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あや 伊勢物語編

あづさ弓  ――あや・伊勢物語編

作者: 蒼月 氷水(そうげつ ひすい)

    

 一、

 

 夜であった。

 男は一人、四条の道を歩いている。

 月はない。

 星ばかりがちらりちらりとあるが、その光はひどく頼りない。

 わずか先に広がる闇は男を飲み込むほどに深い。

 いや、もう飲み込まれているのか。

 男はただ一人、その中を歩いている。

 灯りもなく、音もなく、

 黄泉の国とはこのようなものであろうか。

 やがて橋にさしかかる。

 男が渡ろうとすると、

「もうし」

 後ろから声がかかる。

 女である。

 白い衣を羽織った女が、いつの間にか立っている。

 深い闇に女だけが浮かんで見える。

 俯いているため顔は分からない。

「誰か?」

 男が問うが返事はなく、女は俯いたままである。

「誰か?どうされたのだ?」

 もう一度問うが、やはり返事はない。

 さては人外のものか。

 そう言えば、このような闇の中で、なぜこうもはっきりと女の姿が見えるのか。

 そう思うと途端に恐ろしくなる。

 男は女に背を向け、足早に橋を渡る。

 渡り終えて橋を振り向けば、女の姿はない。

 息を付いた瞬間、

「もうし」

 背後から女の声。

 見れば先ほどの女である。

 やはり俯いてじっと立っている。

「誰かっ?」

 男が声を荒げれば、女は前に組んでいた白い手を放し、顔を覆う。

 泣いている。

 男の中に哀れと思う心が生まれる。

 恐怖はある。

 しかしそれと同じくらい、哀れに感じる。

 じっと女の姿を見ているうちに、女の姿がどこか見覚えのあるものに思えてくる。

 近づいて、もう一度話しかけてみるべきか。

 しかしやはり恐ろしい。

 女の姿をしているが、鬼かもしれぬ。

 放っておいて先に進もうにも、女が道を塞いでいる。

 どうするべきか。

 ごとりと、背後より音が響く。

 ごとりごとりと、何かが近づいてくる。

 振り向けば橋の向こうより朱色の牛車が向かってくる。

 闇に溶けるような黒い牛が、引いている。

 男の前で牛車が止まる。

 男を挟んで対峙するように、女と牛車がある。

 どちらもこの世のものには思えない。

「もうし」

 顔を覆ったまま、女が呼ぶ。

 先ほどよりも聞き覚えのある声に思えてくる。

 女のもとに行くべきか。

 しかし何故かためらいがある。

 どちらに行けばいいのか。

 女と車。

「もうし」

 男を誘うように、女の声が響く。

 男が女の方へと踏み出した時、

「行っては駄目」

 鈴の音のような声が車の中より響く。

「それに近づいてはなりません」

 童女の声が闇を縫う。

「誰か・・・?」

 返事はなく、代わりに

「こちらへ」

 童女の声が呼ぶ。

 男は再び女と車を見比べる。

 どちらへ行くべきか

 どちらにせよ恐ろしい。

 救いを求めるように天を見上げれば、そこに先ほどまでなかったものがある。

 月だ。

 まるで弓を張ったような細い月が闇の中に浮かんでいる。

 いけない。

 女を追っては(、、、、)いけない。

 突然の衝動に、男は車へと走る。

 近づいた途端に、強く何者かに引っ張られ、車の中へと入れられる。

 驚いて車の中を見渡すが、乗っていたのは童女が一人だけである。

 年のころは十ばかりであろうか。

 澄んだ闇色の瞳で男を見ると、

「出して」

 誰の姿もない空へと言う。

 応じるように車がゆっくりと動き出す。

「そなたは?いや、あの女は・・・?」

「お静かに。まだ終わったわけではありません」

「何?」

「あれが追いかけてきます」

 男が御簾を少しばかり持ち上げる。

 闇の中に女がいた。

 髪を振り乱しながら恐ろしい形相で走ってくる。

「ひっ」

 角も牙もないが、目を吊り上げて、唇を強く噛んで血を流しながら走るそれは、まさしく鬼の姿である。

 しかしどういうわけか、これほどゆっくり進む車に、女は追いつけないでいる。

「あれを見てはなりません」

 童女の声と同時に、御簾が急に重みを増し、男の手を逃れる。

 女の姿が目の前より消え、ただひたひたと走る音のみが聞こえている。

「あれは一体・・・」

「鬼です」

「確かに鬼のようではあるが、しかしあの女は・・・」

「いいえ、鬼です」

「あや様、あれは予想以上に強いですぞ」

 車の中にしわがれた老人の声が響く。

「このままでは追いつかれます」

「そう、余程の未練なのね」

 当然のようにその声へと童女は答えるが、車には二人しか乗っていない。

「いかがいたしますか、あや様」

「どうしようかしら」

 童女の瞳が男を捕える。

 やはり恐ろしい。

 なぜこうも落ち着いているのか。

 このような刻限になぜ一人車に乗っているのか。

 この娘もやはり鬼の類なのか。

「恐ろしいですか?」

 見抜いている。

 男は答えられずに俯く。

 がちりと音がして、車が揺れる。

「おお、追いつかれましたな。奴め、車の端に噛り付いておりますぞ」

 老人の声が言う。

 童女が息を吐く。

「ほおずき」

 声を放てば、

「あい」

 愛らしい童子の声が車の外に響く。

 直後に、獣のような恐ろしい叫び声が上がる。

 甲高く闇を裂く声を聴いた瞬間、胸に鋭い痛みが走る。

 男は胸を押さえて倒れこむ。

 童女が静かにそれを見守っている。

 鬼は、あの女はどうなったのか。

 意識が薄れていく。

 闇に吸い込まれていく中で、童女の声が囁く。

「もう、引くべき弓はありません」

 闇の中に女の姿が浮かぶ。

 ああ、あの女は。

 恐怖が消えた。

 一瞬のうちに焦燥と悲しみが湧き上がり、

 一瞬で闇の奥へと消えていった。


 二、


 あづさ弓 ま弓 つき弓年を経て


「都はとても美しいところなのでしょうね」

 女は言った。

「きっと、時を忘れてしまう程に」

 憂いを帯びた声。

「行ってみたいですか?」

 御簾の向こうから返事はなかった。

 代わりに小さなため息が一つ、闇の中を通り過ぎて行った。


「どうしようかしら」

 闇の中で、童女の声が問う。

「さて、どうしましょうなあ」

 老人の声が答える。

「あれで戻らぬとなれば、なかなか厄介な相手ですな」

「あまり悪いものではないようだけれど」

「しかし妖は妖を呼びますからな」

「憎しみではなさそうなのに」

「思慕も憎悪も、心を惑わすことでは同じにございます」

「見つけなければどうしようもないかしら」

「少々危のうございますが」

「放っておくわけにはいかないもの」

「まったく、あの者の居場所さえ分かればのう」

 両者の声が止む。

 再び闇だけが男とともにある。

 灯りがほしい。

 せめて月でも出ていないだろうか。

 男が思うと、闇の中に灯りが差す。

 月が浮かんでいる。

 細い細い月。

 弓のような月。

 満たされぬことのない月。

 やはり、追うべきだったのか。

 月が揺れる。

 そうすれば、あのようなことにはならなかったのか。

 月が泣いている。

 あの月は、いつの月であろう。


「お気づきになりましたか」

 童女の声が問いかけてくる。

 いつの間にそこにいたのだろう。

 闇色の瞳が男の顔を覗き込んでいる。

 床の中で、男は頷く。

 障子を通して室内に月の光が差し込んでいる。

「女は、どうなったのだ?」

「鬼は、どうにもなっておりません」

 鈴の音が、答える。

「まだ、消えておりません」

「そうか」

「どうぞ、しばらくお休みください」

「しかし、ここはどなたのお屋敷か」

「ここは興風様のお屋敷・・・」

 答えたのは若い娘の声であった。

 見れば、障子に娘の影が薄く映っている。

「当人はただ今留守にしておりますが、私達が代わってお相手いたしますので、どうぞごゆるりと」

 娘の影が頭を下げる。

「では、私はこれで」

 童女が言って、障子に手をかける。

 月明かりに照らされた秋の庭が広がっている。

 坐していたはずの娘の姿はもうない。

「行こう、翁」

 童女が庭へと降りる。

 その後を追うように何かの影がするりと部屋から出ていく。

「どうかこちらで静養されてください。決して外には出てはいけません」

 闇色の瞳を向けて、童女は言う。

「外は、闇に包まれておりますので」


 障子の向こうより月の光が差し込んでいる。

 灯りはあるが、音はない。

 家人の声も物音もなく、ただ月光だけがある。

 床の中で男は考える。

 先ほどの女はどこへ行ったのか。

 どうなったのか。

 俯いた女の姿がよみがえる。

 やはり、泣いていたのだろうか。

 やはり、女にもう一度声をかければ良かったのか。

 女を、追えばよかったのか。

 そうすればこのような想いを抱かずに済んだのか。

 女を追わなかったから、延々と想いだけが残っているのか。

 今までも、これからも。

 ふと、男は思う。

 一体いつから、想っていたのだったか。

「どうかなされましたか?」

 娘の声が障子の向こうより聞こえてくる。

 いつの間にか、またそこに坐していたようだ。

「わたしはいつから、こうしているのだろう」

「数えるほどの時ではありません。ほんの先刻からです」

「そうだったろうか」

 男は呟き、それからすぐに首を振る。

「いや、わたしはもっと昔から・・・」

 男は言って、また疑問に思う。

 昔とはいつのことであったか。

 今より前に、自分は何をしていたのか。

 そこまで考え、男はようやくある疑問に気づく。

 いや、そもそも、

「わたしは、誰なのであろう」

 夜道を一人で歩いていた。

 そして女と会った。

 しかしその前はどうであったか。

 思い出すことができない。

 何故灯りも持たずに、あのようなところを歩いていたのか。

 どこへ向かおうとしていたのだったか。

 考えるほどには分からなくなっていく。

 あの女と同じだ。

 確かに覚えていたはずなのに思い出そうとした途端に消えてしまう。

 記憶を探ろうとするように視線を動かせばやはり障子の方へと目が行く。

 外の月は満ちているのだろうか。

 ふと思う。

 満ちていればいい。

 もしも満ちていなければ。

 もしも細い月の出ているのを見れば・・・


 あづさ弓・・・


 声が聞こえたような気がした。

 それは自分の声であったか、別のものであったか。

「外へ出してくれないか」

 男は言った。

「少し夜風にあたりたいのだ」

「行けませぬ。外は危のうございます」

 娘が首を振る。

「ほんの少し、庭を見るだけでいい」

「庭は、見えませぬ」

「何故だ?」

「外は闇でございます」

「しかし、こんなにも明るいではないか」

「それは部屋の中だけです」

「そのようなことはあるまい」

 部屋の中には灯りひとつないのだ。

「外から光が差し込んでいるではないか」

「では、少しだけ・・・」

 女が障子に手をかける。

 障子が僅かに開く。

 男は床より出て歩みより、外をのぞく。

「どういうことだ」

 外には何もなかった。

 闇だ。

 何かがあるにしても、暗闇に包まれて、見ることができないのだ。

「申し上げた通りでしょう?」

 すぐ近くに娘がいるはずなのに、その姿すら分からない。

「しかし、先程は確かに」

 確かに月光に照らされた庭があった。

 障子を開ける寸前まであったはずの灯りはどこへ行ったのか。

 まるで先ほどの夜道のようである。

 灯りもなく、音もなく、

 まるで黄泉の国のような――


三、


 あづさ弓 引けど引かねど むかしより


「もう良いのかもしれませんね」

 女は言った。

「あなたに心をお預けしても」

 それは諦めだったのか、決心だったのか。

 御簾の向こうからの声だけでは知りようがなかった。

 知ろうともしなかった。

 ただ、幸せだと思うだけで。


 闇の中で、微かな水音がする。

 童女はしばらくその音に耳を傾ける。

 傍に置かれた松明の火が、童女の顔を照らしている。

「見つからないわね」

「この辺りに間違いなさそうですが」

 老人の声が答える。

「風にまた、流れていったのかしら」

「しかし、流されるにしても、縁のあるところにしか行けぬはず」

 童女が足元へと目を向ける。

 水が緩やかに流れている。

 その流れを見つめていた童女がやがて首をかしげる。

 一度天を仰ぎ見、再び下を向く。

「どうされました?あや様」

「見つけた」

 童女が指を差す先、揺らめく水の中に、細い月が浮かんでいる。

 空のそれを映しているようであるが、今宵は月がない。

「ほう、このようなところにあったとは。しかし、これでは」

「ええ、もう、時間がないわ」

 童女の小さな手が、それをそっと掬いあげる。

「これでは、もとには戻らないかしら」

「さあて、難しいでしょうなあ。戻す前に変わってしまうかもしれませぬ」

「急いで戻りましょう」

 童女が手の中のものを見つめる。

 それは一枚の紙片であった。


 外は、闇。

 この部屋以外、全て消えてしまったような、

 ここしか存在しないような、孤独と不安。

 私はもう、死んでいるのか。

 男は思う。

 過去のことも、自分のことも分からないのだ。

 だが、いつ死んだのだろう。

 どうして死んだのだろう。

 あの女と何か関係があるのだろうか。

 男は思う。

 今、あの女はどこにいるのか。

 女も、私と同じくらい不安を感じていたのだろうか。

 孤独の中で、訪れるものを待っていたのか。

 男の中に強い衝動が起きる。

 追わなければ。

 女を追わなければならない。

 男が立ち上がる。

「どうされました?」

 娘の問う声がする。

 男は無言で障子の前に立つ。

「行けませぬ。外に出てはなりませぬ」

 娘の声が厳しくなる。

「どうぞ、部屋の中で」

 男が、腕を振り上げた。

 鋭い爪が、障子を切り裂く。

「あれぇ」

 娘の悲鳴が上がる。

 男は闇の中を走り出していた。


 童女がふと、闇の先を見つめる。

 同時に翁の声が

「どうやら、結界を破ったようですな」

「やっぱり間に合わなかったかしら」

「先に様子を見てまいりましょう」

 闇の中を、小さな影が滑っていく。

 童女は紙片を見つめる。

「そんなにも、惜しいものなのかしら」

 鈴の音を放った時、

 ひたひたと、何者かが走る音がする。

 遠くあったはずのそれが、次にはごく近くに聞こえる。

 常人の早さではない。

 翁の声がその向こうから聞こえてくる。

「あや様、危のうございますっ」

 闇の中から、それは飛び出してきた。


 「三年」

 女は言った。

 三年待って、あの方が戻らぬのなら――

 女は言った

 その時は、あなたと――

 それは、決心だったのか、諦めだったのか。

 今ではもう知りようがない。

 約束の三年目、ちょうどその夜に、

 その男は帰ってきた。

 争う覚悟はした。

 女のためなら、どんなことでもするつもりだった。

 あの男よりも、女を想っていると信じていた。

 だが、あの男はあっさりと身を引いた。

 一首、歌を詠んで。


 あづさ弓 ま弓つき弓 年を経て

        わがせしがごと うるわしみせよ


 女を想い、ただそれだけを残して、あの男は去った。

 そして結局、

 女は男を追って行った。


 あづさ弓 引けど引かねど むかしより

          心は君に 寄りしものを


 その返しの歌が、全てを物語っていた。

 

 ――追ってはいけない。

 走り去る女を見送り、

 ――女を追ってはいけない。

 ただそれだけを誓う。

 それで女が幸せなならば、

 あの男がそうしたように、今度は私が身を引こう。

 それで良いと思った。

 そう信じていた。

 それなのに、


 闇の中から飛び出したのは、鬼であった。

 鋭い牙と、爪をもつ。

 奇妙な光を宿した目は、どこを見ているわけでもない。

 鬼は立ちはだかるもの全てをなぎ払おうとするように、童女に向けてその腕を伸ばす。

 鬼の爪が、柔らかな身体を捕えようとした刹那、

 ふわりと、白いものが童女の前に降り立つ。

 闇の中で、光が一閃する。

 鬼の腕が空に飛ぶ。

「ほおずき」

 一拍おいて、童女が声を出す。

 現れたのは、幼い童子である。

 透けるように白い肌と髪に、紅の唇だけが映えている。

 刀を構えたまま、童子は表情なく鬼を見つめている。

「あや様」

 翁の声が近づく。

「お怪我がなく何より。ほおずき、よくやったな」

 こくりと童子が頷く。

 刀を鬼に向けたまま、童女を見る。

「もういいよ、ほおずき。もう、鎮まったから」

 童子は刀を納める。

 地に倒れた鬼は、人の姿へと変わっていた。

「どうして、屋敷を出たのですか?」

「女を、追わなければ」

 苦しげに、男が呻く。

 切られたはずの腕は、元の通りあり、傷もない。

「教えてくれ、女はどこだ、どこにいるのだ」

 男を見つめる童女の瞳に、微かな悲しみが宿る。

「女は、いません」

 童女が言った。

「ここには始めから、女はいないのです」

 その時、一陣の風が吹く。

 闇の中に、女の姿が浮かぶ。

「おお、そこにおられたか」

 男が身を起こす。

 女は俯いたままで、表情を知ることはできない。

 男が女へと近寄ろうとする。

「いけません。あれは、あなたの求めている方ではありません」

 制する声は男には届かない。

「ほおずき」

 童女が言えば、

「あい」

 童子が再び刀を振るう。

 僅かに女の腹を切るが、女は動かず、代わりに、

「うぐぅ」

 男が腹を押さえて呻いた。

 再び地に体を打ち付ける。

「女は、いません」

 童女がゆっくりと、先刻の言葉を繰り返す。

「あれは、あなたの中の鬼。あなたの中の、その方を想う心が見せている幻」

「幻でもかまわぬ」

 男が言う。

 女を追わぬのが、引き止めぬのが正しいのだと思っていた。

「あの方がそれで幸せになれるのだと、信じていた。だが、それは違ったのだ」

 

 女は戻ってこなかった。

 あの男を追って走ったが、結局追いつくことはできず、

 悲しみと孤独の中で、一人死んでしまった。

 女への優しさが、

 優しさだと信じていたものが、女を殺した。

 追っていれば、変わっていたのかもしれない。

 女は死ななかったのかもしれない。


「幻でもかまわぬ。今度こそ、あの方の傍に」

 その時、女がゆっくりと背をむける。

「たとえ、それで何も変わらないとしても?」

「私の心だけは、変わるだろう」

 女が闇に向かい駆け出す。

「待ってくれっ」

 童女の横をすり抜けて、男が追う。

 童女の手から紙片が放れる。

 男は女を追って走っていく。

 その姿は鬼となり、

 紙片が高く空に舞う

 それは薄く儚く、

 どこまでも、どこまでも


 一陣の風が強く吹き抜けてゆく。

 紙片が闇の中で千々に散る。

 闇の向こうで、男の足音が消えた。


 四、


「おお、これはひどい」

 真二つに切り裂かれ、庭に落ちた障子に、翁面が言う。

「本当に、ひどい目にあいました」

 娘の声が答える。

「ごめんね、影」

 童女の視線の先には、障子に映る娘の姿。

「あや様のせいではありませんわ。それよりも、お客様がお待ちですよ」

 娘の影が言う。

 部屋の中へと目を向ければ、隅に何かが坐している。

「業平殿・・・」

「これはこれは姫君。私をお探しとほおずき坊から聞いて、こうして馳せ参じましたよ」

 甘い声音をだして、それは言う。

「それで、なにか見つかったのですかな?」

「見つけたけれど、もうないわ」

「ない?どういうことです?」

「長いこと水に浸かっていたうえに、風に流されて、ぼろぼろに千切れてしまったわ」

「なんと。それではもう元には戻らないのでは?」

「ええ、戻らないわ」

「それはひどく残念。とても大切なものですのに。ああどうか姫君よ、私の悲しみに濡れた心をどうか癒して下さらないか」

「何を言うか。そもそもこのような面倒なことになったのはそなたのせいであろう」

「少しばかり息抜きをさせてやろうと思ったのですがね。まさかみんなはぐれてしまうとは。私一人では物語になりませんのに」

「別によかろう、本物ではないのだから。」

「それは確かに、私どもは本物の写しにすぎませぬ。しかし、意志をもったものならば、本物以上の価値ではありませぬか。描かれた恋も雅も全て現になる」

「悔いも、迷いも」

 童女が呟く。

「悲しみも、全て真になる。自らが何者かも分からないまま、物語の役を演じ続けるのは、それほど良いものではないわ」

「けれど、それが人の世ではありませぬか」

 それは答える。

「恋とは甘いものばかりではなく、つらく苦しいもの。ただ想いを寄せてくる姫君よりも、つれない男を呪いながらも愛する姫君の方がどこか趣があるように、どうしようもない役であっても、真の想いがあれば、それは十分美しいのですよ」

「ならばその戯言で、はぐれた他のものも説き伏せるのじゃな」

「これは耳が痛い」 

「書き留められし物語を、現世に現そうとしたそなたの責任じゃろう」

「仕方ない。再び探しに行くとしましょうか。なんでしたら東国までも・・・」

 そう言って、ふわりと宙に浮き上がる。

 それは所々破れた一巻の巻物であった。

「今度はすぐに居所が分かるようにしてほしいものじゃな。おぬしがいなければ、いくら千切れた紙片を捕えようと、元には戻せぬのだから」

 部屋をゆっくりと出て、その巻物は答える。

「努力はしましょう。しかし私は『業平』の役。恋も雅も気の向くまま。あまり期待にはそえないでしょう。ああ、ところで」

 遥か空に浮かびながら、『業平』は言う。

「散ってしまったのは、誰だったのでしょう?」 

 童女が口を開く。

「あづさ弓・・・」

「あづさ弓?では歌を詠んだあの男ですかな?それとも、待っていた女か・・・」

「そんな役どころではないわ」

「ふむ?まあ、いいでしょう。いずれにせよ、放たれた矢はもとに戻りはしないのだから」

 声は遠ざかり、やがてその姿も空に消える。

 童女は闇色の瞳でそれを見送ると、微かに息を吐く。

「どうされましたか?少しお疲れですかな?」

「ううん、結局止められなかったから」

「あの男ですか。しかし、それで良かったのかもしれませぬ」

「鬼となって、消えてしまったことが?」

「元に戻っても、物語が変わるわけではありませぬ。永遠に女は死に、あの男はそれを見続ける。それに比べれば、十分に幸せかもしれませぬ」

 童女はしばらく庭を見つめ、


 あひ思はで ()れぬる人を とどめかね

          わが身は今ぞ 消え果てぬめる


 歌を詠む。

「あの女の歌ですな」

 童女はゆっくりと首を振る。

「これは、あの男の人の歌でもあるわ」

「確かに、今となってはそのような気もしますな。歌も持たず、言葉も持たず、ただ短き文字であらわされる限りの男であったが、あれこそ人そのものなのでしょうな」

「そして鬼そのもの。真の想いがあればこそ、人は鬼にもなるというのなら・・・」

 童女の言葉は庭に吹いた風に飛ばされ闇へと消える。

 夜空では、雲の合間からようやく顔を出した細い細い月が、それを見つめていた。


 闇の中を鬼は走っている

 灯りもない、音もない、無明の闇を

 鬼の前に何かがあるわけではない

 けれど鬼は一点を見つめ

 何かを求めるように走っている

 追いかけている

 喜びもなく

 悲しみもなく

 ただただ走っていく

 やがて一陣の風が吹き

 鬼は千々の光となる

 闇の中で光が散っていく

 流れていく


 それはきっと物語よりも哀れで愛しい現の姿



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