減するはずだった。
しかし、治癒の祝福を施した右手を近づけると、ドレイク司教の呻き声は一層強くなった。
手をかざす下で、赤黒い皮膚の変色がじわりと広がっていく。
司教は痛みに耐えきれず暴れ、ギセラの手を払いのけた。
「師匠! 治癒が効きません! それどころか……」
ギセラの治癒魔法は明らかに、トラフトの苦しみを増す方向に働いていた。
ギセラは狼狽し、魔法を解いてふらふらと立ち上がった。
ギセラは治癒魔法に自信があった。
幼い頃から天才と持て囃され、今もトラフトの一番弟子として順調に実績を重ねている。
その魔力も知識も同世代の中では抜きんでており、周囲の人々からはゆくゆくは師のように聖国を代表する医師・治癒術士になると期待されている。
本人もそのつもりで、決して慢心することなく精進を続けてきた。
しかし、今日の自分は全くの役立たずだった。
広場でサリアを見失ったときも、聞けば喘息発作を起こして呼吸苦に陥っていたところを見知らぬ冒険者に助けられたらしい。
自分がついてさえいればとも思ったが、果たしてあの場で喘息発作を起こしたサリアを自分が助けることが出来ただろうか。
そして今も、司教の痛みを和らげることすらできていない。
ギセラは絶望的なまでの無力感に苛まれていた。
†
ギセラの治癒魔法が効いていない様子を見て、トラフトは違和感を感じていた。
ドレイク司教が倒れたタイミングからは、食事が原因だった事は間違いない。
だが、食あたりにしろ毒を盛られたにしろ、ドレイク司教以外の人間に何の症状も出ていない点がどうにも変だと思う。
毒ではないとしても、急な腹痛をもたらす病気は無数にある。
ドレイク司教の持病は何かあっただろうか。
肝臓、胆嚢、膵臓、脾臓、腎臓、胃、腸……。今はあらゆる臓器が疑わしい。
その中で、治癒魔法による鎮痛さえ効かない病となれば……。
トラフトはあらゆる可能性を思い浮かべ、診察をしながら一つ一つ除外していく。
†
渡瀬もまた異常事態に気づき、司教の近くに駆け寄って二人が治療にあたる様子を見守っていた。
先ほどギセラに怒られたこともあり、積極的に手を貸すのは控えようと思って少し離れたところに立っている。
事態は思っていたよりも深刻なようだ。
治癒魔法は無効で、ドレイク司教の痛みはますます強くなっているように見える。
トラフトの診察を見守る。
痛みの部位は心窩部。
圧痛・反跳痛ともに陽性。
血圧は保たれているが、脈はかなり速い。
トラフトが離れて立っている渡瀬に気づき、顔を上げた。
「――ワタセ様、少しだけ宜しいですか?」
「……ええ、大丈夫です」
渡瀬はトラフトの隣に片膝を立てて座り、トラフトの言葉を促した。
トラフトは流暢に診察で得た所見を述べていく。
「痛みの部位は心窩部。押さえた時の痛みが強く、腹部の臓器に原因があると思います」
トラフトは自身の見解について述べながら、司教のみぞおちに手をかざした。
「更に、この臍の周りに皮下出血があります。おそらく原因は、膵臓ではないかと」
「――ええ、私もそれが一番疑わしいと思います」
渡瀬は感嘆した。
臍の周りの皮膚が赤黒く変色しているのはおそらくCullen徴候。急性膵炎により膵臓の消化酵素が周囲の組織を溶かして、それが皮下にまで染み出している状態である。
おそらく解剖学も未発達で、体系化された診断学もないであろうこの世界で膵臓が原因とまであたりをつけるのは並大抵のことではないだろう。
リナが言っていたとおり、この人はこの世界でもトップクラスの医師なのだろうと思う。
渡瀬の同意を得て、トラフトが続ける。
「私は同じような症状の患者を今までに何人か診たことがあります。しかし、そのどれも助けることはできませんでした」
トラフトは下を向き、腹を丸めて痛がる司教の手を握った。
「ワタセ様、あなたは先ほどサリア様の喘息発作を治めたと聞きました。あなたにもし何らかの手立てがあるならば、どうか手を貸していただけないでしょうか?」
トラフトが頭を下げる。
渡瀬はその様子を困ったように見つめた。




