第1話 「勤務医の悲哀」
もう限界だと思った。
担当患者の急変が相次いで、家に帰る暇なく病院に泊り込んでの仕事は5日目に達していた。散発的な仮眠では体の芯に染み付いた疲労を取り去ることはできず、眠気のピークはとうに通りすぎて、今や目の奥からじんわりと染みてくるような頭痛と吐き気との戦いとなっていた。
金曜日の午後6時、本来なら花金を謳歌している時間だがこんな日に限って運悪くも救急当直の当番にあたっていた。
救急当直とは少数の当番医師が夜間休日に病院に泊まり込みで、救急車などで運ばれてくる急患の診療をする制度である。
ここ武山市民病院も総合病院の例に漏れず救急外来を開設しているが、こんな田舎の病院では夜間に複数の医師を置く余裕はなく、深夜に重症患者が救急車で運ばれてくればそれが専門外の患者であろうが一人で診察することになる。
一睡もできないことも珍しくないが、夜間救急をしていたからと言って日中の業務が軽減されるようなことは一切ない。
これは医師不足が招いた生贄の制度であった。
外からゆっくりと近づいてくる救急車のサイレンが、自分を迎えに来た死神の足音のように聞こえる。
頼むからよそに行ってくれと祈っても、この近辺に夜間救急を開いている総合病院はうちしかない。
知らなかったのか? 救急車からは、逃げられない。
†
渡瀬浩三は武山市立武山市民病院の呼吸器内科に勤務する29歳である。
若手の医師がおおむねそうであるように彼もまた日常的に過剰なまでの残業を強いられていた。根が真面目なためか気が弱いためか言われた仕事を文句も言わずに淡々とこなすため、一見無口で根暗な外見とは裏腹に職場での評判は悪くない。
その一方でいざオフになると録画した深夜アニメを見るか、ソーシャルゲームに給料の大半を注ぎ込むことしか趣味がない重度のオタクであった。ストレスが溜まれば溜まるほど趣味に対する散財も進み、高給取りにも関わらず貯金は雀の涙ほどしかない。そしてさらなる課金のために残業を引き受けるという、まさに負のスパイラルに陥っていた。
†
急患を一通り捌き終わった頃には、時計の針は深夜0時を回っていた。
診察室のPCで最後の患者のカルテを書きながら、地獄のようだったこの一週間を振り返った。不運が重なった結果とは言え、ここ最近の残業は明らかに度を越していたと思う。
もっと緩やかに時間が流れる職場ならここまでストレスを溜めることなく健全な生活が送れていたのだろうか。そもそも自分には医者なんて向いていなかったのではないか。そう思っても既に自由に転職できるような年でもないし他にできることもない。
次に生まれ変わったらもう少し自由な生活ができる仕事にしよう。
今更どうしようもない後悔に苛まれつつ瞼を閉じた。
診察室の椅子に深く背中を預けると、疲弊していた身体はすぐに意識を手放した。
彼がこの世界で目を覚ますことは二度となかった。
筆者は現役医師ですが、正確でない描写が度々出てくると思います。感想欄等にてご指摘いただけますと幸いです。