狂う時計
鈴木が中村にあえてゆっくりパスを出す、合図を出しながら。
中村はダイレクトで裏を狙う。
佐藤は既に反応していた。
俺は俺で走る。
高木がニアを詰めて、俺はその後ろに入る。すべて、練習の形。
佐藤が回り込むように走り、ダイレクトでグラウンダーのクロスが上がる。
チャンスだ。一気に毛穴が開き、毛が逆立つ。
完全に高木の得意パターン。ここから流し込むのが上手いのだ。
頭にこぼれ球を詰めないとという意識が浮かんだ。
次の刹那、高木がスルーした。
マジか。
足は残ってる、強くは蹴りこめないが、体をたたんでコンパクトにコースを狙って当てる、できる。
ほんの少し浮いたのだ。
ボールは、かすかに、かすかにイレギュラーしたのだ。
そのかすかな変化がボールを明後日の方向に飛ばすことも、サッカーではままあることなのだ。
俺は懇意にしているバーで酒を煽っていた。
シーズンはもう、再開している。シーズン中は禁酒しているのだが、飲まずにはいられなかった。
チームのホームタウンから少し離れた。高級住宅街の中心駅から少し離れているバーに居た。
雰囲気のいい、値は張るが、何より客層が好いのでオフになれば週に一度ほどのペースで通う。
俺は一人で飲んでいた。
そもそもシーズン中に酒を飲むやつもいるが、俺はそういうやつをよく思っていなかったし、
もともと少量しか飲まないから、誰かと飲むと気苦労することもある、
そんなことは本末転倒だと思い、いつも一人で飲む。気楽に飲むのが慣習なのだ。
マスターは俺がとある世界的な大会の敗退の原因とも言えるプレーをしたことは知っているだろうが、
やはり、話しかけたりはしてこない。
こういうときほど、黙っていて欲しい。
ならば、バーになど行かなければいいのだが・・・
夜も深けている。
客も少ない。
静かに1~3杯飲むにはいい。
酒の味に耽っていく、意識がはっきりとしていったあとは、だんだんと朦朧としてくる。
知ったことか、すべて終わったことだ。
しかし、世間は俺ほど深刻に受け取ってはいないのに、
俺にそれを忘れさせてくれないだろう。
しつこく、その話を掘り返し、俺のプレーが流れる。流れる。
それに俺は耐えなくてはいけない、
耐えなくては。
なんとも思ってないふりをして。
誰よりも傷ついているのに、だ。
なにやら落ち込んでいるようですね。
カウンターの少し離れて座っていた男が話しかけてくる。
大人の男という印象が強い。
普段サッカー関係者としか面を合わさないからだろうか。
一見するとふつうの男だが、こうしたところで飲んでいる以上、なにかしら成功しているのだろう。
しかし、いまは誰も相手にしたくないのだ。
誰であろうと。
ええ、まあ。俺は限りなくそっけなく言った。
わかります、誰とも話したくはないのですね。
しかし、あまりにも憂鬱な顔をしていらっしゃるので、
つい、気になってしまってね。こうして声を掛けてしまったわけです。
はぁ。さては私のことを知らないのですね。
・・・さてはなにか御有名なお方ですか?いやいや、いつも仕事にかまけていまして、
世間には疎いところも多いのです。
そんなものなんだろう。忙しい人は世間には疎いものだろう。
サッカーに興味もなく、テレビも見なければ、新聞も読まない。
そんな人も多いのだ。
いやいや、別にかまいません、むしろその方がいい。
まあわりかし、おおきな失敗をしましてね。
世間を今、騒がしているというところもあるのです。
興味のないかたには、どうでもいいことなんですがね。興味のある人たちにとっては、格好の話題なのです。
・・・そうですか、まあ大きな成功よりも、大きな失敗の方が話題になりますからね。
また、成功の場合よりも忘れられにくい。
ええ。一生付きまとわれるかもしれません、それこそ、私が仕事を引退しても、死んでも話題になるかも。
そこまで。
ええ。
いやいや、それは、・・・そうですか。
これは運命かもしれない。
男はそうひとりごちた。
実は今、人を探していたのです。
はい。
それが、その・・・あなたのような人なのですよ。
というと、大きな失敗をした人ですか?俺は苦笑いをした。
まさに。そうなのです。
不思議なことを言うやつだ。
何のために?
やり直したくはないですか?
そりゃ、やり直したいですよ、でも、何もかも遅い。
そんなことはないですよ。
あなたに何が分かるのですか?
からかっているわけではないのです。
本当にやり直せるのです。
そりゃすごい。
(頭がな。)
・・・信じられぬのも無理はないでしょう。
しかし、私はやり直してきたのです。
幾度となくね。
真剣な顔で言う。
からかうのもはばかれたし、変に悲しそうだと思った。
しかし、だからなんなのだ、とも思う。
この時計を。
そういって、木でできた、年輪のような模様をしている時計を差し出した。
これは私のおじいさんが亡くなった時に、出てきたものだそうです。
当時形見分けをしていたのですが、私は大学を卒業する目前でした。
時計を持っていなかったので、父が私の分としてもらってきたのですが、
私は時計に興味などなく、ましては就職先に着けていくには洒落すぎていますから閉まっていたのです。
彼は酒を口に運んだ。
俺もそれに倣うように一口。
机に時計を置いて、彼は俯いた。
俺は聞く気になっていた、自分の話などどうでもよく、この少しイカレている男の身の上話でも
気分転換になると思った。
それで?
まあ、ある時、直してみようと思ったのです。
時計は動いていましたが、時間はずれていた。
ねじがひとつありまして、回せば時刻を合わせられると思い回してみました。
案の定針が動き時刻を合わせた途端、もう一つねじが回転しながら出てきた。
・・・なんだと思いましてね、精巧さに驚きながらも、そちらのねじはなんだろうと思いました。
そちらを回すと、それを動力に動いているのかなとも思いましたが。
とかく、回してみようかと。
すると、針が動いた、すぐにやめました。せっかく針を現在に直したのにと。
・・・気付いたら、時計の針は狂っていたのです。
いや、戻っていたというべきですね。
いいですか、最初に時刻を合わせるその前になったのです。
もう一度時刻を合わせようとした時、気付きました。
正しく時を刻んでいる時計を見て、時刻を合わせますよね?
しかしその狂っていない時計は
最初に時刻を合わせた時と同じ時刻を指していました。
そんなはずはない、そんなはずはないんです。
なにか狂っている。時計なのか、自分なのか。
時刻を合わせると、もう一つねじが出てきます。
私は、もう一度同じようにしました。
今度はもう少しだけ大きく回してみました。
すると、やはり・・・。
時が戻ったと?
ええ。
そんな馬鹿な、鼻で笑う。
いやいや、迫真ですね。
本当ですから。
それで、どうなったんです?
こうなりました。おどけた仕草を見せた。
しかし、いやあなたは十分立派な人かもしれませんが、
そんなことができたなら、誰しもがうらやむほどの成功者になれるのでは?
ええ。なれますね。
今のあなたはそこまでには見えませんが。
分相応というものがあるんです。
そんなことができたら、そんな分別のようなもの消し飛びそうですが。
もちろん、たとえば、お金を稼いだり、好みの女性も名誉も思いのままとはいいませんが、
かなり近いことはできました。
例えば、ギャンブルだって勝てますし、好きな女性に好かれる方法も分かります。
告白して振られてもなにも怖くありません。やり直せますから。名誉も同様ですね。
もしかして、俺はこの時計を売りつけられるんじゃないだろうか。
こんなのに騙されるのはパワーストーンとかいう、卑猥な雑誌のおまけのような広告にだまされるような
もんだと思うが。
ですがね、ですが、面白くないんですよ。それに恐ろしいんです。
なにがです?
本来であれば、成功するにしても、失敗するにしても、得るものがあるはずですし、根拠や原因があるはずです。行動に至る。考えに至るにしてもね。
ですがそういったものをふっとばして得たものは、自分には扱いきれないものばかりなのです。
使い道のない莫大な金、手に負えない妻、たくさんの人を抱え、責任ある、そして求められてばかりの仕事。
なんどとなくやり直し、そのたびに追い詰められていきました。自分の見た目と心があまりにもかけ離れているくらい、私の心は老いていきました。つらかった、本当につらかった日々でした。
私は戻りたいと思った。この時計の力を使わないで生活をやり直したかった。
なんどもなんどもねじを巻いていきました。
そして、もう一度自分の人生を取り戻したかったのです。
でも、さすがにそんなに都合はよくない。
今度はずいぶんと酒を煽った。
俺はまた、一口。この男が話すのを待った。
やり直すと言っても、やはり私は私ですからね。
あのころの何も知らない私じゃない、分かってたことですが。
それでも、やり直さない人生はつらくも、救われました。
このおっさんだかじじいだか、自分の本当の年齢も把握していない私相応の
私で居られましたから。
もう一度、時計を手に取った。
これは、単なる時計として大事に使ってきました。
何度となく、使おうとする自分との長い戦いの始まりでした。
壊すなり、どこか人の手に渡らない、自分も取り戻せないところに。
とも思いましたが、なんとなく惜しい気がしましてね、
おじいさんの形見ですし。
この10年、使わずに来れました。
あなたならこれを、どうします?
やはりやり直したいのではないですか、今の話を聞いても利点は十分でしょう?
俺はその時計を手に取る。
ちらと、時間を見た。
時計の持ち主を見やる。
そう、つまり、私にこれを譲ってくれるわけですね。
もちろん、欲しければ。
ぜひ、譲ってください。
ええ、あなたには必要かもしれません。
大事にしてください、そして、あなたの人生も同じくらい大事に。
俺は目を細くし、微笑んだ。
しかし、その時計の力に頼りすぎてはいけませんよ。
でしょうね、まあ、私はもうこの時計の力を使うつもりはないのですけどね。
俺はそう言って、男を見やり笑った。
私もまた、この時計の力を使わずに、いつか他の人に渡そうと思います。