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騒乱編

 赤い光が点滅していた。

 人の叫びが木霊していた。

 襲い掛かる白服に、立ち向かう黒服。

 食う者に、食われる者。

 その地獄の光景を、三原正和は管理センターのカメラ越しに呆然として眺めていた。かけた眼鏡がずり落ちるのも気にならず、その様はまさに魂が抜けたようであった。

「主任! 正和主任! 指示を、指示をお願いしますっ!」

 正和を正気に戻したのは部下の声だった。はっとして辺りを見回すと、数人の部下達の縋るような視線が自分を捉える。彼らは一介の技術者に過ぎず、この非常事態に対処できるのは正和しかいないことをよく理解していた。

 主任としての役割を思いだし、正気を取り戻すと正和は眼鏡をかけ直し、

「特殊部隊、現状を報告してくれ!」

 と一つのマイクに掠れ掠れの声を入れる。

『こちらαチーム! 現在、被害は拡大する一方で第三区画も解放されてしまった模様! さらに奥に言った奴等がいますが、脱出を試みる奴等を抑えるので精一杯です! 何故か奴等は人間を食おうとする奇行に走っています! 興奮状態もあり、スタンガンでは最早抑えきれません! 射殺の許可を!』

 α隊隊長は特殊部隊の冷静さを欠いた声音だったが、その要求は正当な物であった。管理センターに映る監視カメラの映像は画面全てがすでに赤く染まり始めている。

 しかし、正和は拳を握り、唇を噛み切りながら、許可を出すことを躊躇っていた。何故なら、今、正和が殺そうとしているのは先代、先々代から受け継ぎ、正和も生涯を賭した研究なのだ。三十年という歳月をつぎ込み、そしてついに完成一歩手前まで来た栄光。

 それが自分のたった一言で、全て水の泡となると思うと怖かった。正和という人間がこの世に生まれたことを否定されるような、見えない奈落に落ちていくような感覚に陥る。

 だが、噛み締めた歯の奥に残った理性が正和に再びマイクを握らせた。

「射殺を許可する! この研究は絶対に世に出してはいけない! 日本の名誉の為にも何としても殺すのだ!」

 正和の声に、αチームから応答が返ってくる。

 それを聞くと、正和は気力が抜けるように床に膝を突き、両腕を垂らした。

 正しい選択をしたのだと、悔恨の言葉が木霊する自分に言い聞かせた。これで今までの研究成果は駄目になってしまったが、それを完成させたノウハウが失われるわけではない。大幅に時間を費やしてしまうが、これが外に漏れてしまう危険に比べたら安いものだった。

 何度も、何度もいい訳を重ね、正和が暴れ出しそうな体を抑えている時、

「しゅ、主任! 大変です! 区画ゲートが一斉に開き始めました!」

 その報告に、正和は安寧をかなぐり捨て目を見開くと、無意識的に勢いよく立ち上がった。悔恨などは吹き飛び、一気に心をどす黒い恐怖で埋め尽くされる。報告されたことを脳が受け取りを拒否していた。

「な、何故だ、ゲートの管理はここでしか……いや、地上へのゲートは!? 上に続いているゲートはどうなっているっ!」

「駄目です! 全て開き切っています! こちらでコントロールが出来ません!」

 部下の恐怖混じりの震えた声に、今度こそ正和は頭が真っ白になった。終わると、脳のどこかの自分が呟いた。

「か、監視カメラも映像を切断されました!」

「特殊部隊に偽装データが送られていきます! 部隊が機能していません!」

「デ、Δチーム全滅! βチームも壊滅状態です!」

 まるでつもりに積った埃のように次々と悪条件が降ってくる。

 もう正和には声を出す余裕も、慌てる切迫感もなかった。ただ呆然と、ありのままを受け止めるしか許されていない。もう部下達の声も、マイクから聞こえる特殊部隊の悲鳴も耳にも届かなくなった。

 これは天罰だろうか、と神を否定する立場でありながら、正和は静かに涙を流しながら考えた。これが報いなのだろうかと本気で信じた。思わなければ、この精神的ダメージに耐えられそうにもなかった。

 そして、管理センターのドアがゴンッ! と、大きな音を立てる。神の報いがすぐそこまで迫っていた。管理センターのドアは特殊加工だが、叩かれ続ければいずれ壊れる。もう正和達に逃げ道はないのだ。

 部下達はコンソールの下に隠れながら、または椅子を盾に構えながら、とそれぞれ別の反応をとっているが、共通している点は全員が死に涙していることだろう。

 それも無理はない。彼らはここからずっと見ていたのだ。生きた人間が噛みつかれ、肉を裂かれ、真っ赤な血飛沫を上げながら死ぬ様を。骨の露呈した惨たらしい死体を。その苦痛の表情を。

 再びドアが叩かれる。その回数は次第に早くなっていた。

 正和は逃げも隠れもせず、ただ魂のない人形のように佇んでいた。


 *


「いやだからね、桜井舞ちゃんの魅力は全世界、いや、全宇宙で最強だって言ってんのよ、俺は」

 赤毛のもじゃもじゃ頭が世界の真理を見たり、というドヤ顔でそんなことを言ってくる。

 昼前とあり、人のいない広い公園のベンチで横に並んで座っていた釧路隼人は辟易とした表情を浮かべながら、

「お前、この前は椋木沙希とかいう女が絶対王者とか言ってなかったっけ?」

 そんな隼人の言葉に、もじゃもじゃ頭は緩い目元を鋭くすることで怒りを表した。

「何言ってんだバカヤロー! 誰が一番なんてどうでもいいんだよっ! 男は自分の欲望に素直であるべきじゃないのか! 好きなものを愛でて何が悪い! 俺はたまたま好きな者が二人以上いただけだ!」

 宇宙最強の次は愛について語り始めた男は宮本和馬だ。着崩した制服や、へらへらとした口元が何とも軽い雰囲気を与えるが、ひとたびアイドルの話になると人が変わる。まるでトレンドマークの赤毛のもじゃもじゃ頭に火がついたように見える始末だ。

「何か浮気男の壮絶な言い訳を聞いたような気分だぜ」

 呆れ顔でそう返したのは隼人。つんつんと尖った黒髪をして、和馬と同じように制服を着崩している。黒髪の下の目つきは鋭く、大抵の人間はそれが怖くて近寄ることもない。当たり前のように怒鳴っている和馬はそういう面では大物かもしれない。

「駄目っすよ、アニキ、和馬さんのオタク魂刺激したら。俺なんかこの前、それで三時間ぐらい説教されたんすから」

 その時の悪夢を思い出しているのか、隼人の右隣に座る小柄な少年、(いちじく)啓一は顔を青くしながらそう語る。中学生のような童顔だが、これでも立派な高校一年であり、隼人達の後輩だ。背が小さいことを気にしており、少しは男らしく、ということで髪を短くしている。尤も、それでもたまにお婆さんから飴玉を貰うことがあるらしいが。

「へっ、お子ちゃまな啓一には分かんねぇだろうよ。人間ってのはどんな聖人君主でも異性への興味は尽きないもんだ。ま、啓一にはまだ早いだろうけど」

「は、早くないっすよ! お、おおお、俺だってちゃんと女に興味の一つや、二つ―――」

「なら、啓一はオナニーしたことあるのか?」

「お、おな? し、ししし、したことあるっすよ! えっと、あの、あれっすよ、女の子と一緒にご飯食べたり……」

 苦し紛れの啓一の言葉に、和馬がププッ、と笑う。それを見て突っ掛る啓一。

 今日も平和だなと隼人は空を仰いだ。

「おい、こら釧路隼人ぉぉぉぉ!」

 現在の時刻は九時十分。休日ではなく、月曜日というおよそ大半の人類が憂鬱になる平日である。高校生という肩書きを持つ隼人達は学校に行かなければならないが、隼人にとってそんなことは関係なかった。

 何故なら隼人は一般的に不良と呼ばれる部類である。まともに授業を受けなければ、教師の言うことも聞かない。しかし、たばこや酒、暴走族に入っているというわけではない。出席日数が許す限り、アルバイトに勤しんでいるだけだ。

「おい、聞いてんのか釧路隼人ぉぉぉぉ!」

 しかし、和馬と啓一は不良ではない。今までは普通に学校に通う生徒だったのだが、隼人と知り合ってからこうしてたまに一緒にサボるようになった。何だか自分が不良の道に引きずり込んだみたいで親御さんに悪いが、彼らがそうしたいというのなら隼人は仲間の意思を尊重した。

「おい……頼むから聞けよぉぉぉぉ!」

 そんな悲痛な叫び声に、隼人はやれやれと目の前で地面を叩き続けている男に目をやった。ふさぎ込んでいる男の後ろに、部下のように男が二人立っている。

「さっきから何だよお前等。一発ギャグなら俺等じゃなくて面接官に見てもらえ」

「お笑い芸人志望じゃねぇよ! 俺等はテメェに用があるんだよ、釧路隼人! いや、《修羅》! テメェを倒して今日から俺が最強になる!」

 そんな殺気立てた視線を向けられ隼人は、

「またかよぉぉぉぉ!」

 と先ほどの男とうって変わるように頭を抱え、ふさぎ込んだ。突然の絶叫に、挑んできた男も軽く引いている。

「何なんだよ、お前等! 最強、最強って! 最強マニアか! いいよ、やるよ。百円つけてやるからもう金輪際俺に絡むな! お願いします!」

「ふ、ふざけんな! 最強の称号はそんな簡単に譲れるものじゃねぇだろうが!」

「譲る、譲らないの前に俺は最強なんてもらったことねぇよ! テメェ等が勝手にそう呼んでくるだけだろうが! 何でそんなに最強が欲しいんだよ! 最強なんてな、履歴書に書けねぇんだぞ! 書くことなさ過ぎてもういっそ書いちゃおうかな、って思ったけどさすがの俺もそこは止めといたわ!」

「何情けねぇこと言ってやがるんだ! テメェはここ等のチームをことごとく潰しやがった《修羅》だろうが!」

「それも止めろ! なんだよ、《修羅》って。お前に分かるのか!? そんなこっぱずかしい二つ名を街中で呼ばれて、他の人から白い目で見られる気持ちが!」

 そう嘆くも、原因は隼人にもあった。

 不良といっても悪い連中と付き合うでもなく、ただひたすらにバイトに励んでいる隼人だが、ある時、良くしてもらっている店長に不良達が絡んでいることがあった。他人ならいざ知らず、恩のある人を見捨てられるはずもなく、それを撃退したのだ。そこから報復という名の八つ当たりが始まり、それを隼人が撃退。そんなことを重ねるうちに、知らず知らずと隼人は数々のチームを潰していた。

 たった一人で敵を殴り飛ばし、屠る様から誰が言い始めたのか、ついた二つ名が《修羅》。釧路隼人、人生の黒歴史まっしぐらである。

「そう言うことだから、今日からお前が最強だ」

 隼人は立ち上ると、挑んできた男の肩を叩いて真摯な顔でそう告げる。

「よっ、最強」

 と、和馬が合いの手を入れる。

 それに男は感無量と体をプルプルと震わせ―――

「ふっざけるなぁぁぁぁ!」

 ―――るはずもなく、男はこめかみに青筋を浮かべながら吼えた。

「よっ、最強の咆哮」

「まだやるか!? って、違う! 釧路隼人、テメェに勝たねぇと最強を名乗れるわけねぇだろうが! 正々堂々俺と勝負しろや!」

 まぁ、そんな簡単に帰ってくれるはずねぇかと、隼人は溜息を吐く。このままやっても埒が明かないのも事実。そしてバイトの時間が近いのも事実。その為に隼人は考えに考えぬいた、とっておきの秘策を繰り出すことにした。

 立ち上がった隼人がすっと拳を前に差し出すと、男達は先程の威勢を一気にしぼめ、後ずさった。隼人はそんな彼らに不敵に笑いかけ、

「じゃんけんだ」

 と一言。

「……は?」

 と向こうも一言で返してきた。

「じゃんけんでお前が買ったら、今日からお前が最強だ。じゃんけんだって立派な勝負だろう?」

「よっ、最強のチョキ」

「喧しいわ! ふざけんなよ、《修羅》。じゃんけんで勝ったからって最強名乗れるはずねぇだろうが! 拳だ、拳。拳で勝負つけねぇか!」

 良い作戦だと思ってたのに、と隼人が秘策を一蹴されたことにしょんぼりとしていると、その横から小柄な啓一が進み出てきた。

「おい、さっきから聞いてたら、お前等アニキに向かって口の聞き方がなってないぞ! それにアニキがいやだって言ってんだから諦めろ! 無理やりじゃなくて、アニキに喧嘩を買ってもらえるような男になってから出直してこい! 大体な、一人が怖くてアニキに会いに来れないような奴が勝てるわけねぇだろうが!」

 言うことだけは男前の啓一の台詞に、男が図星を刺されたように喉を鳴らすが、それが恥ずかしさに繋がり、それを紛らわす為に怒りへと転じた。

「ふ、ふざけるな、このクソガキがぁぁぁ!」

 と、突如男は拳を振り上げると、啓一の顔目掛けてパンチを繰り出す。

 しかし、それが啓一に届くことはなかった。その寸前に、隼人が男の拳を掴んで止めていたからだ。そのまま力を込め、拳を軋ませると押し返す。

「……おい、テメェ等がケンカ売ってくるのは勝手だがよ、そこに俺の仲間を巻き込んでんじゃねぇよ」

 今の隼人に、先ほどまでふざけていた雰囲気は最早なく、ここ等一帯の不良達が《修羅》と称す憤怒の顔がそこにはあった。目つきの悪さは凶器のような鋭さに変わり、削ぎ落とされた表情に、男達は一斉に顔を青くした。

 最早力の差は歴然だが、それでも男達は逃げようとはしなかった。いや、出来なかったというべきか。彼らの板挟みされたような難解な表情を見れば、恐らくはチームに自分を倒すと言ってしまったのだろう。それでのこのこ帰れるはずもない。

「へ、へへへ……やっとやる気になりやがったか《修羅》! か、かかってこいよ!」

 だが、彼らも正面から戦って勝てると思うほど、間抜けではないようだ。なんせ彼らのチームのリーダーも、自分に瞬殺されているのだ。彼らは腰に手を伸ばすと、背中から武器を手に取った。

「これを見ても強気でいられるか、えぇ!? 《修羅》!」

 そう言って三人が取り出したのは警棒と思しき、棒状の打撃系武器であった。先ほどの拳云々の話はどこに行ったのやら、と思ったが、それくらいのハンデは隼人には関係ない。

 それを見て、今も呑気にベンチに座りながら欠伸をしている和馬が言う。

「警棒ってお前等、こいつがそんな武器今まで使われなかったと思うのか? 鉄パイプ持ち十人を一方的に病院送りにした化物だぞ、こいつは」

「化物は余計だっつの」

 そんな尤もな和馬の忠告を聞いて、しかし男達はいやらしい笑みを浮かべるのみ。

「んなことは知ってんだよ。だから俺等はこれを用意したんだ!」

 そう叫ぶと、彼らの持っていた警棒はいきなりうねりを上げ、電光を瞬かせた。警棒に纏わりつくような光の明滅は、それが明らかに電気を帯びていることを物語っている。

「分かるか、これ? スタンバトンだ! 触れでもすれば一瞬で気絶するぜ!」

 男が威嚇するようにスタンバトンを振るうと、バチバチッ、と音が爆ぜた。

 それを見た隼人の感想は恐ろしさではなく、同情を禁じ得ない呆れであった。

「お前等……なんて馬鹿なことを。一体それいくらしたんだよ? ガキの喧嘩に持ち込むような武器じゃねぇだろうが。うわ~、勿体ねぇ。俺ならそれ一本分で一か月は生きていける自信がある」

 そんな隼人の哀れにも表情に、男達はついに怒りが爆発したのか、

「ふ、ふざけんなぁぁぁ! これをくらってもそんな生意気な口聞けるのかよぉぉぉ!」

 そんな叫びと共に、男達は三人そろって隼人に縦斬りを見舞ってきた。単純な数に物を言わせた攻撃だが、単純だからこそ対処方法は少なくなってくる。横に避けるには範囲が広すぎ、必然的に隼人の逃げ道は後ろのみになる。

 どうせそのあとはごり押しなんだろうな、と感想を抱きながら、隼人は一歩前に出た。

 普通ならあり得ない行動に、男達に動揺が伝わるがそのまま死ね、というようにスタンバトンを振り下ろす。

 瞬間、隼人は手を伸ばした。そして両側の男達の柄を掴み、その二本を止める。しかし、真ん中は完全に通り抜ける。刹那の間だが、隼人は見た。男の顔が歓喜に震えるのを。

 だがしかし、隼人の顔は一部も怯んではいなかった。両手を使って抑えた二本のバトンを強引にクロスさせる。まるで双剣で剣を受けるような形に、男のバトンは完全に止められた。電撃同士の衝突が静かな公園に激しい破裂音を響かせた。

「そ、そんなのありかよ……」

 そんな呟きを捨て置き、隼人はバトンを力技で押し返すと、男の手から武器を弾き飛ばす。そのまま掴んでいた二人も無造作に横に投げ捨てる。三人の男達とは比べ物にならない力技のごり押しだ。

 完全に丸腰になった男は目の前に立つ隼人の影を見つけ、ひぃっ、と裏返った悲鳴を上げながら両手をじたばたさせ、必死に後ろに逃げる。惨めとも言えるそんな姿に、隼人は淡々と近づいていき、拳を振り上げる。そして、振り抜いた。

 だが、その拳は男の顔面を打ちぬくことはなく、頬の真横を擦過していた。男は何が起きているのかついていけないように、顔の表情を驚きに固めたまま、腕と隼人を交互に見ていた。

 そんな男に、隼人は顔をずいっと近づけ、

「これに懲りたらもう俺に絡んで来るな。次来たら本気で歩けなくさせてやるからな」

 その言葉は冗談と笑い飛ばせるようなものではなく、本当にそれをする覚悟があると思わせるには十分すぎるほど迫力が籠っていた。男は目を見開きながら冷汗を滝のように流すと、無言でコクコクと頷いた。

 隼人がそれを見て、背を向けると、男は吹き飛ばされた二人を引き攣れ、一目散に逃げて行った。

「珍しいじゃん、隼人がああいう奴を無傷で帰すなんて」

 ベンチに座りながらスマホでアイドルの写真を眺めていた和馬は、スタンバトンに襲われた隼人にそんな気軽な声をかけた。微塵も心配している素振りがないのは、自分を信じているからだと思いたい。

「俺もいつまでもそんな馬鹿じゃないってことさ。俺は考えたのよ。いつも、いつもあんな連中をコテンパンにして追い返すから、最強やら、《修羅》みたいな変な名前が付くんだってな。だから、これからこうして脅して返すことにする!」

 一世一代の隼人の発見に、和馬はもう手遅れだろ、と軽く呟き、啓一は目を輝かせた。

「な、なるほど、さすがはアニキ! 考えが深いっす!」

「だろ? これでやっと落ち着いてバイトできるぜ。いつも誰かが乗り込んできてアホみたいな名前吐かないか心配で、精神の意味で疲れるからな」

 バイトと言えば、と和馬が何かを思い出したようにスマホを止めると、隼人に目を向ける。その顔にはいやらしい笑みが張り付けられており、嫌な予感しかしなかった。

「あと一週間ちょいで紗枝ちゃんの誕生日だけどプレゼント買うお金は貯まったか?」

 うぐっ、と隼人はベンチに座ると体を固めた。

「貯まったに決まってるだろうが。それに……ちゃんとプレゼントも買ったつうの」

 隼人は何でもないふうを装っていたが、変に固まった体に視線を明日に向けていれば、何か不安がっているというのは、親友である和馬でなくとも分かるだろう。

「そうかい、そうかい。きちんとプレゼントも買って万全な状態ではあるものの、どんな顔して渡せばいいのか分からないと?」

 もろに図星を突いてきた和馬の言葉に、隼人はこれ以上強情を張るのも馬鹿らしくなって、開き直るように息を吐き出すと、ドカッとベンチに背中を預けた。

「そうだよ、その通りだよ。自分でも情けねぇのは分かってるさ。けどな……俺は……」

 ただ会って、誕生日おめでとうと言ってあげればいいだけだ。そのあとプレゼントを渡せばいいだけ。それは分かってる。普通ならたやすいことなのかもしれない。けれど、あんなことがあってはどんな顔をすればいいか、隼人は三年間、ずっと分からないままだった。

 そんなしみったれた表情をする隼人に、和馬は場を紛らわすように気さくに笑った。

「別に情けねぇなんて言ってねぇよ。しょうがねぇさ、あんなことがあったんだから。お前が責任感じちまうのも分かる。けどよ、互いに罪の意識感じてよそよそしてたら、いつまで経っても仲直り出来ねぇぞ。平気な顔して歩み寄って、紗枝ちゃんの不安も包み込んでやるのが男ってもんじゃねぇのか?」

 そんな和馬の言葉に、隼人は溜め込んでいた息を吐き出すと、そうだな、と笑って答えた。確かに和馬の言うとおりだ。いつまでも逃げてるわけにはいかない。きちんとあって伝えておかなくてはならない。済まなかったと、そして……

 だが、隼人が考えるような平和な再会は訪れそうにもなかった。何故なら、


 平穏な都会のど真ん中で、断末魔のような男の悲鳴が響いたからだ。


 必死に生にしがみ付こうとするような悲鳴に、和馬と啓一だけでなく、隼人も一瞬、呆然としてしまうが、すぐに身構えた。多少なりとも人を傷付けるという行為を行ってきた隼人の直感が叫んでいた。この悲鳴は、日常のものではないと。

 そんな隼人に倣い、和馬と啓一も周囲を油断なく警戒する。

 先ほどまで気にも留めていなかった人のいない静けさが、今は途轍もなく不気味に感じる。

 一瞬でも気を抜けない、何故かそんな緊張感に苛まれていた。

 異常な雰囲気に感覚をフルに活用していた隼人に耳に、体を引きずるような、地面との摩擦音が前方から聞こえた。そこは先程男達が逃げ帰った公園入口。隼人は声を出すことなく、手振りで和馬と啓一の注意を前に向けさせた。

 そして三人が固唾を飲んで前方を見守る中、ついにそれは現れた。

「た……助けて……くれ、く、釧路………隼人ぉぉぉ!」

 公園の入り口から這いずるように上半身を出したのは先程隼人が追い払った男の一人であった。しかし、その姿は先程とはまるで違っている。匍匐前進のように進むその体は何故か血に塗れている。明らかに致死量の為、男のものではないと分かるが、彼自身も数か所噛まれたような傷跡があり、おびただしい量の血を流していた。

「おい、一体何があった!?」

 警戒して近づくことなく、隼人が叫ぶも、男は錯乱のあまり声が聞こえていないようで、

「助けてくれぇぇぇ……助けてくれぇぇぇぇ……!」

 と腕をバタバタとさせながら少しずつ近寄ろうとするだけだった。

 だが、次の瞬間、男の体はまるで掃除機に吸い込まれた埃のように体を引込めた。そして、塀の向こうから男の怯えた声が聞こえる。

「や、やめ、いぎゃぁぁぁぁああああ!」

 聞くだけで吐き気を催すようなあまりにも生々しい悲鳴が鳴る。そしてブチブチッと筋肉繊維が強引に千切れる音が鳴り、どこかの水道が漏れているのではないかと思わせる水が噴き出す音が鳴り、コンクリートを無理やり砕くような音が塀の向こうから届く。

 その圧倒的なまでにリアルな音に啓一は耐え切れないように、口に手を当て、俯いた。和馬も顔を青くしている。隼人でさえ、人体が破壊されていると思しきこの音は耐え切れないものがあった。

 そして音が治まったかと思うと、ひた、ひた、と素足で歩くような音が近づいてくる。

 その音に気色悪さを押せえていた脳をすぐに戦闘へと切り替える。一体どんな化物がいるかは想像もつかないが、万が一の時、二人を守ってやれるのは自分だけだ。例え相手がどんな奴だろうとも、こちらに危害を加えようものなら即座にぶちのめす。

 そう決心していた隼人だったが、現れた者の姿を見て、構えが揺らぐのを抑えられなかった。頭の中は白いペンキをぶちまけたように真っ白だ。

 何故なら、現れた彼は―――

「何で…………啓一がいる……?」

 隼人の前に現れたのは小柄な体に短い髪の毛、そして中学生のような童顔をした若者。それは啓一に他ならなかった。ただ一つ、鮮血で染まっている白い患者服だけが違っている。

 隼人は咄嗟に後ろを振り返ってみる。しかし、そこには隼人以上に多大なショックを受け、放心している啓一がいた。その目は前にいる自身とそっくりな者を映しているが、ちゃんと認識しているのか分からないほど、焦点は定まっていなかった。

「おい、啓一、啓一! しっかりしろ! お前、生き別れた双子の兄弟でもいるのか?」

 隼人の一喝に、はっと意識を取り戻した啓一は未だ混乱がぬぐえない歪んだ表情をしていたが、質問には答えることは出来た。

「い、いや、そんな訳ないっすよ。うちの母ちゃんはそんな隠し事するはずないし、第一、普通の家族に生き別れる理由がないっす」

 だよな、といいながら、隼人は前を向く。元々、今のは啓一の意識を呼びかける為と、不安定な心をどうにか持ち直そうとする冗談でもあった。

「和馬、お前はどう思う?」

 隼人は、自分よりも冷静な思考を持っている親友へと答えを尋ねた。

「どう思うって、生き別れたんじゃないのならドッペルゲンガーじゃねぇの? ほら、自分を見たら死ぬっていう都市伝説」

「え、縁起でもないこと言わないで下さいよ、和馬さん!」

「この状況で縁起良いこと言えるかっつうの。ただ、一つ言えるのは、どう見てもあいつは一緒に公園で遊びたがってねぇってことだ」

 和馬の意見に、隼人も頷くことで同意した。

 おぼつかない足取りでゆっくりとこちらに向かってくる啓一(仮)。その目はまるで餓死寸前の獣が極上の獲物を見つけたように恍惚としており、また親の仇でも見るように激しい憎悪で揺れているようも見える。

 そんな思考をしている間に啓一(仮)は、隼人達から五メートル程離れたところで足を止めた。影がかかった顔でゆらりと舐めるように三人をそれぞれ見る。そして、

「やだな~、そんな警戒しないで下さいよアニキ、俺っすよ、九啓一っす」

 さっぱりとした笑顔で、軽くジェスチャーを交えながらそう言ってくる。

 声音も、動作もいつもの啓一とまったく同じで、違うと分かっているのに、隼人にはそれが啓一に思えてならなかった。このままずっと見ていたら頭が狂いそうだった。

 そんな時、声を上げたのは本物の啓一だ。

「ふ、ふざけるな! 誰だお前は! 何で俺とまったく同じ顔をしてやがる!」

 その指摘に、啓一(仮)は酷く不愉快そうに顔を歪めると、溶岩のように熱のこもった憤怒の視線で睨みつけた。

「誰だお前は、だと? さっきから言ってるだろうが、俺は九啓一だ!」

 どちらも自分を啓一と言い張る、何とも奇妙な言い合いが始まる。

「だからさっきからふざけるなって言ってるだろう! 俺が九啓一だ! この偽物野郎!」

 その言葉に啓一(仮)の目つきが変わった。それを見た隼人は焦燥感に焚きつけられるように咄嗟に体を動かした。そして啓一を守るように前に飛び出ると、体に刻まれた感覚を頼りに、渾身の拳を繰り出す。

 隼人のパンチは日ごろの喧嘩という鍛錬の成果か、幸運か、人間とは思えないほどの爆発的加速で迫っていた啓一(仮)の鳩尾を的確に捉えた。それを認識すると、隼人はこれで終わりにするべく、裂帛の掛け声と共に拳を振り抜き、彼を遠くに吹き飛ばす。

 二、三メートルほど跳び、地面に叩き付けられる啓一(仮)。その姿を隼人は荒い呼吸を整えながら、異形を見るような目つきで睨んでいた。

 先ほどの加速、あれは尋常ではなかった。隼人の方が距離が近かった為、間に合ったがそうでなければきっと啓一は殺されていた。そう断言できるほどの殺意と威力だった。

 尤も、急所の鳩尾に本気の拳をめり込ませた為、もう起きてくるということはないだろう。何週間は胃が食料を受け付けなくなるが、それも襲い掛かってきた行為を見れば正当防衛だ。

 しかし、そう思っていた隼人の耳に少しあどけた声が聞こえ、心臓が止まりそうになる。

「い、いつつ、さすがっすね。まさか反撃できるとは思わなかったっすよ」

 と腹を抑え、苦悶の表情を浮かべながらも、啓一(仮)は難なく起き上がってきた。その光景に隼人だけでなく、和馬と啓一も目を見開いた。

「……テメェ、何で立っていられる? 今のは軽く一週間はベッドの上で唸り続けるくらいの威力だったはずだぞ!」

 信じられないという隼人の押し殺した声に、しかし啓一(仮)は質問に答えることなく、いきなり寂しい笑みを浮かべた。今にも捨てられそうな人形のような笑みだ。

「やっぱ、あんたもそいつを味方するんすね。俺も啓一なのに……」

 そんな淀んだ沼のような声を出す啓一(仮)に、しかし隼人はきっぱりと言い退けた。

「啓一は俺の後ろにいる」

 明白な拒絶に啓一(仮)は絶望するかと思いきや、ふふ、とおかしそうに笑みを漏らした。

「そうっすね、それがあんただ。だからこそ、俺は憧れた。憶えてるっすか? 俺が初めてあんたと会った時。女の子に集ってた不良達に男らしくあろうとして突っ掛って、そして惨めに返り討ちにされた。そんな時に助けてくれたのがあんただったっす。不良共を難なく殴り倒して、俺に言ってくれた。でかい男だって。背の小ささを気にして、突っ張るしか出来なかった俺に本当の男らしさを教えてくれたのはあんただった。嬉しかった。俺の絶対的な憧れになったっす」

 啓一(仮)が語る話に、隼人は頭が掻き混ぜられるように訳が分からなくなっていく。何故なら、今語られた話しは紛れもなく、隼人と啓一の出会いなのだ。

「な、何でテメェがその話を知ってやがる!」

 その話を、啓一とまったく同じ顔で語られ、隼人は律していた感情が動きそうになってしまった。それを掻き消すように、声を張り上げた。

「俺が啓一だからっすよ! ねぇ、助けて下さいよ! 俺はあんたの舎弟でしょ! 仲間でしょ! どんなことがあっても仲間は守ってくれるんじゃないんすか!?」

 その叫びは到底冗談とは思えない切実なものだった。眉尻を垂らしたその頼りない表情は心の底から隼人に縋っているように思える。その目は助けてくれることを純粋に信じていた。

 隼人の心はもみくちゃになる。こいつは危険だと本能が囁いている。それでも啓一の顔でそんな声を出させていることに罪悪感が生じる。

 だから、隼人は必死に首を振った。自分の後ろには本物の啓一と和馬がいる。守るべき者をきちんと見据えなければ、何も出来なくない。三年前のあの時のように……

「俺の仲間は、後ろにいるこいつ等だ!」

 非情とも取れる鋭い声音で、隼人は疑いもないほど明確に断言した。それは他全てを切り捨てでも、仲間を守るという隼人の覚悟。

「はは……それが、答えっすか……」

 啓一(仮)はまるで全ての希望に裏切られたように首を落すと、震える涙声を零す。

 しかし、再び持ち上がった表情は先ほどとは打って変わり、憎悪に満ちていた。自棄を起こし、吐き捨てるように言葉を出す。

「お前はいいよな。たださっきまで一緒にいただけで本物で、その上渇くこともない! 俺はただ生きることもままならないんだぜ! 男なら少しくらい同情してくれてもいいんじゃないのか? 何もない俺によ! だから、だからよ、それだけは、俺によこせぇぇぇぇ!」

 ダン! と大音響を響かせながら啓一(仮)は血走った目で突進してくる。今まで理性を持っていた人間がそれを忘れ、獰猛な肉食獣になったような野性的な動きだった。

 しかし、前もって予想していた動きに、今度は隼人の方が速度では勝っていた。猪突猛進に突っ込んでくる啓一(仮)の顔を、右ストレートが綺麗に捉え、首を折り曲げる。隼人は拳から確かに頬骨を折った感触を感じとった。

 だが、啓一(仮)は痛みさえも忘れたように曲がった首を強引に戻すと、拳を押し戻され、態勢を崩した隼人に飛びかかった。隼人の体を両手でしっかりと押さえたかと思うと、啓一(仮)は殴る蹴りではなく、歯をむき出しにすると左肩に噛みついてくる。

 人間の噛む力は大体その人の体重と同じくらいだ。啓一の場合は小柄なこともあり精々四、五十キロといったところだろう。しかし、啓一(仮)は隼人の肩の肉を容易に貫き、骨まで歯を到達させた。それだけでは飽き足らず、そのまま噛み砕かん勢いで圧力を加える。

 ミシリ、と嫌な音を隼人は体の中から聞いた。

 このままでは肩を噛み砕かれる。そう判断した隼人は、しかし啓一(仮)を引き離そうとはしなかった。無事な右腕に自分にあるありったけの力を込めるように拳を固め、啓一(仮)の鳩尾へとめり込ませる。それで終わらず、四回、五回と急所を殴打した。

 隼人は本能的に無理やり剥がせば、肩を悔い千切られると理解していた。その為、引き離さず、急所を狙い、啓一(仮)の力が緩むように仕向けた。そして狙い通り、さすがのタフさを見せていた啓一(仮)も、鳩尾を何度も殴られれば、嗚咽交じりに歯を緩めるしかない。

 その一瞬を隼人は九死に一生を得る思いで掴みとる。啓一(仮)に伸し掛かられ、イナバウアーのように崩れていた態勢をそのままに、両腕を相手の腰に回す。そしてプロレス技のスープレックスの要領で啓一(仮)を顔面から地面に叩き付けた。

 顔から叩き付けられ、体が真っ直ぐに反った為、その首からは骨が折れるようなバキキッ、という鈍い音が鳴った。

 隼人はその場で止まることはせず、すぐに起き上がると和馬と啓一を守るように間に立った。ここからの反撃を恐れてのことだ。

 だが、いかに啓一(仮)が異常な打たれ強さを備えていたとしても、無防備の状態からのスープレックスは効いたらしく、ばたりと地面に体を横たえると動くことはなかった。

 すると、再び人気のない公園には静寂が戻る。安らげるようなものではなく、喉に木綿を詰まらせたような嫌な静けさであった。

 傍から見て啓一(仮)は生きているのか、死んでいるのか分からない。いや、普通ならば死んでいるだろうが、あれほどの脅威的身体能力を見せられた今、死んでいると断定は出来なかった。

 隼人はどうするべきか、少し逡巡した後、簡潔に言葉を発する。

「おい、逃げるぞ」

 その言葉に反応したのは和馬だ。

「いいのか? 死んでるかとか、気絶してるかとか、確認しなくても? こう言っちゃなんだけど、止めはさしておいた方がいいんじゃねぇか?」

「確認する方が危険だ。もしも意識があって確認しようとしたら手を食い千切られかねねぇ。首の骨を折った感触はあった。いくらこいつが化物でも、その状態で動けるわけねぇだろ。俺達にこいつを殺す責任はねぇ。今は一刻でも早く、情報と安全な場所が欲しい」

 隼人の考えに、少しの間考え込むと和馬はうなずき同意を示す。

「なら、一先ず学校に行こう。ここからなら一番近いし、あそこには保健室もあるから、隼人の肩の怪我も治療できる。あそこなら生徒と教師で協力すれば、簡単な砦にもなるはずだ」

「よし、それでいこう、行くぞ、啓一!」

 隼人は後ろで固まっている啓一に一喝を浴びせる。その声にびくりと肩を震わす啓一はまるで重い病にかかった病人のように顔を白くしていた。無理もない。自身と同じ顔の人間が突然襲い掛かり、そして今倒れているのだ。啓一の心の傷は計り知れない。

 しかし、隼人は心を鬼にして、啓一を走らせた。悩むことも後悔も後で出来る。今は何よりも生きることに専念しなければならないと、つい昨日まで平和だった日本では考えられもしないことを隼人は本気で思っていた。


 隼人達は万が一にも啓一(仮)が襲い掛かって来た時のことを考え、大通りへと出た。大勢の人がいるならすぐに助けてもらえるし、最悪の場合は囮にでもなってもらおうと考えたからだ。しかし、それは更なる混乱の幕開けでしかなかった。

「……おい、何だよこれっ……!」

 無自覚の内に出た隼人の言葉は絶望にきつく縛られたものだった。

 大通りへと出た隼人達を待ち受けていたのは阿鼻叫喚の地獄絵図。いつもなら会社に行くサラリーマンや遊び歩いている若者でごった返している街は、今や人が人を踏み倒し、血が飛び散るパニックを描いていた。車道は乗り捨てられた車で塞がれており、どこからかクラクションが鳴り響いている。

 一体どういうことだ!? と困惑する隼人達の前に一人の男が倒れた。よほどのことがあったのか、男は倒れた体を起こす、という簡単な動作も忘れたようにコンクリートの上を這いずっている。

 そんな男に、上から何かが落下する。それは人であった。小柄な少女だ。だが、それを見て、隼人は汗が噴き出るのを押さえられなかった。何故なら、その少女が来ているのは啓一(仮)とまったく同じ患者服だったからだ。

 少女の表情は垂れた髪で分からなかったが、ふー、ふー、と興奮しているように息を荒くしていた。そして少女の小さな手が男の頭を掴む。すると、大の男が耳をつんざくような悲鳴を上げ、陸に打ち上げられた魚のようにのた打ち回る。しかし、少女は小揺るぎもしない。

 見ると、少女の指は、男の頭にめり込んでいた。ミシミシッ、と骨が軋む嫌な音が隼人にも聞こえる。内部で出血しているのか、男の目が次第に赤く染まる。

 その時、男が隼人達の存在に気づき、手を伸ばしてきた。

「た、助けて……くれ……!」

 その声を聞き、隼人の中に激しい葛藤が生まれる。この男を助けるか、それとも仲間の安全か。勿論、最優先は仲間の安全だ。これだけは例え命に代えても守り通す。しかし、今ならばまだこの男も助けられるかもしれない。人を助けたい道徳と見捨てるという罪悪感が自分を苛む。

 そして隼人は、その手を見捨てる道を選んだ。

「大通りは駄目だ! 裏路地から学校に向かうぞ!」

 二人を強引に押しやり、裏路地に戻る。

「ま、待ってくれぇぇぇぇ! 置いてかないで……が、ばあ、ごぶっ!」

 男の頭部が握りつぶされた音を聞いても、隼人は頑として表情を変えなかった。見殺しにしておいて、その死を悼むという卑怯な真似をしたくなかった。

 隼人が選んだのは仲間の安全だ。確かに一時はあの男を助けられるかもしれない。だが、あの患者服達の恐ろしさは先程身をもって体験したばかり。左肩を怪我している今の状態ではとてもではないが、彼を庇いながら学校に辿り着けるとは思えなかった。

 その時、啓一の視線に気づき、ちらりと見る。いつも満面の笑みで自分を見る啓一は非難めいた視線を発していた。それが刃と化したように痛い。

「アニキ、見捨てるんすか!? あの人は俺達に助けを求めて―――」

「啓一っ!」

 そう叫んだのは和馬だった。滅多に声を荒げることのない和馬の一喝に、啓一はびくりとしながら彼を見る。すると、和馬は苦々しい顔をしながら後頭部を掻き毟り、

「今の俺達にはよ、どうやってもあの人を助けることは出来ねぇ。あれはたった一体で隼人と互角にやり合うような化物だ。手の出しようもねぇってことくらい、分かんだろ。だから、そんな責めるような目は止めろ。苦しいのはお前だけじゃねぇ。決断する奴が一番つらいんだよ」

 和馬の言葉に、啓一ははっとなると、隼人を見詰め、

「ち、違うんす、アニキ! お、俺は別に責めてるわけじゃ―――」

 そんな今にも泣きそうな啓一の頭を、隼人はぎこちなく笑いながら強引に撫でると、

「心配すんな、気にしてねぇよ。お前は人一倍優しいから、そう思うのも無理ねぇ。けどよ、今は言い訳をしてでも逃げてくれ。俺にはそれが一番重要なことなんだ」

 隼人に、啓一を非難するつもりなど毛頭なかった。啓一は日頃から大きな男になりたいと言っている。それを考えると、隼人の行動は他人を見捨てた男らしさとは程遠いものだ。幻滅するのも無理はないだろう。

 啓一は納得はしていないだろうが、一応分かったようで、隼人達は騒ぎを避け、裏路地を走っていた。

 幸いにも被害が出ているのは、まだ中央の大通りだけのようでそこから大分離れたところにある隼人達の高校は静かなものだった。誰も騒いでない所を見ると、まだ起こっている異常事態を知らないのかもしれない。

 そんな平和然りとした雰囲気はしかし、先ほどの地獄を見てきた隼人からすれば、何をぐずぐずしているんだと、怒りの混じった焦りを禁じられないものがあった。

 急いでバリケードを作る準備をしなければと、そんなことを考えている時。誰かの悲鳴が聞こえた気がした。少女の悲鳴だ。だが、それだけではない。それは懐かしさや後悔、そんな様々な感情を瞬時に呼び起こす声。

 耳で捉えたのか、それとも脳に響いたのか、そんな曖昧な声だが確かに聞いた。


 ―――助けて、隼人君!


「………紗枝……?」

 そう呟きながら振り返るが、そこは住宅街でしんとしており、声などは聞こえない。それでも隼人は直感していた。大切な人が呼んでいる。そう思うと、隼人はもう自分の体を止められなかった。守らなければ、そんな思いが隼人の足を来た道をそのまま戻らせた。

「な、おい、隼人! どこ行くんだよっ!?」

 和馬が驚いて声を上げる。

「紗枝が助けを求めてる! お前等は先に学校に行って事情を説明して、準備してくれ!」

 いきなり何を、と言う和馬の声は、しかしもう隼人には届いていなかった。

 隼人の目は壁さえも透視せんと前を向き、その耳は紗枝の発する些細な音さえも拾おうと全ての神経を注ぎ込まれていた。

 しかし、走っても、走っても、見えるのは家だけで、呼吸が荒くなると同時に、もしやと胸を張り裂けんばかりの焦燥が生じる。まるで見えない化物に追われているようだった。化物に食われればもう二度と紗枝に会えない気がして、そんな不安が加速度的に膨れ上がり、

「紗枝……紗枝……紗枝ぇぇぇぇっ!」

 喉が裂けるのもお構いなしの叫び声を上げさせた。

 その声が住宅街に下りていき、だが返ってくるのは無慈悲な沈黙ばかり。

 どこにいるんだ!? そんな質問を隼人は泣きそうな顔の裏で何重と繰り返す。思い出されるのは寂しく自分から去っていく紗枝の背中。そして真っ赤に染まる一面の床。

 紗枝の姿が見えないだけで気が狂いそうになる。そんな時だった。

「い、いやぁぁぁぁぁぁ!」

 近くで悲鳴が上がった。

 今度こそは逃さない、見失わない。それは絶対的に紗枝の声だった。

 隼人はがむしゃらに走っていた体を右に強引に捻ると、音源を目指す。

 声はこの先から聞こえていた。この角を曲がれば紗枝がいる―――というところで、隼人は体を勢いよく弾かれた。

 ガハッ、とコンクリートに打ちつけた背中に衝撃が伝わり、肺から息が抜ける。

何が起きた!? と確認しようと起き上がろうとすると、見上げていた視界に何かが跳びこんでくる。まるで棒高跳びでもしたのではないかと思わせるそのジャンプはそのまま自分を落下地点にしており、このままくらってはヤバいと、隼人は息を詰めながら咄嗟に体を転がすことでそれを避けた。

 つい先ほどまで隼人がいたところに落ちてきたそれは、コンクリートに放射状のひびを刻んだ。もしも気付かずに踏まれていたら内臓破裂では済まなかったかもしれない。そんな想像に背筋を冷たいものが流れる隼人に、それは顔を向ける。

 降ってきたのはやはり啓一(仮)と同じ患者服を着た少年だった。小、中学生と思わせる小さな体躯で、本来なら服を汚しながら笑顔で走り回っているのが似合う顔をしている。しかし今は、血走った目で興奮しているように息を荒くしていた。ギギッ、と歯が削れるほど噛み締めたその表情は鬼に憑りつかれたようだ。

 隼人はジリ、ジリ、と少しずつ少年と距離をとっていく。左肩に怪我をしている今、啓一(仮)のように正面から戦えば勝ち目はないだろう。

 少年はそれを恐ろしい形相で睨みつけていたが、次の瞬間ガァァァァ! と獣じみた雄叫びを上げると、凄まじい速度で迫ってくる。

 しかし、隼人はそれを恐怖ではなく、怒りで見ていた。

 この先に紗枝がいる。助けを求めているのだ。今度こそ絶対に助けなければならない。その思いは隼人から目の前の敵が小さな少年だという道徳的意識を消しさり、燃え上がる殺意だけを前面に押し出した。

「紗枝を助けるんだ……邪魔すんじゃねぇぇぇ!」

 隼人は、少年の突進を寸でのところで交わした。いくら動きが早くても、その攻撃は所詮獣。猪突猛進で状況というものを見ていない。だからこそ気付かない。隼人が下がっていた理由を。そのすぐ後ろは一軒家の塀だということに。

 クラウチングポーズから走り出したと思ったらいきなり塀にぶつかれば、普通は失神するだろう。しかし、相手は驚異の身体能力とタフさを兼ね備えている。

 隼人は油断なく、少年が突っ込むのと合わせ、その後頭部に膝蹴りを入れた。少年の加速力と、隼人の脚力が一点に顔面に集中する。塀を陥没させるほどの威力は少年の顔を叩き潰し、小さな体を路上に沈めた。

 そんな惨たらしい姿に心を痛める余裕もなく、隼人は駆けだした。最早頭にあるのは紗枝の安否のみだった。

 そしてついに角を曲がると、見た光景に隼人は一瞬全ての感情が焼却された。

 目に入った光景。それは行き止まりに追い込まれているロングの黒髪の少女、紗枝。その近くにはまるで烏に食い散らかされたような誰とも判別できない死体。そして、紗枝に迫る患者服の大柄な男。高校生か、大学生だろうか、その体は筋骨隆々としており、ラグビーでもしているのではないかと思わせる。

 しかし、隼人の視界を埋め尽くしているのは怯えた顔で泣いている紗枝だけだ。それを見た瞬間、今まで抱いていた焦燥感や不安は一気に消えた。そして、迫っている男に対する黒く禍々しい、普段ならば嘔吐でもしそうな感覚が体を一気に支配する。

「紗枝に、近づくなぁぁぁぁっ!」

 口が裂けるほど叫ぶと、隼人は全速力で走りだした。瞬きもしない目は一心不乱に男を睨み、炎に包まれたような思考はただただ、紗枝を守ろうとだけ体を動かす。

 その声に男も、隼人の存在に気づく。今の自分を見て何を思ったのかは知らないが、男は怯えたようにごつごつとした拳を振るってきた。隼人は体を軽く捻ると、紙一重で躱し、まずはその無防備になっている脇腹に速力を乗せた蹴りをお見舞いする。

 爪先がめり込んだ蹴りに、肋骨が折れる音がしたが、男は呻きながらもさらに拳を繰り出す。元々人よりも強靭さが上がっており、これだけ筋肉を固めていると、隼人の攻撃力では決定打に欠けていた。

 それにこの男は、先ほどの少年みたく暴走していない。興奮はしているようだが、しっかりと隼人の動きを追い、拳を出していた。

 心を黒く染め上げながらも、倒すだけの力がない隼人はひたすらに攻撃を避け続けるしかなかった。そのことに焦りながらも隼人はどうすべきかを考える。周囲を見て、何か手立てはないかと虎視眈々と狙い続けていた。

 そんな隼人の目に映ったのは、家の囲いに使われている柵であった。

 隼人は、男の攻撃を避けながら柵へと近づく。そして男の大振りな拳を躱すと、横に回り込み、膝裏に蹴りを入れる。膝を折られ、男は僅かに態勢を崩した。その隙を見逃さず、男の背中に渾身のタックルを入れる。

 大きく倒れた男の先には鋭く突き上げられた柵の先端。それほどの巨体なら体重も相当のもの。自重によって、串刺しになる。

 と、思いきや、男は頭部に刺さったというところで、ガキン、と柵を歯で噛み、顎の力だけで体を支えて見せた。

 そんな現実離れした光景に、さすがの隼人も驚愕に心が乱れた。だが、それは一瞬のことだった。ここで決めなければ負ける、と訴える直感に従い、隼人は跳んだ。

 手を使い、柵から逃れようとする男の上に跳躍。そのまま本能に身を任せ、全体重と重力を乗せるように足を伸ばし、

「落ちろっ!」

 男の後頭部を、隼人は容赦なく踏みつぶした。突然の衝撃にさすがの男も耐え切れなかったのか、歯で押さえていた柵がギギ、と音を出しながら滑る。そして、男の頭部から血に濡れた柵が姿を現した。

 男の体を足場に、隼人は距離をとって着地した。絶命したとは思うが、こいつ等相手では油断は何よりの禁物と心に刻んでいる。

 しかし、さすがにこれは杞憂だったらしく、男は頭部を貫かれ、しばらくびくん、びくんと体が痙攣していたが、数十秒と経たない内に活動を停止した。

 それを確かめると、隼人は一気に息が切れ、体力が根こそぎ奪われ、穴に落ちるような感覚を味わい、その場に膝を突いた。憤怒と殺意で紛らわしていた疲労が一気にぶり返してきたみたいだ。アドレナリンが切れたのか、忘れるなというように噛み付かれた左肩が激痛を訴えてくる。

 しかし、隼人を襲ったのは身体的疲労だけではなかった。ここに来るまでに倒した三人の患者服のことが思い出される。啓一(仮)と先ほどの少年は殺したか分からないが、目の前の男は確実に死んでいる。いや、自分が殺した。

 襲ってきた、紗枝が危なかった、やらなければやられていた、そんな言い訳を述べても、殺人という罪悪感は拭えなかった。そもそもこいつ等は人かどうかも定かではない。だが、あまりにも似ているその姿は、単なる高校生の子どもに過ぎない隼人が受け止めるには重すぎるものであった。

 気を抜けば三人の苦悶の顔が甦り、体内を炙られたように苦しくなる。

 そんな思考に、隼人は首を振った。今は罪を数えている場合ではない。

 隼人は震える足を奮い立たせ、ゆっくりと座り込んでいる紗枝の元へと歩いた。

「……紗枝……」

 震えながら蹲っていた紗枝は、隼人の声に俯かせていた顔を上げた。

 少し心配になりそうなほどきめ細かな白い肌、不安げに潰れながらも丸い大きな瞳からは綺麗な色彩が見えた。小ぶりな鼻に、整った輪郭。そんな端麗な容姿に長い黒髪は、まるで平安時代の大和撫子を見ているようだった。

「……隼人……君?」

 その自信なさげの小動物みたいな声音を聞くと、隼人の心から今まで我慢していた不安や恐怖、会いたいという気持ちが一気に爆発し、もう自分を抑えられなかった。

 がばっと、その体を思いっきり抱きしめた。この感触を忘れないように、その温かみを感じられるように、紗枝という少女が今自分の腕の中にいることが夢でないと確認するように。

「ちょ、は、隼人君!?」

 突然抱きつかれた紗枝は困ったような声で慌てていた。しかし、今の隼人にそれを考慮する余裕はない。さらに力を込め、情けなく震えた涙声で呟く。

「良かった……紗枝、また行っちまったかと思ったぜ……もう離さねぇ。今度こそ―――」

 そこまで言うと、まるで気管に鉄球が押し込められたように喉が重く、声が出せない。叫ぶ勢いで口を開いても、喉が痛くなるばかり。やはり、まだこの言葉は言えない。

 自分の不甲斐なさを十分に承知しながら、隼人は抱擁を解いた。その目に真っ先に映ったのは、顔を真っ赤にして、あわあわと口を動かしている紗枝だ。こんな状況だというのに、その顔を見ただけで隼人は笑ってしまった。何だか久しぶりに笑った気がする。

「紗枝、大丈夫か? どこも怪我してねぇか?」

「う、うん……私は大丈夫だけど……」

 歯切れ悪くそう言うと、紗枝は痛恨の視線を隼人の横に向けた。その視線を辿って見ると、そこには無残に食い散らかされた死体があった。もう千切れた肉から多くの白が見え隠れしている。これでは顔の判断は愚か、性別も分からない。

「この人は誰だ?」

「この人は……あ、あのおかしな人に襲われそうになってる私を助けてくれて……それで、それで……!」

 喋れば喋るほど、その声は乱れ、最後には涙を滂沱と流し、言葉に出来ないようであった。

 それでも隼人が事情を察するには十分だった。

 自分がいない間、紗枝を守ってくれたのは名も知らないその人のようだ。感謝してもしきれないが、今はお礼に無残な死体を埋葬することも、供養することも出来ない。この状況では葬儀屋も運営していないだろう。

 隼人はその死体に目を逸らすことなく、真正面から向き合うと合掌した。自分が馬鹿みたいに紗枝から逃げてる時に守ってくれたことに言い表せない感謝を示した。この状況で目を閉じてじっとするというのは自殺行為にも等しいと感じたが、隼人は止めなかった。それが、今の自分が示せる最大の敬意だからだ。

 数十秒程黙祷した隼人は、それを終えると立ち上がり、紗枝にそっと手を差し出した。

「行こう。ここは危険だ。近くに俺達の学校がある。今頃は和馬と啓一がバリケード作ってるだろうから、一番安全だろう」

 紗枝は手を伸ばすが、痛々しく顔を歪めると途中で止めてしまう。隼人はその行為に過去の傷が刺激されると、それを消し去ろうとするように強引に手を握り、立ち上がらせた。

 驚いたような、済まないような複雑な顔をする紗枝に、隼人は笑って見せる。それぐらいしか、隼人には出来なかった。

 それを見て、紗枝も照れくさそうに笑ってくれる。それがせめてもの救いだった。

 二人はお互いに手を握ったまま、こくりと頷くと、歩き出した。

 周囲にまだ敵が潜んでいるかもしれない。それを警戒しながらも、隼人の意識は繋いだ紗枝の温かさを感じていた。その温かさは手から腕を上り、隼人の傷に染みわたる。

 あの日も、こうして手を繋げば、紗枝を守れたのだろうか。

 隼人は痛みに呻くように、そう思っていた。


 2 『悔恨』


 隼人と紗枝の家は向かい同士で一般的な言い方をすれば、幼馴染と区分されるかもしれない。

 しかし、小さい頃から問題児であった隼人と、大人しすぎる女の子である紗枝。そんな真逆な性格のせいか、小学校に上がるまでは単なる他人だった。

 そんなある時、隼人が上級生に気に食わないという理由でケンカを売られ、不意打に顔にパンチを一つくらってしまったことがあった。

 頬を赤く腫らし、不覚をとってしまったことに苛つきながら下校していると、偶然紗枝と出くわした。当時から目つきは悪く、紗枝はいつも自分の顔を見ると、ひっ、と小さく悲鳴を出していた。

 そんな反応は慣れっこなので、特にどうも思っておらず、その日もいつも通りに紗枝を避け家に帰ろうとした。しかし、そんな隼人の手をひんやりと気持ちいい感触のものが掴んだ。いつもと違う出来事に隼人はびっくりしながら振り返る。

 そこには瞳に涙を溜め、体を震わしながら隼人を引き留める、紗枝がいた。もしこれが恋人同士なら、旅立つ男を引き留める感動的な場面かもしれないが、隼人と紗枝は勿論そんな関係ではなく、むしろいじめられている子が勇気を振り絞って、立ち向かっている絵にしか見えない。隼人はその行動の意味が分からず訝しむ。

「えっと……これは一体何の真似だ?」

 なるべく怖がらせないように優しく言ったつもりだが、紗枝は腕の長さが許す限り身を後ろに引いた。何故腕を掴まれている自分が引かれなければならないのか、そう思うと隼人は段々と苛ついてきて、

「用がないなら離せよ!」

 そう語気を強め、紗枝に言いつけた。

 だが、何故か紗枝は恐怖を精一杯に堪える表情で近づいてきて、顔を横に振った。

「か、顔、け、けけけ、怪我してるでしょ! て、手当てしないと!」

 その紗枝の必死な言葉に、隼人は一瞬何を言っているのか分からず、きょとんとする。紗枝が殴られた頬のことを言っていると気付いたのは、少し経ってからだった。

 それも仕方ないだろう。紗枝がそんなことを言ってくるのも予想外ならば、女の子に怪我を心配されたのも初めての経験で何だか照れ臭かった。そんな気持ちが勝り、隼人は手を横に振ると、

「い、いや、別にこれぐらいなんでもねぇよ」

 少々格好をつけるように颯爽と立ち去ろうとした。目つきの悪さに女子に怖がられていた隼人は異性とのコミュニケーション能力が絶望的に低かったのだ。

 だが、いくら前に進もうとしても、足は同じところばかりを歩いている。がっちりと掴まれた紗枝の手から逃れられない。こんな可愛い少女に力で負けることが信じられず、半ば本気で抵抗してたが、疑似的なランニングマシーンを体験たのみである。

 これまで持っていた自負が大音響を奏でながら崩れ去るのを感じた。

 そんなこと紗枝はお構いなしで、隼人を必死の力技で引きずると、

「だ、駄目だよ! 放っておいたらもっと酷くなるかもしれない!」

 そう言われ、隼人は強引に紗枝の家に招き入れられた。その間も必死で抵抗したが、徒労に終わったことは言うまでもない。


 紗枝の家はここ等一帯では一番大きかった。隼人は三階建ての一軒家に住んでいたが、その家の三倍はあろうかというほどのでかさだ。瓦屋根の和風な家で、庭があり、池もあった。本格的な屋敷を見るのは初めてで、物珍しくしている隼人を連れ、恐らくは紗枝の部屋に当たる場所に案内された。

 小学生という子どもながら、隼人も男だ。女子の部屋、それも稀に見る可愛い少女の部屋に入ってもいいのかと躊躇う。それが一般的だと思うが、紗枝はというとまったく気にしておらず、机の引き出しから一つの箱を取り出し、隼人に椅子に座るように要求する。

 そんなに淡々とされては恥ずかしがっている自分が馬鹿みたいで、隼人は開き直り、赤らめた頬を誤魔化すようにどかりと椅子に腰を掛けた。

 紗枝は足の低いテーブルの上に箱を置き、留め金を外し、それを開く。その中は保健室でおかれているような救急箱みたいだった。消毒液に、ガーゼ、テープと中々本格的だ。

 紗枝は慣れた手つきで綿に消毒液を垂らすと、それをピンセットで掴み、殴られた拍子に切れていた唇に当てた。消毒液が傷口に沁み、針で刺されたようだ。

「痛っ!」

 しかし、紗枝は、隼人の声に怯えることなく、しっかりとピンセットを持ったまま、

「ごめんなさい。もう少しだから」

 冷静な顔つきに落ち着いた声音でそう言われる。先ほどまで声をかけただけで泣きそうになっていたのが嘘のようだ。

 その姿に圧倒されるように、隼人はじっと治療を受けていると、消毒が完了したのか、紗枝はピンセットをテーブルに置き、ちょっと待ってて、と言って出ていく。

 そうは言われても、まったく知らない場所で一人ぼっちにされた隼人は対処に困る。それで何となく部屋を見渡すのだが、辺りに置かれたぬいぐるみや可愛らしい柄のベッドなどを見ると改めてここが女子の部屋だと自覚する。

 そう思うと別に何もないのに、何故かとても緊張した。見られて困るようなものは置いてないと思うが、見回すのも変態な気がして、視線をずっと床に固定する。そうすると、今度は何だか甘い臭いが漂ってきて、隼人は咄嗟に手で鼻と口を塞ぎ、息を止める。しかし、そんなことが長く続くはずもなく、呼吸が出来ず顔を真っ赤にしているところで、ガラガラとふすまが開いた。

「ど、どうしたの?」

「っぷはぁ! はぁはぁ……息を止める限界に挑戦してたんだよ……」

 キョトンとした紗枝の声に、一気に冷静になった隼人は先ほどまでの自分のテンションに引いていた。先ほどまでの自分はまさに変態だ。

「そ、そうなんだ、お、男の子だもんね。あ、これで腫れてるところ冷やして」

 そう言うと、紗枝は袋に入れた氷をタオルで包むと渡してくる。そんな苦し紛れの理解が子供心ながらに氷の冷たさと共に沁みてきた。

 隼人は気恥ずかしさのあまり何も言わずそれを受け取ると、頬に当てた。タオルでカバーされているので、心地よい冷たさが熱を持った腫れにきく。

「そ、それにしても手馴れてるな。まるで保健室の先生みたいだ」

 話すことがなくなり、微妙な沈黙を紛らわす為に、隼人は思ったことを言ってみた。

 すると、紗枝は照れるように頬を染めるとえへへ、ととろけたような顔で笑う。そんな一見だらしなさそうに見える仕草でも可愛いのだから不思議だ。

「そ、そうかな。でもこれくらいできて当然なんだよ。だって私の家はおじいちゃんもお父さんもお医者様だから、私もこれくらい出来なきゃ……」

 途中まで笑っていた紗枝は、しかし家族の話になると途端に表情を曇らせた。

 しかし、隼人には、紗枝の言った言葉の意味が全く分からない。

「は? 何言ってんだ? 親が医者だからうまく手当てできるっていうわけじゃねぇだろ。だったら俺は今頃、科学者になってるぞ。ま、お前がどう思おうが、お前の勝手だけどよ、俺は俺で凄いと思ったから褒めたんだ。年は同じくらいなのに、こんなにしっかりとしてるお前は立派だよ」

 隼人からしたら、ただ当たり前のことを言っただけに過ぎなかったが、それを聞いた紗枝は何故か瞳を大きく見開き固まっていた。何だか熱を感じる熱い視線でじっと自分を見詰めてくる。そんなに見つめられて、居た堪れない気持ちになった隼人は頬を掻きながら顔を逸らした。

「な、何だよ? 俺はそんなにおかしなことを言ったか?」

 そこでようやくずっと見つめていたことに気が付いたのか、紗枝は瞳を何度か瞬かせると、勢いよく下を向いた。

「ご、ごめんなさい! その、お父さんにはいつもそれくらいできて当然だって怒られてたから……そんなふうに褒められたこと初めてで……えっと、その……え、えへへ」

 もじもじと紗枝は胸の前で指を忙しなく動かしていた。その様子はまるで背後に花でも咲くんじゃないかと思えるほど嬉しそうだ。

 特に何かを思ってのことではないが、そこまで嬉しがられるとこっちまでむず痒くなる。これ以上胸の奥が優しく温かくなっていく感覚に我慢できず、隼人は、紗枝の目の前に手を差し出した。

 え? と不思議そうにする紗枝の赤くなった顔が可愛らしく、隼人は直視することが出来ずそっぽを向きながら言う。

「考えたら、俺達何度か顔を見たことはあったけど、ちゃんと名前を言うことはなかっただろう。釧路隼人だ……怪我の手当てありがとよ」

 紗枝は、そんな隼人をしばらく眺めていたが、やがて意図を察したのか、あっちへ行ったり、こっちへ行ったりしてようやく落ち着き、細い手が握り返してきた。

「え、えっと、安永紗枝です! その、ほ、本日は治療を受けて頂きありがとうございました!」

 緊張しているのか、言っていることは意味不明だったが、そんな慌ててる姿が面白く、隼人も自然と笑顔になってしまう。

「よし、じゃあ、お互いに名前も分かったことだし、今日から俺達は友達だ」

 握った手をブンブンと振りながら、隼人はにっと笑いながらそう言った。

 その言葉に紗枝はものすごい剣幕で顔を詰め寄ると、興奮しているのか鼻息を荒くし、息もつかせぬ怒涛の質問をしてきた。

「と、友達って本当!? 本当に私と友達になってくれるの!? その友達って一緒に遊ぶような友達? それとも見かけたら挨拶をするような仲のことを言うの!?」

「だぁぁぁ! 落ち着け、どうしたいきなり? お前の中の友達ってどうなってんだよ!?」

 しかし、この質問は地雷だったらしく、紗枝はテンションを、しゅんと途端に下げると、

「だって……私、友達なんて出来たことなくて………」

 そんな今にも消え入りそうなか細い声を聞き、隼人は、あー……と声を伸ばし、何と言おうか迷う間を持たせた。まだ小学生であり、問題児でありながらも友達の多かった隼人には孤独の痛みというものはきちんと分からなかった。ただ、いつも一人でクラスの端にいる奴みたいなものなのか、と思うしか出来ない。

 少し考えたところでどうすればいいか分からない隼人は、しょうがなくできるだけ紗枝が安心できるように友達というものを説明しようとした。

「だから、その、俺達の友達っていうのはだな……あれ、あれだよ! 困ってる時には助け合って、一緒に笑って、遊んだりする……そう、仲間だ! 仲間みたいなもんだぜ!」

 ちょっと自分でも何を言っているのかよく分からなかった。とりあえずそれっぽい言葉を並べて見たが、意外と様になっているのではないか、と願いたい。

 咄嗟に思い浮かんだ仲間という言葉だが、思いのほか紗枝はそれを気に入っているようだった。仲間、と何度も口を小さく開けて呟いている。

「仲間、仲間か……。じゃ、じゃあ、私とは、ははは、隼人君は仲間っていうことになるの?」

 不安げに問いかけてくる紗枝に、隼人は自信をもって頷いた。

「おう、俺達は仲間だ。だから困ったり、一緒に遊びたい時はいつでも呼べよ。俺達は仲間だからな、いつでも駆けつけるぜ!」

 親指を突き立てる隼人に、紗枝は手を打ち鳴らし喜んだ。

 近くて遠かった存在は、そんな偶然を境に一気に近づいた。


 それから幾年が過ぎ、隼人と紗枝は中学三年生になった。

 紗枝は遠くの偏差値の高い小中高一貫の学校に通い、隼人は近くのレベルの低い学校に行っている為、自然と会う回数というのは減っていってしまった。

 しかし、縁が切れたというわけではなく、お互いに時間が空いていれば、よく近所の公園のドーム状のオブジェクトに座り、話したりする。紗枝としては休みの日も一緒に遊びたいらしいが、親が厳しく、塾や勉強をしなければならないらしい。

 尤も、例え遊べたとしても中学で性知識が付き始めた隼人はデートと言う言葉を連想してしまい、恥ずかしさで遊べたかは疑問だ。

 そんな平凡だが、何不自由ない幸せと思える日々を過ごしていた。

 ……だが、それは隼人だけだった。

 中学三年ともなれば、高校受験の勉強をしていかなければならない時期だ。隼人の場合、高いランクの学校に行くことなど望んでおらず、他の生徒の為に自由登校になった日などはバイトに明け暮れていた。

 父がおらず、母だけだったが決して貧しい訳ではなく、ただ勉強も大した夢もない自分が出来るのは、自分の責任くらい自分で持つことだと思っていたからだ。

 仕事は決して楽ではないが、充実感があった。しかし、それとは反対に紗枝は会うたびに顔色が悪くなっているような気がした。表面上はあまり変わりないが、それでも会っている時に、落ち込んだように黙り込むことが多くなっていた。

 心配になってそれとなく聞いてみても、何でもない、の一点張りだ。紗枝はあまり気の強い方ではなかったが、弱さを溜めこんでしまうことがある。

 そんな日々がどれくらい続いた頃だろうか、ある日、バイト帰りに電車が人身事故を起こし、深夜に近い夜道を帰っている時であった。

 ふと、いつも紗枝と会っている公園を見てみると、そこに誰かが座っている。あまり使われない公園なので、整備は疎かで電灯がきちんと働いていなかったが、直感のようなものでそれが紗枝だと分かった。

 こんな夜遅くに一人でであるいてんじゃねぇよ、とあまりの不用心さに少々腹を立てながら、隼人は走って近寄った。

「おい、紗枝! お前、こんな時間に何やってるんだよ!」

 突然声をかけられ、ドーム状のオブジェクトに乗っていた紗枝はびくりと体を震わすと、顔を上げた。それを見て、隼人の怒りは瞬時に静まった。何故なら視線の先にいたのは目元を赤く腫らしていた幼馴染だったからだ。

 早く帰らないと母親にこっぴどく叱られるが、この状態の紗枝を置いていけるはずもなく、隼人は何も言わず隣に腰を落ち着かせた。紗枝は学校の制服のままで、こんな夜遅くでは寒いだろうと、上着を脱ぐと、肩にかけた。

 紗枝は、隼人の上着を手で掴むと、ぎゅっと引き寄せ、俯き加減にありがと、と呟いた。

「……それで、何があったんだ?」

 こんな時、巧みな話術でもあれば良かったのだが、生憎と隼人はケンカとバイトしか能のない中学生だ。悩み相談などやったこともあるはずなく、今のような直球で行くしかなかった。

 そんな隼人の心を読んでだろうか、紗枝はくすりと笑う。

 一瞬雰囲気が和んだが、紗枝は中々口を開こうとはしなかった。自分に心配をかけまいとしているのは分かってるつもりだ。紗枝は臆病だが、それ以上に優しい少女だ。誰かが傷つくくらいなら、自分が傷つく、そういう心の持ち主だった。

 しかし、隼人としては言って欲しい。自分に悩みを打ち明けて、頼ってもらいたい、力を貸したい。もうすでに、釧路隼人の中で、安永紗枝は単なる友達、仲間ではないのだから。

「………ねぇ、隼人君……?」

 紗枝は、隼人がかけた上着をまだ手で持ちながら、それを一層強く引き寄せると呟いた。その姿は弱々しく、今にも声ごと紗枝が消えてしまうのではないかという危機感を募らせる。

 だが、顔を上げた紗枝の表情は不自然なほどににこやかに笑っていた。

「もしも私が……どこまでも一緒に行ってほしいって言ったら…………どうする?」

 首を傾け、冗談のように明るい声で紗枝はそう言った。

 昔から紗枝は演技が下手だ。顔を取り繕っても、他の場所でぼろが出る。今も、顔は笑っているが、隼人の上着を掴んだ手はずっと小刻みに震えている。

 この質問は本気なのだと、明るい演技までして言ってきたこの言葉は冗談ではないことを、隼人は長年の付き合いからすぐに察した。

 だからこそ、隼人は言葉を詰まらせた。冗談交じりに望む答えを返すことは簡単だ。しかし、それは間違いなく紗枝を深く傷付ける結果になると思えた。それは紗枝の思いを裏切る。

 しかし、本気で考えて答えるなら、隼人は行けないとしか答えられなかった。まだ中学生という甘えられる身分ではあるが、多くのバイトをしている隼人はこの社会がそんなに甘くないことを自覚していた。中学生二人が、思いのまま旅立っても何も出来ないまま、家に戻るしか出来ないのが関の山だ。

 だが、この答えは紗枝の臨む答えとは全く違うだろう。紗枝は待っているのかもしれない。自分が助けてくれることを。それを知りながら隼人は出来ない等とは言えなかった。

 嘘をついても駄目、正直に話しても駄目、という状況に追い込まれ、隼人は卑怯者のように逃げることを選んだ。

「……な、何言ってんだよ、俺はいつもここにいるじゃねぇか。いつでも一緒だろ?」

 それは質問の答えでも、冗談でもなく、あやふやにして受け流すとい最も卑怯な手だ。それでも、当時の隼人はこう言って元気づけることぐらいしか思い浮かばなかった。

 それを受け、紗枝は空笑いすると、長い黒髪で表情を隠すように項垂れ、

「………うん、そうだね……」

 と隼人も聞くのが精一杯の震えた声で言った。

「ごめんね、変なこと聞いちゃって。もう時間も遅いし、帰るね」

 と言って紗枝は立ち上る。

「あ、待てよ。家まで送るって」

 それを受け、隼人も立ち上がり、薄暗い夜道を歩きだした。

 いつもはぴったりと寄り添っていた二人だが、その時は一歩離れ、まるでその間に底のない溝があるように近づくことは出来なかった。


 家に帰ると、あまりにも遅い時間に、当然の如く母にこっぴどく叱られ、バイトを一週間禁じられた。

 バイトして、帰りが大幅に遅れ、最後に母に小一時間説教され、隼人の精神はすでに疲労のピークであった。こんな日は早く寝るに限ると、風呂に入るとさっさとベッドに入る。

 いつもなら数分で完全に眠ることのできる隼人であったが、その日は何故か目が冴えていた。まったく眠る気になれない。天井を見上げながらぼんやりと思い浮かべるのは、公園で会った紗枝の消えてしまいそうな顔。

「………一体、俺はどうすれば良かったんだよ……」

 寝返りを打ちながらそう呟き、分かるはずもないと目をつぶってなんとか寝ようとしてみた。それでも中々寝付けず、苛々としていたところに、突然携帯が鳴る。

 うおっと、隼人はベッドの上で飛び跳ねた。誰にも見られていないが、携帯で驚いてしまったことが恥ずかしく、こんな時間に誰だと苛つきが加速する。時間を確認すると、今は深夜の三時。あまりにも非常識な時間帯だ。

 どこのどいつだ、と文句を言う為に確認すると、隼人の心からそれらは一瞬で消えた。

 非常識な差出人は、安永紗枝だったのだ。

 どうして紗枝がこんな時間に? と隼人の中で妙な焦りが生じる。突然連絡を入れたくなることも、たまたま起きていて暇つぶしにメールを打ったということも十分に考えられるだろう。しかし、数時間前にあれほど落ち込んでいた姿を見た隼人は、嫌な予感だけが脳裏を過った。

 そっと、重々しくボタンを押していき、メールフォルダを開き、紗枝のメールを確認する。

 それには件名も書いておらず、本文も短いものだった。

『昨日は変なこと言ってごめんね。私は気にしてないから、隼人君も気にしないで』

 ああ、あの時のことか、と隼人の脳内で公園での出来事が思い浮かぶ。わざわざメールで言わなくてもよかったが、文面を見てもどうやら紗枝は落ち着いたようだ。あんな卑怯な答えを返しておいて何だが、隼人はほっとしながら携帯を閉じようとした。

 しかし、そこで不可解な疑問がその手を止める。

 再び携帯を開くと、メールをよく読んでみる。普通に読めば、それは先ほどの出来事を謝るメールだろう。ならば何故、紗枝は《昨日》と言っているのだろうか。確かに時間的には昨日かもしれないが、つい数時間前のことだ。この時間に打ってくるなら《さっきは》となるのではないだろうか。

 それをわざわざ《昨日は》としたのは、隼人がこのメールを見るのは朝になる頃だと思い越してではないだろうか。しかし、それならば朝にメールをすればいいだけで、何もこんな非常識な時間に送ることはない。

 そう思うと段々と内臓を炙られるような焦りが隼人を襲う。嫌な想像ばかりが思い浮かんで潰されそうだ。そして再び見たメールは、まるで遺書のように映った。

 そう思うが早いか、隼人は寝間着のまま家を飛出し、向かい側の紗枝の家に走った。門は当然の如く締まっているのでよじ登り、玄関の扉は蹴破った。物凄い大音響が鳴るのもお構いなしに、隼人は息を切らしながら紗枝の部屋へと直行した。

 部屋につき、バンバン! と叩くように電灯のスイッチを入れる。しかし、光に照らされたその部屋に当然いるはずの紗枝はいなかった。

 そのことがさらに嫌な予感を裏付けているようで、

「紗枝……紗枝ぇぇぇ!」

 と隼人は真夜中もお構いなしに叫んだ。

 その声に家の住人がさすがに気付き、一斉に電気が灯るが、それさえも最早気にする余裕はなく、隼人は冷汗で寝間着を濡らし、肌に貼りつけながら家中を探し回った。

 すると、浴場の方からぴちょん、と水滴が落ちる音が聞こえた。蛇口の閉め忘れかも知れない、ただ天井に溜まった水滴が落ちたのかもしれない。それでももう探してない場所など他になく、隼人は一縷の望みをかけて浴場の扉を開いた。

 しかし、そこで隼人が見た光景は絶望そのものだった。

 紗枝はいた。湯船にお湯を溜め、肩までつかっている。だが、衣服は着たままで、その片腕は湯船からはみ出していた。そして床には浴室には似つかわしくないカッターが転がっている。何よりも、浴場の床は赤色に染まっていた。紗枝の手首から恐ろしいほどの勢いで流れ出る鮮血によって。

 

 そのあとのことを隼人はよく覚えていなかった。

 何でも隼人が紗枝を見つけ出し、呆然と座っているところを紗枝の父親と家政婦に見つけられたらしい。そこで変わり果てた紗枝の姿を発見し、至急救急車を手配したとか。発見が早かったので命に別状はなかったが、もう少し遅れていては危ない所だったと聞いた。

 後日にそれを聞き、隼人は紗枝の家に乗り込み、その父親に何故こうなったのか聞きだそうとした。しかし、彼は頑として何も言わず、しょうがなく隼人は家政婦に事情を聞くことにした。

 家政婦は、隼人の血走った目を見ると、すぐに口を割った。

 紗枝の家は代々医者の家系で、紗枝を生んだ後、すぐに母親は亡くなってしまったらしい。その為、必然的に紗枝は医者になることを強いられていたようだ。しかし、紗枝はそれを嫌がってはいなかった。父親のことを尊敬していたらしく、また小学生の頃に何故か必ず医者になると言いだしたらしい。

 紗枝は頑張って勉強をしていた。だが、現実は厳しく、成績は思うように向上していなかったようだ。そのせいで父親に毎日、辛辣な言葉を浴びせられていたらしい。それでも紗枝は父親を幻滅させないようにと頑張っていたようだが、思うようにはいかなかったようだ。

 そして紗枝が自殺未遂をするその日に、家政婦は聞いてしまったらしい。

『何故お前のような愚図が……私の娘なのだ!』

 という父親の台詞を。

 その話を聞いて、隼人の一番の怒りの矛先は自分だった。確かに自殺未遂の原因は、父親かもしれない。それでもそれを実行させてしまった原因は、間違いなく自分だ。

 あの日の夜、どこまでも一緒に言って欲しい、と言われた時、自分はうなずくべきだったのだ。社会は甘くない、子ども二人では無理だなど、そんなのはどうでもいい話だ。問題なのは、隼人が自分のことしか考えられていなかったことだ。

 子ども二人では無理だというのも、お金の問題も、全ては自分の苦労しか見えていなかった。紗枝が何故泣きそうな顔であんなことを言ったのかをまったく考えていなかった。

 紗枝はきっと忘れていなかったのだ。子どもの頃、隼人が友達だと、どんな時でも助けに駆けつける仲間だと言ったことを。

 隼人は叫んでいた。自分の言ったことを守れなかった怒りと、それを信じていてくれた紗枝を裏切ってしまった後悔を乗せて、喉が潰れるまで叫んだ。

 覚悟が足りなかったのだ。仲間を守ると言いながら、自分の保身の為に、その言葉をないがしろにした。どんなことがあっても仲間を守るという絶対的な心の強さがなかった。

 だからこそ、隼人は誓った。

 例えこの先何があろうと、仲間だけは絶対に守ってみせると。紗枝をもう傷付けさせないと。

 脳裏に焼印のように刻まれた紗枝の悲しい姿に、そう誓った。


 *


「おい……何だよこれ……」

 隼人は、紗枝を守りながらようやく学校に辿り着いたところで呆然と呟いた。

 視線の先にはいつも通りの学校が映っている。そう、何も準備していない学校が。

 隼人は確かに、和馬と啓一に言ったはずだ。先に学校に戻って準備をしてくれと。

 今頃皆で協力してバリケードでも作っているのかと思ったが、そんな様子は皆無だった。このまま敵に攻撃されればひとたまりもない。そんな仲間の危機に関する不安に、隼人の顔は知らず知らずの内に鬼にも似た形相を作っていた。

「は、隼人君、だ、大丈夫?」

 たどたどしい声音で紗枝が眉尻を下げ、心配そうに顔を覗き込んでくる。それを見て、自分の顔が酷いことになっていると分かった隼人は無理やり笑みを貼りつけ、

「……ああ、大丈夫だ。まずは和馬達を探そう。きっと保健室にいると思うけど……」


 保健室に入ると、案の定そこには和馬と啓一がいた。保険教諭の姿はない。

 一先ず無事だったことを喜ぶが、現状を見るとそればかりではいられないだろう。

「隼人、紗枝ちゃんも! 良かった無事だったか!」

 赤みがかったもじゃもじゃ頭をわさわさと揺らしながら、ベッドに腰掛けていた和馬が勢いよく立ち上がる。和馬は中学の頃からの付き合いで、何度か紗枝とも会っているのでそれなりに親しい。

「ア、アニキ……」

 啓一は一瞬嬉しそうな顔をしたが、先ほどのことを気にしているのか、すぐに俯いてしまう。本来なら今すぐ話をしたいところだが、今はそれよりも重要なことがあり、隼人は不甲斐なさを痛感しながらも和馬に話を振った。

「和馬、どうなってるんだ? 俺はバリケードを作るように頼んだだろう?」

 その質問に、和馬は悔しそうに眉間にしわを寄せると、苦虫をつぶしたような表情を作る。普段、軽い雰囲気の和馬が、ここまで露骨に嫌悪の表情を浮かべるのも珍しかった。

「ああ、俺だって作るように教師に掛け合ったさ。でも、あいつ等は信じなかったんだ!」

 そこで悔しそうに和馬は拳を壁に打ちつけた。

「……どういうことだ?」

「どうもこうも、端から俺等の話を聞くなんてなかったんだよ! 俺等が必死で現状を伝えたのに、教師の野郎、俺等を不良と付き合って頭のおかしくなったクズだって皆の前で笑いものにしやがった。それは仕方ねぇ、優等生みたいに学校に出てない俺が悪いさ! けどな、俺が誰と付き合おうが勝手じゃねぇか! 誰もお前をよくも知らないで悪口ばかり言う! 必死で頑張った分、苛つくっつうか……ああもう! って気分になるんだよ!」

 頭を掻き乱す和馬を、隼人は肩を叩くことで落ち着かせた。その説明で十分だ。しっかりと和馬が、自分の為にこんなにも怒ってくれていることが分かった。それと同時に大事な仲間がコケにされたという行為が、隼人の中に炎を燃え上がらせる。

「ありがとよ、和馬。で、お前を馬鹿にしたクズはどこのどいつだ?」

「……別に俺は仇討なんて期待してねぇぞ」

「知ってるさ。けどな、俺の腹の虫がおさまらねぇ……!」

「はぁ、ま、お手柔らかにしてやれよ。ここのすぐ上のクラスで授業してる」

 それを聞くや否や、隼人は保健室を後にして階段を飛ぶように駆け上がった。

 そして、すぐのところにあった教室のドアを開けるという発想はなく、蹴り飛ばした。

 突然ドアが吹き飛んだことで、教室は騒然となった。しかし、それも隼人が姿を現すまでだ。特に学校を支配するということもない隼人だが、その勝手につけられた悪名はどこからか知らないがそこら中に広まっている。《修羅》という名は教室に戦慄と共に静寂をもたらした。

「お、お前は釧路隼人! なんだ、手下の次はお前か? お前も敵が攻めてくるなんて妄想を言い出すのか!? 今は授業中だぞ!」

 耳鳴りのような音程の高い声で叫んだのは神経質そうな顔に丸メガネをかけた三十代と思しき男だった。授業にあまり出ず、出たとしても大抵眠っているので名前は覚えていなかったが、確か時期教頭の座を狙っており、露骨な点数稼ぎが目立つと、良い噂のない教師だったはずだ。

「和馬は俺の手下じゃねぇし、話は本当だ。今、すぐ近くでは大変なことになってる。ここに被害が及ぶのも時間の問題だ。一刻も早く態勢を整えないと皆殺されるぞ」

 大真面目に言った隼人の言葉を、机に座っている生徒達は口を手で隠しながら笑っていた。中には呆れ果てて、そのままノートに黒板の内容を書き写すものまで出始める。なるほど、と隼人はそれらを見やりながら和馬の悔しさを少し理解する。

「はぁ……何を馬鹿なことを言っているのだか。幼稚な妄想もそこまでにしろ。敵? 何だそれは? テロリストでも攻めてきたのか? もしそうならとっくのとうに避難警告が出てるはずだろう!」 

 その教師の言葉には一理あった。これだけの大事件だ。もうネットの世界では溢れるほどの報道がなされているに違いない。

 そう思い、スマホを付けてみた隼人だが、画面には何故か圏外の二文字。何でこんな時に! という苛立ちは、教師の言葉によりさらに倍増した。

「いいか? この子達はな、お前等みたいなクズじゃないんだ! お前や、宮本和馬や九啓一のように楽な道に逃げた卑怯者じゃない! しっかりと未来を見据えて勉強を頑張っている! それも出来ないのなら、せめて邪魔しないように―――ぐぼっ!」

 聞くに堪えない教師の小言を、隼人が最後まで聞いてやる義理もなく、腹を底から焼く怒りを鎮めるのも兼ね、その痩せこけた頬を殴り飛ばした。そんなことで気持ちが晴れるはずもないが、せめてもの仕返しだ。

 教師は浮かんだ体が床に受け止められると、ピクピクと痙攣した手を上げて何かを言おうとしたが、そこで気絶した。そんな日常世界では見られない光景に教室は一気に悲鳴で満たされた。訳もなく叫ぶ女や、隼人を悪魔のように怖がって後ろに下がる男。

 まるで耳の真横で金属が削られるような騒音が喧しく、隼人は教卓を蹴り倒すことで黙らせた。静まった教室を一瞥すると、それだけで生徒達は今にも殺されそうな羊のように怯える。

 何だか弱い者いじめのようで先ほどまでの怒りが萎えていくが、和馬の味わった屈辱くらいは返しておこうと口を開く。

「社会的に見たらよ、こうやって椅子に縛り付けられて勉強してるお前達の方が偉いんだろう。正しい行動なんだろう。けどよ、そうじゃない奴が駄目だって誰が決めた? 俺は確かに勉強もろくにしないでバイトしてるような不良だけどな、お前達よりも本物の仲間が多い自信がある。社会が崩れた今、お前達がどうなるか、見物だよ」

 それだけ言うと、隼人はそっと歩き出す。そんな少しの動きにも彼らは過敏に反応して悲鳴を上げる。そんな奴等に仲間が笑われたと思うと、業腹だが、恐らくもうすぐ殺されると思うと、殴る気も失せる。

 ここにいる大半の人間を見殺しにすると思うと、少し気分は重かった。尤も、始めから彼らを守る気はなかったので、それは自分を罰することで楽をする行為だと気付き、隼人は首を振ってその考えを追いだした。

 自分が守るのは、仲間だけだ。

 しかし、割り切れない部分があるのもまた事実。そんな複雑な気持ちで保健室に入ると、

「よ、隼人。首尾はどんな感じだ?」

 何故か上機嫌になっている和馬が笑顔で出迎えた。先ほどまでとはまるで真逆だ。

「何でお前はそんなにテンションが上がってるんだよ? さっきまで怒ってたよな? 友情の為に熱くなってたよな?」

「いや~、そんなの紗枝ちゃん見てたらどうでもよくなったぜ! 一ヶ月くらい前に会った時以来、見てなかったけどまた可愛くなってるよな! もうどっかのアイドルでもおかしくないくらいだぜ!」

 と、アイドルの話をするように目を輝かせながら和馬は強く言う。そんな言葉に紗枝はそ、そんなことないよ、と真っ赤な顔で否定しながらも、何故かちらちらと自分を見てくる。

 だが、隼人の意識はそこではなく、和馬の言葉に反応していた。

「うん? 一か月前? おい、待て、俺も会ってないのに何でお前は会いに行ってやがるんだ? おい、紗枝!?」

 と、紗枝を見てみるも、何故か非常に落ち込んでおり、話しかけられる雰囲気ではなかった。仕方なく隼人はギロリと猛獣のような眼光を和馬に向ける。

 すると和馬はギクリ、と肩を震わすと、視線を逸らしながらどことなく気まずそうに話した。

「い、いや~、実は前々から紗枝ちゃんにお前と仲直りしたいけどどうしたらいいかって相談されてたんだよ。それが知らない内にこんなにも仲良くなってて良かった、良かった」

 勝手に何相談乗ってんだよ! としみじみと語る和馬の胸倉を掴みながら、再び視線を紗枝に向ける。

「紗枝、それは本当か?」

「え!? あ、ああ、うん、そう……だよ?」

 と何故か酷く自信なさげにそう呟く紗枝。語尾などはすでに疑問形になっており、やり取りの不自然さに隼人が首を捻ると、

「そ、そんなことより、隼人君、左肩大丈夫なの?」

 と話を逸らしてきた。

 露骨な話題の切り替えだが、そう指摘されると噛まれたままで何の処置も施してない左肩がいきなり疼いてくる。

 それを見て和馬が雰囲気を真剣なものに変え、

「そうだな、そのままにしたら化膿するかもしれないし、怪我長引かせてお前の戦力がダウンしたら俺達はそのまま死にかねないしな。紗枝ちゃん、ちょっとそこの棚から救急箱―――」

 と言いかけた和馬の言葉に紗枝の顔色が一気に悪くなる。それを見て隼人は咄嗟に迂闊な発言をした馬鹿野郎の口を手で塞いだ。いきなり口を塞がれ、もがもがと暴れていた和馬だったが、ようやく気が付いたのか大人しくなる。

 馬鹿への諫言はあとにして、隼人は出来る限りの優しいと思える声音で紗枝に声をかけた。

「紗枝、別に無理しなくていいからな。ちょっと目を離してろ」

 その言葉に頭から冷や水を被ったように震えていた紗枝は申し訳なさそうに俯きながらも、こくりと頷き、ベッドを囲むカーテンの向こう側へと力なく避難した。

「この馬鹿! 紗枝には医療ネタは禁句って忘れたのかよ!」

 押し殺した隼人の声に、和馬はカーテンの方を見ながら哀愁漂う目で、

「ああ、すまん。今のは俺が全面的に悪い……そこで待ってろ、俺が持ってくる」

 言うと、和馬は棚のガラス戸をあけ、必要な物を物色し始めた。

 その間、隼人は押し潰されそうな後悔に耐えながら、紗枝の方を見詰めていた。

 あの事件、紗枝が自殺未遂をした日から、いや、本当はもっと前からだったのかもしれない。紗枝は医療系統のものや行為を見ると、精神が不安定になってしまうようになった。一般的に言う精神的傷害(トラウマ)だ。それを見ただけで吐いてしまうほど、無理を強いられ、また耐えながら生きてきたのだろう。そんな傷とずっと一人で戦っていたと思うと、隼人の中に助けられなかった、という傷跡が浮かび上がり、胸を抉られるようだった。

 何で気付いてやれなかった! と自虐的な考えが脳を支配していると、目の前のいきなり救急箱が現れる。横を見ると、和馬が手を伸ばして救急箱を差し出していた。

「ほれ、肩みしてみ。詳しい治療法なんて知らないから適当だけどいいか?」

 そう言う和馬は、きっと自傷行為に走っていた隼人の気を紛らわそうとしてくれたのだろう。長年の付き合いでそう言う気遣いが出来る奴だと、隼人は分かっていた。それに素直に感謝し、隼人は気分を払拭した。

「ああ、放っとけば治るんだ。適当に消毒して、縫ってくれ」

 はいよ、と和馬は消毒液と綿を取り出す。それに合わせ、隼人も制服の上を脱ぎ、噛まれた左肩を露わにした。肩にはくっきりと歯形が残っているが、血は大体止まっていた。強い力で噛まれた為か、まわりは鬱血しており、青紫に染まっている。

「うへ~、中々酷いな。お前、こんなんでよく今まで動けたな。それもあいつ等倒してたんだろ? お前の化物伝説は着実に増えてるな」

「うるせぇな。んな伝説築いた覚えはねぇよ」

 そう思ってるのはお前だけだっつうの、と言いながら和馬は応急処置を始めていく。意外と何でもそつなくこなすタイプの和馬は適当と言っていたが、テキパキと作業を進めていった。それをぼんやりと眺めていると、いきなり和馬から耳打ちされた。

「おい、隼人。紗枝ちゃんを気にするのもはいいけどよ、今はもう一人気遣わないといけねぇ奴がいるだろ」

 そう言い、視線でその相手を示してくる。

 それは椅子に座り、いつもの元気をなくしている啓一であった。笑顔を振りまき、必要以上に元気でムードメーカな彼がどんよりとしていると、心なしかいつもより空気が重く感じる。

 啓一が落ち込んでいる理由は自分にあるのだろう。啓一は、自分を本物の男だと認めて舎弟になりたいと言ってきた。啓一の言う本物の男というものがどういうものか分からず、当時は敬遠していたものだが、その馬鹿正直なほどの実直さに最後には隼人が折れた。

 しかし、他人を見捨てた一件で隼人はその期待を裏切ってしまったのだろう。そんな不甲斐ない自分が何を言えるか分からないが、せめて文句くらいは聞こうと、

「啓一、ちょっとこっち来てくれ」

 と穏やかな声で呼んだ。

 啓一は名前を呼ばれると、俯けていた顔を上げ、少し気まずそうにしながらも立ち上がり、隼人の横に腰掛けた。その苦しそうに歪められた表情の裏にあるのが、軽蔑なのか、落胆なのか、隼人には分からなかった。だからこそ、ただ正直に気持ちを話す。

「なぁ、啓一。お前の親父さんはどんな人だった?」

 これまでと全く関係のない質問に、啓一は少しの間困惑していたが、やがて訥々と語り始めた。

「お、俺の父ちゃんは、カッコいい男だったっす。消防士をしていて、体も大きくて、心も広くて、皆から頼りにされてる立派な男だったっす。俺、そんな姿に憧れて、いつも父ちゃんみたいになりたいって言ってたっす。そしたら決まった父ちゃんは俺に、だったらでかい男にならねぇと駄目だ、って言ってて。俺、頑張って牛乳とか飲んだりしたっす。そんな時、あるマンションで火事が起きて、父ちゃんは逃げ遅れた子どもを助ける為に炎の中に突っ込んでいって、子どもは助かったけど、父ちゃんはそのまま………。だから俺は尚更父ちゃんみたいな男にならなきゃって思って。それがあの世に言った父ちゃんへの供養になると思って。背伸びして大きくなったようなことして、それを間違いだと気付かせてくれたのが、アニキだったっす。だから……だから、俺は……」

 そこまで言うと、啓一は言葉を出すのも辛そうな嗚咽を上げた。

 その姿を見ながら、隼人はなんと言おうか迷う。ただただ励ますべきなのか、啓一の望む男を演じるべきなのか。それらの考えを、いや、と隼人は否定した。

 そんな甘ったれた考えのせいで、紗枝を自殺に追い込んでしまったのではないのか。仲間だというのなら、本気で向かい合わなければならない。本心から言葉を出さなければ、思いは届かない。

「啓一、始めに言っておくぞ。俺はお前の親父さんのようにはなれない」

 その言葉に、啓一が眉尻を垂らした不安げな表情で見上げてくる。

 隼人はそれをきちんと受け止め、真摯の思いで見返した。

「俺はお前の親父さんみたいに誰でも救うことのできるヒーローなんかにはなれない。俺はたった一人の大切な人さえも、この手から零しそうになった人間だ。俺は、お前や、和馬や、紗枝、仲間を守るだけで精一杯なんだ。だからきっと、これからも大勢の人間を見捨てるかもしれない。だから軽蔑したって、憎んだって良いんだ。それでお前が―――」

「違うんすっ!」

 最後の台詞を言い切ろうとした隼人の言葉を、啓一が激しく首を振りながら遮った。その張り詰めた声音は、あまりにもいろいろなものが詰め込まれていそうで少し心配になる。

 啓一は己の無力さを噛み締めるように両拳を握り、それに視線を落しながら言った。

「あの時、どうしようもないことなんて分かってたっす。俺等じゃあ、あの人はどうしても助けられなかった! だけど俺、アニキなら何とかしてくれるって、勝手に思ってて! 思うだけで自分で何かをしようとはしてなかった! ただ全部アニキに押しつけて、それで責任もなすりつけて! 俺が一番卑怯なんす……でも、それでもあの人のこと、助けられなかったのかなって、迷ってて……どうすればいいか分かんなくて、俺、俺……!」

 そんな啓一の心の叫びを聞いて、隼人はアニキとして情けないが、ようやく気付いた。啓一が迷っている心根を。

 啓一は、隼人の行為を批難するという小さいことを悩んでいたのではない。あの時、一体どうすれば良かったのか、そんなおおよその人が答えなどないと匙を投げてしまう難題にずっと挑んでいたのだ。

 それを見ると、嫌われたのではないか、と考えていた自分などはるかに小さい。でかい男になりたい、そういう啓一はすでに自分など越えていると思える。それでも啓一はまだまだ足りないのだろう。その正直すぎて、優しすぎる心には過酷すぎる世界がこれから広がる。それでも啓一は弱音一つ吐かず、一歩一歩と理想へと近づいていくのだろう。

 そんな啓一に自分が何をできるか分からない。それでも、アニキなのだから少しくらいならその背中を押す手助けができるだろう。

 そして隼人は、そんな啓一の成長が嬉しくて、その頭を思いっきりかき回した。

「思う存分悩め、啓一! どれだけ時間がかかっても自分の答えが出るまで足掻きつづけろ。 俺が正解じゃないんだ。正解はお前の中にある。厳しい道のりかもしれねぇけどよ、悩んで、悩んで、悩んで、それで倒れそうになったら俺を頼れ。和馬でも、紗枝でもいい。支えて、助け合う為の仲間なんだ。一人で抱えてたら一緒にいる意味ねぇだろ」

 ちょっと臭いかと思いながらも、それが隼人に言える精一杯の言葉だった。

 啓一が自分の道を進むなら、隼人はそれに本気で付いていく。つまるところ、人が人を助ける為には全力でやるしかないのだろう。そうでなければ、伝わらない、離れてしまう。もう二度と仲間を失わない為に、隼人は自分の正直な心を啓一に伝えた。

 それを聞くと、啓一は撫でられてる下で、目に一杯の涙を溜め、鼻水が垂れないように必死で啜っていた。泣かないように我慢していたようだが、それも限界のようでダムが決壊するように滂沱の涙を流すと、思いっきり抱きついてきた。

「うわぁぁぁん! アニキィィィ! 俺は一生アニキについてい行くっす! そんでもって、ちゃんと自分の答えを見つけるっす! もう二度と、あんな惨めな思いをしない為にもぉぉぉぉ!」

 おう、と隼人が答えると、まるで話が終わるタイミングを見計らっていたみたいに、肩が叩かれた。

「よし、応急処置完了。そっちも、どうやら一件落着したみたいだな。つっても泣き虫はまだまだ治まりそうにはねぇけど」

 その言葉が聞き捨てならなかったのか、啓一は目元を赤くしながら、

「な、泣いてなんかないっすよ! 男は簡単には泣かないものっす!」

「ほ~う、ならその目から零れてる水滴は一体なんだ?」

「こ、これは、その、心の汗っす!」

「世間一般じゃ、それは涙の隠語だぞ」

「い、いんご? ……リンゴの親戚?」

「うん、啓一、お前は無事に生き延びたらまた小学生からな。そこならお前も背が高い方になれるんじゃないか? とまぁ、この話は置いといて……」

 文句の良いたらなそうな啓一を押さえ、和馬は真剣な表情を作ると、

「決めねぇとな。今後、俺達はどうやって動くか……」

 その話題に、隼人も啓一も一様に顔を険しくした。

「紗枝、もう大丈夫だからお前もこっちに来い」

 カーテンの向こうで休んでいた紗枝を呼び、今後のことを決める会議を始める。

「まず確認しておくことを、確認しよう」

 そう隼人が切りだし、話を進めた。

「今、俺達は、というかここ等一帯、多分茨城全土は人間によく似た、だが人間よりもはるかにハイスッペクな身体能力を持った奴等に襲われてる。何故か知らないが、その中に啓一とまったく同じ顔の奴もいた」

 それを言うと、啓一はその時のことを思いだしたのか、気分が悪くなったように顔を顰めた。

「どういうわけかそいつらは俺達を襲ってくる。今打てる最善の手は逃げることだが、その前に皆の家族はどうしてる?」

 隼人の言葉に、紗枝がはっとするが、和馬と啓一はすでに話し合ったのか、落ち着いていた。それを代表して和馬が答える。

「幸いにも俺の両親は今旅行中だし、啓一の母親も実家の祖母の体調が悪くなってるらしく、遠くにいるらしい。まず被害が及ぶことはねぇ」

「なるほど。紗枝は、父親はどうしてるんだ?」

「お、お父さんは病院に言ってると思うけど、そこもここからは遠いし、きっと私達よりは安全だと思う」

「そうか。俺も母さんは先週から仕事がらみで海外に派遣されてるから心配はいらない。つまり、あとは俺達が無事に逃げられればいい訳だ」

「でも、どうするんすか? ここを砦にして、救助が来るまで待とうと思ったのに、皆は信じてくれないし……」

 啓一が短い髪の下で不安そうな顔色を浮かべる。

「ああ、俺達の日頃の行いのせいもあるが、こいつ等は実際にそれを見るまで信じないだろうな。だから、学校は見捨てる。俺達だけでも先に逃げる。啓一と紗枝は思うところがあるかもしれないが、頼む。今は俺の指示に従ってくれ」

 話しを信じてもらえない以上、この学校の人間はすでに荷物に過ぎない。何の備えもなしに、あの化物達と戦うことなど出来るはずもなかった。それは二人とも分かってるだろう。だが、分かっていても、割り切れないのが人間だ。隼人はそれを責めるつもりもなければ、むしろ悩むことのできる二人が正常だと分かっている。

 それでも今は、力に訴えてでも逃げてもらうしか出来なかった。

「分かったっす……俺の力で何も出来ない以上、これは我儘だから。今は逃げるっす……」

 啓一は悔しさを飲みこみながらも、力強い目で隼人を見返してきた。先ほど話したことで、どうやら何かが吹っ切れたらしい。

 最後は紗枝だが……

「私は……やっぱり嫌だな……助けられるかもしれない人達をそのまま見捨てるなんて……」

 そんな紗枝の台詞に、隼人は困惑するではなく、何だか懐かしさが込み上げ、思わず笑ってしまいそうになった。昔からこうだ。普段は臆病で、気が弱いのに、こういったところでは強情になる。そんな強さが隼人は大好きで、同時に最大の不安要素でもあった。

 そんな紗枝を説得しようと試みたのは和馬だった。

「紗枝ちゃん、気持ちは分かるよ。俺だってそんなに親しくないけど、話をする程度のクラスメイトはいる。けど、向こうは一体、一体が隼人と渡り合えるような化物複数で、こっちは非力な高校生が四人だ。この状況で全員を助けたいなんて言うのは、現実逃避でしかないと思う」

 和馬のやんわりとした、けれど強い思いが込められた言葉に、紗枝はしゅんと項垂れる。だが、隼人が不安に思う強情はそれでは折れなかった。

「そう……だね。私も、私の力で何ができるわけでもない。隼人君に頼ってる時点で、こんなことを言う資格はないのかもしれない。でもね、甘ったれでも良い、逃げでもいい。隼人君、最後に一つだけ、我儘を言わせて」

 そういう紗枝の表情は瞳を潤ませながらも、その眼光は強い芯の通ったものだった。隼人が迫力を乗せ、睨んでもその表情は小揺るぎもせず、結局負けたのは自分の方だった。

「……はぁ、昔からお前は言ったら梃子でも動かなかったからな。分かったよ、女の我儘を聞いてやるのは男の本懐だ」


『皆さん、授業中のところ失礼します。今はまだ被害はありませんが、今付近では大変な騒動が起きています。ここも間もなく巻き込まれるかもしれません。私達はここから逃げることにします。もしも、この話を信じてくれるなら、五分後の二時まで保健室で待ちます。馬鹿馬鹿しいと思われるかもしれません。しかし、本当なのです。出来るだけ多くの方が来てくれることを願っています』

 紗枝の声は学校のスピーカーから流れていた。隼人の視線の先では真剣な表情で紗枝がマイクに向かって話しかけている。

 これが隼人と紗枝の折中案であった。説得にかける時間はなく、多くは守れない。そこで学校の放送室から信じるものだけを募ったのだ。ちなみにここのカギは隼人が教員室に乗り込み、奪ってきた。

 同じ放送を三度繰り返すと、紗枝はまるで皆の安全を祈るように強く瞳を瞑り、マイクの電源を切った。ガラス越しの放送室のドアを開け、隼人の元に来たその顔は不安で揺れていた。これをやりたいと提案はしたが、自信がないのだろう。これで皆が信じてくれるか。

 紗枝には悪いが、隼人は誰も来ないと確信していた。和馬達は全てのクラスを回ったらしいが、全て笑いものにされて終わりだ。この放送も、質の悪い悪戯か何かと思う風潮が強いだろう。

 それでも隼人は、紗枝にそんな顔をさせないために、笑いながら頭を撫でた。

「心配すんな。お前の思いはきちんと籠ってたさ。届く人にはきっと届く」

 紗枝は撫でられる感触を擽ったそうにはにかむと、

「うん、そうだね。誰か……信じてくれるかもしれない……」

 そう言いながら紗枝が視線を上げると、偶然にも隼人とばっちりと合う。紗枝の宝石のような綺麗な瞳を間近で見て、隼人は胸が高鳴ったかと思うと体が硬直する。まるで引力でもあるかのように目を離せない。

 放送室には隼人と紗枝の他に誰もいない。今、この場所には二人っきりだ。そして防音設備が施されている為、雑音や喧騒の類は一切聞こえない。その為なのか、鼓動の音がすぐ近くで鳴る太鼓のように聞こえる。何故だか妙にそわそわしてしまう。

 そして、紗枝はそっと顎を少しだけ持ち上げると、瞼をふわりと閉じた。小さく開いた唇は電灯から注がれる光を滑らかに反射し、まるで潤んだ果実のように蠱惑的だ。上気した頬がさらに理性を削ってくるようだった。

 それはどこからどう見てもキスを待っている態勢で、隼人の脳内は一気にパニックになる。こんな雰囲気に流される形でしても良いのか、まだ思いも伝えていないのに先に済ましてしまっていいのか、と否定的なことが思い浮かぶ。だが、今逃したらもう二度とできないかもしれない、という意見が浮上し始めた。

 もうここは明日がある程度約束された平和な日本ではない。今すぐに死んでもおかしくはない世界に変わってしまった。これで最後かもしれないのだ。ちゃんと紗枝と触れ合うことが出来るのは、その端整な顔をこんなに間近で見るのは、唇を重ねることが出来るのは。

 そう思うと、隼人は、紗枝の肩をそっと手で掴んでいた。その肩は見た目以上に細くて、柔らかくて、力を込めれば砕けてしまいそうだ。だから、隼人は細心の注意を払いながら、ゆっくりと、ゆっくりと顔を近づけていき………

「おい! 釧路隼人! 勝手に放送室を使うとは何事だ!」

 と、ドアを力任せに叩く音に二人の正気が戻る。

 互いに確認し合うのは、自分達の状況。そしてばっ、と離れるのは同時だった。

 顔から煙が出そうなほどゆで上がった隼人がこの雰囲気を何とかしなければと、上擦った声で口を開いた。

「や、やることも終わったし、み、皆のとこに帰るか?」

 すると、紗枝も同じような突っ掛る口調で、

「そそそそ、そうだね。みみみみみ、皆心配しちゃうかもしれないしね」

 あ、あははは、と冷汗をだらだらと流しながら二人は笑っていた。

 教師の説教を、隼人の眼力で押さえつけると、保健室に戻る。その時、放送の終わった時間と帰ってくるまでのタイムラグを和馬が指摘しない訳がなく、隼人と紗枝は慌てながら教師が来たせいだと訴えたが、それを信じてもらえたかは疑わしかった。


「……二時。時間だ」

 時計を確認しながら呟いた隼人の声は重いものだった。

 それを聞いた紗枝も同じく表情を落してしまう。

 分かっていたことだが、五分待っても誰も保健室に来ることはなかった。紗枝としては悲しい結果だが、こればかりは仕方ない。あれほど言って信じてもらえないのであれば、どれほど時間をかけても同じだろう。何よりも、これ以上留まれば、それに比例して隼人達の危険度も上がっていく。

「皆、必要なものは持ったか? とりあえずここから少しでも離れよう。あいつ等が走ってきた方角から考えると関西方面に逃げた方がいいだろう。敵との遭遇をなるべく減らしながら、慎重に行くぞ!」

 隼人の掛け声に様々な必需品を持った和馬達、特に啓一が大きな声で応えた。

 それを聞き、隼人が頷き、いよいよ死が溢れかえっている外へと向かおとすると、突然、保健室のドアがコンコンと叩かれた。

 隼人は一瞬身構えたが、どうやら相手に敵意はないらしく、保健室のドアがゆっくりと開かれていく。そして、隼人達の前に姿を現したのは、男にしては少し長い茶髪の男子生徒だった。背丈は隼人より少し低く、眼鏡をかけて穏やかに微笑んでいるその顔は線が細く、絵に描いたような美少年だった。

「お前は……生徒会長?」

 そこにいたのは隼人達の学校の生徒会長だった。あまり学校に親しみのない隼人でも才色兼備で、その美形故に女子達に人気の高いことで有名な彼は知っていた。

 そんな隼人達の戸惑いを受け、生徒会長はおかしそうに吹いた。

「失礼。やっぱり意外だったですかね、私がここに来るのは?」

 その滑らかな声音を聞き、紗枝が思い出したように大慌てで手を振ると同時に首を振る。まるでぜんまいを巻いた玩具のようだった。

「そ、そそ、そんなことないです! 大歓迎ですよ! 私達の話を信じてくれたから、ここに来たんですよね! でも、会長さん、少し変わっているんですね」

 紗枝の興奮冷めやらぬ口調に、生徒会長は体をびくりと震わせ、コホンと咳払いで体を落ち着けるようにすると、隼人達を視界に収めた。

「では、初めて見る美しい御嬢さんもいらっしゃるようなので、一度自己紹介をしましょうか。私の名前は東雲修です。一応この学校の生徒会長という地位でした。これからよろしくお願いします」

 まるで背後に薔薇でも咲いているように見えそうなほど、華麗な自己紹介だった。どうすれば自己紹介でそんなに華が出るのだろうか。尤も、そんな疑問は美しい御嬢さんと言われ、照れている紗枝を見て一瞬で、メラメラと焚かれる炎に消された。

 紗枝はというと生徒会長というのが珍しいのか、修に積極的に話しかけている。あの人見知りの紗枝が珍しい。その光景は隼人からすれば面白くなかった。

「にしても……よく信じる気になったな。こんな嘘みたいな話。一体どうしてだ?」

 紗枝と修の間に入っていったのは少し声音の固い和馬だった。

 その問いを聞き、修は大したことはないと言いたそうに首を振った。

「先ほどからよくサイレンを聞きますし、スマホを見ても何故か圏外になっていました。級友に確認しても圏外だったのでおかしいと思っていたんですよ。そこにあの放送を聞いて、皆さんと一緒に行く価値は十分にあると考えたのです」

 その話に何の矛盾点もない。だが、和馬はそうか、と話しを切ったもののどこか釈然としなさそうに眉間にしわを寄せていた。

「どうした、和馬? そんなアイドルのコンサートに行く時みたいな顔して?」

「どんな顔だよ! って、そうじゃなくて、気を付けた方がいいぞ」

「は? 何に?」

「東雲修だよ。お前は良く知らないと思うけどな、あいつは何でこの学校にいるか分からないくらい成績優秀で、今期の生徒会選挙で断トツの一位をとった人気者。けど、俺はあの笑顔がどうしても信用ならねぇ。同族嫌悪みたいなものかもしれねぇけど、あいつは嘘吐きの雰囲気がプンプンするぜ」

「嘘吐きの雰囲気ってなんだよ。それに、別にお前は嘘吐きじゃねぇだろ」

 隼人の何気ない一言に、和馬は俯くと悲しそうに笑い、

「そう思うのはきっとお前が真っ直ぐすぎるからさ。とにかく、会長には用心しとけって話だ。するだけならタダなんだし、渋る必要もないだろ」

 それだけ言い残すと、和馬はすたすたと行ってしまう。

 和馬が嘘吐きということの意味は分からないままだが、その言葉には一理あった。用心するのはタダだ。平和が脆く崩れ去った世界、慎重に慎重を重ねることは悪いことではないだろう。

 それに今の状況を説明しているだけだが、紗枝と修が話しているのを見るのもむかつく。

「おい、会長さん」

 憮然とした声音で隼人は声をかけるが、修はそれを気にかけることなく、悠々とした様子で答えた。

「修で良いですよ。何でしょうか?」

 なんだかそれ自体、格の差を見せつけられたようで面白くないが、ここで退いてはそれを明言するようなものだ。隼人はコホンと、らしくない咳払いを一つ済ませると、

「お前が一緒に来るのは良い。歓迎する。だが、一緒に行動するなら俺達はもう仲間だ。仲間がピンチになったら互いに命をかけて助け合う。これを守れるか?」

 隼人は冗談ではないことを分からすために、他人が見たなら震えあがるほどの凄味を込めた眼光を当てる。だが、修はそれを見て、

「仲間、ですか」

 まるで鼻で笑うように言うと、歪んだ笑みが少しだけ顔を覗かせた。

「……何がおかしい?」

 仲間というのを笑われ、自分の信念を馬鹿にされたように感じた隼人はもう頭の先まで一気に怒りで染まりそうになった。固く握られた拳が悲鳴を上げる。その尋常でない様子を覚ったのか、紗枝が、

「は、隼人君、ちょ、ちょっと落ち着いて!」

 と抱きついて止めにかかってくる。

「いえ、すみません。馬鹿にしたわけではないのです」

 そういうと、修は先ほどの歪さを引込め、申し訳なさそうに困った笑みを浮かべた。

「ただ仲間という響きの良い言葉を久しぶりに聞いたので、驚いてしまって。勿論、一緒に同行させてもらう以上、貴方の考えには従いましょう。仲間がピンチであるならば助け、絶対に裏切りはしません」

 それは至って真面目な口調で語られた。しかし、先ほどの笑みを見てしまっては、その言葉は薄ら寒く感じられる。表を仮面で隠し、裏ではどのような表情をしているのか、隼人にはまったく分からない。それがさらに危いと思わせた。

 だが、それを問い詰めている暇は与えられなかった。

 何故なら、ガシャァァァン、と校門から激しく打ち鳴らされたような大音が響いたからだ。

「何だ!?」

 咄嗟に振り返り、保健室の窓から校庭の先の校門を眺めると、隼人はあまりの衝撃に息が止まりそうになった。

 隼人達の視線の先には例の患者服達がいた。だが、それは一人ではない。数十、いや、もしかしたら百を超えるかもしれない大群がまるで一つの生き物のように蠢いている。

 それを見て、和馬が絶望に目を揺らしながら、力ない声を吐き出す。

「ど、どういうことだよ……ここはあいつらのいた大通りからはかなり離れてたはずだ。それなのに何でこんなにもあいつ等が集まってる? まるで一直線にここを目指してるみたいじゃねぇか………」

 和馬がそう言い終わると同じくらいに、校門が力任せに開かれる。どれほどの力で開けたのか、勢い余って校門はレールを外れ、重低音を響かせながら地面に沈む。

 そして巣から飛び出た蟻のように患者服が校庭を一斉に走る。

 その光景に、隼人は一瞬早く正気を取り戻すと、呆然としている彼らに声をかけた。

「っく、ぼうっとするな! 皆何か武器を持て! あと男は棚で窓を塞ぐから手伝え!」

 その号令に、皆ははっとすると、棚を動かし窓を塞ぎ、簡単に破られないようにベッドで後ろを押さえつける。

 そして隼人の言うとおり近場にある武器になりそうなものを手に取る。と言っても保健室にある物などたかが知れている。紗枝は後方支援ということで棚にあった薬品をもち、もしもの場合の目つぶし。他、男四人はベッドを急いで解体し、それぞれ鉄製の棒を手に取った。

 それを終えると、急いで次の行動を決めなければならない。食人鬼達がここに来るまでどれだけ時間があるか分からないが、正面から来られた以上、脱出ルートを話し合う必要があった。仲間が襲われるかもしれない、そんな恐怖を精神力で押さえながら、隼人はやれることをやる。

「このまま正面から逃げようとするのは自殺行為だ。どこか他にルートはあるか!」

 そんな隼人の質問に、和馬が慌てるように声を上げた。

「あ! ならあそこはどうだ、裏口だ! あそこならここからでも近い!」

 しかし、その案を修が冷静な口調で却下した。

「いえ、あそこは常時鍵をかけてますし、その上には侵入者除けに有刺鉄線が張られています。鍵は中々頑丈ですし、壊すとなると少々骨が折れるでしょう。その間にあれらに見つからないとも限りませんし」

 こんな状況で無駄に落ち着いているのが腹立つのか、啓一が苛立った声で問いかける。

「だ、だったらどうすればいいんすか!?」

「さぁ、残念ながらそれは。ただ、ここから逃れるだけでなく、あれらの追跡を振り切る足も必要になってきますから、必然的に方法は一つに限定されてしまうと思いますが」

 そんなほぼ断定した修の言葉に、紗枝が恐る恐ると手を上げた。

「あの、それってもしかして……車、ですか?」

 紗枝の意見に、修は微笑みで返すというキザな行為に出る。

 また紗枝にそんなことを、と思うが、言っていることは正しいかもしれない。あいつらは何度か殺し合っているので分かるが、身体能力がずば抜けて高い。もし、うまく脱出できても、走って追いかけられたとして、隼人達男は何とかなるかもしれないが、紗枝は確実に捕まってしまうだろう。しかし、この作戦には看過できない点が一つあった。

「確かにそれしかねぇかも知れねぇけど……問題は誰が運転するかってことだが……?」

 そう言いながら隼人は皆を見回した。しかし、啓一は無念そうに項垂れ、紗枝は大慌てで手を振り、修はにっこりと首を横に振る。かくいう隼人も車の運転は出来ない。バイトの為に原付免許を取ったことがあるくらいだ。

 やはり無理かと、思われた時、隼人の横にいた和馬がう~ん、と唸る。

「……もしかしたら、出来るかも……知れないかもしれない」

 と、何とも曖昧な言葉で唸り続ける。

「出来るのか、出来ないのか、はっきりしてくれませんか?」

 そんな修の容赦ない一言に、和馬は後頭部を掻いてもじゃもじゃ頭をわさわさと揺らす。

「うっ、そんなこと言っても、本当にできるかどうか微妙なんだよ! 十八歳になったから自動車学校には通ってるけど、まだ通って一月くらいで車運転したのも一、二回くらいなんだ!」

 それを言われると、隼人達は一様に固まった。

 現実的にそれしかないのだが、免許取りたての人間が運転する車というのも中々スリルがある。それがまだ習い始めて一月となれば、不安は百倍以上だ。隼人の脳裏には壁に激突する自分達の絵が思い浮かべられた。

 どうするべきかと決めあぐねていると、窓を抑えていた棚が激しく揺れる。ベッドで押さえていたので何とか耐えたが、それと同時に学校のそこら中から悲鳴が鳴り響く。隼人は棚を背中で押さえながら、もう迷ってはられないと恐怖を拭い、決断する。

「このまま時間が過ぎれば、もっと無理な状況に陥っちまう。俺は車の意見に賛成だ!」

「そ、そうっすよね。もう他に道がないなら、俺も賛成するっす!」

「うん、大丈夫! 私、和馬君のこと信じてるから!」

「そうですね。不安感が否めませんが、尤も生存率が高いのであれば、仕方ありません。それに他の生徒が襲われてる今ならこちらに向く目も……」

 修の最後部分の言葉は良く聞こえなかったが、隼人に続くように他の三人も賛成する。

 それを受け、一番驚いているのは和馬であった。

「え!? ちょ、皆マジか!? マジで俺に運転させるのか!?」

「マジもマジ、大マジだ! ここまで来たら腹を括れ! どのみち、ここから脱出しないと俺達に命はねぇんだ! 心配すんな、もし失敗しても俺が何とかしてやるからよ!」

 隼人の真摯な声に、和馬ははっとすると、先ほどまでの弱気を払拭し、冷汗を垂れ流しながら、重く頷いた。

 それを見届けると、修が大まかな作戦を提案する。

「話がまとまったなら、新参者ですが意見があります。車を使うとして、学校にあるのは全て教師のものです。車のキーがなければ、エンジンはかかりませんからそれをとらなければなりません。キーを常時持ち歩いているとは思えないので、ここの上の二階、職員室まで取りに行かなければならないでしょう」

 それを聞き、隼人は頷くと次の行動を指示する。

「会長の意見を採用しよう。作戦としては一丸になって進むほうがいいだろう。その方が危険度は低い。先頭は俺がいく。その後ろに紗枝、真ん中は会長、あんたに頼む」

 その言葉が意外だったのか、会長は目を丸くする。

「私ですか? いいんですか、新参者でまだ信頼しきれていない私で?」

「この状況で俺達を裏切っても会長にメリットはねぇだろ。それに車の案に、的確な意見を言えたあんたに真ん中を任せるのが良い。全体を見て、何かあったらすぐに俺に伝えてくれ」

 隼人の説明に、一様の理解をしたのか、修は顎に手を添えながらふむ、と頷いた。

「後ろは啓一、和馬でいく。殿は一番しんどいだろうが、二人で協力して守ってくれ」

「任せて下さいっす! 必ずアニキの期待に応えるっす!」

「ま、妥当な判断だな。それで行こうぜ」

 と、二人は快く了承してくれた。

 そのことに感謝する隼人だが、次の言葉を考えるとそれも一気に汚れてしまう。今から隼人は人として最低なことを仲間に強いらなければならないからだ。

「最後に、もう一つ。これがこの作戦で一番重要なことだ。この外は恐らく地獄絵図が待ってるだろう。あいつ等に人が食われてるかもしれない。だが、助けを求めてくる奴等は、全て、見捨てろ……!」

 隼人の言葉に、皆は一様に息を詰めた。

 それでも和馬と修は覚悟に顔を固めたが、紗枝と啓一はやはり苦い顔をする。だが、二人はそれでいい。和馬や修が間違っているわけではないが、紗枝と啓一はこういうことに納得してはいけないのだ。ちゃんと、人として正しく優しい心を持ち続けなければならない。

 しかし、今は、この時だけは、それは邪魔になる。隼人は噛み締めていた歯の力をゆっくりと緩め、追い打ちをかけるように最低の言葉を吐いた。

「もしも、この中の誰かが助けを求めた人間に応じようとしたら、俺は助けを求めた奴を殺す」

 冷酷無残な隼人の脅しに、啓一は何かを堪えるように、紗枝は酷く傷付いたような顔で見詰めてきた。その視線は患者服にやられた傷など比べるべくもないほど、隼人を削っていく。それでも、紗枝が生きてさえくれるならと、もう二度と失わないで済むならと、隼人は意見を揺るがすことなく、紗枝を真っ向から受け止めた。

 そんな隼人を見て、何を思ったのかは分からないが、紗枝は沈痛な表情のままこくりと頷いた。

 それを見て、陰鬱な雰囲気を一新しようと和馬が口を開く。

「ま、伸ばせるだけ手は伸ばしただろ。それを嘲笑って弾いたのは向こうだ。それに運よく生き延びる奴もいるかもしれない。とにかく俺達は、自分達のことを考えようぜ」

 それに便乗して、隼人が続ける。

「ああ、じゃあ、皆心の準備を決めろ。俺が道を切り開くから、それにちゃんとついてこいよ」

 最後の確認に、皆はそれぞれ武器を手に持つと、力強く頷いた。

 隼人は重く一つ頷き、抑えていた棚から背を外すと、そのまま保健室のドアを蹴り破る。

 そして見た光景は、想像はるかに超えた凄惨なものだった。

 つい先ほどまで大人しく授業をしており、静寂だった学校は今では所々に赤い模様が施されている。聞こえるのは生徒達のひび割れた悲鳴と、患者服の狂ったような歓喜。食い散らかされた人の死体がばら撒かれている。五人の患者服に一斉に食われている者、生きながらに腹を裂かれ、腸を啜られている者。隼人の足元には誰のものとも知れぬ、腕が空き缶のように落ちていた。

 映画とは違い、あまりにもリアルな現実。そこら中から鉄を連想させる血臭が漂い、数百という苦しみに呻く声が耳から精神を破壊していく。

 隼人でさえ、胃液が込み上げてくる。和馬と修も口で手を塞ぎ、必死に目を逸らしていた。紗枝と啓一は我慢ならなかったのか、その場で吐いてしまった。

 これは敵の攻撃より、精神の方がきついな、と隼人はさっさと駆け抜けて仕舞わなければと思い至り、グロッキー状態の仲間に鞭を打った。

「止まるな! 一気に行くぞ!」

 隼人は、紗枝の手を引き、急いで近場にあった階段を上り始める。階段には逃げようとして捕まったと思われる死体が辺りに散乱していた。

 こんな状況で紗枝は大丈夫だろうかと、隼人がちらりと紗枝を気に掛けていると、突然足元の影が大きくなる。咄嗟に何かが上にいるのだと直感した隼人は素早く手で鉄の棒を構え、確認するよりも先にそれを振るった。

 だが、隼人が渾身の力で叩きはらったのは患者服ではなく、顔と腹部分が食われほとんどない無残な死体だった。飛び散る血飛沫を浴びながら、何故死体が、と疑問に思ったその時、再び影が現れる。

 しかし、今度はさすがの隼人も反応が追い付かなかった。何とか、それを棒で受けきるのが精一杯だ。上から伸し掛かるように降ってきたのは今度こそ患者服だった。そして隼人は理解した。先ほどの死体はこいつが仕掛けたフェイントなのだと。

 それは何とも恐ろしい話だった。今までの相手はただがむしゃらに突っ込んで来るだけだったので、隼人でも倒すことが出来たが、このように頭も使えるとなると危険度はぐんと跳ね上がる。

 事実、たった一つのフェイントで追い込まれてる隼人がそれを痛感していた。だが、今は隼人だけではない。その後ろには信頼に値する仲間がいる。

「隼人君!」

 紗枝が叫んだかと思うと、手に持ったアルコール液を患者服の目に浴びせかけた。いくら化物並みの身体能力を持っているとしても、急所への攻撃は効くらしく、両手で目を抑えると床を激しくのた打ち回る。

 そんな恰好の隙を見逃す隼人ではなく、一切の躊躇いなく喉仏を鉄棒で突き刺した。ブシュッ、と噴き出る血が隼人の顔を濡らし、患者服は声の出ぬ口をパクパクとさせると、ばたりと手を横たえた。

 あまりにも人間に近いそれの死に、近くで見ていた紗枝が息を飲むのが分かる。

 だが、ここが戦場だということを心得ているのか、それで取り乱したり、顔を俯かせることはなかった。

 そんな強がりをさせてしまうことさえも不甲斐なく思いながら、しかし、隼人は階段を駆け上がった。

 二階も、一階と様子は同じであった。患者服達が生徒と教師に押しかかり、血肉をくらっている。幸い、と言っては残忍だろうが、患者服は食べることに夢中で隼人達に目を向けるものはいなかった。それでも教員室までの廊下にはパッと見ただけで五人の敵がいる。それらが一斉に襲い掛かってきてはさすがの隼人も押し負ける。

 その為に隼人はゆっくりと後ろを振り向くと、

「静かに動くぞ。出来るだけあいつ等の注意をひきつけるな」

 と強めの小言で紗枝達に伝えた。

 その意味を知ると、一様に顔を青ざめたが、それしかないと皆は頷いた。

 隼人はいつ襲い掛かられても反撃できるよう武器を構えながら、一生分の精神力を使うつもりで丁寧に足を運んだ。靴底と床が擦れる音さえも出さないように慎重に歩む。

 普段の百倍ほどの時間をかけ、徐々に、徐々に進んでいく隼人達。通る横ではガツガツと息絶えた生徒に喰らいついている患者服がいる。その様子はまるで、砂漠で遭難した旅人がオアシで水に飛びつくような必死さが感じられ、自分達にはまるで気付いていないようだった。

 しかし、それでも何が契機でこちらに意識が向くか分からない。すぐ真横に死があると思うと、隼人は不安と恐怖で頭がおかしくなりそうだった。今すぐこんな場所から逃げ出したい、走ってこの苦行を突き抜けてしまいたい、そんな衝動が一秒ごとに強くなる。

 だが、そんな音を出せば廊下のど真ん中を歩いている自分達に四方から患者服が飛びついてくるのは目に見えていた。隼人は真夏日のマラソンのような大量の汗を掻きながら、必死に自分と戦い、少しずつ足を前に出していく。

 どれくらい時間が経ったのか、体感時間では数十分間歩き続け、ようやく隼人は職員室の扉の前に辿り着いた。ここまで患者服に気づかれた様子はない。

 もう少しで目標地点だと急ぎたくなる手を落ち着かせ、そっとドアを横にスライドさせる。

 僅かに開けた隙間から職員室を覗く。患者服が潜んでいる可能性を考えたのだが、どうやらそれは杞憂だった。職員室も辺りに血が飛び散っているが、患者服はすでに去ったあとらしい。

 それでもデスクの物陰に隠れているのではないかと、隼人は疑念に疑念を重ね、目を離さずにドアを開けていく。そして、職員室に足を一歩入れた時、ぴちゃ、と音が鳴った。

 それは日ごろなら気にもしないような小さな音だ。しかし、患者服が生徒をくらう音しかない今では、真夜中の学校で水の滴る音が響くように、二階に響き渡る。

 足元を見てみると、そこには血だまりが出来ていた。横を見ると、そこには教師と思しき死体が、ドアに凭れかかる形で捨てられていた。あまりにも近場だったために、隼人はそれを見落としてしまっていた。

 全員が背中に冷たいものを感じながら、振り返った。すると先ほどまで一心不乱に死体を漁っていた患者服達と視線があう。向こうも混乱しているのか、数秒間見つめ合ったまま、時が止まったように動かなかったが、

「皆急いで中に入れっ!」

 隼人の渾身の叫びにより、膠着状態が解かれ、紗枝達は急いで職員室へ。患者服達は獲物を見付けた肉食獣のように猛然とした勢いで走ってくる。

 距離的に近かったのが幸いし、殿の和馬と啓一も職員室に入ることが出来たが、問題はここからだ。あいつ等の人間離れした腕力であれば、職員室のドアなど壁の役割をはたさない。

「何でもいい! ドアを塞ぐものを持って来い!」

 隼人は一人でドアを抑えながら、他の仲間に命令する。紗枝達はそれをすでに承知していたらしく、大慌てで職員室に配備してある金属製の棚を四人で持ち上げた。

 それを早くしてくれ! とハラハラしながら見ていると、突然ドアの上部につけられていた曇りガラス部分が破砕音を撒き散らしながら割れた。ガラス片を避ける為に隼人は顔を下げる。その頭部、正確には髪の毛を何かに掴まれた感触がした。すると、隼人は勢いよく髪を引っ張られ、頭からドアに激突させられた。

 ブチブチッと、髪が千切れる音に、鼻頭を思いっきり打ちつけ、一瞬視界が白く染まる。それが戻ると、今度はドアから伸びてきた手に顔面を鷲掴みにされる。指の隙間から見えたのは猛獣のように犬歯を覗かせ、鋭い眼光を向けてくる患者服。

 掴まれた顔からミシミシッ、と嫌な音が鳴るが、今の隼人の中に存在するのは恐れではなかった。それはやられっぱなしは性に合わない、という負けず嫌いな性格がもたらした怒りだった。

「痛てぇじゃねぇか、この野郎!」

 隼人は手に持っていた鉄棒を逆手に持ち帰ると、それを振り被り、先端を患者服へと定めた。勢いよく振り抜かれたそれは患者服の眉間に迫り、頭蓋を貫通し、突き刺さった。隼人が手を離すと、患者服は体から力が抜けるように掴んでいた手を離し、ふらふらと揺れると倒れた。

 それを見届けると、正常に機能していた心臓が一気に心拍数を上げる。それと同時に隼人の呼吸も全力疾走したように荒くなる。

 危なかった、落ち着いた心が自然とそう呟く。今のは武器を持っていなければ、手を振り払えず頭を握りつぶされていたかもしれない。しかし、仕方なかったとはいえ、これで隼人は武器を失ってしまった。

 息を整えていた隼人だったが、再びドアの割れたガラス部分から手が伸びてくる。

 掴みかかってきた手は、即座に首を絞めにかかる。人外の力で絞められた首は息が出来ないという次元ではなかった。ビキッ、と嫌な音が隼人の中で鳴る。このまま行けば首ごと頸椎を握りつぶされそうだった。

「が……あ、あぁ………」

 呻きながらもなんとか抵抗してみようとしてみるも、腕に力が入らない。辛うじて動かすことの出来た瞳が捕らえたのは、先ほどの患者服のような猛獣ではなく、冷静に獲物を追い詰めていく狩人の顔をした患者服だった。

 もう……無理か……? と次第に色の薄まる意識でそう思っていた隼人の耳に何かが聞こえる。

「隼人を離せっ、この野郎が!」

 それは間違いなく和馬の声。そして消えかかっていた視界に一閃が奔る。すると、隼人は突然体が落下を始め、尻餅をつく。しかし、そんなことを気にしている余裕はなく、隼人は肺が膨れ上がり悲鳴を上げるほど息を吸い、吐いていた。

 痛む喉を摩りながら上を見ると、そこには腕を不自然な位置から折れ曲げ、苦痛に呻いている患者服と、鉄棒を床に振り下ろしながら息を切らしている和馬が見えた。

「ゲホッ、ゲホッ! 和馬……」

「はぁはぁ、大丈夫かよ、親友!」

 和馬は汗を垂らしながら笑みを浮かべると、サムズアップを向けてくる。咄嗟に親友が助けてくれたのだと察し、その震えた足を見て隼人は深く感謝し、苦しみの中に笑みを浮かべると親指を上げて見せた。

「和馬さん退いて下さいっす!」

 啓一の声に、和馬は横を向くと驚いたように飛び跳ねた。そのすぐ後に啓一と紗枝、修が持ち上げた金属製の棚がドアに突っ込む。その勢いで患者服を追いだすと、そのままドアに蓋をするように棚で塞いだ。

 ようやく落ち着くことが出来、隼人は、額の汗を拭う和馬の肩を叩き、

「ほら、和馬! いつまでもぼうっとしてんな! 反対側のドアも蓋するぞ!」

「蓋するって、え? まさかあの棚を二人で運べと!?」

「俺も手伝うから早くしろ!」

 本屋書類尚がびっしりと詰まった重そうな金属棚を前に頬を引くつかせている和馬を、隼人が急かす。和馬も億劫になっている場合ではないと分かっているのか、もじゃもじゃ頭を掻き乱しながら棚に手をつける。

 持ち上げると、その総量は予想以上に重く、隼人でさえ腰に来ていた。和馬に至っては赤いカバのような顔をしていた。それを働きアリのようにせっせと運び、患者服がこちら側から回ってくる前に棚で塞いだ。

 しかし、それだけでは安心できない。隼人達は誰が言う前に職員室にあるものを棚の後ろに置き、壁を強化した。

 デスクやら何やらまでドアに積み上げる。通路側から相手がタックルでもしているのか、ドン、ドン、という音が常時響いているが、棚は少し動くだけ。この分ならあと数分はこのままで押さえられるだろう。

 問題は出入り口を完全に塞いでしまった為、隼人達に逃げ道がないということだ。

「どうするよ、これ……」

 和馬が絶体絶命のピンチを前に、力のない声でそう呟く。

 この原因を招いてしまった者として、隼人は罪悪感を覚え頭を動かし、

「窓から逃げるっていうのは……」

「無理ですね。下にもあいつ等が大勢います。この中を下りていくなんて敵地のど真ん中に兵士を投入するようなものですよ」

 と、逸早く窓の下を確認していた修が眼鏡をかけ直しながらそう告げる。

 そうなっては、もう本当に退路はない。そして、それを断ってしまったのは隼人自身だ。あの時、きちんと足元を確認しておけば、少なくともこうはならずに済んだ。だからこそ、責任は取らなければならない。

 もしもの場合は自分が囮になり、皆を逃がそう、隼人はそう覚悟を決めた。

 だが、そんな隼人の裾を何かが引っ張る。はっとして横を見ると、そこにいたのは紗枝だった。瞳を波立たせながら、眉を不安げに垂れ下げ、隼人を見上げている。

「ど、どうしたんだ、紗枝?」

 その様子からどこか怪我でもしたのかと慌てる隼人だが、彼女はゆっくりと首を横に振った。

「隼人君……もう、離ればなれは嫌だよ……」

 ガラス細工のようにすぐ壊れそうな声音が震える唇から落ちる。

 その言葉に隼人は自分が何をしようとしたのか、それをようやく分かったような気がした。犠牲になる、それはとても響きが良く、英雄的行動にも思える。しかし、それは途中で守るべき者を放棄する行為と同義だ。今度こそ、紗枝を守ると決めたというのに、隼人は自分の芯の弱さに反吐を吐きそうになった。

 今にも泣き出しそうな紗枝を安心させるために、隼人は笑いながら頭を撫でる。それを見て、紗枝は安心したのか、撫でられるのを嬉しがる猫みたく顔を緩めた。しかし、

「ありがとな、紗枝。それと、スマン。いざとなったら俺はやるよ」

 その言葉を聞き、紗枝は安からかに閉じていた瞼を開き、色のない瞳で隼人の顔を注視した。

「皆も聞いてくれ。もしもこのまま手立てがなかったら、俺が片方の扉から囮として跳びだす。その隙にお前等は駐車場までダッシュしろ」

 その言葉に顔を青くしながら反応したのは啓一だった。

「なっ、アニキ!? 何言ってんすか、そんなことしたら確実に死ぬっすよ!」

「安心しろ。真正面から戦いを挑むわけじゃねぇよ。お前等が車に辿り着くまで逃げ回ってるからうまく回収してくれればそれで大丈夫だ」

 そんな隼人の言葉に、

「ふざけんなっ!」

 鼓膜が破れる勢いで叫んだのは和馬だった。どうしてか憤怒の形相で、床に足を打ちつけ近づいてくる。興奮状態の為か、息を荒くしながら、力任せに隼人の胸倉を掴んできた。

「いいか、この馬鹿野郎! お前は確かにすげぇ奴で、戦闘センスもぴか一だ! けどな、向こうもお前に引けを取らない化け物どもなんだよ! それが何十体と学校の中を徘徊してるんだぞ! 百パーセント死ぬ! 囮役なら俺がやる! 紗枝ちゃんにはお前が必要だろうが!」

 怒っているんだか、貶しているんだか、褒めているんだか分からない和馬の言い分に、隼人は思わず笑ってしまった。一つ一つの言葉から和馬の熱い思いが伝わってきたから。

 だからこそ、隼人は安心して囮役をすることが出来る。

「俺だってむざむざ死にたいわけじゃねぇ。けどな、もうこれしか方法はないんだ! もしも俺が来なかったら、和馬! お前が皆を守ってくれ。お前は信頼できる。お前がいるなら俺は安心してあいつ等の中に飛び込める。」

 信頼を託すその言葉に、しかし和馬はさらに激昂する。

「だからそれがふざけんなって言ってんだよ! 何でお前はいつもそうなんだ! どうして他人が持ちたくても持てないもんを平気で捨てようとする! そんなんだから俺は……俺は……!」

 これ以上争っている暇などないというのにそれを分かってもらえない焦りが、隼人の方にも火を付けてしまう。

「お前が一体何を言ってるのか分かんねぇけどな、方法はこれだけなんだ! 何でそれが分からない! お前はいつも冷静で、きちんと考えられる奴だったろうが!」

「そんなん知るか! だったらお前だっていつもは仲間を守る為にどんなことでもしてたじゃねぇか! こんなに簡単に諦める男じゃなかっただろうが!」

 何を! と隼人が声を荒げようとした時、パン! と手を打ち鳴らした音が響いた。

 隼人と和馬の呼吸の隙を見事に縫ったその音に、皆の視線が音源に集まる。視線の先にいたのは絶体絶命の中で未だ涼しい顔で微笑んでいる修だった。

「皆さん少し落ち着きましょう。少しずつ論点がずれてますよ。このまま話してもらちがあきません。なのでここは互いに意見を述べ合いましょう。まずは私からですが、私は釧路君の意見に賛成です。現実的に、それが最も生存率が高い」

 落ち着き払った修の言葉に、和馬が今にも首を締めそうな殺意の籠った視線を向ける。

「黙ってろ。お前を餌として外に放り出してもいいんだぞ……!」

 その反応に、修はやれやれと肩をすくめると鼻で笑った。

「ええ、私はこの中で最も仲が浅く、信頼も薄い。捨てても良心の呵責が一番小さくて済みますからね。ですが、私がこれを持っていたらどうでしょうか?」

 そう言うと、修はポケットの中から徐に何かを取り出した。指で抓まれたそれは電灯の光を反射する金属製だ。よく見ろと、それは車のキーだった。

 それを見て啓一が一言漏らす。

「会長、いつそれを……?」

「なに、特別なことはありませんよ。ただ生徒会長という役柄、よく職員室まで来るのでキーの在り処も事前に知っていたというだけです。さて、簡単に状況を説明しましょうか。キーは私が持っています。勿論、このほかにもありますよ。けれど、それはドアの防御に使った棚と机の中。探す出そうと机を崩せば、あいつ等がなだれ込んできます。そして!」

 走り出そうとした和馬を牽制するように、修は声を上げた。

「……もしも、強引に奪おうとするなら、私は迷いなくここから飛び降ります。奪われたらどのみち死ぬのですから、躊躇いはありません。そして貴方達はキーを手に入れられないまま、ここで朽ちることになるでしょう」

 見せびらかすように揺れるキーを見て、和馬が隠す素振りなく盛大に舌打ちをした。

 ややこしい状況になってきたが、隼人としては囮役を譲るつもりもなく、キーが発見できたのは幸運な出来事だった。今にも跳びかかりそうな和馬と、今にも飛び降りそうな修を止めるべく、仲裁に入ろうとした隼人だが、再びその裾を握られる。

 見てみると、そこにいたのはやはり紗枝だったが様子がおかしい。まるで氷漬けにされていたかのように酷く震えている。顔も青ざめるを通り越して、白くなっていった。顔は重くて上げられないというように、下げられたままだ。

 尋常ならざるものを感じ、隼人はそっと声をかける。

「どうした紗枝、今度こそ具合が悪いのか?」

 その言葉に、紗枝は何かを怖れるように何度も首を横に振る。

「ち、違うの! その、もしかしたら、なんとか……できるかもしれない……」

 なんとかできる、それが何を指しているのか、隼人は咄嗟には理解できなかった。

「わ、私が―――」

 それは完全に油断だった。密室で仲間しかいない状況、そして何かを必死で伝えようとする紗枝に意識を集中しすぎたのだ。普段ならそんなことは絶対にない。だが、この時は啓一が声を出すまでそれに気付かなかった。

「ア、アニキッ!」

 突然の大声に集中が切れ、視界が広まる。そして隼人はようやく気付く。職員室に置かれた掃除用具入れのロッカーが勢いよく開き、紗枝に影が迫っているのに。

「ッ! 紗枝!」

 咄嗟に手を伸ばす隼人だが、反応が遅すぎた。その手が届く前に、何者かが紗枝の首に腕を巻きつけ、その体を拘束した。ざわりと、隼人の胸の奥が震える。

「う、動くなぁぁぁぁ!」

 そんなひび割れた悲鳴とも取れる声を出したのは、患者服の襲撃が来る前に隼人が殴り飛ばした痩せこけた教師であった。この十分ほどの時間に一気に十歳は老けたようにしわを増やし、その目は小刻みに揺れていた。髪を振り乱しながら、ドン、ドン、と叩かれるドアをちらちらと気にしている。

 しかし、隼人にはもうその教師の怯えも、声も届いていなかった。見えるのは首を絞められ、苦しそうに顔を歪めている紗枝だけ。体を一気に灼熱が包み込む。

「テメェ……なに紗枝に触ってやがるんだ……!」

 そんな隼人の押し殺した声音に、教師がひぃぃ! と後ずさると、ポケットに手を突っ込み、鈍く光るものを取り出す。それは刃が出されたカッター。そのまま、それを紗枝の首元につきつける。

「く、来るなぁぁぁ! 来たらこの女を殺すぞぉぉぉ!」

 そうなってはさすがの隼人も無暗に近寄ることは出来ず、歯をぎしぎしと鳴らしながら止まるしかなかった。今すぐ紗枝を助けたい、そう強く思うなら今だけは冷静にならなければと、隼人は深呼吸をし、なんとか会話できるまで落ち着いた。

「紗枝を離せ! そいつはテメェとなんの関係もねぇだろうが!」

 教師は声を荒げることで突っぱねた。

「うるさい、うるさぁぁぁい! 黙れ、このクズ共が! 私に指図をするなっ!」

 それに反応したのはゆっくりと壁沿いを歩きだした修だった。

「クズ共とは言ってくれますね。本物のクズは貴方でしょう。ここにいるということは大方襲われた生徒を見捨てて逃げてきたのでしょう? しかも、職員室に教師の死体があるところを見ると、貴方はそれさえも助けることなく隠れ続けた。ふふ、まるで絵に描いたような卑怯者ですね」

 修が一つ、一つ言葉を重ねる度に、教師は苦しそうに呻いた。恐らく今言ったことは全て的中しているのだろう。尤も、隼人達も他の生徒を見捨ててここまで来たのだから言えることではないが、修はすらすらと教師を追いこんでいた。

 だが、我慢の限界が来た教師はうがぁぁ! と叫ぶとカッターを隼人へと向けた。

「違うっ! 私はクズじゃない! 本物のクズは貴様等だ! 知っているぞ、この騒動を起こしたのが貴様等だとな!」

 謂れのない容疑をかけられ、素っ頓狂な声を出したのは啓一だった。

「は、はぁ!? 何を言ってるんすか! 何で俺達がこんなことしなきゃならないんすか! 元々、俺達は危険だから逃げろって忠告したんすよ!」

 啓一の尤もな言い分を、しかし教師は端から聞く耳はなかった。

「黙れ、ろくに勉強もできないゴミめ! 私を騙そうとしてもそうはいかんぞ! は、ははは! お前達のようなぼんくらが私の目を欺けるとでも思ったか! 私が正しい、私が正しいんだ!」

 勝ち誇ったような笑みを浮かべる教師に、隼人はそろそろ我慢の限界だった。和馬達が必死になって忠告した時は笑いものにし、そして実際にその通りのことが起きたら今度は自分達のせい。それはあまりにも、和馬達の善意を愚弄する形だ。

「さぁて、馬鹿共にも状況が分かったところで言うことを聞いてもらおうか。まずはそのキーをよこせ! そしてお前等は囮になってもらうぞ!」

 隼人達の作戦をそのまま利用しようとする教師に、和馬が白けた声を出す。

「はっ、馬鹿だ、馬鹿だと言っておきながら俺達の考えパクるのかよ。大した教師様だな」

「っ、だ、黙れ、黙れ! いいからお前等は黙ってあいつ等の餌にでもなっていろ! ただし、東雲修、君は別だ。君は、私と同じ立派な人間だ。ここで死ぬのは惜しい。さっきの暴言を取り消すのなら共に連れて行ってやろう。頭の良い君にならどちらが正しい選択か分かるはずだ」

 教師は眦を見開くと、修へと狂喜的な視線を向けた。それは恐らく神のような優越感によるものだろう。この場の全てを、命を自身が支配している、そんな感覚が教師を段々と奈落へと落していく。

 このままでは紗枝だけではなく、和馬達にも危害が及ぶのは目に見えていた。今、教師の意識は修に向いている。行くしかないか、と隼人が失敗した時のリスクを考え冷汗を流していると、突然修が笑い出した。失笑ではなく、爆笑だ。

「あはははは! いや……失礼。少し先生の台詞がおかしかったもので」

 己が笑われたと知り、教師は顔を赤くして押し殺した声で尋ねる。

「……私の、何がおかしいとっ……!」

「いえ、大体は正しいですよ。確かに私はある一点を除いて立派で完璧な人間だ。そうなる為に他の全てを捨て、多大な努力も払ってきたので自負もあります。ですが、貴方が立派な人間かというと、違うと断言できますね」

「な、ななな、何だとっ!?」

 憤慨する教師とは対照的に、修は冷たく嘲笑うように見下した。

「どこからどう見ても貴方は醜悪そのものだ。貴方は馬鹿と罵っておきながら、釧路君を怖れ、一番組みしやすそうな安永さんを人質にとった。行動と理念がまるで一致していない。その程度の覚悟しかない人間を一般的にクズというのですよ。先生」

 眼鏡を妖しく煌めかせながら吐かれた冷徹な言葉に、教師はもう爆発寸前だった。下手に挑発してどうする! と隼人が焦っていると、

「釧路君、五秒後に先生に突っ込んで、安永さんを助けて下さい」

 と敵の目のまで大胆不敵に攻撃宣言をする。

 隼人や和馬、啓一だけでなく、教師さえも何を言っているのか分からないと呆然とする。しかし、修はそれを気にする素振りなく、紗枝に向き直っていた。

「安永さん、かなり汚れてしまうと思いますので、目と口をしっかりと閉じていて下さい」

 そして修が腰を屈めると、その先にあったものを見て、狙いを覚った隼人は無意識的に数えていた五秒に意識を集中した。

 そして三秒を切った時、修が素早く動いたかと思うと、何かを掴む。赤い金属製の筒、それは消火器であった。安全ピンはすでに抜かれており、ノズルを教師と紗枝に目がけて向けていた。紗枝は目と口を思いっきり閉じ、教師は唖然とノズルの口を眺める。修はにこりと笑うと白煙の消火剤を撒き散らした。

 五秒! と、数え終えた隼人は白煙が焚かれ、視界のきかない中に飛び込んだ。白く、何も見えないが、五秒を数える間に紗枝の位置はしっかりと記憶している。そこに突っ込んでいくと、教師は目と口に消火剤が入ったのか、悲鳴を上げながら苦しんでいた。

 汚い手でべたべたと紗枝に触り、それはおろかカッターまで突きつけた教師への怒りを拳に集中させる。教室で殴り飛ばした数倍もの威力で、隼人は、教師の顔面に渾身の拳をめり込ませた。

 がぱっ、と鼻骨やら頬骨やらを砕かれ、潰れた顔で教師は壁に叩き付けられる。隼人は、紗枝を掬うように抱え上げ、お姫様抱っこのポーズをとると、そのまま後ろに下がる。

「大丈夫か、紗枝!?」

 消火剤から抜けたところで、紗枝に声をかける。しかし、何故か紗枝はぽ~としたまま反応がない。髪や服が消火剤で白くなってしまっているが、外傷はないように見えるのだが。

「おい、紗枝、紗枝! どうした、あの野郎に何かされたのか!?」

「え!? あ、う、ううん! な、ななな、何にもされてないよ!」

 と裏返った声で返してくる。

 なら何故、そこまで顔が赤いのだろうか、という疑問は一先ず置いておき、紗枝を下すと、横から修が近寄ってきた。

「いや、お見事。釧路君なら必ず成功すると思ってましたよ」

 本当に褒めているのか、お世辞なのか分からない社交的な笑みの修に、それでも隼人は礼を言った。

「礼を言うのはこっちだろ。助かったよ、お前の機転がなかったら紗枝どころか俺等まで危なかった」

「ふふ、仲間、ですからね」

 と意味ありげに言う修に、紗枝もお礼を言おうとした時だった。

「あっ! アニキ、ヤバいっす!」

 ドアの方を指さし、鬼気迫りながら叫ぶ啓一の声に反応し、皆が消火剤の少し薄まったそこに視線を集める。そして表情を凍らせた。先ほど教師が壁に思いっきり当たったせいなのか、ずっと叩かれていたドアがついに持ちこたえられなくなったのか、積んでいた棚や机が少しずつ崩れていく。

「ヤ、ヤバいぜ、隼人! このままじゃ、あそこからあいつ等が雪崩こんでくる!」

 和馬の台詞は、ここにいる皆の心の声の代弁であった。

「ああ、クソッ! どうしてこう悪い方向にばっか傾きやがる! とにかく隅によれ、俺の後ろから離れるな!」

 和馬から鉄棒を貰い、それを油断なく構えながら隼人は息を殺した。鉄棒を握る手から血が出るほど強く握る。仲間は絶対に殺させない、それだけを念頭におく。例え、ここで自分が死のうとも。

 そして、隼人達が瞬きすらも忘れて見詰める先で、ついにドアが破かれた。来る! と態勢を低くする隼人だが、そこで予想外のことが起きた。

 ドアを破って入ってきた連中は隼人達に見向きもせずに、近くで気絶していた教師へと殺到する。手さえも足のように使って移動するその姿は先ほどまでの理知的なものではなかった。

 一体何があったんだ!? そんな疑問が沸き起こるが、それを直感が塗り潰した。

 今しかないと。

「お前等、俺のあとについてこい。ここを突破するぞ!」

 隼人の言葉に、衝撃で口を開いた和馬が咄嗟に質問する。

「まさか、ここを強行突破するつもりか?」

「今しかねぇ。いかなかったら全員死ぬだけだ……!」

 もうこれしかないというのは和馬も承知しているのか、いつも通り諦めたような顔でもじゃもじゃ頭を掻くと、頷く。他の皆もこくりと首肯した。

「よし、いいか、さっきと同じフォーメーションで無駄な戦闘はしなくていい。ただ全員が無事で辿り着くことだけを考えろ! 互いに互いを全力でフォローしあえ! 行くぞ!」

 言い終わるや否や、隼人は脳裏に囁く最悪を全て追い出し、駆けだした。その後ろに紗枝、修、啓一、和馬と続く。その足音に教師を食っていたうちの二体が気付き、あとをついてくる。それを和馬と啓一が牽制し、階段を駆け下りると、偶然通りがかった患者服に見つかってしまう。

 それを認識する間に、隼人は鉄棒を水平に放ち、首の骨を折ると吹き飛ばす。体にかかる血すら気にする余裕はなく、隼人は素早く視点を窓へと向けていた。

 隼人の学校の駐車場は校門から校舎を越え、裏側にある。昇降口から行くよりも、窓を抜けてからの方が近かった。

 廊下にもちらほら患者服が見受けられるが、死肉を貪るのに夢中でこちらには気付いていない。気付かないでくれと、慈悲も何もない神に祈りながら、隼人は窓を開けると跳びだす。辺りを警戒したが、学校の裏側は閑散としていた。死体も血も、校舎と比べるとほとんどない。それは、ここにいる生徒が逃げる間もなく食われたということを示唆していたが、それを考える余裕はない。

「早く来い、紗枝!」

 隼人は窓から出ようとしている紗枝に手を差出し、出るのを手伝った。隼人の手を掴み、僅かに体重を預けてくると、紗枝があぶなかっしく地面に着地する。そこから修、啓一、和馬と一先ずは校舎からの脱出に成功する。

 だが、ほっと一息を突く間などありはしなかった。二階から隼人達を追ってきた患者服が廊下から跳びかかってきた。二体同時に向かって来たので人の出入りを想定していない窓枠に挟まってくれたが、出てくるのも時間の問題だ。

「和馬! 俺がここを食い止めるから、早く車を探してくれ!」

「っつってもよ、キーがどの車の奴かなんて俺は分からねぇぞ!」

 和馬は駐車されている車を眺めながら、焦りからか騒いだ。裏側にある車は全部で四台。片っ端から調べるとしても、それまでもつかどうか、冷汗を垂らしながら隼人が喉を鳴らすと、

「いえ、大丈夫ですよ。このキーはリモート式ですから、ボタンを押せば、これに対応した車のドアが開きます」

 言うと、修はキーを持った手を上に伸ばすと、ポチッとボタンを押した。すると、奥に止まっていた黒色のワゴン車からピーという駆動音が聞こえる。

「よし! 皆急いで乗り込め! 和馬は車を発進させろ!」

 そう隼人が指示を出していると、前方からビキリ、と何かが罅割れる音が聞こえた。

 咄嗟に振り返ってみると、患者服の馬鹿力に耐え兼ねた窓枠がついに壊れた。押さえつけられていた二体が一気に迫る。

 間一髪のところで鉄棒での防御が間に合った隼人であったが、一体でも恐ろしい力だというのに、二体からの攻撃に耐えられるはずもなく、蹴られたボールのように、塀に叩き付けられた。

 ガハッ、と打ちつけられた衝撃で肺から息が吐き出される。背中の鈍痛に苦悶の表情を浮かべていると、それを見ていた紗枝が、

「隼人君!」

 と駆け寄ろうとしてくる。

「来るな! 車に乗ってろ!」

 隼人は顔を向けることも叶わず、そう叫んだ。その間にも二体が隼人の肉を食わらんと、獅子よりも獰猛な目を剥きだしながら、迫ってくる。防御は不可能。ならば、隼人のとれる手は一つしかなく、振り下ろされた手を寸でのところで避ける。

 一撃でももらえば戦闘不能という理不尽な攻撃、そして二体相手という鬼畜な狩りが始まる。相手が理性を保っていない単純な攻撃故に今は避けられているが、それでも凄まじい速度の猛攻だ。このままでは長く持たないことは火を見るよりも明らかだった。

 そんな隼人の耳に、車から焦りの叫びが届く。

「和馬さん、まだっすか! 早くしないとアニキがっ!」

「分かってるっ! ちょっと黙っててくれ!」

 何度もエンジンをかけようとしているのが、駆動音で分かるが、焦っているからなのか、神の悪戯か、それはうまくいっていなかった。

 その間にも患者服達の無慈悲な拳と噛みつきを避け続ける隼人。テンポを掴んでいき、もう少しなら行けるか、という時に、ドン、と背中が何かに押さえつけられる。それは塀であった。避けることに集中しすぎたために、塀との距離を考慮できていなかったのだ。

 クソッ、こんなことで! と隼人が悪態をつくのと同時に、患者服の手が全てを切り裂きそうな勢いで迫る。寸でのところで壁を蹴り、斜めに回避した隼人だが、可動域が狭く、脇腹を指で切られてしまう。まるで鋭利な刃物で切り付けたように脇腹に四本の赤い線が刻まれる。どろりと血が滲み出た。

 するとこれまでの疲労と流した血が許容量を超えたのか、隼人は立ち上ること叶わず、がくっと膝を突いてしまう。脳がどれだけ動けと命令しても、足がストライキを起こしたように動いてくれない。

 それを見た患者服達は勝者の余裕か、ゆっくりと近づいてくる。

 動かない足に、息の切れた体。二体の化物。心を折るには有り余るほどの絶望を前に、しかし、隼人はしっかりと鉄棒を握り、それを構えた。無駄な抵抗なのは分かってる。だが、これは恐怖に駆られてではない。

 自分が犠牲に仲間が助かるなら、隼人は今でもそれでいいと思える。こうして無事に囮役をこなし、紗枝達が車で無事に脱出できたのなら、満足の行く結果だろう。けれど、職員室で見た紗枝の消え入りそうな儚い表情が頭から離れない。

 あんな顔をさせてしまっていいのかと問う自分がいる。自分が死んで仲間が不幸になるのなら、それは傷付けるのとは違うのだろうか。何よりも、あんな顔を二度と紗枝にさせていいはずがなかった。

「来いよ……足が動かなくてもな、テメェ等なんて余裕なんだよっ!」

 そんな陳腐な挑発に乗ったのかどうかは定かではないが、患者服達は一斉に顎を開くと涎を撒き散らしながら跳びかかってきた。無駄だと知りつつも、隼人は鉄棒を振り被る。

 しかし、それは本当に無駄だった。何故なら、突然横から現れた黒色のワゴン車がその二体を猛烈な速度で跳ね飛ばしたからだ。

 一体何が起きたのか、隼人は理解しかねたが、

「隼人君!」

 紗枝の声が聞こえた気がして、無意識に手を横に伸ばした。すると、伸ばした手を、細く柔らかい手に握られた。そのまま勢いよく引っ張られる。そして隼人は何かとても柔らかいものに受け止められた。至福のような柔らかさに隼人がそのまま眠ってしまいそうになっていると、うぅ、と下から紗枝の声が聞こえる。

 まさか、という思いと共に隼人が勢いよく上半身を起こすと、見下ろした先には押し倒してしまった紗枝がいた。そして先ほどまでの柔らかさの原因に目がいくと、恥ずかしさのあまり顔に血が溜まっていく。

 紗枝もこの状況に気づいたのか、表情を固めながら顔を赤らめた。

 そのまま数秒間見つめ合っていると、前の方からカチカチに固まった和馬の怒鳴り声が聞こえた。

「ふざけんなよ、隼人! 人が緊張のあまり寿命縮めてる時に嬉しいお約束してんじゃねぇぞ!」

「宮本君、危ないからひがむのはあとでしてください。裏門が閉められている今、出られるのは彼らが開けてくれた正門しかありません。校舎と第二校舎を繋ぐ通路から向かいましょう」

 その声音に、隼人と紗枝が態勢を直すと、クッションの椅子に座った。

 前の方の運転席では和馬が緊張のあまり前のめりになりながらハンドルを捌いており、助手席では修が的確に指示を出している。しかし、習ってまだ一か月というのは伊達ではなく、ワゴン車は先ほどから小刻みに揺れては壁などと接触していった。その度に車内では反動が凄く、後ろの席にいる軽い啓一などは飛び跳ねていた。

 そんなこともありながら、なんとか修の予定した通路を越えると校庭に出た。そこにはちらほらと患者服が彷徨っていたが、和馬に避ける技術などあるはずもなく、次々と引きながら正門を目指した。

 ようやくたどり着いたと思った時、前に立った患者服を引くと、ふわりと車が浮いたような感覚に包まれる。いや、実際に浮いていた。というより、先ほど轢いた患者服のせいで右側のタイヤが持ち上がり、今にも横転しそうになっていたのだ。

「なっ!? 皆、右側によれ!」

 隼人は、紗枝の手を掴み自分の方に引き寄せ、啓一は必死で座席にしがみ付き、修は体当たりする勢いで和馬を押し込んでいた。それが功を奏したのか、車体はゆっくりと降りていくと、ドゥン! とバウンドし、水平に戻った。

 そして無事に校門も通り過ぎ、一般道へと車は乗りだす。

 道はこんな事件が起こっているおかげで通る人はおらず、和馬の不安定な運転でも何とか走れた。窓から後ろを確認しても、何体か走って付けてきたが、さすがに車には敵わず今ではもう見えなくなっていた。

「ね、ねぇ、隼人君、わ、私達助かったのかな……?」

 いまいち実感のない声で紗枝がそう尋ねてきたので、隼人に満面の笑みを浮かべ、

「ああ、そうさ! 俺達は、助かった!」

 その隼人の発言に続くように、啓一がイヤッホー! と叫び、和馬もガチガチに固まりながらも、よっしゃー! と声を上げた。紗枝は泣きながら笑い、修も少しばかり笑みを深める。

 隼人も喜びたいのはやまやまだが、まだ何か胸騒ぎが治まらない。騒ぎから遠ざかり、何日かすれば自衛隊が駆けつけ、事態を収拾してくれる。それだというのに、隼人は何故かまだ油断することが出来ずにいた。

 しかし、この喜びに水を差すのも野暮なものだ。それに、一時的かもしれないが脅威が去ったのも事実。それを思うと、いきなり体が重くなってきた。まるで瞼が鉄になったように重い。視界も霞んできて、力が入らず、隼人は瞼の重みに耐えることが出来ず、暗闇の中に意識を落した。


3 『背信』


 隼人が目を覚ましたのは、薄暗い室内であった。

 何故か照明はついておらず、室内だと確認できたのは近くのテーブルに電動式ランプが心もとなく灯っていたからだ。一体なぜこんなにも暗いのか、そんな疑問をおぼろげに考えながら、光を強くしようとランプに手を伸ばすと、

「あ、隼人君、駄目!」

 と、愛らしい少女の声音が勢いよく響く。

 咄嗟的に隼人は手を止めると、眠たげな目を声の方へと向けた。そして一気に覚醒する。何故なら、隼人の視線の先にいたのは、眠気さえも吹き飛ばしてしまう美少女だったからだ。

 くりっ、とした小動物的瞳に、潤んだ唇、そして僅かな光が全て紗枝の滑らかな黒髪を艶やかにするように集まっていた。薄暗闇の中でも輝く宝石のようにさえだと確認できた。

「紗枝! ……って、おっと」

 あの地獄から無事に戻れたという思いが感極まり、無意識的に紗枝を抱きしめに行った隼人だが、途中で力なく倒れてしまう。体を動かそうとすると、全身が筋肉痛のように四肢が悲鳴を上げる。そして徐々に体に痛みが戻ってきて、顔の歪みを押さえられない。

「まだ動いたら駄目だよ! 一体どれだけ怪我したと思ってるの!」

 倒れた隼人に肩を貸しながら、紗枝は本気で怒った声音できつく言ってくる。しかし、隼人からすれば、それは小学生の頃、初めて紗枝と会った時のようで思わず笑ってしまった。

 真剣な気持ちを馬鹿にされたと思ったのか、紗枝の柳眉が逆立つ。

「私、変なこと言ってないと思うけど?」

 底冷えした紗枝の言葉に、隼人は慌てて訂正した。

「ち、違うって。お前を笑ったんじゃなくて、何だか今の会話が最初に話した時と似てるなって思ってさ」

 それを聞き、紗枝も思い当たる節があるのか、くすりと微笑んだ。

「そうだね、最初の時も私が、隼人君の怪我を見て強引に家に連れて行ったっけ」

 そう紗枝は楽しげに言う。そんなふうに笑ってくれるのがまるで夢のようだった。例の事件が起きた後、罪悪感から会うことが出来ず、まともに顔を見るのなど、実に三年ぶりだ。それに、前までは学校を脱出するので手一杯できちんと話せていない。

 丁度いい機会だと、少し早いが誕生日プレゼントの話でもしておこう、と隼人がなけなしの勇気を振り絞った時だった。

「なぁ、紗枝」

「隼人君」

 なんたることか、万兵に挑むような覚悟で振り絞った声は、紗枝と被ってしまった。自分の不器用さに泣きそうになりながら、隼人は先手を譲る。

 すると紗枝は、突然服をぎゅっと握ってきて、隼人の胸に身を預けるように寄りかかる。

 え!? 一体この状況は何!? と紗枝の温かさが体から伝わってきて、興奮のあまり血が暴走して傷口が開きそうになっていると、か細い声で紗枝が呟いた。

「隼人君……もう、こんな危ない真似しないで……!」

 はっと、我に返って少し小さい紗枝を見下ろしてみると、向こうは瞳に涙を溜めながら必死な表情で先ほどの言葉を訴えていた。

 胸が痛かった。紗枝を守ろうとして、その相手にそんな顔をさせてしまっているのが、とても辛かった。心が張り裂けそうで、言葉が出ず、どうにかその顔を緩めようとそっと体に手を伸ばし―――

「安永さん、釧路君の様子はどう……おやおや、もう元気そうで何よりです」

 と、ドアから顔を出したのはランプを手に持った学校の生徒会長であった修である。整った外見に、さらりと伸びた茶髪。かけている眼鏡すらその美少年ぶりを補強しているようだった。

 傍から見れば抱き合っているような状況に、隼人は頭部から煙を出すと、ぎこちなく紗枝と離れた。

「逢引の邪魔をしてしまい心苦しいですが、釧路君も起きているなら丁度いいですね。辛いかもしれませんが来てください。今、重要な話が始まろうとしています」

 逢引じゃねぇよ! とツッコみそうになったが、真剣な表情に戻った修を見て、隼人もそれまでの羞恥は消え去り、表情をきつく締めた。世界があのような状況になり、重要な話となれば、考えられるのは一つだけだ。

 不安がる紗枝の肩を抱き寄せ、隼人はゆっくりと歩きだした。


 道を行く途中、と言っても部屋からリビングに移動する短い合間だが、隼人は、修から現状の説明を受けた。

 まず、自分は学校からの逃走に成功すると、そのまま気絶してしまい丸一日寝ていたこと。そして騒ぎの中心から逃げることに成功した自分達は一先ずは落ち着こうということで、手頃な空き家を見つけ、そこを拠点にしていること。

 照明を付けず、ランプで代用しているのはあいつらには知能があることは確認できているので、一軒だけ明りがついていることを不審がられない為だそうだ。見ると、窓などには新聞紙や段ボールが隙を作らないように埋めていた。

 見事な指示に隼人は聞きながら舌を巻いていた。生徒会長という役職についているくらいだから、それなりに人望と有能さがあるのだろうと思っていたが、所詮それは学校という小さな枠の中での話だ。しかし、修はそんな考えを覆し、非日常の中でも的確に動いている。

 およそ普通の学生が出来る範囲を超えていると思えるのだが、一体何者なのだろうか、という疑問点が生じた。尤も、それを聞く前にリビングについてしまい、そこにいた和馬と啓一の歓喜に、質問の機会は失われてしまった。

「アニ―――アニキ、目が覚めたっすか、よかったっす!」

 叫びだそうとした口を押え、啓一は小声で全力の喜びを表した。小柄な体で大喜びしている様は、言っては悪いが純粋無垢な子どものようだった。

「よ、無事目が覚めたみたいだな。紗枝ちゃんに感謝しとけよ、四六時中、お前の傍で看病してたんだから」

 ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべたもじゃもじゃ頭の和馬の台詞に、紗枝がいきなりぼっと赤くなると、扇風機のような勢いで手と首を振りまくる。

「ち、ちちち、違うよ! その、私は怪我とか治療できないから、せめてタオルの水を変えたり、見守ってるだけしか出来なくて!」

 別にそんなに慌てることでもないだろうと、隼人は失笑した。しかし、そこで謙虚になれるのが紗枝の良い所だと、隼人はその黒髪を撫でると今できる命一杯の感謝をした。

「それでもありがとな。ずっと看てくれたんだろ。十分に嬉しいぜ」

 ニカッ、と笑いながらの隼人の言葉に、紗枝は再び反論しようとしたがそれを野暮だと思ったのか、口を閉じると撫でられる感触を享受するように顔を俯かせた。えへへ、だらしない笑い声が漏れる。

「あ~、ラブラブなところ悪いのですが、そろそろ時間です」

 修の呆れたという声音に、二人は一瞬固まると、ばっと距離をとった。先ほどまで普通にしていたが、よくよく考えれば皆の前で中々恥ずかしいことをしていた。そんな自覚が隼人の顔の血流を増す。

「はいはい、隼人と紗枝ちゃんも集中しときなよ。これから凄いことが放送されるそうだから」

 苦笑いの表情でそう告げた和馬が示す先には液晶テレビが置かれていた。一応いくつかの災害時用ランプで光を補ってはいるが、それでもテレビの光の方が強く目が痛い。患者服にばれないようにとの配慮で声も最少なので、小声でも喋れば聞こえない状況となっていた。

 そんな中、五人は時計の秒針さえも聞こえるほどに静寂し、じっとテレビ画面を見据えていた。黒一色の画面が突然、どこかのスタジオの背景に変わる。少しの間それだけが流れ、やがて一人の初老の男が椅子に座った。

『日本全国の皆さん、大変長らくお待たせしました。今日未明まで続いていた電波障害が解除されたので、現状について説明をしていきたいと思います』

 鍛錬された渋めの声が室内にひっそりと広がる。

 だが、そんな滑らかな声とは違い、隼人は今の一言にも多大な衝撃を味わっていた。それは電波障害が起こっていたことだ。確かに考えればおかしなことではある。あれだけの大事件が起きたというのに、スマホからは警報もならず、そのせいで逃げ遅れたものがいることは学校から脱出してきた隼人は良く知っている。

 他の皆も同様に驚いていたが、うっかりと声を漏らし、情報を聞き逃すというへまをする者はいなかった。

 テレビの中で男がさらに口を開く。

『突然国籍不明の人間が溢れ、そして人間を喰うという猟奇的な事件は今もなお続いており、範囲は拡大する一方です。事件の発端は茨城県北部で起きたと見られており、すでに栃木、福島でも同様の事件が起きパニックを起こしています。警察や機動隊が対処に当たりましたが、被害を抑えることはできませんでした。これを受け、日本政府はこれをテロと断定し、東京を中心に着々と自衛隊を編隊しており、今から一時間前、午後三時に栃木の事態鎮圧の為に二個小隊が、福島鎮圧の為に同じく二個小隊が出撃しました。さらに、これ以上被害が及ばないよう防衛網を築き、迅速な解決に臨むとのことです』

 そこで画像が変わると、朝日を受け、厳つく照り返す銃火器を手に持った自衛隊が映し出される。その後ろには戦車ほどごつくはないが、十分頑強なイメージを持たせる輸送車両がところ狭しと並んでいた。

 銃器や軍隊に詳しくはない隼人ではあるが、そんな無知な人間が見てもこれは中々の大部隊だと分かる。これならあいつらもすぐに鎮圧してくれるはずだ、と思わずはしゃぎそうになった時であった。

 突然、テレビの映像が途切れると画面が黒一色になる。向こうのトラブルかと少しの間待ってみても、何の応答もない。ついに堪えきれなくなり、

「おい、和馬、そのテレビどっか壊れちまったんじゃねぇか?」

 隼人の怪訝な指摘に、和馬がおっかしいな~、と頭を掻きながらテレビの裏に回る。そんな時、横で見ていた修が何かに気づいたようにはっと、ポケットからスマホを取り出す。それを見て、隼人も遅まきながらこの事態を理解した。

 慌てる、というよりも祈るような気持ちでスマホの電源を入れてみると、映し出された画面には圏外の二文字。二人の行動に気づき、皆も自身のスマホを確認してみるが、皆一様に絶望で顔に影を落とした。

「会長、これってまさか……」

 隼人は全てを言わなかったが、修にはそれで十分伝わったようだ。

「ええ、恐らくはまた電波妨害が起きたのでしょう。この狙い澄ましたようなタイミングを見ると、自衛隊ははめられたか、私達に絶望でも味わわせようとしているのでしょうか……」

 この事態でもなお落ち着き払った修とは打って変わって、怯えた声で啓一が問いかける。

「で、でも、自衛隊なんだし、大丈夫っすよね!? このくらいで負けたりしないっすよね!」

 それは問いかけというよりも、縋るような言葉だった。自衛隊と言えば、日本の切り札だ。彼らよりも力を持った組織はこの国にはない。それが破られるということは、現段階で敵と真っ向にやり合えば負けるということだ。それは、一縷の望みをもって生きている人々にとって絶望の体現以外のなにものでもない。

 隼人も信じたい。さっさとこんな事態を解決して、元の学校をさぼり、バイトに精を出し、和馬と啓一と遊び、紗枝とも仲直りできるそんな平和が戻ってくると。きっと気持ちは皆一緒だ。だが、誰一人として、啓一の言葉を肯定できる者はいなかった。

 胸をじわじわと刺してくるような沈黙の中、修が淡々とした声で語り始めた。

「自衛隊は優秀です。装備もそうなら、練度も高いでしょう。ですが、自衛隊は一応軍ではありませんが、部隊であることに変わりはない。そして部隊とは個々人の力で決まるのではなく、その連携で強さが決まります。しかし、これだけの電波障害です。無線などによる連絡手段は恐らく使えないでしょう。人力による通信手段も残されてはおりますが、効率は非常に悪くなります」

 修が列挙していく悪例に、啓一がどんどんと顔を俯かせていく。そんな啓一をフォローしようとしたのか、和馬が有利な点を挙げた。

「確かに孤立しちまうかもしれねぇけど、自衛隊は銃を持ってるんだぜ。訓練も積んでる。それにいざとなったら戦車もある。長期戦にはなるかもしれねぇけど、負けることはないんじゃないか?」

「ええ、宮本君の言っていることも可能性としてはあります。しかし、私は最も注意する点はそこではないと思います。あいつ等の恐ろしい所は一つにその数です。私達のいる茨城県から事件が発生し、すでに栃木、福島まで手が及んでる。一個小隊というのは最大で四十五人ほど、それが二個ですから約百人が出動していますが、それで数が足りるのかも疑問です。それにあいつらの身体能力は並外れている。訓練の差を覆してしまいかねないほどに。最も危険なのは奴等にも知能がるということです」

 知能があるという言葉で思い出されるのは、死体を陽動で使って来たり、隼人の喉を締めてきた時の相手だ。あれは明らかに人間的動き、知能があることを十分に感じさせるものだった。

「まぁ、皆さんも見てきたとおり、知能などなく獣のような輩もいました。では、獣と知能の差はどこから来るのでしょうか。これは私の憶測に過ぎませんが、人を食えば彼らは知能を得るのではないでしょうか」

 修の告げる、あり得ないと思える推測に、しかし、誰も否定しない。隼人は今までの敵の行動を見返してみると、確かにそれらしいことは見られた。死体を陽動に浸かってきた奴も、喉を締めてきた奴も、事前に生徒を食っていた。

「もしも、そうなら、一体どうなるんだ?」

 腹の底に泥を注ぎこまれたような不快感を覚えながら、隼人は、修に尋ねた。

「人間の最大の強みは数の力もありますが、何よりも知能です。それがあるからこそ、牙がなくとも獅子に勝てる。さて、私達は九死に一生を得る思いでこうして生きていますが、そんな人が一体他にどれほどいるでしょうか? 一体どれほどの人が食われたでしょうか? 事件が起きてから丸一日。世界的には日本の対応は迅速でしょう。しかし、状況的には遅すぎるとしか言えません。そして奴等は強い。異常な身体能力を有しています。負けますね、このまま行けば自衛隊は。そして私達はなす術もなく死んでいくのかもしれませんね」

 修の言葉は、そのまま自身の絶望も的確に言い表しているというのにまるで他人事のように淡々としていた。自分には関係ないと吐き捨てるようである。そういう態度はこの場において雰囲気を悪くするだけだ。隼人は少し語調を強くして諌める。

「おい、会長。そういう言い方は止めろ」

「そういう言い方、と言いますと?」

 修は何のことだか分からない、というふうに首をかしげた。

「だから、自分には関係ないみたいなその口調だ。別にあんたが何をどう思おうと勝手だけどよ、少しは仲間に配慮ってやつをしてやれよ。その言い方は余計に皆を不安にさせるだけだ」

 それを聞くと、修は一瞬きょとんとすると、次いで呆れたような溜息を盛大に吐いた。

「また《ナカマ》ですか……」

 その言い草に隼人は眉をピクリと動かした。まるでそんなもの下らないと言われたような気がしたのだ。それは、自分の信念を否定されるのと同じだ。

「仲間が、何だよ。はっきりと言え!」

 隼人の抑えた怒声に、紗枝と啓一がビクッ、と震える。しかし、修は動じることなく、眼鏡を人差し指でかけ直すと、

「こんなところで争っても無意味なので我慢しようと思ってたのですが、そろそろ私も我慢の限界です。釧路君、貴方が何故ナカマという単語に拘るのか知りませんが、いい加減止めにしませんか? その青臭い芝居は」

「青臭い……芝居だとっ!?」

 自分の信念を馬鹿にするだけでは飽き足らず、偽物だと言われ、隼人はパキパキと骨を鳴らしながら拳を握る。この距離でなら修が気付く前に殴ることもできる。それでも修は口を閉じなかった。まるで殴ったら負けを認めたことにする、と言わんばかりである。

「貴方の言う仲間なんてものは理想論です。人は誰しも一番大切なのは自分です。助け合い、支え合うのも全ては自分の利益の為。ここでこいつに死なれたら今度は自分が危ない、今助けないと後々見捨てられるかもしれない、そう思いながら人は協力し合っています。ですが、それで人はいいんですよ。こんな強欲な生き物、そうでもなければやっていけません。そして自分の身が危なくなったら躊躇いなく他人を見捨てられる。これが現代の仲間です」

「違う! 現に俺達はここまで助け合って辿り着いた。自分の身が危険な時もだ! あんただってそうだろ? 紗枝が教師に捕まった時、最初に動いてくれたのは会長じゃないか!」

 その指摘に、修はやれやれと言った感じで首を振る。

「あれは放っておけば、キーをもって自分だけ逃げようとするに決まっているからです。あの人と一緒にいるより、貴方達と一緒の方が生存率は高い、そう見越したからです。もしも自分だけが逃げるチャンスがあったなら、私は構わず逃げていたでしょうね。貴方だってそうでしょ? こんなことを言う私を自分の命を捨ててまで助けたいとは思わないでしょ? それこそが仲間のあるべき形です」

 未だそんな減らず口を叩き続ける修の胸倉を、隼人が強引に掴む。眼鏡にランプの光が反射し、見えにくい瞳に、自分の気持ちを伝えるように全力で眼光を注ぎ込んだ。

「俺は絶対に仲間は見捨てねぇ! 助けてやるさ、例え自分の命が危険になっても、あんたを助けてやる!」

 だが、隼人の言葉はまだ届くことはなく、修は鼻で笑い答えた。

 そんな一触即発な雰囲気を出していた二人の間に入り込んだのは和馬だった。

「はいはい、そこまでだお二人さん。出来れば思う存分戦わせてやりたいが、状況がそれを許さなくてね。声がでかすぎだ。周りのあいつ等に気づかれちまうぞ」

 和馬の指摘に、すっかり忘れてヒートアップしていた隼人は手で口を塞ぎ、修は眼鏡をかけ直していた。

「いろんなことがありすぎて疲れてんだ。隼人、今日はこれくらいにしておこうぜ」

 そんな和馬の台詞は、確かに的を射ていた。先ほどのことの衝撃が大きすぎたのか、変に熱くなり過ぎだ。どうしてこんなにも苛ついているのか分からないのが危ない。思考が半ば麻痺しているようだった。

「そうだな、今日のところは皆休もう。まだ一日しか休んでないし、体も重いだろ。それにこれからのこと、これまでのこと、一人一人がきちんと整理してからまた明日話し合おう」

 その提案に、紗枝と啓一はコクコクと激しく同意し、和馬は笑いながら頷き、修は笑みを浮かべた。

 それじゃあ、解散! という隼人の声に、皆はそれぞれに部屋へと戻っていく。その際、紗枝が近くによってくると、

「隼人君……大丈夫?」

 そんな不安やら心配やらに揺れる声音で確認してきた。

 そんな顔をさせてしまっていることに、隼人は心底不甲斐なかった。その顔と言葉は本来なら自分が紗枝にかけてやるものだ。紗枝を不安や恐怖から守ると誓ったというのに、これでは本末転倒だ。

 だから隼人は、紗枝を安心させるために、無理やり笑みを貼りつけ、頭を撫でながら、

「ああ、大丈夫だ。ちょっと、混乱してるだけさ。会長だって本気であんなこと言ったんじゃないと思うし。明日になったらきっと元通りになってるからよ」

 そんな強がりを信じてくれてるのか、見抜きながらも黙っていてくれてるのか、紗枝は、うん、と頷いた。

 あとでまた看病に行くね、と言い残し、自分の部屋に戻っていく。

 それを見送るまで笑顔だった隼人だが、紗枝の姿が見えなくなると途端に顔色は沈んだ。

 紗枝の手前、あのように言ったが、実際のところ、隼人は、修のことが分からなかった。濃密な時間を共に過ごしてきた自覚はある。だが、彼は底にあるものをまだ周到に隠しているように思えてならない。

 それに和馬の言葉もあった。気を付けろ、と忠告された時は何のことだと思っていたが、こうなるとその言葉に現実味が帯びてくる。しかし、修はもう、隼人の中では仲間だ。思うところは違えど、紗枝を助けてもらった恩もある。

 なんとかしたいとは思うが、どうすればこの思いが修に届くかなど、自分の足りない頭では何も閃かない。

 現状、先のこと、修のことと考えなければいけないことが多すぎて、隼人は頭を抱えたくなるのを髪をめちゃくちゃに掻き乱すことで堪えた。一先ずは休もうと、隼人も自分の部屋に戻っていった。


 隼人達が仮の拠点として利用しているのは三階建ての一軒家だ。それなりに広く、部屋数も多いために気ままに一人一部屋を使わしてもらっている。少女も住んでいたのか、明らかに女性と思しき部屋もあった為、紗枝もそこまでストレスを感じてはいないだろう。

 尤も、こうして安全に身を隠せ、その上ちゃんとした寝床と食事にありつけるのだから、今の状態で文句を言う者がいるはずもなかった。

 隼人で言うならば、元々住んでた家が三階建ての一軒家ということもあり、どことなく自分の家にいるような感覚で寛いでいた。

 朝になり起きると、軽く体を動かし、具合を確認する。肩の傷は完治にはまだかかりそうだが、痛みはもうほとんどなく、振り回しても平気そうだ。脇腹の傷は血は沢山出たものの、そこまで深くなく、もう少しすれば完全に塞がりそうである。

 八時頃にリビングで紗枝の作ってくれた簡素な朝食を食べ、昼食のあとにこれからのことについて話そうと決まった。

 和馬に包帯などを変えてもらい、隼人は昼食まで手持無沙汰になった。

 考えなければならないことは沢山ある。これからのこともそうだし、自分達のこともそうだ。考えるということが苦手な隼人も足りない脳細胞を必死でこねくり回してみた。しかし、何か妙案が浮かぶことなどあるはずもなく、ただ、仲間を絶対に守ると決心が固まっただけであった。

 時間は有り余っているが、和馬のようにアイドルを眺めて楽しむことや、漫画などの娯楽を読む気分にはなれず、気分転換も兼ねて、一先ずトイレに行くことにした。

 友達と一緒にお泊り、という状況と酷似してはいるが、外に奴等がいる以上騒ぐことは出来ず、家の中は静寂が保たれていた。窓も外から万が一にも見られない為に塞いでいる為に、陽光が入らず、災害時用のランプがおぼろげに照らしていて、何ともさびしい印象を受ける。

 そんな贅沢を言ってられる時でもないか、と隼人は仕方ないことを考えるのを止め、トイレのドアを開けようとした。しかし、ガチャガチャと音を立てるだけで開かない。

 誰か入っているのだろうかと、ノックをしてみると、

「は、はい! 入ってます」

 と、妙に慌てた滑らかな声がドア越しに聞こえてくる。それは明らかに修のものだった。その態度の異変さに、隼人は昨日のいざこざを忘れ、普通に尋ねていた。

「うん? 会長か?」

「え、ええ、すぐに出ますので、少し待ってください」

 カチャカチャと慌ててベルトを締める音がして、そんなに急ぐ必要ないのに、と思った時、隼人はあることに気づいた。男が一人、鍵の付いた個室で他人に見られては困るような行為と言えば、同じ男として思い当たる節は一つしかない。

 この家には部屋に鍵が付いていないので、安全性を考慮してトイレをチョイスしたのだろう。なんやかんや言っても修も同じ男なのだな、とどこか別次元にいるような存在がいきなり身近になった気がして、隼人はしみじみと頷いていた。

 昨日の一件もあり、修とはこれから大変そうだと思っていたが、意外と仲良くなれるかもしれない。これをきっかけに、と言ったらどんな縁だとなるが、少しでも距離を縮めておきたかった。

 そんなことを思っていると、トイレのドアが開き、さらさらと揺れる茶髪に眼鏡をかけた美少年然りの修が出てきた。その顔にはよほど慌ててたのか、汗が一つ垂れている。

「どうぞ、釧路君」

 いつも通り爽やかで人障りの良い笑みで言う修の肩を叩き、隼人は分かってると言うように微笑み、頷いた。

「そんなに隠すことねぇよ、会長。男なんだから当たり前だよな。こんな状況だとストレスもたまるし。心配しなくても皆には言わねぇから!」

 俺達仲間だろ? 的な意味合いで親指を上げる隼人。

 それを見て、修は感動に涙を流し、熱い握手を重ねる―――というのは妄想が過ぎるが、少なくとも笑って過ごせる内容だと思っていた。

 しかし、修はそれを受け、顔を真っ赤に染め上げると頬を引くつかせ、

「何だかとても不本意な想像をされてるような気がしますが、怒りを堪えて、ここはノーコメントとさせてもらいます」

 怒りを堪えて、という部分を強調するようなイントネーションで修はこめかみに青筋を立てながら、見た者を氷漬けにしてしまいそうな笑みを作ると自室に戻っていった。

 その凄みに何だか前よりも嫌われてしまったかもしれないと、こう言った場合の適切な言葉に悩みながら隼人はトイレに入り、下がっていた便座を上げ、用を済ました。


 昼食を食べ終えた隼人達はそのままリビングでこれからのことを話し合った。

「まず現状に確認をしよう。昨日、自衛隊が東京から出撃して、そのあとまた電波障害が起きて、そのまま治まった気配はない。少なくとも茨城には来てねぇだろうな。車の音一つしねぇんだから」

 そう言うと、隼人は完全にふさいだ窓の方を見た。あいつ等がここに勘付いていないか、どうかを探る為に隼人達は交代で隙間から外を窺っていた。しかし、その時は輸送車両はおろか人すら通らず、時折徘徊しているあいつ等を見つけるだけだった。

「……最悪のケースを考えておく必要があるかもな。誰か、他に現状について言っておきたいことあるか?」

 皆に向けた問いかけに、意外だが、手を上げたのは紗枝だった。

「紗枝? 何かあるのか?」

「うん、ここの食糧なんだけど、冷蔵庫以外の非常食も含めて、この人数で考えるとあと二日か、三日しかもたないと思う」

 その言葉に隼人はうっかりしていたと口を開けた。それは中々盲点な指摘だった。いつもご飯の準備をしている紗枝だからこそ、気付けることだ。

「そうか、ありがとな、紗枝。お前のおかげで大事なことを忘れずに済んだぜ」

 隼人の掛け値なしの感謝に、紗枝は頬を赤くしながら、えへへ、と笑うと幸せそうに後頭部を掻いた。

「じゃあ、他にはないか……なら、今後俺達がどう動くべきかだが―――」

「待つか、動くか、この二択しかありませんけどね」

 隼人の言葉に、自意識過剰でないなら刺々しいと思える声音で修に遮られた。眼鏡が光を反射しているのでその目までは見えないが、明らかに鋭いものが自分を刺している。そんなにさっきのことが嫌だったのか、と思いながら、隼人は修の言葉を自分なりに解釈する。

「それはつまり、ここで自衛隊か、警察が救助に来てくれるまで待つか、それとも安全と思われる東京まで逃げるか、って意味か?」

 その確認に、修は目を合わせることなく、ただこくりと頷いた。

 今の仕草で完全に嫌われたのが分かるが、昨日のような喧嘩腰でないことがまだ幸いだ。それに、修の言っていることはこんな時でもきちんと的を射ていた。

「確かに……修の言うとおりだ。俺等がとれる選択肢は二つ。このままじっと助けを待つか、自分達で何とかしてみるか。多数決ってわけじゃねぇけど、皆の意見を聞いていきたい。和馬、お前はどうした方がいいと思う?」

 話しを振られた和馬は、う~ん、と少し唸ると、座り直し、真剣な顔で考えを言う。

「そうだな、俺の考えで言うなら、動いた方がいいんじゃねぇかと思う。そっちの方が危険かもしれねぇけど、この場所がいつばれるか分からないんだ。今この瞬間にもあいつ等が嗅ぎつけてくるかもしれない。それに食料の問題もある。このまま行けば、問題はどんどん増えてくだろう」

 つまり和馬は、先のことを考えて多少危険だが、動く方がいいと思っているようだ。それをしっかりと脳に刻みこみ、次に啓一を見る。

「啓一、お前の意見は?」

 それを受け、啓一は腕を組み、少しの間、瞑目すると、

「俺は……ここで助けを待った方がいいんじゃないかと思うっす。確かに、和馬さんの言うとおり、食料の問題とか、見つかる危険もあるけど、それは危なくなったら他の家に移ったりすればいいんじゃないかって。助けが来るかもしれないから、大人しくしてた方がもう誰も傷つかないと思うんす」

 啓一は傷つかない為にも動かない方がいいという優しい答えだった。

「会長はどうだ?」

 隼人が問いかけると、会長は無機質に眼鏡をかけ直したが、ここで無視はしないようだ。

「私は動くべきだと思いますね。九君の言うとおり、助けが出されたことは確実です。しかし、それがここまで辿り着けるかと考えると、やはり難しいと思います。ここで待つというのは神頼みに過ぎないでしょう。それに近くに拠点の移動という点も賛成しかねる点があります。今はまだ電気が通っていますが、このまま関東方面全域があいつ等の手に落ちてしまうと、電気すらなくなります。そうなれば冷蔵庫の中身は腐り、窓を塞がなければならない以上、明りもなくなります。まだ動けるときに動くべき、これが私の意見です」

 修も和馬と同じで、動くべきだと主張した。電気の面を見ても、それは中々鋭い指摘だ。

 最後に、隼人はこの場で唯一の女性である紗枝へと目を向ける。

「紗枝、お前はどう思う?」

 その言葉に、紗枝は辛そうに眉間にしわを寄せると、

「私は……ここに残った方がいいと思う。修さんや和馬君がちゃんと先を見据えてるのは分かってる。でも、逃げようとしたらまた危険な目に遭うんでしょ? そしたら、今度こそ隼人君は死んじゃうかもしれない! 学校からここまで逃げるのだって、そんなにボロボロになったのに、こんなこと続けてたら、本当に、隼人君が死んじゃうよ……!」

 机を掌で叩くと、紗枝は確固たる強い瞳をしながら隼人を突き刺した。その瞳を隼人は何度も見てきた。最初に殴られた頬を治療しようとして譲らなかった時、最後にもう一度だけ生徒達に避難を呼びかけた時。今度は自分のことを心配してそんな顔をしてくれることをとても嬉しく思う。

 隼人は、紗枝の言っていることと思いをしっかりと理解し、少し間を開け話し始めた。

「……ありがとな、紗枝。心配してくれることは本当に嬉しい。でも、俺も動いた方がいいと思う」

 そう告げた隼人に、紗枝が勢い余って立ち上がろうとしているのを、手で押さえた。

「まぁ、聞いてくれよ。俺は、和馬や会長よりもきちんとした理由があるわけじゃない。食料とか、電気の問題にも気づかなかったくらいだからな。でもよ、もうこれ以上任せてらんねぇんだよ……!」

 隼人の声が怒りを押し込めた低いものになる。

「こんなクソッたれな目にあわせて、まだ何もしてくれねぇような運とか、神によ、お前等の命は預けられねぇ。助けが来るかもしれない、なんて可能性にもだ。俺は非力な人間だ。頭は悪いし、特別な技能があるわけでもねぇ。けど、お前達だけは、俺の全てを賭けて絶対に守ってみせる。だから、今は俺を信じてくれ。一緒に目指してくれねぇか、東京を」

 ふざけたことを言っているのは分かっている。馬鹿馬鹿しいのも承知の上だ。ここに残る方が当面の危機は避けられるかもしれない。しかしそれは、運が良かったらの話だ。悪ければ今にも自分達は殺されてしまうかもしれない。

 そんな不安にずっと耐えるのも、こんな地獄に叩き落してくれた神に頼るのも我慢できなかった。大切な者は、自分の手で守る。これが隼人の下した決断だった。

「な~に水臭いこと言ってんだ。俺は最初からお前を信用してるっての。ついていってやるよ、親友だしな」

 顔を上げると、その視線の先では和馬がにっと笑いながら親指を立てていた。トレンドマークのもじゃもじゃとした赤毛を揺らすさまは、何とも安心感が持てるものであった。常に和馬が後ろで支えてくれるからこそ、自分は前に出られるのだ。

 そこで啓一が椅子を飛ばしながら勢いよく立ち上がった。

「俺は、やっぱり残った方が安全じゃないかと思うっす。でも、アニキが信じてくれって言うなら、信じるっす! 元より俺はどこまでもアニキについていくって決めてるっす! もしもアニキが危険な目に遭ったら、今度は俺が助ける番っす!」

 啓一は拳を強く握りしめながら、その小さい体のどこにそれほどの闘志があるのかと思わせる眼光を放ってきた。その姿は啓一が口癖のように言っているでかい男、というのをすでに体現しているように思われた。

「ほぉ、お子様が言うようになったじゃねぇか」

「だから俺はお子様じゃないっす! 何度言ったら分かるんすか、和馬さん!」

 和馬の冗談を向きになって返すところはまだまだだが、それでも一歩前進だろう。そして隼人は紗枝に向き直ると、

「紗枝、もう一度、俺を信じてくれないか?」

 そう問いかけると紗枝は何かに耐えるように顔を俯かせ、震える声音を絞り出した。

「……卑怯だよ……隼人君は。そんなこと言われて、私がいいえ、なんて言える訳ないよ。だって、隼人君はいやだって言っても、勝手に命懸けで私のことを助けようとするんだもん」

 そこで紗枝は俯かせていた顔をばっと持ち上げると、

「だから私も、今度は隼人君を助ける。私みたいに臆病で弱い人間が何をできるか分からないけど、私も、今度こそ隼人君を守るから」

 そう正々堂々と言い切ったその姿は、紗枝が言うような臆病で弱い人間にはとても見えなかった。自分の中の確かなものを持った、強い女性しか隼人の目には映らなかった。

 最後に残った人物に、隼人だけでなく他の三人の視線も集まる。修はそれを見返しはしなかったが、分かってると言うように眼鏡をかけ直し、

「私は嫌ですね。自分の命は、自分で責任を持ちます」

 と何者も寄せ付けないよう氷の棘を纏ったように言い放った。

 それはただ単に昨日や今日のことで隼人のことを嫌っているというだけではない気がする。もっと、修の根本的な部分で拒まれているような気がした。まだそれが何なのか隼人には分からない。分からない限り、心が修に届くことはないだろう。

 しかし、これ以上の修の言葉は周りに悪影響を及ぼしかけない。隼人は、自分に怒っては駄目、怒っては駄目と言い聞かせながら慎重に言葉を探す。

「だったらお前はどうする? 一人で生き抜くとでも言うのか?」

「いえ、そんな傲慢な人間ではありませんよ。これからも釧路君達と一緒に行動したいですね。しかし、それは《ナカマ》だからではなく、互いの利用価値を考えてのことです。私は貴方達と一緒にいた方が生存率が高い。貴方達は私の使えるところを使っていく。そういう関係が望ましいです。尤も、こんな私など信用できないと捨てるのも一つの手です。私がいては皆さん不快な思いをするでしょう。捨てるというのなら、私は喜んでここを去りましょう」

 それでも一人で生き抜く自身があるのか、修は焦りや不安を一切見せず、澄み切った笑みでそう言って見せた。

 それに慌てて反応したのは紗枝だった。

「ふ、不愉快なんてそんなことないですよ! だから捨てていいなんて言わないでください! 私達は修さんを絶対に見捨てません! そうだよね、隼人君!」

 何故か紗枝が妙に張り切っている気がする。確かに、修を見捨てる気など毛頭ないが、どうして紗枝がそこまで積極的なのか分からず、何だかもやもやする。というか、先ほどもだが、いつの間に下の名前で呼ぶようになったのだろうか。

 それはさておき、隼人は真剣な表情で、修に向き直ると、

「ああ、お前が俺を仲間だって認めてなくてもいい。俺はもうお前を仲間だと思ってるからな。一緒に行こう会長。俺達にはあんたが必要だ」

 それを聞くと、修は面白くなさそうに息を吐き、眼鏡を人差し指でくいっと上げる。

「ある程度予想はしていましたが、本当に馬鹿ですね、貴方達は。裏切られるかもしれないと分かっていながら、《ナカマ》とは。良いでしょう。何のデメリットもありません。当分はそのような関係で行きましょう」

 万全、とは言い難いが、一応の纏りはなった。

 隼人はすっと立ち上がり、テーブルを囲む四人を見詰める。ここにいるこの四人が、今自分にとって最も大切な者だと視覚から脳に刻み込み、心に焼き刻む。絶対に守り通す、その覚悟をより一層固め、隼人は言葉を紡いだ。

「……俺達は東京を目指す。一筋縄じゃいかねぇだろうけど、皆で助け合えばきっと辿りつける。いいか、絶対に、この中の一人も死ぬんじゃねぇぞ……!」

 その誓いに、仲間達は各々の形で肯定した。

 そして、東京に向けての準備に取り掛かる。


 東京に行くための準備、といっても正常の世界の旅行のようにはいかない。旅館や、泊めてくれる温かい民家もなければ、安全も保障されていない。全ては自分で勝ち取らなければならないのだ。

 その為、長期の長旅になることを推定し、まず確保しなければならないものをピックアップしていった。まずは缶詰など、保存のきく食料を五人で一週間分。そして逃げる際に使った車を走らせるためにガソリン。他にも少量の衣服、医療品などが話し合いの結果必要となった。

 しかし、それほどの量、隼人達が利用している一軒家にあるはずもなく、必然的に啓一の言っていた他の家から拝借する、という案を採用することになった。

 だが、これは言うよりもよほど危険だ。外にはあいつ等、ではパッとしないので暫定的にペイシェントと称することにした。そのペイシェントがうろついているということ、そしてもしも場所がばれてしまった場合、隼人達はろくな準備も出来ないまま出発、もしくはそれすらもできなくなるかもしれない。

 その為、隼人達は慎重に慎重を重ね、その日の補給部隊は一日に一回、そして二人一組で出かけることを決めた。紗枝は補給部隊から外した。えこひいきではなく、女性の体と体力ということで、一回で大量の物資を運ばなくてはならないここでは、言いにくいことだが足手まといになってしまう。

 紗枝もそれを自覚しているのか、唇を噛みながら頷き、日程の調整、物資の記録などの雑務を頑張ってくれている。

 初日に外に出向いたのは和馬と啓一だった。隼人としては全て自分が同行し、もう一人を連れていくという方法をとりたかったのだが、和馬に反対された。

『こんな神経の張る作業ぶっ続けでやってたら、さすがのお前だって倒れちまうよ。心配すんな、俺達を信じろって』

 そう言われたら、隼人はそれ以上追及することが出来ず、渋々とその提案を飲んだ。

 和馬達が戻ってきて、次の日は隼人と修だ。表面上はいつも通りに接しているが、修との溝は塞がらないままだった。

 そうして三日が過ぎ、目標まであと一歩、隼人達が補給に向かえば、恐らくは準備が整うというところまで来ていた。

「隼人君、お願いだから、絶対に、絶対に、無茶はしないでね!」

「アニキ! ペイシェントがいても絶対に戦っちゃ駄目っすよ! 命を大事にっ、すよ!」

 玄関に立つ隼人に、先ほどから執拗に紗枝と啓一が同じ言葉を繰り返していた。その二重奏を朝からずっと聞かされている隼人はうんざりとした気持ちで、

「分かってるって。一体何回言うんだよ」

 いい加減耳にタコが出来そうな隼人は適当に返すが、紗枝の真剣な瞳は揺るがなかった。

「隼人君はすぐに無茶するんだから、しつこいくらいがちょうどいいんだよ! 修さん、隼人君が無茶をしないようにしっかりと見張ってね!」

 何でそいつに言うんだよ!? という隼人の驚愕は無視され、修は笑顔で答えていた。それが面白くない隼人は憮然と腕を組んでいたが、そこに肩をちょんちょんと叩かれる。

 振り返ってみると、そこには本日も見事なまでにもじゃもじゃとした赤毛をした和馬がいた。

「和馬か、何だ、お前まで俺に説教か?」

 溜息交じりの問いかけに、

「いいじゃねぇの。紗枝ちゃんみたいな美少女に心配してもらえるなんて男冥利に尽きるだろ? お前だって内心鼻の下伸ばしてるくせに」

「なっ、伸ばしてねぇよ!」

 慌てる隼人の反応が面白かったのか、和馬はケラケラと笑うと、突然表情を真剣なものに変えた。

「それより隼人、会長の動きには気を付けろよ」

 修のことが話題に上り、隼人も赤くしていた顔を一気に元に戻す。

「会長か……この前に一緒に補給しに行ったけど、そん時は別におかしな素振りはなかったぞ」

「ああ、そうらしいな。けど、会長は夜な夜なおかしな動きを見せてる。さり気なく近づいて見ても、よほど警戒しているのか、何をしてるのか全く分からん。俺の早とちりだったらそれでいいんだ。でもよ、気を付けておいてくれよ」

 和馬の危惧は、別に会長を嫌っているわけでも、邪推というわけでもないだろう。そんな懐疑心を抱くのは当然のことであり、隼人もそれがない訳ではない。むしろ、修はそれをわざと抱かせている節がある。皆の前で裏切るかもしれないと言えばそれも当然だろう。

 隼人も、紗枝が絡んでくると何故か無性に腹が立つ。しかし、何日間か一緒に過ごして、修はそれほど悪い奴ではないんではないか、という思いも持つようになった。何手も先を読む思考力は舌を巻くものがあるし、小さい所でも気が利く。

 それ以前に、すでに修は、隼人の仲間なのだ。

 だからこそ、隼人は仲間に不義理なことをしない為にも、

「心配すんな、会長はいい奴だよ。気を付ける必要なんてねぇ」

 それを受けて、和馬は心底頭が痛そうに眉間を抑えたが、それがお前だな、と呟くと、

「分かったよ。元々、お前に仲間を疑えっていう方が無理あったんだ。無事に帰ってこい。生きてねぇと、信じることも出来ねぇからよ」

 おう、と返事をし、隼人と和馬は互いの拳を合わせた。


 一切の音を出さないように慎重にドアを少し開く。

 時刻は深夜一時。闇空の下で月明りと街灯が怪しげに道路を照らしていた。

 この時間帯が観察した結果、一番ペイシェントを見ないという結論に至り、いつも補給はこの時を狙っている。そして隙間から入念に敵がいないことを確認すると、修と共に外に出向いた。

 近くの家はすでに補給で入っている為、これ以上目当てのものはない。その為に、隼人達は必然的に離れたところまで行かなくてはならない。距離にしてほんの十数メートルだが、そこを歩く隼人達は渓谷にかけられた一本の丸太の上を歩くような気分だった。足を滑らせれば死んでしまうのと同じように、それほど容易に死の危険が隠れ潜んでいる。

 冷汗さえも零さないように、数百メートル先の影さえも見逃さないように、衣擦れの音さえも拾うように、集中しながら歩く。

 その甲斐あってか、今回も途中でペイシェントに出会うことなく、目的の家まで着いた。二階建ての一軒家で、ガレージには車も残っており、条件にはぴったりだ。

 大体の家はすでに家主が逃げているということもあり、鍵が開けてあることが多い。この家もその例に漏れず、隼人が金属の擦れる音を鳴らさないようそっとドアノブを回すと、素直に動いた。

 二人は素早く家の中に入ると、最後の締めとしてすっとドアを閉じる。それを確認し、互いに顔を見合わせた隼人と修は安堵の深い溜息を吐いた。

「何とか今回も見つからずに済んだな」

「ええ、これを運がいいと思うのか、嵐の前の静けさと取るかは微妙な所ですがね」

「本当に会長はネガティブだな」

「何事にも慎重だと言ってもらいたいですね」

 そんな何気ない会話で心の落ち着きを取り戻した隼人達は、視線を家の中へと向けた。ここも何の変哲もない一軒家だ。玄関から通路が二つに分かれ、階段と奥にはリビングに繋がると思われるドアがあった。

「願わくば、この一軒で補給を終えたいものですね」

 修の疲れたような呟きに、隼人もこくりと頷いた。

 日本は地震に噴火、台風など災害の多い国だが、茨城県など関東地方ではここ数年は大きな災害にあっていない。あったとして、別の場所の地震の余波があるくらいだ。その為なのか、多くの家には家具などを固定する防災対策は施してあるが、非常食などの避難対策は疎かなものだった。

 その為に缶詰など乾パンという物はあるところにしかなく、何軒も家を巡る羽目に遭うのだ。

「ま、あることを期待しようじゃねぇか」

 そう言うと、隼人は土足のまま家に上がった。靴を脱ぐのが習慣である日本人としては中々に居心地の悪い行動だが、いざという時を考えればそんなことも言っていられない。

 中を探索しようとして、ようやく隼人は異様な匂いに気づいた。家の中にまるで生ごみを何か月も放置したような生臭さが広がっている。

 それは奥のリビングに向かうにつれ、強くなっているようだった。単なる生ゴミなら良いのだが、とりあえずは臭いの元を探そうと二人はリビングのドアを開いた。

 すると、隼人は鼻の中に針を突き刺さられたような感覚をくらい、咄嗟に手で覆った。それはあまりにも強烈で自然と目に涙が堪り、胃液が沸騰して溢れ出そうだ。後ろの修も吐き出しそうになった胃液を必死で耐えている。

 そんな苦痛に何とか耐え、リビングに視界を戻してみると強烈な臭いの正体が分かった。それは死体だった。それも人間の死体。

 ペイシェントに襲われたのだろうと思われる死体は男か、女か判別するのも難しい。腹部は背部分だけを残し、折られたアバラが剥き出し、臓器の類は見えない。顔面も激しく食い散らかされており、下顎だけを残し、他は削り取られていた。死後何日も経過しているのか、辛うじて見える皮膚からは紫に変色した血管が網のように浮き上がっている。

 元々は家族が集まるリビングも、死体の血で塗れており、それを見ただけでどれだけ凄惨なことが起きたのか、想像するには十分すぎた。

 これまで人間の死体というものを幾つも見てきた隼人だが、腐敗した人間というのは初めてだった。臭いは聞いた話の数百倍は吐き気を催し、見た目は死後の安楽など信じられないほど変わり果てている。

 ここに居たくないと、人間としての慈悲か、本能か、必死にそう思った。

 そんな時、修に肩を叩かれる。

「釧路君、確かにこの遺体は凄まじいものがありますが、それよりも私達が警戒しないといけないのは敵の有無です。遺体がある以上、一時はここにいたことは間違いありません。そのペイシェントを見つける為にこの家を探すか、それとも別の家に行くか、どうしますか?」

 修は鼻と口を塞ぎながらもいつも通りの冷静な思考を見せた。それに当てられ、隼人も次第に落ち着きを取り戻すと、

「……別の家を探そう。はずれかもしれねぇのに、わざわざ危険を冒す必要はねぇだろ」

 隼人の提案に、修も首肯し、二人は玄関を向かう。

 ドアを僅かに開き、外にペイシェントがいないかをしっかりと確認する、その時だった。道路の街灯に一つの影が照らし出される。それに逸早く気付けた隼人は素早く、しかし音を出さない程度の速度でドアを閉めた。

「くそっ、駄目だ! 奴等が外にいやがる!」

「何というバットタイミング。そうなると危険度は、いるか、いないのかも分からないこの家の方が低くなってしまいますね。どうしますか?」

「どうするって……やるしかねぇだろ。この家にペイシェントがいないか探そう」

 仮に今外にいるのが一体だけだとしてもこの静寂の中、戦闘音で他が寄ってきかねない。一つしかない選択肢に、修も同意を示すと、

「では、私は二階を探索します。一階は釧路君に任せてもいいですか?」

 死体が一階にあった以上、もとより隼人はそのつもりだったので反論なく頷く。この前も修が二階で、自分が一階だったな、と取り留めもないことを思い出した。

「ああ、それでいこう。もしもペイシェントと会っても一人で戦おうとするなよ。絶対に俺を呼べ、会長」

「ふふ、元よりあいつ等に一人で立ち向かう勇気も戦闘力もありませんよ。有事の際は頼りにしています。一通り探し終えたら、一階で合流しましょう」

 互いに頷き合い、修が足音を立てないように一歩、一歩と階段を上っていくのを見届けると、隼人は気合を入れ、視線を一階に戻した。いるとしたら一番可能性が高いのはここだ。そして殺すにしても、いつものように暴れて殺すわけにはいかない。なるべく音を立てないように、暗殺に近い形で成し遂げなければならない。

 そうなるとまずは武器の調達、ということで隼人は少し臭いが漏れた廊下の空気を命一杯吸い、吐き出す。それを何度か繰り返し、息を止めるとすり足で廊下を歩く。

 リビングへの戸をあけ、死体を迂回して奥にあるキッチンへと向かう。電子コンロの下にある戸棚を開くと、そこには目当ての包丁が並んでいた。ステンレス製の出刃包丁に、果物ナイフ。隼人は振り回しやすさや殺傷性などを考え、出刃包丁を手に取る。

 そろそろ息が持たなくなってきたので、隼人は急いでリビングを後にする。さっとドアを閉めると、止めていた息を盛大に吐き出した。何度か深呼吸し、息を整えると今度は分かれている通路の向こうを探しに行く。

 通路のすぐそばにあったふすまを開けて見ると、見えたのは畳の和室だ。暗くてよく見えないが、奥には仏壇も置いてある。そんな部屋を土足で赤の他人が探し回るというのは失礼極まりないが、そんなことを言っていられる状況ではない。

 隼人は一応の良心として入る前に合掌すると、中に入る。部屋には仏壇と姿見が置かれているだけで特に隠れられるようなスペースはない。しかし、押し入れと思しき、ふすまがある。隠れるには絶好の場所だ。

 隼人は他にいないことを確認し、畳のざらざらとした上をゆっくりと歩いていく。手には包丁を逆手に持ち、いつでも刺し殺す準備を整えておく。反対の手でそっとふすまの取っ手に手をかける。

 二、三度深呼吸を繰り返すと、キッと視線に力を込めるのと同時に息を止め、勢いよくふすまを開けた。振り上げた包丁は、しかし途中で力なく垂れさがる。押し入れの中には段ボールが敷き詰められていた。そこに人が隠れられるスペースはなく、埃も被っている為、動かした形跡もない。

 ここの安全が確認できると、隼人は体の力が抜け、思わず座り込んでしまいそうになったが、それを何とか気合で踏ん張った。まだ、探索していない場所はある。

 和室を出ると、今度はその隣の部屋を調べた。そこは恐らく夫婦の寝室なのか、大きなベッドが置いてあり、化粧台やクローゼットがあるくらいで、特に探す手間はかからなかった。

 もしかするとここにはいないんじゃないか、と二つの部屋を調べて見つからなかったことに対し、隼人がそんな油断をしていると、突然トン、トン、という音が聞こえてきた。反射的に腕を構える隼人だったが、音の小ささから別の部屋から聞こえると思い至る。目を閉じ、音源を探ってみると、斜め向こうにあるドアの向こうからだ。

 木製のドアで外側に照明のスイッチがある。それを見て、隼人は恐らくこのドアの向こうがトイレであると推測できた。トイレというのはどこも同じような雰囲気がある。

 足音を立てないようにドアの前まで来ると、先ほどから聞こえている音はさらに大きくなった。ごくりと隼人は大きな音を出しながら唾を飲み込む。心臓が激しく胸の内側を殴打していた。呼吸が自然と浅くなる。

 包丁を握る手にさらに力を込めると、隼人は汗ばんだ手をそっと動かす。鉄製のドアノブが汗を伝い痛い冷たさを隼人に伝えた。

 やるしかない、そう覚悟を決め、ドアを勢いをつけ開くと――――

 そこにはただトイレがあるだけだった。キョトンとする隼人の視線の先で何かが落ちる。無意識に目で追うと、それは雫だった。この家の洋式トイレはタンクの上に蛇口があるタイプらしく、水道が緩んでいるのか、ポタポタと水が定期的に垂れていた。どうやらそれが戸を隔て、トン、トンと聞こえていたらしい。

 脅かすなよ、と幸せを全て吐き出すような景気の悪い溜息をして、トイレを後にする。

 ただトイレを見るだけでどっと疲れた隼人であったが、もう一か所確認しなければならない場所がある。トイレの真横に位置する風呂場だ。

 まだいる可能性もある、そう緩みきった精神を今一度締め直し、隼人はドアを慎重に開いた。僅かに隙間を開け、覗き見るとそこは洗面台があった。他には洗濯機や体重計、一般家庭と何ら変わったところは見受けられず、ドアを開くと中に入る。

 月明かりが風呂場から薄っすらとだが、洗面台を照らのみ。だが、暗さになれた隼人の目はそれだけで十分だった。見回し、いないことを確認すると、最後の締めにと風呂場と区分する曇りガラスのスライド式ドアを見やる。

 ここを確認すれば、もう一階にはいる可能性はない。あとは二階にいて修が襲われなければいいんだが、と考えながらドアを横に引いていく。

 徐々に開いていく先にはタイルの床が見え、かなり大きめのバスタブが見えた。ここの家主は風呂に拘るタイプなのだろうか、とどうでもいいことを思っていると、突然妙なものが見える。

 位置的に風呂場のど真ん中にあるそれは、丸かった。そして白い。そんなものが風呂場にあるだろうかと、隼人が疑問に思いながら開いていくと、その頭頂部に黒いものが見え、そして白かった表面がペンキをぶちまけられたように赤く染まっていた。そしてよく見るとそれは動いている。いや、震えていた。まるで寒くて人間が振動するかのように―――

 そこまで気付くと、隼人は全身の筋肉が硬直し、驚愕のあまり息がつまった。そして叫びそうになる声を、喉を筋肉で締め付けることで堪え、叩きつけるようにドアを閉めようとする手を全精神をもってそっと動かした。

 五月の真夜中で少し肌寒いくらいなのに、隼人の顔からはおびただしい量の汗が垂れ流れた。隼人が見た者、それはペイシェントに他ならなかった。何故風呂場で丸まっているのか分からない。しかし、服にこべりついていた血は十中八九、リビングの人を食い殺したのだと推測できた。

 落ち着け、落ち着け、落ち着けと脳内で連呼する。呼吸音が出ないようにゆっくりと深呼吸をする。そしてこれから自分がすべき行動を整えた。

 まず、この中にいるあれを殺さなければならない。それは隼人達が生きて帰る為の絶対条件だ。そして音を立ててはならない。物音で外のペイシェントにも気付かれたら意味がないからだ。

 隼人は尋常でなく加速する血液に抗い、一連の行動をシュミレートする。

 まず、ドアを勢いよく開き、それに気付きペイシェントがこちらを振り返る。その隙に振り被った包丁で声を出さないように喉元を突き刺す。

 イメージトレーニングを終えると、隼人は呼吸を通常に戻した。可能な限り迅速にだが、焦ってはいけない。失敗すればもともこもないのだ。

 そして、隼人は向こう側にいるであろうペイシェントに視線を合わすと、ぶつかって音を立てないようにブレーキをかけながらも、勢いよく開き、そして振り被った包丁を突き刺すように下す。

 だが、そこで異変が生じる。先ほどまで丸まり震えていたペイシェントがいないのだ。

 一体どこに!? そんな混乱が隼人を支配する直前に、ガタッと天井から音がする。まさか、と思いながら仰いでみると、そこには風呂場の電球に掴まり、天井に張り付いているペイシェントがいた。隼人と視線が合うと、その男型ペイシェントは真っ赤に汚れた口をにやりと歪め、飛び降りると襲い掛かってくる。

 初手で完全に裏を掻かれた隼人は決定的に速度で負けていた。辛うじて手で受け止めるも、それに気をとられるあまり、手から包丁を落とされてしまう。バスタブに消えていく武器を隼人が必死で手を伸ばすと、させまいとペイシェントの咢が腕に咬みつこうとする。

 クソッ、と声を発すると、隼人は一端包丁のことは諦めた。まずは上に乗っかっているこいつをどうにかしなければならない。しかし、相手の見た目は十代前半の子どもだが、その膂力は隼人より勝っていた。

 がむしゃらに自分を食おうとしてくる歯を何とか食い止めているが、力の差で徐々に、徐々に唾液塗れの口内が近づいてくる。体を捻り、どかそうとするも、ペイシェントは足でしっかりと耐え、抜けることは困難を極めた。

 初手での予想負け、態勢の不利、膂力の敗北と全ての条件が隼人に死を押し付けてきた。すでに抑え込んでいる腕も限界に近い。筋肉が悲鳴を上げ、痙攣している。ガチッ、ガチッ、と打ち鳴らされる歯がすでに数ミリのところまで来ていた。

 こんなところで死んじまうのか!?

 無念さと仲間を残していく罪悪感が彼らの顔を映す。和馬、啓一、修そして紗枝。こんなところで死ねない、死にきれない、そう思っても腕の筋肉はすでに限界を超えており、歯がついに隼人を食らう―――その時、ぶがっ、とペイシェントがおかしな声を上げた。

 すると、先ほどまで凄まじい力で押し込められていた頭が軽くなり、そのままどさりと横に倒れた。起きたことの不可解さに隼人が死んで夢でも見ているのかと疑っていると、

「なるほど、これが人を刺した時の感触ですか……中々気持ちのいいものではありませんね」

 と少し音程高く滑らかな声が隼人の耳に届いた。

 顔を上げると、そこには引き攣った笑みを浮かべる修が汗を流しながら立っていた。体を起こし、ペイシェントの頭部を見ると、ようやく何が起こったのか分かった。その頭部にはキッチンにあった果物包丁が深々と刺さっていた。

「会長、あんた……」

 隼人の尋ねるような言葉に、修は笑って返すと、

「まぁ、一応協力関係ですからね。釧路君にここで死なれては意味がないので」

 言いながら修は白く細い手を差し出してくる。それを握り、起き上がる隼人。

「それでも助かったぜ。やっぱりあんたは良い奴だな」

「良い奴……ですか?」

「ああ、あんたは俺のこと嫌いかもしれないけど、俺は、あんたのこと嫌いじゃねぇぜ」

 そんな隼人の言い分がよほど予想外だったのか、修は眼鏡をしていても分かるほど顔が驚いていた。

「理解しかねますね。貴方のことを馬鹿にする発言を散々してきたというのに、それでも私に怒りを感じないと?」

「まぁ、仲間なんて、っていう言葉は許せねぇけど、考え方なんて人それぞれだと思ってるからな。和馬と啓一、紗枝も仲間は大事だろうけど、あいつ等にもそれ以上に大切なものもある。別に俺の考えを押し付けるつもりはねぇさ。でも、仲間は馬鹿にすんな。これからはもっと協力していかねぇと生きていけねぇんだ。それに俺は会長のこと信頼してるしな」

 隼人が気兼ねなくそう言葉にすると、突然修はその端整な顔を崩した。

「ふふっ、おかしな人ですね、釧路君は。他人からそんなにストレートに気持ちを伝えられたのは初めてですよ。信頼ですか、中々良い響きです」

 そう笑う修は雰囲気も柔らかく、時間がとても和やかに流れている気がした。これはついにきちんとした仲間になれたか? と隼人が心を弾ませていると、

「では、こんなところで立ち話もなんですから、やることを済ましてしまいましょうか。二階にはペイシェントがいないことを確認済みなので、もう脅威はないでしょう。また苦労ですが、釧路君は外にあった車からガソリンを抜いてきてくれますか? その間に私は必要な物資を集めておきますので」

 といつも通りの硬質的で事務口調に戻ってしまった。

 確かに死体の傍で話をするものでもないし、急がなければならないのも分かるが、隼人は落胆する気持ちを抑えきれず、

「………はい」

 と何故か敬語で応えていた。


 隼人は外にペイシェントの気配がないことを確認すると、素早くガレージに移動する。そこには一台のワゴン車が止まってあった。ここの家主は車にこだわりがあるのか、ガレージに様々な部品があり、コレクションのように壁にかけられていた。上部分の一部がガラスになっており、雰囲気も悪くない。

 隼人は持ってきた工具を手に持ち、車の下に潜り込む。車のガソリンを抜く場合、ガソリンスタンドで入れてもらう給油口からでは困難だ。壊しても問題がない場合、下のタンクから直接抜き取った方が早い。

 隼人はタンクに繋がっていたホース状のものを工具で半ば力技で抜き取った。バキッ、という音が聞こえたが、今は無視だ。

 この際、ガソリンは引火しやすいので静電気に気を付けろと、修から警告を受けている。たった一瞬の静電気でも炎上しかねないのだ。

 ペイシェントとは違う緊張感を味わいながら、抜いたホースの口にポンプを差し込み、ガソリンを抜く。これで燃料もそれなりに集まった。恐らく何日間は走りっぱなしでも余裕があるだろう。

 あとは非常食の類があればいいのだが、そう向こうの具合を心配しながら隼人は車の下からはい出た。ガソリンを入れたタンクにしっかりと蓋をし、背負ったバックに入れる。

 修がまだ終わっていないみたいなので、手伝いに行くか、と歩きだそうとした時、背負っていたバックがガレージにかけられている様々な部品に当たってしまった。タンクを入れ、体積が増していることを完全に忘れていた。

 隼人がもたらした振動でかけられていた部品たちが一斉に揺れる。どれも金属類なので地面にでも落ちれば盛大な音が鳴ることだろう。そうなれば一気にペイシェントが集まってくることは想像に難くない。

 落ちるな、落ちるな! と隼人は腰を落しながら全ての部品に目を配る。大抵のものが落ち着きを取り戻すが、世の中そううまく行くはずもなく、かけられていた工具が地面に落ちようとした。

 しかし、それを警戒していた隼人は素早く腕を伸ばし、見事にキャッチ。ふぅ、と長く息を吐きだし、額の汗を拭った隼人だが、次の瞬間、見たものに絶句する。バンパーの代えと思われる大きな鉄板が落ちてきそうなのだ。

「おいおい、勘弁してくれよ……!」

 思わずそんな諦観の声音が漏れてしまう。

 そしてバンパーが落ちてくる。隼人は気力を振り絞り、もう片方の手でそれを受け止めたが、先ほどの工具よりも数倍以上も重い。上半身を倒すような姿勢で受け止めた為、体に満足に力も入らなかった。気合で耐えようとするも、バランスを崩し、石に落ちた金属が大反響を周囲に撒き散らした。

 突然北極か、南極にワープされてしまったのかと思うほど、体が一気に冷えた。

 そんな冷凍状態を解いたのは、玄関先から聞こえた足音だ。慌てて振り変えると、視線の先には高校生か、大学生ほどのペイシェントがじっと立っている。何を思っているのか、隼人を見詰めたまま、動く気配がない。

 そんな相手に、隼人もまた動けないでいた。動き、こちらが隙を見せれば、すぐにでも飛びついてくる、そう直感が訴えていた。

 そんなにらみ合いが数秒続いた時だった。

「釧路君、今の音は何ですか?」

 と、二階の窓から修が顔を覗かせ、声をかけてきた。

 それに隼人が一瞬だけ反応してしまった。慌てて意識を戻すと、ペイシェントがスタートダッシュの構えをとっており、そして飛ぶ勢いで猛ダッシュしてくる。

 隼人も少しばかり遅れ走り出す。

 接触する間近、隼人は敵の右ストレートを見抜き、体を捻ることで避ける。その動きをそのまま捻転力に変え、足を振り上げる。そしてペイシェントの後頭部を裏回し蹴りで撃ち抜いた。

 しかし、さすがの頑丈さを見せ、気絶するまでも至らない。隼人は咄嗟にバックに締まった工具を取り出すと、頭に一撃。頭蓋を陥没させ、真っ赤な血が顔を汚す。

 なんとか処理はしたものの、隼人は安堵することなく即座に玄関口を見た。その先に恐らくはこの辺りを徘徊していたのであろう、ペイシェントが三、四とまだまだ増えていく。

 荒い息を整えようとする隼人をどう見ているのか、彼らは一様に血走った目を見開き、涎の垂れた口を醜い三日月に歪めると、獣の唸りを上げながら襲い掛かってくる。

 これだけの数を相手にするのは不可能。そう判断すると、隼人は咄嗟にジャンプし、ガレージのシャッターを勢いよく閉める。

 だが、それでもペイシェントは止まることを知らないようで、鉄でできたシャッターが瞬く間に凸凹になっていく。ここが破られるのも時間の問題だった。

「会長、手を貸してくれ! こいつ等なんとかしないとこのままお陀仏になっちまう!」

 このままでは多数のペイシェントに襲われ、喰われるのは目に見えている。何とか二人で力を合わせ乗り切ろうとした隼人であったが、

「手を貸す? どうしてですか?」

 と思いもしない修からの疑問が上がった。二階からこちらを見下ろしている修は本気で分からないように目を丸くしていた。

「どうしてって、このままじゃ二人とも死んじまうぞ! 早く何とかしないと―――」

 途中までの台詞を、隼人とは打って変わって冷静な修が割り込んだ。

「ああ、それなら大丈夫ですよ。死ぬのは貴方だけです、釧路君」

 上から投げかけられた言葉の意味が分からず、呆然と見上げる隼人の視線の先で、修はにっこりと笑って見せた。

「私は何度も言ったはずですよ。仲間なんて下らないと。この結果は釧路君、貴方が自分で引き寄せたものだ。脆弱な仲間意識なんかに流されず、しっかりと私を排除していればよかったものの。まぁ、貴方は頑張ってくれましたよ。正直ここまで使える人間だとは思いませんでした。それじゃあ、釧路君、囮役、頑張ってくださいね」

 それを言い終わると、修は顔を引込めた。

「おい、待て、会長! そっちは―――くっ!」

 隼人の必死の呼びかけにも、修は答えることはなかった。そしてついに猛攻を凌いでいたシャッターに亀裂が入り始める。敗れた隙間から自分を喰いたくてしょうがない化物が見えた。


 *


 馬鹿な男だと、修は二階の廊下を移動しながら思っていた。

 緊急時用にすでに脱出手段は確保してある。クローゼットの服やカーテンなどを結び合わせ、反対側の窓から垂らす。こういう時の為に、修は毎回二階を選択して探索していた。

 服やカーテンの綱は少々強度が心配だが、一度下りるだけなら千切れる心配はないだろう。向こう側、隼人がペイシェントと格闘している音をしっかりと聞きながら、修は何の罪悪感もなく、静かに道路へと降り立った。

 自分は何度も忠告していた。裏切ると、手を切っていた方がいいと。それを一般的な正義感に流され、判断できなかったのは隼人の過ちだ。それを土壇場のところで頼られても迷惑なだけである。

 しかし、このまま隼人を置いて、自分だけ帰ったとしても、和馬は騙すことは出来ないだろう。不良というので見下していたが、中々の洞察力の持ち主だ。だが、それさえも修は計算に入れている。

 この時の為に、わざわざ疑われるような言動を繰り返し、疑惑という信頼のおける監視を自分につけさせたのだ。そうして自分だけしか見ることが出来ないから、彼らはまだ気付いていない。協力者、安永紗枝の存在に。

 尤も、協力者といっても、裏切らせたわけではない。傍から見ても紗枝は、隼人に恋心を抱いているので、裏切らせるのは至難の業だ。しかし、同時に彼女は優しすぎる。自分のことを疑いもせずに、親身になってくれるほどだ。それは別の理由もあるが、今はいい。

 修は、紗枝にただ一つ頼んだだけだ。

 一台の車に物資を全て積んでおくと、万が一の時に危ない。だから、半分に分け、隣の車に積んでおいてくれないか、と。

 それを疑うことなく信じた紗枝はせっせと危ない道を歩きながら物資の半分を、隼人達の知らない車に積んでいる。自分の行動だけに目を光らせていたため、和馬さえも気づいていない。キーは手元にある。これで何ら問題なく、一人では芳醇すぎる量の物資を手に入れ、ここから逃げ出せる。

 修は道路のアスファルトに降り立つと、極力音を出さないように努力しながら、走った。その足取りは重くはなかった、いや、重くてはいけなかった。

 何を犠牲にしてでも生きなくてはならない目的がある。裏切り者だと、人殺しと、クズだと罵られても構わない。復讐を成し遂げる為にも、今は生きる。

 走っていると、隼人達が拠点にしている家が見えてきた。そのまま前を突っ切ればすぐに隣の家につくが、もし見つかってしまったら、そんならしくない弱気が沸き起こり、修は咄嗟的に迂回していくことにした。

 体を横に捻り、小道に入っていく。角に差し掛かり、曲がろうとしたその時、修の視線に白いロングコートのような衣服が映った。その患者服を忘れられるはずもなく、修は足をギリギリのところで止め、背中を塀にピッタリと貼りつけた。

 まるで花火の音のように激しく鼓動を打ち鳴らしながら、角から顔を少し覗かせ、向こうの様子を窺う。しかし、ペイシェントはどうやら修のいる位置とは反対方向を向いているらしく、気付かれた様子はない。

 一先ずそっと溜息を吐きだすと、乱された計画を再構築していく。ペイシェントがここにいる以上、この道は通れない。ならば、戻ってから家の前を通るしかない。

 すぐに決断すると、修は壁から離れ、元来た道を戻ろうとした。

 だが、その時、ザッ、ザッ、とペイシェントのいた道から足音が聞こえる。そしてその音は何故かこちらに近づいているようだ。体の血液が危機を察知し、流れが早まる。

 どうする!? と、修は冷汗を一つ垂らしながら、自問した。さっきは見つかっていないはず、ならばこっちに来ているのは偶然なのか? それなら無暗に物音を立てずにどうにかやり過ごすか? しかし、もし気付かれているならば、考える前に走らなければ危ない。

 そんな思考を数回、数十回としているうちに音はさらに大きくなっていく。足音に気まぐれや、立ち止まることはなかった。一直線に自分に向かってくる。それがさらに修にプレッシャーを与え、冷汗が一つ、二つと流れ出す。

 これ以上待っていればいずれこっちにまで来るかもしれない。そうなる前にまだ距離があいている今が逃げるチャンスだ。そう思い至ると、修はそれまで石像のように固めていた体を動かし、道を戻ろうとする。

 だが、そんな修を更なる絶望が襲う。戻ろうとした道に、少女と思しきペイシェントが立っているのだ。体の向きは真っ直ぐ修を見ている。真ん丸と見開かれた瞳に捉えられ、修は体中の血管が縮まるような悪寒を感じた。

 どうしてばれた!? そんな疑問をかなぐり捨て、叫びたくなる恐怖を堪え、筋肉が千切れる勢いで足を回した。そのまま二人のペイシェントのいない唯一の道を走る。今の修にはそこしか逃げ道がない。

 修が走り出すと、つられるように少女のペイシェントも動いた。小学生くらいの身長で、本来なら到底追いつけそうにもない距離をぐいぐいと縮めてくる。そして身をさらけ出したことにより、もう一体のペイシェントも追ってくる。

 あいつ等の身体的能力の高さは修も十分念頭に入れている。だが、何日かの観察と補給の際にここ等一帯の地図はだいぶ頭に入っている。そして人を見てすぐに襲ってくるあのペイシェント達は十中八九、知性に乏しい。恐らくはここ等一帯の人間がいなくなったので、理性が落ちてしまったのだろう。

ならば、まだ修には生存の可能性があった。次の角を曲がった先は小道が入り組んでいるので、地形を把握していないペイシェントは間違いなく迷うに違いない。

 まだ死なない! そう自分に言い聞かせながら、角を曲がろうとすると、突然視界に影が落ちた。何かが夜道を照らす電灯の光を遮ったのだ。前を見る修に、思考の余裕はなかった。ただ、患者服が目に入った瞬間に、漠然と死を予感しただけであった。

 しかし、体から力が抜けたせいか、膝ががくんと折れ、態勢を崩した。それが功を奏し、跳びかかってきたペイシェントの一撃を避ける。だが、修はそれに呆けることも、感謝することもできなかった。何故なら、小道の奥からまるで行く手を遮るように患者服の群が押し寄せてきているのだから。

 修は足に鞭打ち、態勢を立て直すと、再び逃走する。脳裏は半ばパニック状態だった。あまりにもペイシェントの動きが規則的、いや、妨害的過ぎる。まるで自分の行動を誰かに見られ、指示を送っているかのような的確さだ。

 そんな修の印象を裏付けるように、小道に逃げようとしてもペイシェントが現れ、巻くことが間々ならない。それを繰り返すうちに、修は十体以上のペイシェントに追われていた。

 そしてついにその逃走劇にも終わりが来る。

「は……はは、こんなに頑張って、行き止まりですか……」

 修はゆっくりと速度を緩めると、目の前の壁に拳を打ちつけた。そこは住宅街でよく見られる、家に囲まれた行き止まりだった。塀と玄関に囲まれ、これ以上逃げ道がない。

 そんな修の絶望的状況を楽しんでいるのか、ペイシェント達も自然と足を鈍らせていた。修を囲むように半円を作る。餌を前にした犬のように息を荒くしているが、何を思ってるのか、まだ襲い掛かってこない。

 しかし、今の修はそれに構う余裕などなかった。ここで死ぬ、そう思うと脳裏にあの男、父親の高笑いが聞こえてくるようだった。所詮お前には無理だ、そう言われているような気がした。母親は泣き叫んでいた。だからお前なんていらなかったのに、と。

 腸が煮えくり返る。死にたくないと歯を食いしばる。もう二度とごめんだ。あの男に冷めた目で笑われるのも、あの女に馬鹿みたいな罵倒を受けるのも。負けたくない。こんなところで自分は、負けるわけにはいかないんだ!

 そう思うと白く細い指を丸め、力強く拳を握った。隼人の見よう見真似でファインティングポーズをとる。それは自分でも笑ってしまうほど、不恰好だった。

「はは、まさか私がこんな肉弾戦をする羽目になるなんて思っていませんでしたよ。さて、名前も知らない化物さん、私はまだ死ねないんです。そこを、退いてくれませんか?」

 この言葉に反応したのかどうか、それを切っ掛けに、十体を上回るペイシェントが一斉に飛びついてきた。無駄だということは百も承知だ。生まれてこの方、拳を振るったことのない人間がこんな化物どもに敵うはずがない。

 それでも修は拳を突きだした。敵う、敵わないではない。ここで自分が負けてないという証拠の為にも、それが単なる自己満足だとしても、戦わなければならなかった。それは自分という弱い人間が出来る精一杯の足掻きだと思った。

 だが、そこで奇跡など起こるはずもなく、修の拳は、ペイシェントの横を通過するのみだった。数多もの人肉を貪ってきた凶悪な歯が、修に喰らいつく―――

「何やってんだこの馬鹿っ!」

 突然響いたその声は、もう二度と聞けるはずのないものだった。もう自分は死んであの世とかいう場所にでも行ったのかと思った。

 だが、修を襲った現象はそんな安らかなものではなく、ぐいっと、襟首を引っ張られ、喉が締まる。息がつまるのは一瞬だったが、次の時には修は宙を飛んでいた。一体何が起きたのか、全く理解できないまま、その目には綺麗な満月が映った。

 だが、次に見たのは芯の固そうなつんつんとした黒髪に、目つきの鋭い青年の顔だ。それは紛れもなく、先ほど修が裏切り、殺したはずの隼人だった。

「釧路君……な、何で……」

「んなもん後で良いだろ! 今は取り合えず逃げるぞ!」

 そう言うと修の体は自分の意思とは関係なく、動き出した。そこでようやく思い至る。今、自分は、隼人にお姫様抱っこの形で担がれているのだと。それは修からすれば羞恥の極みで顔を真っ赤にしながら、

「く、釧路君! 下してください! 自分で走れます!」

「うるせぇ! 暴れんな! バランスが崩れるだろうが!」

 その言葉にはっとして修が下を見ると、隼人は道路を走っているのではなかった。家の塀、その幅わずか十五センチほどのところを修を抱えて走っていたのだ。恐らく先ほども塀の上を移動し、そこで自分を引き上げ、助けてくれたのだろう。

 こんな上を走れるようなバランス感覚に自信のない修は、恥を堪え、そっと隼人の腕に収まった。後ろをちらりと見ると、ペイシェントも塀の上を渡ってこようとしているが、我先にと進もうとするため、うまく渡れていなかった。

 かなり距離を離すと、隼人は塀からジャンプし、アスファルトの道路へと着地した。そのまま休む間もなく、

「取り合えず、あの家に逃げ込むぞ!」

 そう言うと、近くにあった二階建ての一軒家に飛び込んだ。幸いなことにそこも鍵はかかっておらず、侵入は随分とスムーズに行われた。

 ドアを閉めると、修と隼人は息を潜め、外と内部にペイシェントの気配がないか探った。しばらくすると、外からペイシェントと思しきどたばたとした足音が聞こえたが、家に隠れたという発想は思いつかなかったらしく、道路を走る音と共に遠ざかっていく。

 修と隼人、どちらかともなく互いに大きなため息を吐きだした。

 そこで修はまだ抱えられた状態を思いだし、

「釧路君、いい加減下してくれませんか?」

 羞恥を笑みの裏に隠すと、押し殺した声でそう告げる。

「ん? ああ、スマン、スマン」

 と、隼人は別に謝る必要もないのに、何事もなくそっと修を下した。

「ペイシェント共がまだ近くにいるかもしれねぇし、会長も逃げ回って疲れただろ? ここで少し休んでおこうぜ」

 そう言うと隼人は土足で玄関から上がり、奥のリビングの部屋に向かっていく。

 その後ろ姿を見て、修は目を疑った。隼人の体はボロボロだった。所々に噛まれたような傷があり、制服は千切れており、何故かは分からないが焦げている部分もあった。出血もしているらしく、手からはポタポタと赤い水滴が垂れる。

 それ程の傷を負った原因など分かり切っている。自分が裏切ったからだ。あの時、ペイシェントに隼人が襲われている時に見捨てたからに他ならない。一体どれほどの激闘が繰り広げられたのかは分からないが、どれだけの恐怖が襲ったのか、十体のペイシェントと直接対峙した今なら少しは分かる。

 尋常ではなかったはずだ、叫ばずにはいられなかったはずだ。事実、修でさえ駄々をこねながら泣き叫びたかったのだから。

 それなのに隼人は文句を言うどころか、自分を助けた。それは本来感謝してしかるべきなのだろうが、今の修にはそう感じられなかった。まるで格の違いと見せつけられているような、敗北感を味わう。

 隼人のあとを追い、重い足取りでリビングに入る。

 冷蔵庫から緑茶を取り出し、がぶ飲みしている隼人をきっと睨むと、

「どうして私を助けに来たんですか?」

 ふてぶてしい声音でそう尋ねた。自分でも幼稚な反応だとは理解している。しかし、それでもそうやっていつもと変わらない態度をとられるのが修にはたまらなく嫌だった。

「どうしてって、そんなの仲間だからに決まってるだろ?」

 口元を拭いながら、隼人はまたもやそう言ってのけた。

 そこが我慢の限界だった。今はこんなことをしている場合ではない、外にはまだペイシェントがいる、こんな幼稚なことをするなら生きる方法を模索するべきだ。そんな理性の声を、しかし、沸き起こる感情の嵐が押し退けた。

「ふざけないでください……ふざけるな!」

 大声を上げてはいけないと、修の声は自然的に重さに耐え兼ね潰れたようなひしゃげた声になった。その声音がまるで今の自分を象徴しているようで、修はさらに胸に巣食うどろどろとした感覚が強くなる。

「仲間だから? それは本気で言ってるのか……私は貴方を裏切ったんだぞ! 貴方が助けてくれと頼んだ時に、私は躊躇いもなく見捨てた! 貴方が死ぬと仮定して見捨てたんだ! そんなに傷だらけになったのも、こうしてペイシェント達に追われているのも私の責任なんだぞ! それでも、それでも貴方は、私を仲間だというのか!」

 激しくぶつける修の声音を受けても、隼人は一切動じることなく、

「ああ、仲間だ」

 たった一言だけそう返した。

 何故だかそんな陳腐な言葉が胸に痛く、酷く体が熱くなる。そればかりか喉がつまり、挙句の果てには目の奥から何かが漏れそうだ。そんなことを断じて認めない修は首を振ると、嫌悪感に身を任せ、口を開き続けた。

「何が仲間だ、そんな綺麗ごとを並べてないで笑えばいいだろ! 貴方を裏切ってまで逃げたのに途中で敵に殺されそうになって、それでいて見捨てた貴方に助けられた! 滑稽じゃないか、不恰好だろ! 貴方だって本当は心の奥底で私を憎んで、嘲笑してる! 馬鹿な奴だと憐れんで―――」

 修の自虐に満ちた粘着質の言葉は、しかし、最後まで言うことは叶わなかった。

 頬に熱がこもる。いつの間にか顔は横を向いていた。眼鏡が飛び、あとから付け足すように肌がじんじんと痺れた。何が起こったかよく分からず、呆けながら顔を戻すと、そこには厳然とした表情の隼人がいた。平手が横に振られている。

 少しの間静寂の中で二人は見つめ合っていると、隼人が難しそうに眉間にしわを寄せ、後頭部を掻いた。

「俺は広辞苑に《仲間》って単語がどう載ってるのか分からねぇ。もしかしたら俺が間違ってるのかもしれねぇけどさ、裏切られたから仲間じゃない、なんてそんな軽いもんじゃねぇと思う」

 自信なさげに言う隼人の言葉を、修は呆然としながらもきちんと聞いていた。

「確かにあそこで見捨てられた時はショックだったさ。でも何体かのペイシェントが会長を追うように走り出して、俺は早くいかねぇと、って思えたんだ。このままじゃ会長が危ないって。そう感じた瞬間に、見捨てられたことなんてどうでもよくなったよ。これで十分じゃねぇか。見捨てられても、助けたいって気持ちの方が強かったんだ。これ以上に仲間の証拠はねぇだろ?」

 驚いた、というのが修の素直な第一の感想だった。何の利益も、得もないというのにただ感情だけで、ここまで来たことが信じられなかった。しかし、同時に納得していた。釧路隼人ならば、これ以上最悪な状況に陥っても仲間というだけで助けに来るのだろうと。

 何故だろうか、先ほどまで磨り潰されてしまいそうなほど苦しんでいた胸が、今は台風の過ぎ去った空のように澄み渡っていた。ようやく気づいた。仲間だと言われて、ただ自分を、他の付属性ではなく、東雲修を必要としてくれることが、堪らなく嬉しいのだと。

「……随分と貴方らしい言い分ですね。とても論理的ではありません」

 それでも素直に感謝できるほど性根が真っ直ぐでない修はそんな言葉で返した。

「論理とか、俺は頭悪いから分かんねぇよ。死んで欲しくねぇから助けるんだ。それに、前も言ったけど俺は会長のこと結構好きだぜ。ずばずばと物を言うところとか、気配りができるところとか。あんたがいなくなったら紗枝も悲しむだろうし」

 そんな隼人の何気ない一言に、落ち着きをとりもどしていた修の心は一気に騒ぎ出した。

「す、すす、好きって、く、釧路君貴方まさか……!」

「うん、どうした? あ、そう言えば眼鏡飛んじまったな。悪い、割れてるところとかねぇか?」

 幸か、不幸か、隼人は、修の慌てる姿には気付かず、眼鏡を拾いに行った。自分の秘密がばれているのではないかと、心拍数が一気に上がってしまった。ただそれだけだと、修は思い込むことにした。

「あ、ああ、いいですよ、眼鏡は。元々伊達メガネですし、壊れてしまっても何の問題もありません」

 取りに行こうとした隼人に、修は余計な手間をとらせる前に断った。それを聞き、意外そうな顔で隼人が振り向く。

「え、そうなのか? 何で伊達メガネなんてしてるんだよ。眼鏡しない方がカッコいいのに」

 隼人からの褒め言葉に再び鼓動が早まるのを必死で抑え、修はありていな理由を選んで答えた。

「ま、まぁ、一種のおしゃれみたいなものですよ。特に深い意味はありません」

 ふ~ん、と隼人は特に疑問を持った様子もなく、納得したようだ。一先ず一安心と溜息を吐きだすと、思考を切り替えた。

「それよりも、今はこの状況をどう打開するかを考えなければなりません」

 修の提案を妥当だと感じたのか、隼人も頷く。

「そうだな。このまま紗枝達のところに戻ったら最悪あいつ等まで付いてくるかもしれない。そうなったら今までの計画がパーだ。どうにかして巻くか、殺さねぇと……」

 隼人は現状をよく理解はしているが、打開するための策はないようだ。かといって修もまだ得策を思いついたわけではない。顎に手を当て集中するが、様々なことがいっぺんに起こりすぎたせいか、頭の整理がつかない。

 そんな時、ふと目にしたのは隼人の服についた焦げ目。前から気になっていたことで、思考に詰った修はそれについて軽い気持ちで聞いてみた。

「そう言えば釧路君、その服の焦げは何ですか? どうしたらそんなことに?」

 隼人は一度自分の服に視線を落とすと、思い出したようにああ、と呟いた。

「これはあの家であいつ等を焼いた時についたもんだ。さすがにあの数を相手にして勝てるわけねぇからな。ほら、俺は車からガソリン抜いてただろ? あれをあいつ等に浴びせかけて、近くに置いてあったライターをぶん投げたんだよ。予想以上に勢いが凄くて、俺も危く焼かれそうになったんだけど……」

 隼人は冷汗をかきながらしみじみと語る。

 なんとも無茶をしたものだと、修は呆れかえっていた。一歩間違えれば気化爆発も起こりうるというのに。だが、それを聞くうちに、修は脳裏である閃きが起こるのを感じていた。

「燃やす……そうですよ、それです!」

 修がいきなり声を上げたことに、隼人はびっくりしながらも尋ねてきた。

「そ、それってなんだよ?」

「ガソリンですよ。それを使ってあいつ等を丸焼きにしましょう」

「へ? いや、でもどうやって?」

「作戦はシンプルです。まずどちらかがこの家にペイシェントをおびき寄せます。その間にもう片方はガソリンをこの家の周りに巻き、火をつける。隙を見て脱出すれば、一網打尽です」

「いや、簡単に言うけどよ。俺が燃やしたのはペイシェントだから良かったけど、こんな家を丸ごと燃やしたら隣の家にまで引火するかもしれねぇぞ」

 確かに隼人の心配は尤もだが、修はそれを笑って受け流した。

「大丈夫ですよ。家よりも人命の方が価値は高いです。それに今なら誰も見ていないことですし」

 そんな法治国家にケンカを売るような発言に隼人は少し引いた様子だったが、次いで面白そうに頬を緩めた。

「ははっ、随分と調子出てきたな会長。良いぜ、乗った。それ以外にいい案は俺には思い浮かばねぇしな。会長が考え付いたんなら間違いねぇ。問題はどっちがどの役をやるかだけど―――」

「私が囮役をやります」

 きっぱりと言う修に、隼人は目を丸くし、厳しい表情で首を振った。

「いや、危険だ。万が一の時に会長はあいつ等に抵抗出来ねぇだろ? 俺なら多少の無理をしても平気だし、ここは俺が―――」

 そう言ってくれる隼人の優しさを嬉しく思いながら、修は手を掲げ、口を止めさせた。

「ですが、私ではガソリンを運んでくることもままならないでしょう。この家は和風の作りです。車は置いてありません。必然的に別の場所からガソリンを調達しなければなりません。彼らに見つからずに行動するのも、ガソリンを抜き取るのも、それをもって迅速に行動するのも、私より釧路君の方が適しています。こちらの役目は失敗できないのです。役割的に言ったら、釧路君の方が損をしていますよ」

 隼人はまだ何かを言いたそうに口を開きかけたが、自分の今の表情に何を思ったのか、途中で堪え、強い目で見つめてきた。

「……分かった。その役目は俺がやろう。必ず成功させてみせる。だから、会長も絶対に死ぬなよ!」

 どこまでも人の心配ばかりだなと、修は笑った。

「ええ、分かっています。私にも死ねない理由があるので。ではこうしましょう。先にガソリンを撒けば臭いで気付かれる恐れがあるので十分後、その時間になったら私は周りの目を引き、囮を開始します。あとは釧路君のタイミングで火を付けてください」

「了解。けど、どうやって脱出する? 手段はあるのか?」

「心配なさらずとも、簡易的なロープを作っておきますので、二階から逃げますよ……一度経験しているので心配はいりません」

 一度目に経験した時は隼人を裏切った時だ。それを思い出すと、修は体が重くなるのを耐えられなかった。そんな自分を励ますように、隼人の手が伸びてきて、肩を叩いた。

「俺は気にしてねぇんだから、会長も気にすんなよ。それじゃ、準備開始と行こうぜ」

 隼人は肩からそっと手を離すと、笑いながら外に出て行った。

 修は、自分の肩に残った隼人の手の感覚がくすぐったく、噛み締めるように笑うと、準備に取り掛かった。


 十分。

 胸の中でそう呟くと、修は今一度時計を確認し、予定時刻になったことに頷く。

 今頃隼人は他の所からガソリンを持ち運び、どこかで待機していることだろう。修の役目はペイシェント達をこの家におびき出すこと。あとは隼人が何とかしてくれると、確信をもってそう言えることが出来た。

 修は足音が鳴るのも気にすることなく、家の中を駆け回ると、部屋中の電気をつけた。暗闇の中、一軒だけ明りが灯るのは中々目立つ。それだけではまだ不十分とテレビをつける。尤も、電波障害で放送は何もやっていないが、適当に見つけたDVDを再生し、音量を最大限まで上げる。

 始まった海外の映画が耳を殴るような大音響を撒き散らす。とても聞けたものではないが、どうやらこの映画は雰囲気的に恋愛もののようだ。手に持ったパッケージを見ると、過去に深い傷を持ったヒロインを、主人公が励まし、その過程で恋が芽吹く、という感じの奴だ。内容はシンプルでやり尽くされた感があるが、この映画の状況は妙に自分とマッチしていた。

 ヒロインは最後には負った傷を主人公に告白するのだろうか。自分も、もう隠し事をしなくてもいいのではないか、隼人なら受け止めてくれる、そう思えた。

 いかん、いかんと修は横道にそれてしまった思考を、頭を振ることで強制的に引き戻した。まだやらなければならないことがある。

 修は駄目押しにオーディオも作動させ、最大音量で曲を垂れ流させると二階へと向かう。二階の窓から外を眺めると、予定通りに音と光につられ、多くのペイシェントが修の元に集まってきていた。

 十、二十、まだまだ増えていく。呻き声や獣の咆哮のような声が静寂の間を作ることなく発せられる。作戦だと分かっていても、その圧倒的数を前に恐怖心が決意を揺らげた。しかし、それはすぐに収まる。隼人が言ってくれた仲間という言葉で。

 自分でも軽いかもしれないと思う。今まで散々その言葉を馬鹿にし、ましては心の中では裏切る算段をしていたのに、今ではころりと態度を変えている。だが、そんなことがどうでもよくなるくらい、隼人に必要とされたことが嬉しかった。

 だからこそ、自分は十全を尽くす、そう心内で叫び、最後の仕上げにかかる。

 修は二階にあるタンスや棚などを部屋から引きずり、階段に落す。それを何度も繰り返し、階段にバリケードを作ったのだ。これで数分くらいなら持ちこたえられるだろう。逃げるには十分な時間だ。

 あとは下にペイシェントが十分に集まり、隼人が火を放ってくれたら計画は成功だ。修はその時を待ち、下に無数の叫び声と足音がもたらす恐怖を必死でこらえていた。だが、何故だろうか、もう十分ペイシェントは集まったというのに、未だ火が放たれる様子はなく、またガソリンの臭いも全くしない。

 予定の十分後はすでに五分を過ぎようとしていた。計画のずれから焦燥感に駆られていると、ボガァン! と下の階から激しい音が鳴り響いた。

 はっとして階段の方を見ると、作っていたバリケードに穴が開き、そこから人の手が突き出ていた。ズボッ、と手を引き抜くと、その穴からぎょろりと剥きだした目がくりくりと動き、修を捉えた。背筋が冷水を浴びたようにぞくりとする。

 こうなってはバリケードが破られるのも時間の問題だ。しかし、ここは二階。脱出用のロープはすでに作ってあるとはいえ、下はペイシェントだらけ。この状態で逃げてもライオンの群れに飛び込むようなものだ。

 釧路君、何をしているんですか! 時計に目を向けながらそう叫んでしまいそうになる。バリケードの破られる音が次第に大きくなっていく。しかし、火はつくことがなかった。

 不安が様々な想像を抱かせ、そして修はようやく悟った。

 自分は、隼人に裏切られたのだと。

 それは考えれば当然のことだ。どこの世界に裏切った相手をまだ仲間だという馬鹿がいるだろうか。信頼を築くのは難しいが、崩すのはたやすい。裏切りは少なかった隼人との信頼を、さらに渓谷のような亀裂を入れてしまった。

 さっき自分を助けたのも、こうしてさらなる絶望感を味わわせる為だったのかもしれない。事実、そんなことをされても文句を言えないことを、修はしてしまったのだ。

 四肢から力が抜け、修は壁に背中を擦りながら床に座り込んだ。なんとも滑稽だ。他人を傷付けておきながら、自分は助けてもらえると信じていたなど酷く無様だった。

 誰も信じてはいけない。人間は所詮一人だと子どもの頃に痛みとして叩き込まれたというのに。

 ―――修の家は日本屈指の名家だった。何百年と続く家柄と事業の成功により巨万の富を築き上げた。

 修はそこで当主と正妻の間に次期当主として生まれ落ちた。修を生んだ時、少しばかり問題が起き、母はもう子どもを産めなくなってしまった。しかし、だからこそ自分にありったけの愛情を与えてくれた。

 当主であった父は昔かたぎな人間で、自身にも、外にも厳しい人間だった。ただ立ってるだけで睨んでくるその目が、幼い修には苦手だった。

 それでも父は自分を愛してくれていると思っていた。男らしくあれ、家に恥じぬ人間になれ、と幼少期から厳しい稽古をつけられたが、それも愛あってのものだと思っていた。母も習い事をきちんとすることが出来れば、必要以上と思えるほど褒めてくれた。自分は、この世界に祝福されていると信じていた。

 しかし、ある出来事を境に修の生活は一変する。当主の愛人が一人の子どもを産んだのだ。修に比べれば容姿も、能力も平凡な子ども。しかし、昔かたぎな父は先天的要因だけで次期当主をその子どもに変えた。

 すると、今まで修を祝福していた者達は手の平を返したように、自分を貶すようになった。それは次に正妻でありながら、修しか産めなかった母にもおよび、半ば強制的に母と自分は家を追い出された。

 悔しいという気持ちはあった。必死に頑張って期待に応えようとしていたのに、父にはあっさりと捨てられたのだ。だが、まだ母がいる。母は自分を愛してくれている。修は二人なら幸せになれると確信していた。

 だが、それもまたまやかしだった。家を追い出され、平凡なアパートで暮らすようになり、母は荒れた。酒に浸り、男に媚び、そして修に暴力を振るうようになった。

「何でお前が生まれた!」「私があの家に取り入れるまでどれだけ手間をかけたと思ってる!」「せっかく裕福な暮らしが手に入ったっていうのに、お前のせいで全部パーだ!」

 その暴言の数々を擦れきって摩耗した心で、修は静かに聞いていた。

 そして全てを理解してしまった。

 最初から全て自分の思い込みだったのだ。愛されてなどいなかった、期待されてなどいなかった。母が必要以上に褒めたのも、自分が習い事で結果を出せなくなれば、捨てられるという恐怖心があったからだ。

 自分は、東雲修は父にとっては変えのきく部品であり、母にとっては裕福を手に入れる為の道具に過ぎなかったのだ。祝福だと思い込んでいたそれは、子どもが新しいゲームを買ってもらった時の興奮と同じだった。飽きればすぐに捨てられる。

 その後、母は貧困の生活に耐え兼ねたのか、自殺をした。それを最初に発見したのは修だったが、ぶら下がるそれを見ても涙一つ出なかった。葬儀は一応開かれたが、父や家の人間は誰も来ることはなかった。

 その時に修は悟ったのだ。人間は、他人と利用価値でしか付き合うことが出来ず、それがなくなれば縁を切られる。信頼なんてものは、それをオブラートに包んだだけなのだと。

 だから修は誓った。自分は、自分一人の力でのし上がり、そしてあっさりと捨ててくれた父を、今度は自分が捨ててやる。利用できるものは全て利用する。信頼など上辺だけで語ってやる。もう捨てられる側には成り下がらないと―――

 そう誓ったというのに、今はどうだろうか。

 ものの見事に過去を繰り返している。いや、そうではない。この場合は自業自得だ。父と母を憎むあまり、自分が全く同じことをしてしまったのだ。昔の修が両親を憎んだように、隼人もまた、自分を憎んでいたのだろう。

 ついに階段のバリケードが突破された。散乱した木片を踏み砕きながら、人肉を貪るハイエナが迫りくる。

 もうどのみち助からない、そう思うと、修は抵抗しようという気すらも起こらなかった。裏切られたことがあまりにもショックだったのか、何も感じない。ただ淡々と、口を大きく開け、涎を垂らす彼らを眺めるだけだ。

 終わる。今まで自分が積み上げてきた物が全て砕ける。前を見ることも、情を抱くこともなく、ただ憎しみだけを糧にした必死の人生が幕を閉じようとしていた。皮肉なことに、それをやってしまったのは両親の影となった自分だった。

 楽にして欲しい。もうこんな世界で生きていくのは嫌だ。辛いことばかりで、見返りはあまりにも少ない。一体この人生で自分が手に入れたものがどれだけあるだろうか。憎しみの為だけに高めた勉学、外面だけの体裁、どれも薄っぺらいものばかり。

 そんな中、《仲間》と隼人の声が脳裏によみがえった。

『裏切られたから仲間じゃない、なんてそんな軽いもんじゃねぇと思う』

 確かに隼人はそう言ってくれた。それだけで自分の裏切りを許してくれた。

『見捨てられても、助けたいって気持ちの方が強かったんだ』

 そう言って裏切られたすぐ後だというのに自身の危険を顧みずに助けてくれた。

 隼人が裏切る? そんなことを思うことこそが最大の裏切りなのではないだろうか。確かに今までの自分は虚無的だったかもしれない。だが、隼人に助けてもらって自分は変われた。自分の為だけではない、誰かの為に何かをしてみたいと思えたのだ。

 どんな時でも、隼人は自分を信じてくれた。疑ったことなどなかった。ならば今度は自分の番だろう。仲間でいたいのなら、今度は自分が全力をもって、隼人を信じなければならない。

「はは、本当に世の中は分からないものですね。まさか、この私が他人の為に拳を握るなんて。昨日までの、いえ、数時間前の私ですら想像もつかなかったでしょう」

 いつも通りの丁寧口調で語りかけ、修は床に下された重い腰を持ち上げた。そして隼人の力を借りるようにファイティングポーズをとる。さっきやったよりも、今の方が様になっているように思えた。

「かかって来なさい、ペイシェント。私は、彼との約束でまだ死ねないんですよ」

 そんな修に、ペイシェントはじりじりと歩み寄りながら、包囲網を完成させていく。完全に周囲を塞がれても、恐怖心はなかった。確信していた。絶対に、隼人は来ると。

 それを嘲笑うようにペイシェントが叫ぶと、弾丸のように飛びかかってくる。

 修は先ほどのように見よう見真似で拳を突きだした。さっき外した拳は、今度は的確にペイシェントの頬を捉えた。尤も捉えただけで、威力のない拳は簡単に弾かれてしまう。それでも修は、殴った拳の痛みを感じながらどこか満足感を覚えていた。何かを信じることの清々しさを、久しぶりに思い出せた。

 そしてついにペイシェントの咢が修を肉片に変えんとした時、突如発生した爆音と爆風にその体は吹き飛ばされた。修も耐え兼ね、飛ばされそうになった時、何かに腕を掴まれる。治まった暴風を乗り切り、そっと目を開けて見るとそこにいたのは、

「スマン、会長! ガソリンとるときにあいつ等に襲われて遅くなっちまった! 本当にスマン!」

 済まなそうに眉尻を垂らす隼人だった。

 時間に遅れたことを気にしているのだろう。しかし、修はそんなこと気にはならなかった。ただ本当に来てくれたことに、堪えきれない胸の熱さを感じた。目の前に立つ隼人という存在が何よりも代えがたい宝に思えた。

「いいえ、信じてましたから、貴方は必ず来るって」

 そんな修の言葉を聞くと、隼人は驚いたように目を見開いた。

「ははっ、会長からそんな言葉を聞こえることになるとはな。苦労した甲斐があったってもんだぜ」

 元気よく笑う隼人に、修もつられて笑みを漏らす。

 だが、そんな和やかな雰囲気はいつまでも続かなかった。突然、ゴウッ! という轟きにも似た音が鳴ったかと思うと、高熱の炎が二階にまで侵食してきていた。

「こりゃ、ゆっくり談笑してる場合じゃねぇな。会長飛び降りるぞ」

 そう言うや否や、隼人は作っておいたロープを握りしめ、手を差し出してきた。

 それを見て、修は胸がときめくのを感じた。今までに味わったことのない感情で戸惑うが、初めてだからこそ修はそれを正確に把握できた。

 そっと手を握りながら、修は一つの決意をする。今度こそ、自分の隠してきたことを隼人に告げようと。

 隼人としっかりと抱き合い、飛び降りる寸前、修は笑っていた。秘密をばらすなどただ恐ろしいことだけだと思っていたが、不思議と今は早く知ってもらいたいと思える。そうでなければ、自分の本当の気持ちを伝えられないからだろうか?


 *


 修が作ったロープを手に持ちながら、隼人は滑らかに降下する。

 一階とその周りは火の海なので、うまく向こう側の道路に出ようと体を振った。しかし、突然ガクン、と重力に叩き付けられる。不安に駆られ上を見上げてみると、ロープを繋いでいた場所に火が回っていた。高熱に炙られた衣服が一つ、一つと糸を焼き切られ、ついには完全に切れてしまう。

「まずい! 会長、掴まれ!」

 このままでは焼死体が二体出来上がってしまうので、隼人は咄嗟に、修を抱き寄せると壁を思いっきり蹴り、アスファルトの上へとダイブする。

 マットなど敷かれていない道路の上は想像以上に痛烈なダメージを与えてくる。なんとか自分が下になり、打ちつけた背中からの衝撃で肺から二酸化炭素が吐き出される。

 ゴロゴロと転げまわり、ようやく止まった。それを確認すると隼人は鋼になったつもりで固めていた体を次第にほぐす。真横に赤々と燃える一軒家がある。どうやら、辛うじて道路に飛び移ることには成功したようだ。

 ほっと安堵する隼人に下から凛とした響きの声が催促してきた。

「隼人君、済みませんが退いてもらえませんか? いつまでもこうしているわけにはいきませんので」

 そんな声音に隼人ははっとして下を見やると、そこにはこちらを真っ直ぐに見上げ、静かに微笑んでいる修がいた。その笑みからは無言の圧力がこれでもかと放たれていた。

「ス、スマン! 今すぐ退くから!」

 上から伸し掛かってしまっている態勢になっており、慌てて退こうとした隼人はしかし、そのせいで突いた腕を滑らしてしまう。崩れそうな姿勢を咄嗟に腕を伸ばし、なんとか支えた。

 ふぅ、と冷汗をかいた隼人は額を拭おうとする。だが、妙な感触に気づき、体の動きが止まった。全神経が手に感じる感触の正体を確かめようとしていた。

 弾力があって、それでいてとても柔らかく、スライムなどを触ったことがあるが、あれを数百倍ほど心地よいものに変えたような感じだ。思わず何度も握る動作を繰り返してしまう。

 一体何が自分をそうさせるのか、そう思い下を見やった隼人は次の瞬間、本当に体が石に変わりそうだった。手の平の先、隼人を支えていたのは地面ではなく、修だった。正確に言えばその胸部。見事に左胸辺りを隼人は掴んでおり、今もなお握り続けている。

 この感触はただ脂肪が多いというわけではない。そんな粗末なさわり心地ではない。第一、修はどう見ても痩せている方だ。

 ならばこの感触は一体なんだ? そんな疑問に隼人がぶち当たっていると、

「は、隼人君、その、出来ればその手の動きを止めて欲しいのですが。さすがの私もそれは、大胆すぎるというか……恥ずかしいというか……」

 先ほどのブラックな笑みから一転し、修は熟れた林檎のように顔を真っ赤にすると、瞳に涙を溜めながら隼人から視線を逸らしていた。その仕草があまりにも色気があり、隼人の中で一気にいけないことをしている、という背徳感が駆け巡った。

「うおっ! ホ、ホントにスマン! 今退く!」

 飛び上がるように立ち上がる隼人。今度は先ほどのようなへまは犯さなかった。

 隼人が退くと、修は未だに頬を赤くしながら、照れ隠しのように背部分についた汚れをはたき起き上がる。

 何と声をかければいいのか分からない。隼人自身も今、物凄く困惑しているのだ。隼人は赤くなった修と柔らかい物を握った手の平を交互に見やるしか、行動が出来なかった。

 しかし、そんなことが面白かったのか、修は突然口に手を当てると笑い出した。

「ふふ、驚くな、とは無理だと分かっていましたが、そこまで驚きますか?」

「いや、だって……お前……え!?」

「ええ、そうです。きっと隼人君の考えは当たってますよ」

 そう言われると、隼人はもう答えるしかなくなってしまう。ごくりと唾を飲み、震える指先を向けると恐る恐る尋ねる。

「か、かかか、会長、まさか……女………なのか?」

 いやいや、冗談だろ。こんな身近にそんな人間がいるわけがない、とほとんどが疑心で固められた質問だったが、何ということか修は少しもじもじとしながらこくりと頷いた。

 それと同期して、隼人の顎も外れかかる。あまりにも唐突で脳が理解に追い付けていない。

「え、それじゃあ会長は女で? 男の会長はどこに行ったんだ!?」

「何を馬鹿言ってるんですか? 会長は私一人で男の会長はいません」

 そう言った会長は次に治まりかけていた顔を再び赤に染め、恥ずかしそうに口を小さく開くと、

「そ、それに貴方は今さっき触ったでしょ……その、女性と区別するための固有体型に……」

 そう言われ手の平の感触を思いだすと、今度は隼人が爆発する番だった。あの至福の柔らかさは女性の……

 そこまで思い出すと、修がそれ以上の想像を止めるようにコホン、と咳払いをした。

「女性の体をあんなに触ったんです。当然、その責任は取ってくれますよね?」

 そんな修の意味深な言葉に、隼人は脳が沸騰しそうなほど体温が上がっており、まともな思考が出来ない。何とか絞り出せたのは、墓穴を掘る反論だけだった。

「せ、責任って、会長はいいのかよ? 俺なんかで?」

 無論嫌に決まっている、と言われると思っていた。しかし、修の口からは想像していたのと真逆の答えが嬉々として出された。

「ええ、私は、隼人君なら良いですよ」

 え!? と呟いて隼人の時が止まる。一般的な責任の取り方として結婚などを考えていたが、修の言う責任とはエンコ詰めなどの罰の類なのだろうか。しかし、隼人が辱めてしまったのも事実。小指で勘弁してもらえないだろうか、と本気で悩んだ。

 だが、そんな隼人を面白がるように、修が堪えきれないように笑いだす。

「ふ、あははっ、冗談ですよ、冗談。こんな不意打ちのような形でやりませんよ。やるなら正々堂々と念入りに計画を立ててやりますよ。紗枝さんもいることですしね」

 一体修が何を言っているのか、何故ここで紗枝の名前が出てくるのか、混乱と羞恥で隼人はそこから答えを導き出すことは出来なかった。


 4 『似像』


 当たりのペイシェントは一掃したので、帰り道は悠々としたものだった。

 その道中を散々修に弄ばれ、ぐったりとしていた隼人だが、仲間の待つ家を見ると不思議と力が湧いてきた。補給の為に様々なことがあり、死んでもおかしくない場面も何度かあった。だからこそ、無事に帰り、紗枝や和馬と啓一と会えると思うと胸が震える。

 隣の修も今では同じような感想を抱いているのか、ほっと胸を撫で下ろしていた。そんな反応を見せてくれることに喜びながら、隼人は家のドアを決められたリズムでノックした。

 少し間が開くと、ドアが慎重に開かれていく。ペイシェントの可能性もあるので、この行動は当然のことだ。

 隙間からちらりと覗くもじゃもじゃ頭を確認すると、途端にドアが閉まり、ガチャガチャと向こうで音がするとすごい勢いで開かれた。と、思うと伸びてきた手に勢いよく体を引かれる。

「生きてたかこの野郎っ!」

 聞こえてきたのは歓喜に震える和馬のものだった。隼人の首を腕でホールドし、頭部を拳でぐりぐりと回転させてきた。そんな痛みも生きて帰ってこれた証に感じられる。目の奥が熱くなるのを感じながら隼人は、

「ったく、痛てぇよ! 当たり前だろう。俺はお前達を残して死んだりしねぇよ」

 そう乱暴に返すと、同じように和馬の首をホールドした。それに対し、和馬はかなり本気でタップをしていた。そんなじゃれている二人にもう一人の帰還者が口を挟む。

「酷いな、和馬君。私には挨拶はなしですか?」

 和馬君……!? と和馬は突然フレンドリーになった修に唖然とするように固まった。その肩に隼人は手を置くと、和馬の硬直を解く。

「心配すんな、もう会長は大丈夫だよ。きちんとした俺達の仲間だ」

 隼人の真剣な表情を見て、笑っている修を見て、和馬は何を察したのか、溜息を吐きだすと、

「そうかい。お前がそう言うんならそうなんだろうよ。で、会長が改心するほどのことが起きたんだ。ちゃんと説明してくれるんだろうな?」

 和馬の察しの良さに驚きながら、隼人は頷いた。恐らくは現状の説明を求めているのだろう。あれだけ大きく火を上げたのだ。和馬でなくとも気になっているだろう。

「アニキっ!」

 抑えた歓喜の声を上げたのは、廊下を走ってきた啓一だった。まるで主人の帰りを待っていた犬のようで思わず頭を撫でたくなる。しかし、何を思ったのか、啓一は途中で足を止めると、顔の表情を変にして言った。

「お、俺はアニキのこと信じてたから別に心配なんてしてないっすよ! アニキは最強っすからこんなくらいでやられるはずないって俺は知ってたっす!」

 汗をたらたらと流しながら言う啓一の台詞には、誰が見ても強がりだと丸わかりだ。それに止めを刺すように和馬が口を開いた。

「ほ~、なら炎が上がった時、頭にバケツ被って、モップを手に跳びだそうとしたのは信頼の証ってやつなんですか、啓一さん?」

「ちょ、和馬さん! それは―――」

「それに隼人達が返ってくるまでリビングのテーブルを百週もして、泣きそうになってたのはどこの誰でしたっけ、啓一さん?」

「それは言わないでくれって約束したじゃないっすか!」

「ふっ、甘いな。お前との約束は、お前をいじる為にあるんだよ」

「名言っぽく言わないでくださいっ! 苛つきが増すっす!」

 そんな二人の変わらないやり取りに和んでいると、もう一つの足音が響いた。隼人の視線は自然とその方向へと向けられる。

「隼人君!」

 まだ少し幼さの残るその可憐な声は、紛れもなく紗枝のものだ。

 リビングのドアから綺麗に整えられた黒髪を翻す少女を見付ける。紗枝は、自分の姿を見つけると一二となく、駆け出した。そのまま真っ直ぐ走ってきて、隼人はそれを体を使って受け止める。紗枝の軽い体重が、その思いの丈をぶつけるように重みを与えた。

「隼人君、良かった! 生きてたんだね!」

「何言ってんだ。お前を残して死ねるわけねぇだろ。昔っから紗枝は危なっかしいからな」

「あ、危なっかしくないよ! それは隼人君の方でしょ。昔から喧嘩ばかりして怪我一杯して。それを何度も手当したのは私なんだからね!」

 それを言われると、隼人は何も言えなくなってしまう。小学生の頃から喧嘩に巻き込まれやすい隼人は沢山傷を作り、その度に紗枝に手当してもらっていた。それはいい思い出であるはずだが、同時に今はもうそれが出来ないのだと思うと、胸を凄まじい力で潰されたような感覚だ。

 だが、そんなセンチメンタルな雰囲気は長く続かなかった。何故なら、抱き合う形の隼人と紗枝を、修が半ば無理やり引き離したからだ。どうした? と顔を見ると、ぞくりと背筋が凍結する。清楚な笑みを浮かべているが、その後ろからは般若の顔でも見えそうなほどのオーラを垂れ流していた。何故かは分からないが、かなり機嫌が悪そうだ。

「隼人君、貴方のことを隼人、と呼んでもいいですか?」

 何を言うかと思いきや、あまりにも普通のことで隼人は首をかしげた。

「え? いや、別にそれぐらいなら良いけど……」

「なら私のことも会長ではなく、修と呼んでくださいね」

 そう言うと可愛らしく首を傾け、腕に抱きついてきた。晒しで胸を押さえているらしいが、それでも確かな弾力があり、隼人は瞬時に顔が赤くなる。目つきが悪いのと、いつの間にか広まっていた悪名のせいで、生まれてこの方きちんと話した女子が紗枝だけという悲しい歴史の持ち主には刺激的すぎだ。

 それを見て、今度は紗枝が怒りマークを額に浮かべながら、にっこりと笑う。

「し、修さん、それは少し近すぎじゃないかな? ちょっと離れようか」

 言いながら、紗枝はまるで修に対抗するように反対側の腕に抱きつく。

「それには及びませんよ。隼人には体を弄ばれた責任をとってもらわなければならないので」

 完全に事実を湾曲させ伝えた修の言葉に、紗枝がばっと自分を見上げる。

「も、弄んだって、隼人君!」

「落ち着け、紗枝。こいつの質の悪い冗談だ。そんな事実は一切ない」

 暴走間近な紗枝を宥めるように、隼人はゆっくりとした声で告げる。両手に花という状態だというのに、まるで地獄の釜に茹でられている気分だ。

「冗談とは酷いじゃないですか。あんなに何度も私の胸をもんだのに」

「む、むむむむ、胸!?」

 紗枝の想像のキャパシティを超えていたのか、白煙が焚かれそうなほど瞬時に顔を赤くする。しかし、何を思ったのか、涙目の震える口で、

「わ、わわわわ、私だって自分の部屋に連れ込んだことあるんだから!」

 と、訳の分からないことを叫ぶ。確かに紗枝の家に何度か言ったことはあるが、部屋に連れ込まれたことは……あれ、あったような?

 そのままきっと睨み合う二人に困り果てていた隼人に助け船を出してくれたのは、親友である和馬だった。

「いや、盛り上がってるところ悪いんだけど……一体何がどうなってるんだ?」

 難解な表情で一歩退いている和馬の後ろでは、啓一がクマを見たような青ざめた顔で背中に隠れている。とりあえず今は諸々の事情を説明するのが先だと、隼人は一触即発の雰囲気の二人を半ば強引にリビングに連れて行った。


 えぇぇぇぇぇ!? と、叫びだそうとした和馬と啓一の口を、事前に予想していた隼人が手で押さえこんだ。二人が、目が飛び出そうなほど驚いているのはペイシェントに襲われたことでも、間一髪で助かったことでもなく、修が実は女性だったということだ。

 隼人自身、それを聞かされた時は心底驚いたので気持ちは分かるが、もう少し命からがら逃げだしたことに食いついてもいいのでは、と思わずにはいられない。

 ようやく落ち着いたのか、二人が静まったのを確認し、隼人は手を退ける。二人は呆然としながら修を見やった。

「ま、まさか会長が女だったなんてな。今まで校内集会とかで何度も見てたけど、全く気付かなかったぜ」

「和馬君も啓一君もそれは酷いよ。どう見ても修さん、女の子じゃない」

 そう言うのは先ほどまで火花を散らしていた紗枝だ。何でも紗枝は最初に見た時から修が女性だと気付いていたらしい。こういった意外のところで鋭いから紗枝の目は侮れない。

「お、俺も気づかなかったっす。で、でもなんでそんなことを?」

 啓一の質問に、修は一泊、自身の気持ちを確かめるように溜めた。

「男として育てられた、というのもありますが、やはり復讐の為ですかね。先ほどもお話しした通り、私は両親に捨てられた。だからこそ、捨てた状態であの男の上を行き、そして捨てたかった、そんな願望があったからかもしれません」

「それで男の真似を?」

 隼人の一言に、修は悲しそうな瞳で微笑んだ。

「やっぱりおかしいですよね。そんなに嫌いなら忘れてしまえばいいのに。口では否定しながら、行動ではあの男を追い続けている。本当に……滑稽ですね」

 なんだか自虐めいた響きになってきているので、隼人は違うと首を横に振った。そんなつもりで聞いたのではないのだ。

「別におかしいなんて思ってねぇさ。忘れられるような簡単な思いだったら、復讐しようなんて考えられねぇだろ。俺は立派だと思うぞ。そんなきつい中でも自分の信念を貫けたお前をな。ま、でもこれからは仲間がいるんだ。一人で気張らずに俺にも色々と相談してくれよ。あ~、でも修みたいに頭いい訳じゃないから、的確なアドバイスとかは言えるかどうか分かんねぇけど」

 最後に自信を無くし、締りのない終わりとなってしまった。元気づけるならもっと頑張れよ、と自分自身を励ましながら隼人は照れくさく頬を掻く。これじゃあ、駄目だな、と思っていたが、修はおかしそうに噴き出した。

「ふふっ、本当に隼人は面白いですね。人に心配されたのは生まれて初めてですよ。ありがとうございます。貴方のそういう優しい所、私は好きですよ」

 真正面から好きと言われ、異性的な意味ではないだろうな、と思いながらも体は正直で頬に血液が溜まる。それを見て、紗枝がじと目で睨んできた。

 そんな三人を見て何を覚ったのか、和馬がふ~ん、と面白そうに呟く。

「なるほどね。まったく罪な男だな、隼人は。たった数時間で会長を口説き落とすとは」

 落してねぇよ、とツッコみたい気分で山々だったが、これ以上話がそれるのは時間がない為、ここはぐっと堪えた。

「まぁ、それは置いといて―――」

「「置いとけない!」」

 女子二人組の思わぬ反撃にたじろぐも、隼人は気力で捻じ伏せた。

「置いとくの! 今後のことを話さないといけねぇ」

 その言葉に今までおちゃらけた雰囲気をしていた四人は黙り込むと真剣な視線を隼人に浴びせた。適度な息抜きをしつつも、皆やるべき時はやるのだ。

「本当なら今日補給を終えて東京に向かうつもりだったが、俺がへましちまったせいで無駄になっちまった。それは本当に済まないと思う」

 頭を下げる隼人に、修が申し訳なさそうに首を振った。

「それは違います。あの時私がちゃんと助けに入っていればこうなることはなかったでしょう。これは私の責任です」

 それはただ自分を庇っての言葉ではないことはすぐに分った。修の瞳には自身の罪を、招いた過失をしっかりと受け止める覚悟があった。少し前の修ならば絶対に言いそうにない言葉だった。

「修の心意気は嬉しいけど、今は責任の取り合いは止めよう。俺等が決めることは一つ。このまま出発するか、十分な補給を済ませるかだ」

 その選択に、各々は考え込むようにそれぞれの仕草をした。

 最初に口を開いたのは啓一だった。

「アニキ、でも今の状態で出発しても平気なんすか?」

 そんな尤もな質問に答えたのは補給の記録をしていた紗枝だ。

「今まで溜め込んだ量なら五人でも調節すれば一週間は耐えきれる食料はあるよ。ガソリンのことは正確には分からないけど、今手元にあるのが五リットル。何日かは走れると思うけど……」

 それを受け、唸ったのは唯一車をかじっている和馬だ。

「五リットルもあればあれは低燃費を売りにしてる最新車だし……百キロぐらいは走れるかもしれねぇな。まぁ、茨城から東京の距離が分からねぇから何とも言えねぇが」

 和馬のあやふやの部分を補ったのは修だ。

「どこからどこまでを計るかで距離は変わりますが、大体茨城、東京間は百二十キロから百三十キロほど離れています。走破するには燃料は足りませんが、それは途中で今までのように補給していけば大丈夫でしょう。食料に関しても、慎重に動いたとして一週間も持てば、十分に横断できる数字だと思います」

 まるでかけていない眼鏡が見えるような博識ぶりを発揮した修に、皆が舌を巻く。一体どうやって生きてれば普通の高校生が茨城から東京までの距離を知ることになるのだろうか。

 とりあえずそんな疑問は置いておき、修の言う通りならこのまま出発しても恐らくは大丈夫、ということになる。勿論、ここに残って十分な補給をした方が確実性は高いかもしれない。しかし、先ほどの放火で大多数のペイシェントを排除できたとはいえ、あの炎を見て他が寄ってくるかもしれない。

 そう考えると、隼人は組んでいた腕を解き、皆を見回した。

「俺はこのまま出発する方がいいと思う。ここに留まってもまた敵に囲まれる可能性がある。皆はどうだ?」

 隼人の投げかけた質問に、皆は言葉ではなく力強い表情で頷いて見せた。

 そんな仲間を見て、再び心に熱いものが満ちていった隼人も同じように首を縦に振った。

「よし、なら善は急げだ。荷物を纏めてここから脱出するぞ!」

 隼人の掛け声に、勢いの良い声が四つ答えた。


 皆がそれぞれやることを探し、一時間後に出発となり、隼人は武器を準備していた。といっても、今までの補給時に集めたものを再確認するだけだ。

 隼人の前には錆びついたシャベルや、鉄パイプが並べられている。何でも修によるとシャベルは軍隊でも武器として使うことがあるくらい強力なものだそうだ。確かに重い鉄部分や振り回しやすい長さは、遠心力を付けて叩き付ければ顔が潰れるだろう。

 だが、その分重量もあるので、女性陣二人は鉄パイプだ。包丁やナイフでも良かったのだが、殺すことより、逃げることを中心に考えた時、刺して抜くのが面倒な刃物よりも、打撃武器となったのだ。

 それらをひとまとめにして肩に担ぐと、ワゴン車を停車させている脇に立てかけた。これで自分の仕事は終わり、と言えるはずもなく、隼人は他の皆を手伝おうと歩こうとすると、ガサゴソ、という音を聞く。

 すぐ近く。それを感じると、隼人は気配を消し、そっとシャベルを手に取った。もしかするとペイシェントが紛れ込んだのかもしれない、そう思うと一つ二つと汗が浮き出る。

 ワゴン車を半周するように回ると、シャベルを構えあげ―――

「きゃっ! は、隼人君!?」

 と可愛らしい悲鳴が上がる。

 その声にはっとすると、隼人の視線の先には驚きに目を丸めた紗枝の姿が映った。その手元には紙が置いてあり、食料をチェックしているようだった。自分の勘違いだったことに安堵の溜息を吐き、次いで紗枝にシャベルを向けてしまっていることに気づき、慌ててそれを後ろに隠した。

「紗枝、これは違うんだ! その、も、もしかしたらペイシェントかと思って……!」

 言葉を重ねれば重ねるほど白々しく聞こえる言い訳に、紗枝は微笑みで返した。

「ふふ、そんなに慌てなくても分かってるよ。隼人君は仲間に手を上げるような人じゃないでしょ?」

 久しぶりに見たような紗枝の笑みに胸が不自然に高まり、隼人は息苦しさを紛らわすようにシャベルを下に置いた。

「え、えっと、紗枝は何をやってるんだ?」

 社交辞令のような質問に、紗枝は律儀に答えた。

「食料の賞味期限と消費期限を調べてるんだよ。もしも腐ってるものを食べて食中毒とかになったら今のこの世の中じゃ大変でしょ。だからなるべく切れそうなものから先に食べないといけないなって思って」

 言われてみればそれは最優先で確認しなければならない事情だ。それに気付けづなかったことに、不甲斐なさを覚え、隼人は後頭部を掻いた。

「……すまねぇな。そんなことにも気付けなくてよ。いつの間にか俺が皆を仕切るようになっちまったけど、こんなことにも気付けないならリーダー失格だよな」

 そんな気弱な言葉に紗枝がその美しい線をなぞった柳眉を逆立てた。何故かは分からないが酷くご立腹の様子だ。

「いくら隼人君でも、隼人君を馬鹿にすることは許さないよ。気付けなくたっていいじゃない。何でもできるスーパーマンじゃなきゃ、リーダーになれないなんてことないでしょ。私だって戦いとかは何の役にも立てないけど、隼人君は誰よりも強いよ。だから、そんな隼人君に出来ないことを皆でカバーしていく、そういうのを仲間って言うんでしょ?」

 尋ねるように首をかしげる紗枝の言葉に、隼人は目からうろこが落ちた気分だった。

 確かにそうだ。今までの自分は少し気負い過ぎていたのかもしれない。仲間を失うことが怖くて、あの悪夢を再現させたくなくて。しかし、それは言い換えれば仲間を信用しない行為だ。本当の仲間なら、ただ守るだけでなく、頼ることもしなければならない。

「はは、本当に紗枝の言うとおりだな。確かに少し肩肘張ってたわ。ありがとな、紗枝」

 そう言うと、隼人はいつもの癖で、紗枝のシルクのようなさわり心地の黒髪を撫でる。紗枝はそれに嫌な顔一つせず、至福の喜びのように顔をだらけさせた。えへへ、と気の抜けた笑声が無性に可愛らしい。

「じゃあ、俺もチェックするの手伝うぜ。何からやればいい?」

「ふふ、ありがと。それじゃあ、隼人は―――」

 紗枝がどの食料かを指示しようとしたその時だった。

 どたばたと階段を下りる音が外にいる隼人達にも聞こえてくる。何かあったのかと家に視線を向けていると、突然庭に繋がる部屋の大窓が開かれた。勢いよく開けられた大窓がピシャァン! と高い音を響かす。

 それに驚いた隼人だが、次の瞬間には視線はそこから顔を出した青くなった啓一を映す。その顔からただならぬことがあったということを察することが出来た。

「どうした、啓一」

 隼人の押し殺した声に、啓一は息を整えるとガタガタと震える顎で何とか言葉を紡いだ。

「た、大変す……アニキ………ペイシェントの大群が、こっちに向かって来てるっすっ!」

 その報告に息を詰めたのは隼人だけでなく、紗枝も口を手で覆った。またあの地獄が始まると思うと胸にざわざわとしたものが蟠る。

「落ち着いて言ってくれ。一体どういうことだ?」

 それに答えたのは、啓一の後ろから現れた修だった。

「言葉通りです。何故かは分かりませんが、遠くの方から一直線にこちらに向かっています」

 しかし、それはおかしな話だった。

「待てよ、俺達がここに戻るときにペイシェントがいないかきちんと確認したはずだ。ここがばれることなんてないはずだぞ」

 尤もだと思った隼人の言葉に、修は何事か考える素振りを交えながら首を横に振った。

「気づきませんか、隼人。今日のあいつ等の動きは今までとは明らかに違っていた。私が逃げていた時もまるで退路を断つかのように次々と現れ、何体ものペイシェントが一斉に現れました」

 隼人には、修が何を言いたいのか分からず、首をかしげるが、

「つまり、司令官みたいな奴がいる、ってことか?」

 ガソリンを抱え、大急ぎで来たというように息を切らした和馬が答える。それに修は厳かに頷いた。

「ええ……すみません。もっと早くに言っておくべきだったのかもしれませんが、確信が持てなかったので。ですが、それなら今の状況の全てを説明できます。遠くから監視されていたなら、この拠点がばれてもおかしくない。そして敵が向かってきているのも納得できます」

 悔しがるような修の声に、おろおろとした紗枝が尋ねる。

「で、でも、司令官って一体……」

「それは分かりません。それよりも今はいるか、いないか、半透明な司令官を考えるより、どうするかを考える方が先だと思います。あの速度だとあと五分もしない内にここに突撃してきますよ」

 五分、たったそれだけの時間が隼人達に残された猶予。逃げるべきなのか、それとも……

「……和馬、車はもう出せるのか?」

 隼人の質問に、和馬は苦々しい顔で首を振る。

「駄目だ。ここに来るまでで入ってたガソリンは使い果たしちまったから、新しくいれねぇと。すまねぇ、こんなことなら手に入れてからすぐに入れておけば良かった……!」

 自ら犯した過ちに苛まれるように、和馬は歯を食いしばると体を力ませた。そんな固くなった肩を隼人はポン、と叩く。和馬のせいではない。もしも責任というものがあるならば、それは皆で背負うべきものだ。それが仲間だとついさっき教えてもらった。

「今さら言っても仕方ねぇし、お前のせいでもねぇよ。それに間違っちまっても巻き返せばいい。皆、このまま逃げてもあいつ等相手じゃ逃げ切れる確率はほとんどないだろう。車を守るしかない。お前等は俺が絶対に守る。だから、力を貸してくれ!」

 隼人の声音は気負ったものはなかった。すらすらと自然に言葉が発せられた。仲間を信じ、頼ること。これが出来たならば、きっとこの試練も乗り越えられる。そんな確信があった。だからだろうか。隼人の中に恐怖は微塵もない。

 そんな隼人を見て、紗枝がこの状況下で明るく笑った。

「勿論だよ、隼人君。今度は私が隼人君を守るから!」

 啓一は力強く拳を握った。

「アニキの背中は俺が守るっす!」

 和馬はもじゃもじゃの赤毛を掻くと、いつもの軽い笑みを漏らした。

「ま、親友に付き合ってやるのも親友の務めだしな」

 修は怜悧な表情に腕を組んだ。

「ええ、隼人の為なら喜んで手を貸しましょう」

 頼もしい四人の仲間に、もう言葉は要らないと隼人は無言で頷いた。そして鋭い視線を外にやる。見据えるはすぐに起きるであろう死闘。

「和馬、ガソリンを入れるまでどれくらい時間がかかる?」

「ガソリンスタンドみたいな機械があればすぐだけど、それもねぇしポンプもねぇからな。少し手間取るけどタンクごととってからそれに直接いれるしかねぇな。八分、いや、今から五分でやってやる!」

 そうなると隼人達がここを守ればいい時間はおよそ二、三分。本来ならすぐに終わる時間だが、和馬を除く四人で多勢のペイシェントと戦わなければならないとなると、気の遠くなりそうな長さだ。

 それでもやるしかない、そう決めると隼人は弱音を切り捨てた。

「よし、なら早速取り掛かってくれ。修、お前は作戦の指揮をしてくれ。紗枝は後方支援。啓一は俺の背中を頼むぞ」

 四人は一斉に頷いたと思うとそれぞれの持ち場へと駆け出した。

 それを見ていた隼人はふと、紗枝の後姿が目に入る。それはまるであの事件があった時のような感覚を甦らせ、背中がぶるりと震えた。また消えてしまう、そんな恐怖心が一時隼人を支配した。すると、突発的に紗枝の手を掴んでいた。

「え、隼人君? どうしたの?」

 突然手を握られ、困惑顔で紗枝が振り向く。

 それに対し、咄嗟に頭に浮かんだ言葉を隼人は飲みこんだ。行かないでくれ、隠れていてくれ、一人でもいいから逃げてくれ、そう言ってしまいたかった。しかし、それは紗枝をこの上なく侮辱する言葉だ。覚悟を固めた紗枝を裏切る行為だ。自分が、紗枝を信じていないと吐露するようなものだ。

 だから、隼人は胸をミキサーで掻き混ぜられるような痛みを耐え、そっと手を離すと笑って見せた。表面上だけでも、紗枝を安心させるために。

「いや、お互いに……頑張ろうな」

 そんな気弱な声を聞いて、紗枝はどう思ったのだろうか。自分の本心を見抜いたのか、本当に気付いてないのか、隼人にそれは分からなかったが、紗枝は笑うと、

「うん! 絶対に皆無事に脱出しようね!」

 と言って、隼人の視界から消えて行った。

 それを見送っていた隼人は、しかしいつまでも呆けているわけにはいかない。自分がしっかりしなければ守れる者も守れなくなってしまう。

 まず、簡単な防御強化の為に修の指示の下、出来るだけの家具を外に運び出し、玄関口は完全にふさいだ。効果は期待薄だが、生存率を一パーセントでも上げる為だ。

 修は緊急避難用のロープを用意した後、二階へと登り、随時敵の進行を教えてくれている。紗枝はガソリンを入れている和馬の護衛。隼人が前に出て、その少し後ろに啓一がいる。

 皆、一様に顔には緊張が漂っていた。過度の緊張はパフォーマンスを落すが、今このときはそれぐらいがちょうどよかった。

 そして、いよいよ修の口から開戦の合図が発せられる。

「最初の敵が来ます! 隼人、真っ直ぐの方向から塀を上ってきます!」

 修の声を聞き、おう! と返事をすると、隼人はシャベルを手に跳びだした。そして大きく振り被ると、修の言った通り現れたペイシェントの頭部を叩き、吹き飛ばした。四、五十キロの体を叩いた振動がスコップを通じて、手を痺れさす。

「隼人! さらに前方から二体同時!」

 その言葉通り、次は二体同時に頭を出した。どちらを狙うか、一瞬だけ迷うと、隼人は右を叩き落した。しかし、もう一体が敷地に入ろうとする。シャベルは威力が大きい分、重いので振り回すのに時間がかかる。早くも侵入を許してしまう―――という時、隼人ではないシャベルがペイシェントの頭部を叩き割った。

「お、俺だっているんすよ! アニキ!」

 震えた声でそう勇んだのは啓一だった。

 シャベルを握るその手は小刻みに揺れていたが、啓一の表情は強い覚悟で固まっていた。啓一はこういう荒事には性分的に向いていない。優しすぎるのだ。けれど、やると言ったときにはきっちりとやる、そんな強い心も持ち合わせていた。

「おう! 絶対に守り切るぞ、啓一!」

「うっす!」

 隼人と啓一、師弟関係の絆で巧みな連係を見せると、頑強な守りを見せていた。数十というペイシェント相手に二人だけで耐えていた。しかし、やはり数の暴力というのは強力で、数分続いていた防衛線も次第に綻びが生じ始める。

「アニキ、そっちに一体漏れたっす!」

 啓一の叫びに、咄嗟に反応すると、紗枝に襲い掛かっていたペイシェントの側頭部をシャベルで撃ち抜く。もう動かないのを確認すると、息を切らしていた紗枝に声をかける。

「無事か、紗枝!?」

「う、うん、隼人君が助けてくれたからね」

 そう言うと紗枝は笑うが、声音には隠しきれない疲労が見えた。無理もない。もう、ペイシェントが紗枝を襲うのも三回目だ。つまり、三回も死線をさまよったということ。不甲斐ないことこの上ないが、現状ではこれが精一杯だ。修と啓一も頑張ってくれている。しかし、それを上回る勢いのペイシェント達が押し寄せている。

「和馬、あとどれくらいだ!」

 紗枝に守られ、車体の底に潜りこんでいる和馬に声を張り上げた。

「もう少し、もう少しなんだ! あと一分、いや、三十秒持ちこたえてくれ!」

 必死な叫びは和馬も死力を尽くしていることを物語っていた。事実、敵に四方八方から狙われているという状況は堪えきれない精神的負荷がある。和馬の場合、その中で敵の姿を見ることもできず、作業をしなければならない。加え自身の行動の速度で全員の運命を左右してしまう。精神的に最も苦しいのは和馬だろう。

「オーケー、安心してガソリン入れな。そんぐらい俺が稼いでやるよ」

 ぜぇはぁ、と息を荒げながら、隼人はそう明言した。

「隼人、啓一君、正面、両側面、後方、くそっ、もう数えきれないほど迫ってきています!」

 普段冷静さを欠かない修も、今ばかりは自身の無力さを嘆くように怒鳴った。

 そして、修の言った通り五人以上のペイシェントが一気に塀を乗り越えてくる。

「啓一、後ろに下がって紗枝に協力してくれ!」

「で、でも、それじゃあアニキが!」

「心配すんな! お前達を残して死んだりしねぇって言ってるだろ!」

 隼人の言い分に、啓一は何かを言いたそうだったが、それが最善の策と認めたのか、渋い顔で後ろに下がった。毎度、毎度辛い思いをさせちまうなと、忸怩たるものを感じながら、隼人は一番近い真正面の敵に肉薄する。

 反撃の右手のストレートを避けると、体を捻り、勢いそのままにシャベルで後頭部を強打。飛び散る血飛沫を被りながら、隼人は動きを止めることなく、側面から紗枝達に向かっているペイシェントに特攻を仕掛けた。

 シャベルの先端でまず一体の脇腹を突き刺す。それを力任せに持ち上げると、振り払いペイシェントを外へと投げ捨てた。その奥の一体はシャベルを振り回す時間も惜しく、跳ぶと同時に膝を出し、相手の頬を捉えると骨の砕ける感触を覚えながら吹き飛ばす。

 だが、間に合ったのはそこまでで反対方面からの攻撃に紗枝と啓一が晒される。紗枝を襲うペイシェントに、隼人はシャベルを投擲した。真っ直ぐに飛来した先端が的確に顔を射貫き、走った隼人はそれを引き抜くと、啓一を襲うペイシェントも叩き割った。

 だが、その時点で連戦に次ぐ連戦に、無理に無理を重ねた運動がつけとして回ってくる。ガクンと、隼人の膝が折れた。不思議な感覚だった。自分の体だというのに、まるで感覚がない。立とうと思っても立てないのだ。

 そうしているうちにも後方から二体のペイシェントが迫ってきている。早くしないと皆が危ないと焦る気持ちとは裏腹に、体は荒く息を吐き出すばかり。シャベルを杖代わりに必死に立とうとしても、その動きはあまりにも遅すぎた。

 ついに、ペイシェントが前に迫るというところで、二人の影が前にかかった。

「隼人君はやらせない!」

「アニキは俺が守るっす!」

 跳びだした紗枝と啓一がペイシェントの猛攻を凌ぐ。しかし、圧倒的身体能力を有する向こうに対し、二人はあまりにも非力だった。確実に押され始め、もう崩されるというところで、

「私がいることも忘れないでください!」

 上から声がしたと思うと、啓一を襲っていたペイシェントに、修が鉄棒を振り下す。突然の上部からの殴打にさすがの敵も反応出来ず、ふらりとすると倒れた。自由になった啓一が紗枝を苦しめていたペイシェントを吹き飛ばす。

「修、お前……」

 隼人の視線に、修は肩をすくめると、

「この状況で作戦も何もあったものではありませんからね。それに隼人達がピンチになったら自然と体が動いてしまった、というやつですよ」

 そんな修らしい言い訳と、らしくない言葉に一瞬だが場が和んだ。それが隼人の弛緩した体をゆっくりと解きほぐす。

 起き上がると、隼人は三人を見て頷く。三人も頷いた。

 いける、誰もがそう思うほどの団結力を感じた。しかし、そううまくいかないのが世の常である。

「中々良いチームワークっすね。まさかここまで耐えるとは思わなかったっすよ」

 その聞きなれた声に、一番最初に反応したのは啓一だった。

「………! お前は、あの時の!」

 そんな短い言葉だけで、隼人には何を指しているのか分かった。忘れられるはずもない。こんな世界になるきっかけとも言える出会いなのだから。

 隼人達の前には前までの患者服ではなく、普通の私服を来た啓一(仮)がいた。その冷徹な表情と雄々しい態度はこちらの啓一とは明らかに異なっていた。

「……確かお前は、俺が首の骨を折ったはずなんだが? どうして動いていられる?」

「ああ、あれは効いたっすよ。おかげで治るまでこんなに時間がかかったっす」

 それは暗に頸椎の骨折という普通の人間なら後遺症確実の怪我をたった一週間程度で直したということだ。信じられない話だが、こうして目の前にいる以上、それは純然たる事実だ。

 そして危険だった。啓一(仮)もペイシェント。修は大丈夫だとして、啓一は変に力が入ってしまっている。紗枝は同じ顔に戸惑い、どう対処したらいいか分からない様子だ。こんな状態で戦えば勝敗は目に見えている。どうすればいい……

 だが、万事休すの時に、それを助ける救世主の声が響いた。

「隼人、完了したぜ!」

 和馬の声にまともに戦う理由もなく、隼人は一目散に逃げることを選択した。

「和馬、ナイスタイミングだ! 皆車に乗り込め!」

 そんな隼人の声に、しかし、一人だけ異を唱える者がいた。それは和馬だった。

「待て、隼人! 俺はまだ何も言ってねぇぞ!」

 は? と疑問符が並ぶ前に、隼人は腹部に悪寒を伴う冷たさを感じていた。体に異物が入り込んだような、気持ちの悪い感覚が体を駆け巡る。

 前を見るとすぐ近くに和馬のもじゃもじゃ頭が見えた。しかし、その顔は酷く冷めている。

「完了したとも、お前達を殺す準備がな」

 そう言われると同時に、隼人は喉を何かがせり上がってきて、耐え切れずに吐き出した。それは赤色をしていた。口の中に鉄の苦みが充満する。ちらりと腹部を見ると、そこには深々と突き刺さった和馬(仮)の手が見えた。

 クソッ……! そう呟くことしか出来ず、ぼやけた視界に地面が近づいてきた。


 *


「隼人………君……?」

 掠れた声が紗枝の口から漏れた。

 倒れていく隼人の姿が、まるで見せつけるように酷くゆっくりと流れていく。倒れた拍子に舞い上がる砂埃さえ目で負えるようだった。

 いつもなら過度な心配性を発揮し、こちらを振り向いてくれるはずの顔は横たわったまま。接触した地面に、赤い模様が少しずつ広がっていった。

 何が起こったか分からない、分かりたくなかった。隼人が死んでしまうかもしれない、そんな考えが頭を掠めただけで、紗枝の思考力は吹き飛んでいた。それはそのまま体からも力を奪い、四肢が折れそうになったその時、

「アニキは、死なせないっすっ!」

 赤い手を掲げていた和馬(仮)の前を一つの影が過る。素早く動いたそれは背の低い男の子、啓一だった。どんな早業か、背中に隼人を背負い、小さい体で必死に運んでいた。

「避けろ、啓一!」

 そう怒鳴ったのは和馬だ。何をするのかと思いきや、車に乗り込み、エンジンをかけ、自分に酷似した者に突っ込んでいく。しかし、とても高い身体能力を有する彼はそれをジャンプすると難なく回避した。

 しかし、和馬はそれでも止まらない。勢いそのままに塀へと激突する。石と鉄の塊がぶつかり合う馬鹿でかい音に紗枝は耳を押さえた。もうもうと上る砂埃が衝撃を物語っていた。中の和馬も無事ですむはずなかったが、

「皆、乗れ!」

 と、額から血を垂らしながら、指示を送る。

 啓一は隼人を担ぎながら車に乗り込み、まだ腰が抜けていた紗枝は、修の助けを借り乗ることが出来た。そのまま和馬はアクセルを踏むと、ぐしゃぐしゃになった車を無理やり走らせる。

「ここ等一帯の地図は把握しています! あそこに行きましょう! 隼人を死なせるわけにはいきません!」

 同じ女性である修も動じることなく、的確な指示を出していた。ショックでない訳がない。目の前で好きな人が倒れたのだ。それなのに、修は声さえも震えていない。

 それを見て、紗枝は自分がどれだけ弱小かを思い知る。自分など、ただ呆然と痛みを遠退け、現実逃避していただけだ。そして、大好きな人のピンチを前にしても、ただ皆のあとを追うことしか出来ない。

 自分は何度も隼人に助けてもらっているのに、そう思うと紗枝は胸に蟠る重りに潰されてしまいそうだった。また、逃げてしまいそうだった。


 修が提示したのは、拠点の近所にあった小さな病院だ。

 入り口を車で無理やり塞ぎ、中からも積めるだけ積み、バリケードを作る。裏口も同じように塞いだ。しかし、そうすることで自分達の退路も完全に断ってしまう。しかし、そのことに不満を述べるものは四人の中に一人もいなかった。

「で、会長、ここに逃げ込んでどうするんだ?」

 隼人をとりあえず、ソファーの上に寝かした和馬の質問に、いつも自信たっぷりな修の表情もこの時ばかりは雲っていた。

「残念ながらここに来たのは可能性でしかありません。隼人は腹部を貫かれています。口から出血を見ても、内臓が損傷しているでしょう。早急に処置を施さなければ死に至ります。ですが、私には医療の専門的知識がない」

 悔しがるように、修は親指の爪を噛みながら呻くように言った。

 それに対し、傷口をタオルで必死に抑えている啓一がガタガタと震えながら怒鳴る。

「だ、だったらどうするんすか!? アニキ、さっきから血が止まらないんすよ! 必死に押さえつけてるけど止まらないんす! 死んじゃうっす、このままじゃ本当にアニキは死んじまうっすよ!」

「分かってるっ!」

 啓一を上回る声を荒げたのは、和馬だった。普段温厚で、相手をきちんと理解している彼が怒鳴ることなど稀だが、六年来の親友の危機にさすがに耐え兼ねている状態のようだ。

「……こんなとこに医者はいない。俺も、啓一だって医療の知識なんてバンドエイド貼るくらいだ。だから……紗枝ちゃん、ここは紗枝ちゃんしかないんだ……!」

 こちらを向いての和馬の言葉に、紗枝は一瞬何を言われたのか分からず、え? と気の抜けた声を出した。

「この中で医療の知識が一番多いのは紗枝ちゃんだ。隼人を救える可能性が一番高いのは紗枝ちゃんなんだ! 無理を言ってるのは分かる。でも、このままじゃ隼人が死んじまう! 頼む、紗枝ちゃん! 隼人を治療してくれ!」

 和馬は普段の軽い笑みを完全に消しさり、顔中をしわくちゃにしながら頭を下げた。その顔は紗枝のトラウマを知っての発言であり、だからこそ優しい和馬は苦しんでいる。

 それくらいのことは紗枝にも分かる。そして自分だって同じ気持ちだ。隼人を救いたい。大好きな人をこんなところで失いたくない。隼人がいなくなってしまった世界を考えるだけで、全て意味のないような虚無感を覚える。

 だが、いざ治療するという行為を思い浮かべると、体が固まってしまう。思い出すのは医者の名家だというのに微妙な成績しか出せずに白い目で見られた学校。報われない必死の努力。そして尊敬する父からの『何故お前のような愚図が……私の娘なのだ!』という言葉。

 あの言葉と、父の失望に満ちた目を思い出すだけで、紗枝は胃液を吐いてしまいそうでその場に座り込んだ。いきなり裸にされて冷凍庫に放り出されたように寒い。

 紗枝は、父を尊敬していた。自分を産み、母が亡くなってしまった時、新しい嫁を薦められても、自分の為に断ってくれたことを知っていた。母の墓前で立派に育て上げてみせると宣言してくれたことは今でもはっきりと覚えている。厳しかったかもしれないが、そこにはちゃんとした愛があると信じていた。

 だが、現実は違ったのだ。自分は、父にとって負担だった。どんなに頑張っても期待に応えることのできない使えない道具。それを覚った時、紗枝は自分の生きている意味を見失った。それまで自分という存在を支えていた芯が粉々に砕け散ってしまったのだ。

 もう嫌だ、思い出したくない、期待されたくない。自分の価値を見失うことは死ぬことよりも辛い。それを紗枝は数年前に文字通り死の淵を見るほど体感していた。

「紗枝さん!」

「お願いします、紗枝姉さん!」

 修と啓一も頭を下げて頼み込んでくる。

 だが、それに紗枝は涙を流すことしか出来なかった。今この瞬間が、拷問にも等しい。皆の思いは分かってる、けれども動けない。そんな相反する心がぶつかり合い、再び紗枝を内面から壊そうとする。

「………や、めろ……」

 それを止めたのは、今にも消えてしまいそうな掠れた声音だった。

 誰が発したのか分からず、紗枝はぽかんとしながら辺りを見回した。だが、他の三人も同じように他を見ている。そんな中、自分だと主張するように体を動かそうとしたのは腹に穴を開けられた隼人だった。

「隼人君!? な、何してるの動いちゃ駄目だよ!」

 無理に起き上がろうとする隼人を、紗枝は肩を押さえつける。ただそれだけで、隼人は本当に動けなくなった。その弱々しい姿が、絶対的な危機の真っただ中だということを改めて紗枝に認識させる。

「心配、すんな……この程度のことで俺は死なねぇよ……」

 その言葉を受け、修が信じられないと言わんばかりに激昂した。

「何を言っているんですか! 貴方は今、腹部に深い裂傷が出来ているんですよ! 血もまだ止まっていない、内臓も傷ついた可能性があります! そんな状態で動けば死ぬに決まっているでしょう! 根性論でどうにかなる問題じゃないんですよ!」

 修の尤もな言い分に、隼人は横たわりながら薄っすらと開けた目で見つめると、

「だったら……トラウマだって、根性論でどうにかなる問題じゃ……ないだろ……」

 その言葉に修達ははっと目を見開いた。

「紗枝は……それで一度死にかけてるんだ……それを今すぐ克服しろなんて、酷すぎやしねぇか……?」

 その言葉に、和馬は辛そうに顔と拳を引き締めるとそれでも首を振った。

「それでも、すぐに治療しないとお前は死んじまうんだぞ! 本当に、死んじまうんだぞ!」

 我慢の限界が来たのか、和馬は両目から滂沱と涙を流しながら、途切れ途切れの息で叫んだ。

 隼人はそれを見て、憔悴しきった顔色にニッと笑みを貼りつけると、

「大丈夫さ……絶対にお前等は、守って、やる……だから紗枝、無理しなくて……いいんだ」

 隼人は細かく震えている手を必死に持ち上げると、紗枝の頭を撫でた。

 どうしてそんなに強いの? 紗枝はそう尋ねたくて仕方なかった。いくら隼人でもあの傷を放置していては確実に死ぬ。それは自身の体である隼人が一番よく分かっているだろう。怖くない訳がない。もう二度と仲間にも会えず、次に目を閉じたら暗闇から抜け出せないかもしれないのだ。

 自ら死を選んだ紗枝でさえ、その恐怖は鮮明に脳裏に焼き付いている。なのに、どうして自分のことを考えてくれるのだろう。いっそのこと脅してもらいたかった。強制的に治療をさせられれば、まだ気が楽なのに。

「なぁ、紗枝……」

 か細い隼人の声が、紗枝を呼ぶ。

「な、何、隼人君?」

 その応答に、隼人は顔をくしゃりと歪ませると、喉に言葉が突っ掛るように言った。

「これだけは……言っておきたかった……あの時、助けられなくて、本当に済まなかった……! 一番大切なはずなのに、お前の苦しみを分かってやれなくて……済まなかった!」

 ポロリと、気付けば紗枝はまた泣いていた。しかし、それは先ほどまでの苦しみから出た濁ったものではない。体中を満たす温かさが、小さい体に収まり切らずに出てきたものだった。

 違うのだ。本当に謝らなければならないのは自分だ。勝手に自分の事情に巻き込んで済まなかった、責任を負わすような真似をして済まなかった。そして、命を救ってくれてありがとう。

 自分で、自分の手首を切り、血が流れていくのを見て、どうしようもなく怖くなった。流れ出る血の量に比例して、自分が消えてゆく感覚が心を蝕んだ。もう笑うことも何も出来ない、父にも会えない、そして隼人に会えないと思うと堪らなく体が震えたのだ。

 だが、もう自分でどうにかできる段階は超えていた。けれど、次に目を覚ました時にまだこの世にいると分かった時、安堵の涙が溢れた。まだ、やり直せるチャンスを貰えたと思った。そして、自分を救ってくれたのが隼人だと聞かされ、感謝の気持ちで一杯だったのだ。

 その時の隼人は自分を避けるようになっていたので、この言葉はまだ言えずじまいだ。それでも心の底からありがとう、を言いたいのは変わらない。

 今の自分がいるのは、隼人のおかげだ。隼人と一緒にいたいからこそ、また死のうと考えずにここにいる。ならば、その言葉を伝えなければならない。隼人が言ってくれたように、今度は自分が、きちんと隼人に伝えなければならないのだ。

「……まだ謝るのは早いよ、隼人君。これで終わりじゃない。ここから始めようよ。私はもう逃げない。自分から、そして何よりも隼人君から。死なせない、私だって伝えたいことが一杯あるんだよ! こんな短い時間じゃ伝えきれないことが!」

 紗枝は頭を撫でる隼人の手を強く握りしめると、立ち上がった。

「さ、紗枝……?」

 それを見た隼人は驚いた顔で見上げる。

 紗枝はそれを力強い瞳で真っ直ぐに見返した。

「和馬君、啓一君、隼人君を手術室に運んで、なるべく慎重に! 修さんは今から言う道具を集めて!」

 紗枝の的確な指示に、一瞬呆然とした三人だが、すぐに嬉しそうに顔色を戻すと、素早く動き出した。

 和馬と啓一がストレッチャーを運んでくる最中、隼人が最後の確認とばかりに口を開く。

「本当に、いいのか……紗枝。医療系のことが絡むとお前は―――」

「大丈夫。確かにまだ怖いけど、今の私は一人じゃない。隼人君がいるし、和馬君も啓一君も修さんもいる。今なら、頑張れそうな気がするの」

 小さな手で拳を作る紗枝を見て、隼人は表情を緩めると、

「分かった……なら、もう何も言わねぇ。紗枝、俺の命……お前に託した……!」

 隼人の言葉に、紗枝はプレッシャーを感じるではなく、とても元気づけられた気がして、強く、強く頷いた。


「まず輸血して、それから……傷の損傷度と腹腔内に血が溜まってないか調べないと……あ、あと傷口の消毒もしないと……」

 手を綺麗に洗い、毛髪が落ちないようにキャップを被りながら、紗枝は今から施す一連の手術のイメージトレーニングを幾度と繰り返していた。

 難易度としては難しい方ではない。少しばかり鮮血を吐血したことを見ると、消化器官のどれかを傷付けてしまったのだろう。それでも損傷個所を直接縫い合わせれば完了だ。

 あの事件の日の前まで、父によく病院に連れられ、見学していた手術に比べれば慌てる必要のないレベル。知識は揃っている。あとはこの手が震えなければいいだけだ。

 そう思いながらマスクをすると、そっと手を掲げてみた。プルプルと情けなく小刻みに揺れている。準備室に入っただけですでに胃液を吐いてしまいそうだった。医療に携わる物を見ていると思いだす。尊敬する父の顔と、そして父の言葉を。

 どうにか震えを押さえようと、手を手で強く握り固めていた紗枝の肩を誰かが叩いた。

「紗枝さん……」

 はっとして振り返ると、そこにいたのは修だった。前までは少し冷えた表情をしていたが、今ではすっかり溶け、豊かな顔をするようになった。そんな顔を今は、優しく慈愛に満ちたような笑みで彩っている。

「私は、貴方が何を怖がっているのか分かりませんが、それがとても重要なことだということは分かります」

 修は、紗枝の前に来ると、短めな髪を揺らし、すんだ瞳でしっかりと覗き込んできた。

「私もついさっきまで……いえ、今も自分の影と戦っています。紗枝さんのことを全て分かる、なんてことは言えませんが、少しなら分かります。同じ女性同士でもありますしね」

 紗枝には、修が何を言おうとしているのか分からなかった。励まそうとしているのか、慰めようとしているのか。しかし、次の言葉でどれも違うということが分かった。

「紗枝さん、私は隼人のことが好きです」

 突然の告白に、紗枝は目を見開いて驚くことしか出来ない。

「単純かも知れませんが、どこまでも私を信じてくれる隼人に、きっと冷めることのない深い恋心を抱いたのでしょう。私は隼人とずっと一緒にいたい。私だけを見て欲しい。貴方はどうなんですか?」

 その問いの答えなどすでに決まっている。

「私も、私も隼人君が好きだよ。私に初めて勇気をくれた人で、いつも格好良くて、酷い目にあわしちゃったのにそれでも傍にいてくれることに感謝してる。この思いは誰にも負けない。……私は、隼人君が好き」

 その答えを聞くと、修は笑みを満面のものに変え、

「なら、私達はライバルですね。隼人を狙う者同士です。だから、しっかりと戦う為に、さっさと隼人には起きてもらいましょう。その為にも一時休戦です。私の持てる全てを賭けて、協力しますよ」

「え……?」

「私もいる、和馬君も、啓一君も、そして隼人が信じてくれている。これほど心強い味方はもう世界中探してもいません。背負いましょう、今まで隼人に預けて怠けていた分の責任を。助けましょう、私達の大切な人を」

 肩に乗っけられた修の手から力が注ぎ込まれるようだった。皆がいるという事実を思い出すと、不思議と恐怖も和らいでいった。手の震えが消えていた。

「うん、ありがとう、修さん。私も、負けないから」

 紗枝はにっこりと笑うと負けん気を溢れさせ、修を見返した。

 修もまた、芯の通った瞳でそれを受け止める。

 そして、紗枝は恐怖の感情を信頼で乗り越え、手術室のドアを潜った。


「隼人君、ごめん。麻酔科医がいないから、危なくて麻酔は打てないんだ。かなり痛むことになるかもしれないけど、耐えてくれる?」

 唇を青くしながら横たわる隼人に、紗枝はそっと呼びかけた。

 管を通し、輸血を施されている隼人はきつそうに、しかし明るい笑みで応える。

「ああ、そうしてくれ……麻酔なんかで、動けなくなったら、怪我を処置しても、単なるお荷物だからな……」

「だ、駄目っすよ! うまくいっても何日間は安静にしてないと!」

 啓一の当たり前の言い分に、隼人はゆっくりと首を横に振った。

「安静にできる状況なら、俺も、そうしてぇけどな……でも、そうも言ってらんねぇだろ……」

「っ、さ、紗枝姉さん!」

 困ったように自分を見てくる啓一に、紗枝はそっと頷くと、

「大丈夫。隼人君は、私が死なせない!」

 全身全霊の全てを乗せた言葉に、啓一はおろか隼人でさえ、口をあんぐりと開けている。その様子を見て、和馬が笑い出す。

「はははっ、さっすが紗枝ちゃん! 男が束になってかかっても敵わねぇぜ」

「そ、そんなことないよ。ともかく、早く処置を終わらせちゃおう。輸血できる血液も無限じゃないから。修さん、メスをとって」

 紗枝が掲げた手に、修が並べられた手術道具の中からメスを取り出し、渡す。

「隼人君、少しだけお腹を切るよ。無茶なお願いだけど、なるべく動かないで」

「おう、ドンとこい……」

 紗枝と隼人は互いに頷き合うと、メスの鋭利な刃がすっと腹部に入っていく。隼人が苦悶の表情を浮かべ、額に玉の汗が浮き出る。これは刀で切られているのと同じようなものなので、当然の反応だ。むしろ、叫び声を上げない隼人の精神力の強さに、紗枝は感嘆していた。しかし、痛いからといってここで終えることなど出来ない。

 裂傷の少し先を切り裂き、内部が見えるように腹を開き、固定する。ドク、ドクと生きている内臓たちが脈動し、ぬめりとした光沢を見せてくる。赤と薄いピンク色のオンパレードに、見ていた啓一がうっ、と気持ち悪そうに口元を押さえる。

「おい、啓一……人の体見て、気持ち悪そうにすんな……」

 隼人の苦しい声でのツッコみに、

「す、すんません。で、でも、中々いきの良い内臓じゃないっすかね」

「啓一、それフォローのつもりか?」

 見当はずれの発言に、和馬が冷静に指摘した。

 こんな時でも変わらない仲間達に、紗枝の緊張が少しばかりほぐれる。

 開かれた腹部を見ると、大腸に少しばかり傷が入っている。しかし、それほど深いものではなく、糞便などの流出は見受けられない。

 とりあえず懸念していたことが当たらずほっとする。腹腔内に体液が溜まってしまった場合、洗浄をしなければならず、処置にかかる時間も多くなれば、難易度も上がる。

「修さん、針と糸を」

 用意されたそれをハサミのような形状をした持針器で持ち、糸で裂創を縫合していく。当たり前のことだが、ここが一番気を付けなければならない。あまりにもゆるければ癒合しないのは当然のことだが、きつく縫い合わせても他の部位が裂けたり、傷口に負担がかかり、縫合不全を起こしかねない。

 紗枝は瞬きさえも忘れる集中力で指先に全神経を傾け、一回、二回と針を通す。極度の集中状態の為、運動はしていなくとも額から汗が垂れ流れる。それを修が息ぴったりとふき取っていった。

 ようやく傷口を閉じきり、糸を結ぶと紗枝は一端集中を弱め、一息つく。最後に消毒を完了させ、開いた腹部も縫い合わせると処置は終わった。

 道具を修に預け、手元が空になると紗枝は疲労困憊でその場に尻餅をついて座り込んだ。

 まだ終わったわけではない。もしかすると、縫合がほどけてしまうかもしれないし、糸に拒否反応を起こしてしまう場合もある。だが、今の段階では紗枝にこれ以上できることはない。

 やってみると、何とも無謀なことをしたものだと手だけではなく、体全体が震える。よくも、成功したものだと自分で思ってしまう。

「大丈夫か、紗枝? それにしても久しぶりにお前に傷を手当してもらったな、ありがとう」

 出血が止まり、輸血をしているからか、少し顔色が戻ってきた隼人が台の上で顔をこちらに向けながら笑いかけてきた。それは先ほどまでの苦痛を我慢したものではない。いつも通りの力を分け与えてくれるような笑顔だった。

 医者でもなく、ましてはその道を途中で投げ出してしまった自分が誰かを施術するなど百年早いのだろう。それでもたった一つ、確実に言えることがある。自分のしたことは間違ってはいなかったと。笑いかけてくれる隼人を見て、そう思えた。

 えへへ、と笑い、場に微笑ましい雰囲気が流れるが、状況はそれを許してはくれなかった。

 ドゴォン! と、この診療所全体が揺れるような衝撃が走る。


 *


 こんな時ぐらいゆっくりさせてくんねぇかな、と空気の読めない雰囲気に悪態をつきながら、隼人は台から起き上がろうとする。

 それを慌てて止めたのは腰を抜かしていた紗枝だ。

「ま、まだ駄目だよ、隼人君! 出血は止めたとはいえ、結構な量の血を流したんだよ! それにまだ縫って間もないから激しく動くとまた傷口が開いちゃうよ!」

「そうは言ってもよ、このままじゃここはすぐにあいつ等がなだれ込んできちまう。病人だからって寝てたらそのまま死んじまうだろ。だったら、少しでも生きる可能性が高い、戦う方を選ばなくちゃいけねぇ」

 隼人の言い分に、紗枝は、それもそうだけど……と悔しそうに口籠る。

 だが、そんな時に反論したのは修だった。

「いえ、そうハードなことにはならないと思いますよ」

 その言葉が意外だったのか、和馬が首を捻りながら尋ねた。

「それは一体どういうことだ、会長?」

「つまり、外にいるペイシェント全員と戦う必要はないということです。彼らは恐らくここ何日か人を食していないので、理性と知性が欠落しています。それなのにこうも的確に動くことが出来るのは司令塔の存在が大きいのでしょう」

 それを聞き、啓一が何かを思いついたかのように、あっ! と声を上げる。

「もしかし……それって俺と和馬さんの………」

「ええ、啓一君と和馬君のペイシェントである可能性が、現状では最も高いと思われます」

 その答えを聞き、二人がうえぇ、と顔を顰める。自分のそっくりが敵の大将ならそう思うのも仕方ないだろう。

「つまり、その二人をどうにかすれば、助かるかもしれないんだね?」

 紗枝に、修はにっこりと親しみのこもった笑みを浮かべる。いつの間にそんなに仲良くなったのだと問いただしたかったが、その前に和馬が待ったをかけた。

「いや、確かに司令官を倒せば、状況は好転するかもしれねぇけどよ、俺達が今まで準備してきた物は全部、あいつ等に破壊されちまったんだぜ。車もないし、食料もないから、また一から調達しないとなんねぇ。あいつ等が周りにいたら無理じゃねぇか?」

 確かに、と和馬の疑問に皆がはっとするが、修は首を横に振った。

「和馬さんの言い分は尤もですが、それは心配ありません。車はもう一台用意されていますから」

「もう一台って、どこにっすか?」

 啓一の問いに、修は軽やかに答えた。

「先も説明した通り、私は一人の逃走を考えていたので、紗枝さんに別の車に食料を備蓄してもらうように頼んでいたのです。それは一つ隣の家にありますので、恐らく彼らにも気付かれていないでしょう」

 それを聞き、皆が再びはっとする。確かに修はその話をしていた。

「つまり、和馬と啓一のペイシェントをどうにかしちまえば、あとはどうとでも撒ける、ってことか?」

 隼人なりに噛み砕いた理解をぶつけてみると、修は満点と言うように柳眉を和らげ笑う。

「でも、外はペイシェントだらけで、その中からあの二人だけを倒すってのは少し無理じゃないっすか?」

 啓一の言葉に、今度の修は少しばかり悩み、

「なら、あの二人をこの中に誘い込みましょう。交渉か、降伏、何でもいいので二人だけを中に入れる状況を作ります。確証があるわけではありませんが、彼らはペイシェントに私達を襲わせはしましたが、食わせはしなかった。もしかすると、自分達で食おうとしているのかもしれません。それならば、この作戦にも光明はあります」

 荒さが目立つ作戦だが、この状況下では誰もこれより優れたことは思いつけないだろう。元より、戦う以外に隼人達が助かる道はないのだ。そうと決まれば、隼人のすることは一つ。

「よし、ならそれで行こう。皆で力を合わせれば……って、おっと」

 台から下り、地面に足をつけると、突然世界が揺れるような感覚に陥った。バランスをとることが出来ず、隼人は台に寄りかかる。

「隼人君はまだ駄目だよ! まだ貧血状態が続いてる。そんな体じゃ戦うだけじゃなくて歩くのも一苦労でしょ」

「けど、あいつ等は……」

 ペイシェントは人よりはるかに優れた身体能力を有している。二人をうまくこの中に連れ込めたとして、紗枝達四人では倒すことはまず不可能だろう。ここは自分が行かなければならない、仲間を守る為にも。

 そんな決意を込めた言葉は、しかし、和馬によって遮られる。

「またお前はそうやって一人で責任を背負い込むような真似して、本当に馬鹿だな。守られるだけの存在が仲間じゃねぇだろ。守らせろよ、今度は俺達に。なに、お前の輸血が終わるまでの時間くらいなら俺達が稼いでやるさ。信じろって」

 和馬の言葉に、四人が一斉に頷く。

 それを聞き、隼人は渾身の一撃をくらったように額を押さえた。信じろとは時に卑怯な言葉だ。それを言われたら、もう隼人に反論の余地などない。仲間を信じられなくて、それを仲間とは呼べないだろう。

「……分かった。けど、絶対に無茶はするなよ! 動けるまで回復したらすぐに駆けつける! お前達を信じてるんだから、絶対に死ぬな!」

 隼人の激励に、四人は各々勢いよく返事を返した。

 そのまま出発、という雰囲気だったが、その前に修が苦笑いしながら口を開いた。

「水を差すようで悪いのですが、作戦に赴く前に一つ決めておかなければならないことがあります。仲間だと確認する手段です」

 それに紗枝がきょとんとしながら聞き返す。

「仲間だと確認する手段って……どういうこと?」

「和馬君と啓一君のペイシェントははっきり言って見た目では判断できないほど似通っています。唯一服装は違いますが、もしも見失って無理やり着せられた、などと言われてはそれも確証を得るには不十分になりえます。ですので、合言葉を決めておきましょう。そうですね、『仲間とは?』と片方が聞き、その答えは『信頼を結びし者』とします。この時、足を二回鳴らして下さい。それが出来なければ、盗み聞きしたか、聞きだした敵だとみなします。そして―――」


「よし、もう動ける!」

 数分間、燃え上がる家の中に取り残されたような焦燥感を味わっていた隼人は目眩や体調不良が起きないことを確認すると、腕に刺さっているチューブを強引に抜き取る。赤い血液がポタタッと床に飛び散った。

 隼人は台から下りると、処置室の自動ドアを潜り、今からの手順を脳内で反芻する。

 もしも、修の作戦がうまくいっているなら、ロビーで自分が来るのを待っているはずだ。そして隼人が到着した瞬間から、戦いが始まる。

 不意打ちのような気もするが、そんな道徳心を気にかけている余裕は今の隼人達にはない。

 頼むから無事でいてくれ、そんなことを祈りながら角を曲がり、ナースセンターにつくと、隼人は唖然とした顔を浮かべた。

 そこには、誰もいなかったのだ。

 和馬(仮)と啓一(仮)だけでなく、紗枝達の姿も見えない。この時点で何か異変があったと見るべきだが、隼人には今の時点でどんな異変か分からない。

 向こうの二人をうまくおびき寄せられなかったのか、それともおびき寄せ、時間稼ぎに失敗したのか。

 だが、おびき出すのに失敗したならば、今頃外が騒がしいはずだし、誰も経過報告に来ないのはおかしい。考えられる限り、もうこの中に敵がいると思っていた方がいいだろう。

 そうなればそうなったで、さらなる懸念が浮上してくる。紗枝達は大丈夫なのだろうか。失敗したということは反撃を受けたということ。深手か、殺されてしまったという可能性も十分にあり得る。

 だが、隼人はそんなネガティブな考えを追いだした。今は悩んでいても仕方ない。一刻も早く、誰かと合流しなければ。

 そんな願いを聞き入れてくれたのか、悪戯か、後ろから声がかけられる。

「あ、アニキっ!」

 その名前で呼ぶのは一人しかおらず、隼人は振り返る前からその人物が誰か分かった。予想通り、後ろにいたのは小柄な男子、啓一だ。服装は先ほどと同じで特に怪しい点はない。だが、

「待て、啓一。こんなこと言いたくねぇが、合言葉を言え。そういう決まりだ」

 隼人の言葉に、駆け出そうとしていた足を止め、啓一は緊張感を孕んだ顔で頷く。

「啓一、『仲間とは?』」

「『信頼を結びし者』っす」

 言い終えた後、啓一はタン、タンと足を二回鳴らす。そして……

「よし、分かった。すまねぇな、疑うような真似しちまって」

 ようやく許しが出た啓一はまるで玄関で待っていた犬のように隼人に駆け寄った。しかし、近寄るや否や、その表情は暗くなる。

「いえ、いいんすよ。皆で決めたことっすから………それよりもアニキ、作戦は失敗しちまったんす。交渉って名目であの二人をおびき出したんすけど、どうやらこっちの作戦は見破られてらしく、いきなり襲い掛かってきて……皆捕まっちまったっす! 俺は和馬さんが庇ってくれたから!」

 自身一人だけ残ってしまったことが悔しくてたまらないのだろう。啓一は顔を下に向かせると、拳を固く作り震えだした。ポタ、ポタと小さな雫が床に落ちる。

 そんな啓一の肩を隼人は強く叩いた。

「泣くな、啓一。今泣いたって意味ねぇだろ。助かったことを悔やむんじゃなくて、助けられることを喜べ。一緒に助けるぞ、俺達の仲間を!」

 隼人渾身の激励に、啓一は浮かべていた涙を弾けとばし、垂れていた鼻水を啜った。そして、それまでの泣き顔を一新させ、強い眼光を宿らせると、重く頷く。

 それに隼人も頷き、二人はどこに潜むとも知らない敵と戦う。

 啓一の証言によると敵は四人を早業で確保すると、奥へと消えて行ったらしい。必死に逃げていたので行先は分からないということ。

 この診療所は都会の総合病院のように大きな施設ではない。玄関を入ると待合室のロビーがあり、近くに受付がある。隼人と啓一がいるのはここだ。

 他には隼人が先ほどまで使っていた処置室と、診療室が二、三室ほど。それ以外ではトイレと裏側の事務室くらいだろう。広いとは言えないので、探すのにそれほど手間はかからないと思うが、隠れる場所なら多くある。隼人と啓一は周囲に細心の注意を払いながら、行動を開始した。

 まずは今いるロビーだ。啓一にロビー周辺を調べさせ、隼人は受付のところを見てみる。

 半円を描くようなカウンターを軽く飛び越える。その際、カウンターの裏側に隠れているのではないかと、警戒していたのだが、書類やらが並べられているだけだった。奥へと続くドアがあるのみで、他には何もなさそうだ。

 隼人はカウンターをコン、コンと拳で叩くと、啓一をこちらに振り向かせる。目でいたかどうかを尋ねたが、彼は緊張した面持ちで首を横に振った。

 ここにはいないことを確認すると、隼人は、啓一を手招きし、奥へと繋がるドアを開いた。

 そこは表とは違い、少々乱雑としていた。デスクが六つ縦並びで繋がっており、周囲の壁は書類やファイルで埋め尽くされている。壁にかけられていたホワイトボードには所狭しと予定が書かれており、様々な報告書が貼られていた。

 ざっと見た限り、隠れられるのはデスクの下だがさすがにそれはないだろう、と思いつつも万が一を考え、調べない訳にはいかなかった。一つ、一つ覗く度に冷汗を一粒流したが、結局そこには何もいなかった。

 ふぅ、と大きなため息をつきながら額を拭う隼人の体を、啓一が叩いた。啓一に視線を戻すとある一点を指さしている。見ると、そこには質素なドアがあった。本棚に隠れていて分かりにくかったが、反対側にももう一つある。

 何の扉か分からず、隼人はとりあえずドアノブが動く音も殺し、そっと隙間を開けて窺う。中は鉄製のロッカーが立ち並んでいた。それを見て、隼人はここが更衣室なのだと理解する。

 恐らくはどちらかが男性用で、もう一方が女性用なのだろう。男が女子更衣室に入るというのは、ついこの間まで法治国家で暮らしていた身としては抵抗感があるが、これほど隠れやすく、捕らわれた仲間を隠しておける場所を無視することは出来ない。

 隼人と啓一は互いの背中を守りながら、まずは右側のドアから入ることにした。何が出てもいいように、ばっと素早くロッカーを開くと拳を構える。そんな動作を滝のような汗を掻きながら何度かしていると、突然、小さな音だが確かにガタッ、と聞こえた。

 啓一を見ると、どうやら聞こえていたらしく驚愕に目を見開きながらも頷いた。

 その音はこの部屋から聞こえたものではない。向こう側、反対のドアから聞こえた。

 隼人達は一端この部屋の探索を打切り、向こう側へと向かう。

 ドアを開けて中を見ても、向こうと同じようなロッカーの配置で、特に変わったところは見受けられなかった。しかし、こちらから音がしたのは確かなので、足音を殺しながら隼人達はロッカー内を確認していく。

 そんな時だった。再び、居場所を知らせるようにガタッ、と何かが鳴る。

 隼人と啓一は一気に体の筋肉を固め、音の方向に振り返る。二度目のそれは、隼人達に正確な居場所を提示した。

 この更衣室の一番端にあるロッカー、そこから音はした。

 隼人は、啓一に向かって頷くと、彼も同じように返す。二人は抜き足差し足で最奥のロッカーを囲むように陣取った。隼人が取っ手に手をかけ、啓一は引け腰で拳を構える。互いに呼吸を整え、大きく息を吸った瞬間、バッと勢いよくロッカーを開ける。

 すると、中から何かが倒れてきた。隼人と啓一はそれを咄嗟に避けると、狭い更衣室の中、後退する。しかし、すぐにその警戒心は少しだけ薄らいだ。少しだけなのは、倒れてきた相手が和馬であり、何故か体中に怪我をして、治療の際に着そうな患者服を着ていたからだ。

 もしかすると、目の前の和馬は別の和馬かもしれない、そんな疑問が、そしてそんな疑心を持たなければならないことが、隼人の体を鎖で縛りつけたように痛くする。だが、信じる心は美しい、など綺麗ごとを言っていられる場合でもなかった。

「……おい、和馬」

 倒れて動かない、恐らく和馬と思しき者に、隼人は小さいが、はっきりと名前を呼んだ。

 それに反応し、うん、と唸り眉間にしわを寄せると、体が強張り、和馬はそっと瞼を持ち上げた。何が起こったのか分からないように、キョロキョロと回りを見回し、隼人達を見付ける。

「何だ……隼人じゃねぇか……もう、怪我は大丈夫なのか?」

 頭痛がするように頭を押さえながらも、和馬は持ち前の気を利かせてきた。こんな状況でなければ、完全に和馬だと信じてしまいそうだ。

「ああ、その前に確認しないといけないことがある。『仲間とは?』」

「おいおい、俺を疑うのかよ?」

「すまねぇな、間違ってたら後で一発殴ってもいいからよ」

「はいはい、言ってみただけだよ。『信頼を結びし者』、ほら、これでいいだろ?」

 そう言いながらトレンドマークの赤毛のもじゃもじゃ頭を軽快に揺らす。しかし、足を二回鳴らすことをしなかった。

 ぞわりと、体の中に冷たい風を流し込められたように冷ややかさが襲った。咄嗟に拳を持ち上げ、息をも吐かせぬ速度で顔面を打ち抜こうとすると、

「おっわ、待った待った! 忘れてた、これだろ、これ!」

 と、和馬は、隼人の攻撃モーションを見て、陸に上がった魚のように体をばたつかせると、足を二回鳴らした。それを見て、隼人の動きが止まる。これで確信したからだ。

「ほら、どうだ? 俺はお前等の仲間だろ?」

 ほっと胸を撫で下ろしながら笑う和馬に、隼人もにっと笑いかけ、

「ああ、そうだな。お前は―――敵だっ!」

 途中で止めていた拳を再び加速させる。和馬(仮)の頬を捉えたパンチは、勢いを殺すことなく振り抜かれ、和馬(仮)の体はロッカーへと叩き付けられ、鉄がベコリと凹む。

「啓一に走れ! ここは狭過ぎる、ロビーに戻るんだ!」

 不意打ちで敵が動けない間に、隼人達は全力でその場から逃げ出した。ペイシェントの身体能力は一般人を遙かに超える。腕力だけでも、小学生ぐらいで隼人と張り合うレベルだ。それが同年代ともなれば、完全に隼人よりも腕力はあるだろう。分があるとすれば、それは経験の差。数々の喧嘩に巻き込まれ、多対一になれた回避能力。それを存分に発揮するためには、広いロビーの方が都合良かった。

「ア、アニキ、どうするっすか!」

 ロビーに退避するや否や、啓一が青ざめた顔で聞いてくる。

「どうするも何も、迎え撃つしかねぇだろ……!」

 外には多くのペイシェントが今か、今かと隼人達を食らいたくてうずうずしている。何よりも仲間はまだ捕らわれたままだ。放って逃げる、という発想は隼人の中には浮かびすらもしなかった。

 しかし、難問は多い。捕らわれている仲間もそうだが、啓一は彼らには太刀打ちできないだろう。必然的に守りながらの戦いになる。

 それに自分の体のこともあった。先ほどただ一撃、拳を放っただけだというのに、もう腹部から針で絶えず貫かれているような激痛が奔っていた。服がべっとりと生暖かくなっており、血が漏れ出していることが自覚できる。

 この状態でどこまで戦える!? と、隼人の不安が膨らんでいると、事務室から和馬(仮)が頬を押さえながら現れた。

「いつつ、お前の拳ってこんなに効くんだな。これをいつもくらってた不良達には頭が下がるぜ」

 そんな軽い調子が、隼人の不安を弾け飛ばし、体を一気に熱で包んだ。

「……テメェ、本物の和馬と修、そして紗枝をどこにやった!」

 仲間の危機に隼人が本気の怒喝を浴びせるが、和馬は小揺るぎもせず、笑ってみせた。

「はっ、言うわけねぇだろ。それよりも、どうやって俺が偽物だと見抜いたんだ? お前達のやり取りはしっかりと確認してたんだがな」

「テメェが喋らねぇのに、こっちが答える義理はねぇ」

 そう言いながらも、隼人の脳内には修の言葉が甦っていた。

『そうですね、『仲間とは?』と片方が聞き、その答えは『信頼を結びし者』とします。この時、足を二回鳴らして下さい。それが出来なければ、盗み聞きしたか、聞きだした敵だとみなします。そしてさり気なく右手の平を見せて下さい。そこにこのマジックで横線を引きます。敵は五感も普通の人間よりも強い可能性がありますからね。合言葉を設け、さらに足で二回叩くという罠を撒けば、そちらの方に飛びつくはずです。手の平を見せず、そしてそこにサインがなかったら、そいつは敵です』

 まさに修の思い描いた通りに敵は引っ掛かってくれた。彼女の智謀には毎回脱帽させられる。

 互いが、互いを拒絶し、険悪なムードが漂う中、我慢できず口を開いたのは啓一だった。

「な、何でお前等は俺達を襲うんすか!? 俺等が何をしたっていうんすか!?」

「……それをお前達に言う義理はない」

 和馬(仮)は先ほどの隼人の言葉を利用し、軽くあしらう。こう言った掛け合いは、隼人は得意ではない、いや、頭を使う作業全般が大の苦手だ。それでも、修の言っていた言葉がピンときて、隼人は試すような気持ちで口を開く。

「それは、お前達が理性を保とうとするためなのか?」

 これまで軽薄に笑っていた和馬(仮)の顔が途端に固まる。見開かれた目が小さくなった瞳孔を隼人に向ける。

「こりゃ驚いた。まさか、もうそこに気づいてるなんてな。まぁ、どうせ東雲修あたりだろ。お前は頭を使う作業は苦手だからな」

 体と顔は和馬と同じだが、その中身はまったく違う奴に知ったふうな口を利かれ、隼人は気持ち悪さと共に苛立つ。

「昔から知ってるみたいに言うんじゃねぇよ。それで、テメェ等は自分らの理性の為に、人間を食ってんのかよ?」

 隼人の到底友好的ではない口調にも、和馬(仮)は怒る様子はなく、やれやれと肩をすくめるだけだった。

「まぁ、考えは悪くない。けど、根本的に間違ってる。そんなことの為に、俺達はお前等を襲ってるわけじゃない」

「なら、何のためだ!」

 その追求に、和馬(仮)はそれまでの表情を改め、真剣な面持ちになる。その両目には人間でいう譲れない信念のようなものが見え隠れしたように思えた。

「そりゃ言えねぇな。俺達にだって心がある。仲間を思うことが出来る。俺等だって、お前等と一緒さ。ただ………お前達よりも生きることに一生懸命なだけだ!」

 雄叫びを上げた和馬(仮)から身震いするような殺気が漏れ出す。それと同時に、後ろで何かが吹き飛ぶ音が聞こえる。

「アニキッ、来るっすよ!」

 啓一からの声に、ああ、と答え、隼人はその場で体を回転させた。

 すると、先ほどまで体の合った場所を後ろから鋭い突きが通り過ぎていく。突きを放った本人は躱されたことがあまりにも意外だったのか、驚愕に体が固まっていた。

「二度も同じ手を食らうほど間抜けじゃねぇんだよ!」

 隼人は回転の勢いを弱めることなく、さらに捻るとその遠心力を足に乗せ、裏回し蹴りを見舞う。ノーガードの脇腹に激烈な踵がめり込み、ゴキン、と骨を折った音を隼人に伝える。ガハッ、と肺から息を吐き出しながら、そいつは吹き飛び、壁に叩き付けられた。

 隼人の蹴りと壁の強打を直に受け、苦しがっているのは啓一(仮)だった。しかし、今まで一緒にいた啓一ではない。

「大丈夫か、啓一!」

 隼人の呼び声に、後ろで吹き飛ばされていた啓一が、

「め、面目ないっす……」

 と息苦しそうな声音で返してくる。

 啓一は腹部を押さえながら、ロビーに設けられた長椅子の間で蹲っていた。大方、声を漏らさないよう腹部に掌底をくらってしまったのだろう。だが、殺す気はないようで、啓一が血を吐くような威力ではない。

 寸でのところで僅かな音に気づけたはいいが、状況は一つも好転せず、むしろさらに不利になっていた。

 目の前に敵のペイシェント二体。一体でもサシの勝負はきついというのに、その上、今さっき塞いだ傷がさらに痛みだしている。勝負云々以前に、自分の体力が持つかが怪しかった。

「さすがっすね、釧路隼人。まさかあの奇襲が見破られるとは思わなかったっすよ」

 確実に肋骨を折ったというのに、啓一(仮)は気にも留めないように立ち上がる。打ちつけた首をコキコキと鳴らしながら、鋭い視線を向けてきた。

 そして、二体は同時に飛びかかってきた。ペイシェント特有の俊足を発揮すると、目の前に現れた二体が拳を放つ。それをあらかじめ予想していた隼人は長椅子を飛び越え、後ろに引いていた。

 相変わらず油断すれば一瞬でやられる速度だ。気を抜いた時、それが自分の最後だと、はっきりと自覚できた。

 隼人の怪我を見抜いているのか、和馬(仮)と啓一(仮)は絶え間なく攻撃を繰り返す。

 だが、それは喧嘩を知らない拳だ。生まれてこの方人を殴ったことのないそれは、隼人から見れば簡単に予想でき、避けるのはそう難しいことではなかった。

 しかし、猛攻を避け続け、まだほんの一、二分程度。その時間で隼人は汗を滝のように流して、錆びつきボロボロになった換気扇の呼吸音を喉から出していた。

 本来ならばなんてことのない運動だが、やはり腹の傷が応える。このままではいけないと、さらに傷が広がることを覚悟で、隼人は、二体の攻撃を掻い潜ると和馬(仮)の鳩尾に拳を入れ、啓一(仮)の顔面に膝蹴りをお見舞いした。

 二体は吹き飛んだが、攻撃の衝撃が腹部に響き、隼人も片膝を突いてしまう。願わくば少しばかりのダメージを期待したのだが、二体は少し痛そうに起き上がるだけだった。

 絶望を通り過ぎて笑ってしまうほどのピンチが、目の前に広がっていた。体中を鼠のように這いまわる激痛を堪えながら、隼人は状況を打開するためにろくに回りもしない脳で考えてみるも、修や和馬のようにポンポンと何かを思いつくことはなかった。つくづく自分という人間は仲間に恵まれていると実感する。

「まったく粘るな。勝ち目はねぇんだから、さっさと諦めちまえば楽なのに」

 和馬(仮)の言葉に、隼人はまさかその声でそんなことを言われるとは思いもしなかったので、思わず失笑してしまった。

「テメェ、顔は和馬そっくりだが、あいつほど頭は良くねぇみたいだな。俺がこれくらいで諦めるわけねぇだろうが! そんなにげんなりするんだったら外の奴等を使ったらどうなんだ?」

 それは隼人が密かに抱いていた疑問であり、不安だった。今こうして二体と戦っているが、外にはそれの十倍以上のペイシェント達がいる。もしも、今にでもなだれ込まれたら、本当に打ち手が無くなってしまう。

 そんな隼人の不安を見透かしてか、啓一(仮)は冷笑で答えた。

「心配しなくても、外の奴等には手を出させないっすよ。あんた等は、俺等が殺さないと意味がないんでね」

「それは一体―――」

「おしゃべりはここまでだ!」

 和馬(仮)の声はすぐ真横で聞こえた。スローモーションになった世界で、なんとか視線だけ動かしてみると、そこには踵落しの態勢の和馬(仮)が。

 先ほどの話に疑問点を抱いていしまった隼人はそれを聞こうとして反応が遅れてしまった。長年の喧嘩の経験で分かる。この攻撃は避けられないと。それはそのまま隼人の敗北を意味し、仲間の死を意味する。

 ふざけるな! と隼人は失速の中で叫ぶ。こんなことで終れない。こんなミスで終わりなんて許せない。だが、どれだけ隼人が強く思っても、それは現実の壁を越えられない。無情にも足が振り下ろされようとしていた――――その時、

「させないっすっ!」

 そんな叫び声と共に、足を振り上げていた和馬(仮)に、啓一が飛びかかった。予想外の奇襲に、和馬(仮)は態勢を保つことが出来ずに、仰向けに倒れた。

「アニキ、一端退くっす!」

 啓一は素早く起き上がると、隼人に振り向きながらそう促した。

 確かにこのまま戦ってもじり貧なので、一刻も早く仲間を助けたい思いを抑え、隼人は倒れている和馬(仮)の横を通り過ぎた。

 二人が逃げてきたのは隼人が治療を受けた処置室だった。自動ドアが閉まると、二人は息を殺した。素早い行動だったので、ここに隠れたことはばれていないと思うが、狭い診療所では見つかるのも時間の問題だった。

 その時、啓一が自身の右肩を押さえると、膝を突いた。

「どうした、啓一!」

「す、すんません……さっき跳びかかった時に蹴りが少し当たったっす……」

 それを聞き、隼人が軽く肩に触ってみると、それだけで啓一は苦悶の表情を深くした。医者でも何でもない隼人は断言できないが、恐らくはどこかの骨が折れていると思われた。

 自分の負傷に続き、啓一まで。状況は際限なく悪化していく。

 諦めるなどはしない。だが、隼人には打開策がなかった。敵の攻撃を避けることが出来たとしても、負傷している今では隼人の拳や蹴りは決定打に欠ける。先ほどのような啓一のファインプレーももう期待できないだろう。

 仲間を助けたいという願望と、何も出来ないという焦燥が混ざり合い、今にも化学反応を起こして爆発してしまいそうだった。無力な自分が情けなかった。

 そんな時、啓一が痛みに汗を掻きながら、

「アニキ、大丈夫っすよ。無責任かもしれないけど、俺は、皆はアニキを信じてるっすから」

 そう言い、冷汗混じりの笑みを浮かべると、まるでここにいない紗枝や和馬、修を代表するようにしっかりと頷いた。

 その言葉は、隼人から焦燥を消し去るには十分すぎるものだった。

「……ああ、安心して信じとけ。必ず、お前等を守ってやるからよ!」

 そうだ、ここで焦っている暇はない。そんな時間があるのなら、少しでも周囲に目を向けるべきだ。自分は頭を使うことが苦手だ。しかし、近くで修の智謀を何度も見てきたではないか。彼女は常に周囲に目を向け、そこにある物を最適に活用していた。

 そのレベルまでは無理だとしても、周囲を見渡すことくらいなら隼人にも出来る。

 ぐるりと見回し、まず目に入ったのは床に散らばったメスだ。医療道具とはいえ、人体を切るためにその刃の鋭さは包丁とは別格だ。しかし、その分、リーチが短く、刃渡りがない。メスで致命傷を与えようと思ったら、喉元の動脈を切るしかなさそうだ。だが、それはあまりにもリスキーというもの。

 さらに周りをよく見ると、ある物が隼人の目に留まる。それはドラマなどよく出てくる除細動器だ。詳しい原理などは勿論隼人が知るはずもないが、心停止を回復させる為に電気を流す機械ということくらいは知っている。

 ならば、これを人に当てれば、それは大きな威力を産むのではないか、と考えたのだ。試に起動させてみると、突然ピー、という音が響いた。あいつ等に居場所がばれてしまうと焦ってももう遅い。除細動器はそのまま『チャージ中です』と言葉を発する。

 こうなったらもうやるしかない。隼人は機械から電気パッドを手に取ると、自動ドアに構えた。だが、まだチャージが完了していない。まだ来るな、隼人だけでなく、啓一もそう祈っていると、ドガァン! とドアが破壊された。

 この診療所にそんなことをやってのける者は二体しかいない。予想通り、そこには獲物を見つけた狩人の目をした和馬(仮)と啓一(仮)が現れた。

 間に合わないか! と、隼人が舌打ちをしていると、再びピー、と音が鳴る。

 寸でのところで間に合ったのだと確信した隼人は、近くに突撃してきた和馬(仮)に肉薄した。

 向こうも思惑を見破ったのか、慌てて裏拳を繰り出すが、それを避けれない隼人ではない。紙一重の最小限動作で躱すと、おおよそ心臓がありそうな部位に電気パッドを押し当てた。

「これでどうだ、タフ野郎!」

 隼人の雄叫びに、さすがの和馬(仮)も起こる衝撃を予知して、息を止めていたようだった。だが、何も起きない。一体どうなっているんだと、喚きたい隼人の後ろで除細動器が『症状を確認できません。機能を停止します』と憐れむように言ってきた。

「な、何だとっ!?」

 驚愕のあまり、隼人は思考が一瞬、白く染め上げられてしまう。

「残念だったな、隼人!」

 敗北から勝利への絶頂を味わった和馬(仮)は満面の笑みを浮かべながら、隼人の腹部に横蹴りを放った。身を砕かれるような衝撃が全身に広がり、隼人の体は後ろに置いてあった除細動器に叩き付けられる。

「どうやら天は俺達の味方らしい。今までよく粘ったけどもう諦めろ。お前の負けだ」

 勝者の余裕をもって、和馬(仮)は高みから言葉を下す。しかし、それは隼人からすれば単なる笑い話だ。荒唐無稽と蹴散らすものだ。

「はっ、天がお前等の味方? だからどうした? こちとらな、もうとっくのとうに神様なんかに頼ってねぇんだよ! ここまで来たのは俺達の力だ! 諦めなかった成果だ! 負けねぇ、負けられねぇ! 俺達が正しかったことを証明するためにも!」

 開いた傷口を押さえながらも隼人が拳を構えようとすると、足に何かピリッ、とした感触があった。見ると、それは電気パッドだ。しかし、それはおかしな話であった。先ほどは症状が確認できず、効果を発しなかったのに、どうして今は作動しているのか。

 ちらりと除細動器を見ると、先ほど自分がぶつかった衝撃で大きく凹んでいる。もしも、そのせいで機械に不具合が生じたとしたら。それは賭けにも等しく、そして外せば死ぬリスクだ。だが、可能性があるのなら、賭けない訳にはいかない。

 咄嗟に電気パッドを拾い上げ、再び和馬(仮)の攻撃を躱すと、それを押し当てた。

「はっ、何やってるんだ? 何度やったっておな―――ガッ!」

 それまで隼人がどんなに攻撃をしてもびくともしなかった和馬(仮)は電気パッドから雷光が迸ると体を硬直させた。そして目をグルンと回し、白目になると体を制御できないように崩す。

「テメェ、何を―――」

 と、すかさず啓一(仮)が飛び出した。

「お前が、何やってるんすか!」

 だが、そんな彼を、啓一が後ろから跳びかかり、足に手を絡めた。突然のことに啓一(仮)は態勢を崩し、床に顔面を強打することになる。

「もう、アニキを傷付けさせないっす!」

「ナイスガッツだ、啓一! よく覚えとけ、テメェ等! これが俺達の力、諦めねぇ根性だ!」

 舎弟の瞬く間の成長に何か、言葉にならに深い感慨を覚えながら隼人は笑うと、啓一(仮)の体に電気パッドを押し当てた。激しい衝撃と共に、啓一(仮)は白目を剥くと、倒れ込む。


「アニキ、いたっすよ!」

 気絶している合間に和馬(仮)と啓一(仮)を縛り、目を覚ますと仲間の居場所を聞き出した。最初は無視されると思っていたので、やれるかどうか分からないが、尋問もやむなしと思っていた。しかし、そんな懸念には反して、二体は簡単に口を割った。

「本当にあの更衣室にいたのか……それで、何で本当のことを言う気になった?」

 隼人が尋ねると、手足を縛られ、寝転がっている和馬(仮)が溜息交じりに笑った。

「俺達は、お前等に嫌がらせをしたいわけじゃないからな。負けちまったんだから、素直に言うことは聞くさ。最初から、そう決めて戦いを挑んだんだ」

 そう語る和馬(仮)の顔はとても理性もなにもない、怪物には見えなかった。ただ、自分の目的に一生懸命で、その上、相手の立場に立っても考えることが出来る。まるで、人間とほとんど変わらないようだった。

「隼人君!」

 その声に呼ばれ、振り向いて見ると、そこには瞳に涙を溜めていた紗枝が駆け出していた。抱き合う場面を想像していた隼人は辛い体で徐に手を持ち上げる。

「何でこんな無茶したの!」

 しかし、待っていたのは、柳眉をきつく吊り上げた紗枝の姿だった。隼人の体に近づくと、一、二となく服をめくられる。その憤怒の炎に彩られた瞳が睨むは、縫ったばかりの傷口だった。

「傷口が開きかかってる! あれだけ無茶はしないでって言ったのに!」

 自身が懸命に治療した後に、それを無駄にするような行為をすれば怒るのも当然だ。隼人は返す言葉もなかったが、それでも言えることはあった。

「……ああ、スマン。でもよ、俺は無茶したつもりはねぇぜ。お前等を助ける為なら、こんなの無茶の中にはいんねぇよ」

 こんなこと言ったらまた怒らせてしまうだろうか、と思ったが、紗枝はそっと額を、隼人の胸に当てただけだった。そこから、紗枝の体の震えが伝わってくる。どれだけ心配してくれていたのか、言葉よりも明確に分った。

「……本当に、スマン……」

 小刻みに震えている紗枝を抱き込み、それを止めるように隼人は囁いた。

「ううん……私の方こそごめんなさい。そんな無茶をさせてるのは私なのに……」

 そうやって、二人だけの世界に旅立とうとしたのを、修が止める。

「隼人、私のことは何も言ってくれないんですか?」

 ムギュッと、晒しを外した小ぶりだが確かな柔らかさを兼ね備えた胸が隼人の体に押し付けられる。首まで真っ赤にしながら横を見ると、そこには爽やかな美貌を讃えた修の顔があった。体はぴったりと密着している。

「両手に花の人間をまさかこの目で見ることになるとはな。まぁ、俺は桜井舞ちゃんと椋木沙希ちゃんがいるからいいけどな……!」

 明らかに良さそうではない様子で和馬がもじゃもじゃ頭を揺らしている。

「和馬さん、自分で言って空しくならないんすか?」

「うるせぇ! お前だって女の子とデートも行ったことのないガキだろうが!」

「ガ、ガキじゃないっすよ! 行ったことあるっすよ! その、あれ、手を繋いで公園とか散歩するんでしょ!」

「……お前それマジで言ってるのか? 高校生になってまでそれって……引くわ」

 何でっすかー! と暴れる啓一だが、左肩が痛み出したのか、顔を歪めで黙り込む。

「紗枝、先に啓一の怪我を見てやってくれ。俺の方はまだ大丈夫だから」

 そのことに紗枝は少々不満げだったが、こくりと頷くと、啓一の元による。

「さて、あとはお前等のことだが……」

 隼人は静かに振り向きながら、横たわる二人を見た。

「情けはかけないで欲しいっす」

 啓一(仮)がそう発した。

「元々、お前達に負けた時点で俺達は生きていくことは難しい。それが敵わないなら、いっそのこと殺された方がましっす」

 啓一(仮)の言葉に、それまで助かったことを喜んでいた隼人達がしんと静まる。今まで何体ものペイシェントを殺して、ここまで生きながらえてきた。それでも、話し合えることの出来たペイシェントは初めてだ。殺しに来たとはいえ、完全に感情を移入しないことは難しい。

 そして何より、人殺しという罪名が脳に浮かんで離れない。法で罰せられる、罰せられないではない。それがどれだけ恐ろしいことか、子どもながら命のやり取りを多くした隼人達はその重さを十分に弁えていた。

「……皆、外に出てくれ。後始末は、俺がやる……!」

 こんなことを皆にやらせるわけにはいかない。この二人を負かしたのは、自分だ。ならば、最後まで責任を持つべきだと、隼人は心に言い聞かせた。例え、それが自分の仲間と酷似している顔をしていても。

「いや、それはよ、お前の役目じゃない。俺達の役目だろ……」

 近くに落ちていたメスを拾い上げた隼人から、それを抜き取ったのは和馬だった。

「和馬?」

「お前は人一倍、いや、十倍情に厚い男だ。こんなことしたら、壊れちまうぜ。それによ、何でこいつが俺と同じ顔してんのか分かんねぇけど、きっと、俺がやんねぇといけねぇのよ」

 和馬に続き、啓一が前に出た。

「そうっすね。これは他人に任せたらいけない気がするっす」

 それを見て、和馬(仮)が嬉しそうに笑った。

「ははっ、何だよ。そんなに気を遣わなくてもいいのに。燃やすなり、埋めるなりすればよ」

 その傍に膝を突けた和馬が同じように笑う。

「そう言うなって。これも何かの縁だろ」

 決着をつける、その前に修が慌てて口を出した。

「待ってください! その前に教えてください、貴方達は何で、どうして私達を襲うのですか!? 何故突然現れたんですか!?」

 修の行為を無粋と軽蔑するものはいなかった。それは聞いておかなければならない最重要事項だ。皆を代表して、修は尋ねてくれているのだ。

「残念だけど、それは言えねぇな」

 和馬(仮)の返答は拒否だった。

「俺等にも心ってもんがあるのよ。仲間を売るような真似は出来ねぇ。まぁ、生き残るこった。そうすれば、否が応でも分かる時が来るさ」

 修は納得いかない様子であったが、これ以上聞いても無駄であると和馬(仮)の固く結ばれた口を見て覚ったのか、悔しそうに後ろに下がった。

 そして少しだけ延びた終わりの時間が来る。

「最後に何か言い残すことはないか?」

 啓一が倒れている自分と同じ顔のペイシェントに尋ねる。それは哀れみでも、命の判断を委ねられている優越感でもなく、啓一という男の優しさから染み出た言葉だった。

 だからだろうか、啓一(仮)は目を見開くと、寂しそうに笑う。

「………そうだな。お前はでかい男になるんだろ? だったら、そうなってくれ」

 それに啓一がこくりと頷くと、和馬も聞く。

「で、お前は?」

 それを聞き、和馬(仮)は人の悪い笑みを浮かべると、和馬を近くに寄せた。

 そのまま耳打ちをして、何を言っているのかは隼人達には聞こえなかった。しかし、それを聞いた和馬は我慢できないように突然噴き出す。

「ぷっ、ははっ、さすがは俺と同じ顔。言うことがえぐいねぇ。ま、努力してみるわ。じゃあ、皆、すまねぇけど……」

 殺しの現場を皆で見ることはない、ましてやそれが殺す側と同じ顔ならなおさら。

 隼人は修の肩を押し、そしてボロボロと涙を流している紗枝をそっと抱きしめ、処置室を後にした。

 今後ろではあの二体の命を、和馬と啓一が断とうとしている。それを気にしてか、紗枝は終始泣きっぱなしだ。隼人はそんな紗枝を宥めるように背中をさすっている。

「……隼人君、これしか、答えはなかったのかな……?」

 涙でぐずぐずに濡れた声で、紗枝は尋ねる。

 隼人は咄嗟に答えを出すことが出来なかった。生かしておくという選択肢もあっただろう。だが、そうすればまた敵として向かってくることは明白だった。彼らからは、いや、ペイシェント全体からは底知れぬ執念を感じる。和解する道はなかった。

 しかし、それもつまるところ、自分達だけの立場だ。自分達に危ないから殺す、邪魔になるから殺す、より楽の為に殺す。それが全面的に正しいとは、隼人には到底言うことは出来ない。

「今はまだ……正解なんてないのかもしれないですね。いえ、ずっとないのかもしれません」

 修がどこか遠くを見ながら、そう呟く。

「確かに、な。今の俺達にはそうするしかなかった。答えはないかもしれない。それでも、ずっと考え抜くのが、答えに一番近いんじゃねぇのかな」

 隼人の声にこたえる者はいない。だが、後ろの自動ドアが開いた。

「……待たせちまったな」

 和馬と啓一が重苦しい顔をしながら出てきた。その体には先ほどまではなかった返り血が浴びせられている。それでも、二人は決して俯くことはしなかった。

「なんて声をかければいいのか分からねぇけど、皆無事で良かった。あとは、外にいるペイシェント共をどうするかだけど―――」

「待ってください、隼人。何か、外が静かすぎやしませんか?」

 割って入ってきた修の言葉に、皆は何を言いたいのか咄嗟に理解し、耳を澄ませてみた。確かに、外に何十体のペイシェントがいるにしてはあまりにも静かすぎる。

「もしかして……!」

 そう思うと、隼人は入口に積んでいた棚やベッドなどを退けると、ボロボロになった車越しに外を見た。そこはペイシェントも何もいない。怖いくらいの静けさが蔓延した道路がただ無情に伸びているだけだった。

 慎重に入口付近のものを撤去すると、隼人は恐る恐る足を踏み出す。左を見ても、右を見ても、ペイシェントはいない。彼らは完全に理性を失っていた。そうなったらただがむしゃらに人間に襲い掛かるだけだ。それがこうもぱったりいないとなると………

「……まさか、あいつ等が……」

 啓一が微風に攫われそうな声を出したが、誰もそれを肯定はしなかった。

 ただ、彼らが一体何なのか、大きな難題が突きつけられたような気がした。

「……行こう、まだあいつ等は近くにいるかもしれない。今のうちにここを脱出しよう」

 隼人の言葉に、一同は浮かない顔を吹き飛ばし、強く頷いた。


 隼人達の拠点の車はペイシェント達に完膚なきまでに破壊されていたが、修が用意したもう一台は完全にノーマークだったらしく、無傷であった。その代り、今まで集めた食料やガソリンは半分しかなくなってしまったが、それでもまた集めればいいだけだ。

 一同は、和馬のぎこちない運転のもと、今までの拠点を去った。しかし、そう遠くに行く訳ではない。今回の戦いで隼人は腹部裂傷、啓一は左鎖骨骨折、他の三人も軽傷を負ったということで、何日間は傷の治癒と休息に当てようと決まったのだ。

 出来るだけ静かな場所を選び、車庫付の一軒家にお邪魔すると、仮初で、束の間の平穏に浸る。それでも、今はそれがとても心地よかった。

「痛ててっ、紗枝、もう少しそっとしてくんねぇか?」

「あっ、ごめんね、隼人君。ちょっと力入れ過ぎたね」

 自分に割り当てられた一室で、紗枝と二人っきり。だが、キャッキャウフフな展開にはなりえない。何故なら、紗枝は隼人の怪我の回復具合を確認しているだけなのだから。

 傷口以外何も見えていないような真剣な紗枝の瞳に、隼人は胸にじんと来るものがあった。少し前までならこう言った医療行為を見るか、聞くだけでも顔を青ざめていたというのに、今では一人前、までは行かなくても立派な医者の卵だ。

 ずっと後悔していた。自分のせいで紗枝の将来を閉ざしてしまったのではないかと。紗枝は医者に向いていると思う。成績も確かに重要だが、人を助けたいと本気で思ってくれている紗枝のような医者に、自分ならかかりたい。だから、こうしてまた進んでいる紗枝を見るのは、自分のこと以上に嬉しかった。

「はい、診察終わり。うん、大丈夫、順調に回復してるよ。この調子で行けば、あと一週間くらいで完治できると思う。凄い回復力だね、隼人君は」

「なに、医者の腕がいいんだろ」

 そんな何気ない会話に安堵の笑みが両方に零れる。

 そこで会話が途切れ、手持無沙汰になった二人は途端に、一部屋に男女が、という状況を意識し始め、キョロキョロと視線が泳ぐ。

 何かを話さなければ、いけない気分になってしまいそうで、隼人は必死に誰の部屋とも知れないこの一室を見回した。そこでふと目に入ったのはデジタルの目覚まし時計だった。時間と共に今日が五月五日、子どもの日であることを明らかにしていた。

 今の今までが激動の非日常だったために、時間の感覚など忘れていたが、平穏だった日から実に一週間以上経っていた。そして、その日が何故か頭の片隅に引っ掛かる。何だろうかと少し考えてみて、隼人は自分の馬鹿さ加減に拳が出てしまいそうになった。

 慌てて、学生服の内ポケットに駆け寄る。その様子を紗枝が不思議そうに眺めていた。

 頼むから壊れてないでくれよ! と祈りながらポケットを探ってみると、数々の激戦を潜り抜けたにも関わらず、奇跡的にそれは無事であった。

 ほっとするのも束の間、今度はどちらにしようかと迷う。しかし、紗枝のことになると、とことんへたれになる隼人は安全な道を選ぶことにした。

「さ、紗枝、お前、今日が何の日か覚えてるか?」

「へ? 今日? えっと、五月五日……あっ!」

 目覚まし時計に目をやり、今の時刻を確認すると、紗枝は口を開いて驚く。

「ああ、誕生日、おめでとう」

 そう言いながら、隼人はポケットから取り出した、一つのクシャクシャになった薄い紙袋を差し出した。誕生日プレゼントが用意されていたことが意外なのか、はたまた隼人が覚えててくれたことが嬉しいのか、どちらとも分からないがとても嬉しそうに慌てながら、紗枝は紙袋を受け取る。

「その、ずっとポケットに入れたまま戦ってたから、紙がクシャクシャになっちまったな……スマン……」

 せっかく一年に一度の記念すべき日なのにこれはあまりにも無礼なのではないか、と隼人は頭を下げる。しかし、紗枝はとんでもない、というふうに首と手を振った。

「そ、そそそそ、そんなことないよ! すすすすごく嬉しいっ! その、あ、開けてみてもいい?」

 慌てながらも遠慮がちな紗枝の姿に、隼人は愛おしさに笑い、こくりと頷いた。

 紙を破らないように慎重な手つきで袋を開けると、中に手を入れ、紗枝が取り出したのは銀色に輝くロケットペンダントだった。蓋には幸運のシンボルとして四葉のクローバーが彫られている。

 その見た目から分かるように大した代物ではない。純銀でもなければ、名のしれた名匠の一品というわけでもない。高校生のバイト代で買える安物だ。

 だが、紗枝はそれを両手で絶対に落さないように持ちながら数分間眺めると、大事にしまうように手の中に包んだ。紗枝の頬がまるで宝石のように赤く染まる。

「ありがとう、隼人君。こんな言葉じゃ言い表せないくらい、本当にありがとう」

 大したものではなく、またへたれた結果なのでそんなに嬉しそうにされると自分の度量の無さと恥ずかしさで隼人はどんな顔をすればいいのか分からなかった。

「い、いや、安物だし、そこまで言われるものじゃねぇよ」

「ううん、隼人君がプレゼントしてくれたことが何よりも嬉しいの。それにロケットペンダントっていいチョイスだね。これで皆との思い出もずっと持ち運べるし。何でこれにしてくれたの?」

 ギクリ、と隼人の体が雷に打たれたように固まる。

 言えない。本当は指輪を買ってしまったが、これをプレゼントする時を想像するとまるでプロポーズのようで、恥ずかしさのあまりそれを買ったなどと。

 そんなへたれた経緯など知るはずもない紗枝は純真な瞳で見つめてくる。多大なる精神ダメージを受けながら、天使の微笑みに耐え切れず洗いざらい話してしまいそうになる隼人だったが、

「隼人、怪我の具合はどうですか?」

 ナイスタイミングで修が来てくれた。これで話が逸らせる、と思いきや、紗枝と二人でいるところを見ると、その目つきが唐突に鋭いものに変わる。

 ふ~ん、と紗枝を一瞥すると、その前を通り過ぎ、いきなり隼人の腕に抱きついてきた。突然のことに隼人と紗枝は同時に顔を赤くする。

「ちょ、修、一体何を!」

「しゅ、修さん、隼人から離れて下さい!」

 そんな二人を無視し、修はさらしをとった控えめだが柔らかい胸を押し付けてくる。眼鏡をとった流麗な顔が真っ直ぐに隼人を覗き込んだ。

「それで、隼人、怪我の具合はどうですか?」

 そう尋ねる修は何故か途轍もない気迫がみなぎっており、隼人は半ば無意識で答えていた。

「え? まぁ、少しは良くなったけど……」

「そうですか、それを聞いて安心しました。その傷ではここしばらく体を流せていないでしょう。シャワーを浴びるのも痛そうですし、私が拭いてあげますよ」

 その言葉の意味が分からなかった隼人は首まで一気に赤らめながらおうむ返しにきいていた。

「ふ、拭く!?」

「ええ、体を隅々まで」

「す、隅々まで!?」

 修に体を拭かれるという様子を思い浮かべ、いやいや、と首を振って邪な想像を追いだした。

「いや、申し出はありがたいけど、それはさすがに―――」

「そ、そうだよ、修さん! 隼人君を拭いてあげるのは私なんだから!」

 ええっ!? と、ここに来ての参戦者に隼人はもう何が何だから分からなくなってきた。名乗り出た紗枝は、修に対抗するように反対側の腕に抱きつく。修とは違い、大きな胸が全身を包み込むように腕を挟む。

 カオスな状況になってきたところに、騒ぎを聞きつけて、和馬と啓一が入ってくる。

「おうおう、隼人は相変わらずモッテモテだねぇ。そろそろ五寸釘を用意しとくか」

「さすがアニキッ! やっぱり男の中の男っていうのはそうじゃなくっちゃ!」

 そんな見当はずれのことを言う二人に、

「いいから、お前等止めろ……あ! そうだ!」

 と、この状況を打開する名案を思い付く。

「ここにいる皆で写真を撮ろう! そんでもってそれをロケットに入れておけばいいじゃないか!」

 隼人の言葉にプレゼントのことを知らない三人は何のことだと首をかしげるが、ペンダントの持ち主の紗枝は、この名案に乗ったのか、手を打ち鳴らすと、

「うん! それはいい考え! 早速撮ろうよ!」

 それほどまでに嬉しいのか、紗枝は善は急げと皆をリビングに集めるのであった。


「よ~し、いいか、タイマーかけるぞ~」

 一軒家を探して、カメラを見つけると脚立で固定し、今和馬がタイマーを設置している。

 皆はロケットペンダントのことを知ると、喜んで頷いてくれた。左にいる修は、私も誕生日プレゼント楽しみにしています、という言葉つきではあったが。

 右にいる紗枝はシャッターが切られる瞬間を今か、今かと待ちわびている様子だった。思えば、こんな楽しそうな紗枝を見るのは久しい。あの事件以降、会わせる顔がなく、隼人はずっと逃げてきていた。それが今はこうしてまた隣に立てているのだ。

 今ならずっと言えなかったあの言葉を言えるかもしれない。そう思った隼人はだが、真正面を見て言うには勇気が足りず、前を向いたまま、

「なぁ、紗枝」

「ん? 何、隼人君?」

 紗枝が自分の横顔を見ていることが何となく分かる。隼人は思い切って、口を開いた。

「今度は……どこまでも一緒に行ってやるよ」

 少しキザっぽいだろうか。格好をつけすぎただろうか。

 だが、そんな思いは紗枝が抱きついてきたことで吹き飛んだ。態勢を崩しそうになりながら、ようやく紗枝の顔を見ると、そこには一粒涙を流しながら、太陽が霞んでみるくらいの満面の笑みがあった。

 それを見れただけで、隼人はやっと、過去の自分を乗り越えられた気がした。いつか、渡すことのできなかった指輪を薬指にはめられたらと思えた。

 隼人と紗枝だけでなく、修も、和馬も、啓一も皆、今この平穏を笑っている。

 残酷な世界なれど、カメラのフラッシュが映し出したのは、変わらない仲間の絆だった。

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