9、華那の集落
旅立ちの日。両手を掲げて仰いだ大空のどこを探しても、雲の姿はひとつも見当たらなかった。力強い青が山並みの向こう側までずっと続き、憎らしいほどに澄み切っている。
最後の雨が降ってから四十日近く経っていた。
日和は麻の貫頭衣を頭から被る。木綿の腰紐を締め、髪を後ろでひとつに括ると、集落入口の広場に立った。既に、昨年に収穫した粟や稗、米を詰めた麻袋を担いだ男たちが日和を待っている。うち、ひとりは覇玖だ。覇玖は横幅衣を腰に巻いただけの格好をしており、陽に焼けた背に刻まれた鷹の刺青を露わにしていた。
覇玖の半歩後ろに佇むのは、旭木という筋肉隆々の男で、今回の旅の同行者の中で一番の年長者だ。右肩に白鳩の刺青を彫っており、生真面目な様子で誰よりも大きな荷物をその肩に担いでいる。
その隣に立つ青年は、穂積だ。彼は数年前に他の集落から移住してきたのだが、端正な顔立ちと気安い性格のおかげで瞬く間に豊津原に馴染み、気がつけば、豊津原の若い女たちを魅了し、男たちも彼を仲間として受け入れていた。彼自身の立候補でこの旅の同行が決まった。
日和が彼らの隣に立つと、見送りに集まってきた人々を左右に割って、須鞘が歩み出てきた。なんとも不安げな表情だ。
「くれぐれも気をつけて。日和の顔を知っている者がいるかもしれないからね」
「分かってる。気を付けるわ」
「それから、兄上の側から離れないように。しっかり護って貰うんだよ?」
「……」
「……そこ、なんで返事がないのかなぁ」
「そうだぞ、なんで日和は素直に頷けないんだ。須鞘、心配すんな。日和のことは俺が必ず守り抜いてやるからな」
「はい、必ずですよ。たとえ兄上の腹に槍が突き刺さろうと、腕がもげようと、足が吹っ飛ぼうと、日和だけは必ず無傷で豊津原に帰してくださいね」
「おいコラ。俺のこと、どうでも良すぎるだろう!!」
そんな兄弟たちのどうでも良いやり取りを聞き流しながら日和は広場に集まって来た者たちを見渡す。豊津原の集落に移り住んで以来、豊津原から出たことのない日和が旅に出ると聞き、見送りに出てきた者たちは、ひとり、ふたりの数ではない。ざっと見渡しただけでも数十人を超えた。
皆にオババと呼ばれ慕われる老巫女が北の内郭からヨボヨボと出て来るものだから、それに付き添って二十人の巫女たちが広場に出て来ている。他にも口やかましい長老たちや、日和の治療を受けたことのある者たちが日和の旅の安全を願い、見送りに来てくれていた。
彼らに大きく手を振って日和は集落の大門をくぐる。
「大丈夫よ。必ず無事に帰って来るから!」
そして、門の外まで出て見送ってくれた須鞘の姿が見えなくなるまで何度も何度も後ろを振り返りながら、うっすらと土埃の舞う道を進んだ。
豊津原は山々に囲まれた土地である。この土地から外に出るためには、集落の西を沿うように流れる川を利用しなければならなかった。本来ならば、舟で川を上って行きたいところだが、川には舟を浮かせるだけの水がない。今にも干上がりそうな川底を眺めながら歩いて北に向かうより他になかった。
日和たち一行は、川に添って二日進んだところで山並みの北側に出た。さらに北に進めば投馬の集落にたどり着くが、北西に向かう。途中、支惟國と波里國の集落に寄り、半分ほどの粟と稗を貝輪や管玉と換えた。
米は絹織物でなければ交換したくない。どこの國でも稲の成長に細心の注意を払っている今の時期、昨年の米は貴重だ。秋を待たずに穀物庫が空になっている國も少なくないだろう。表情には出さないが、喉から手が出るほどに欲しいはずだ。そうした相手の心情を分かっていながらまけてやる必要は無かった。
(この先もしかしたら他國から水を買わなくてはならなくなるかもしれない。少しでも高値で取引しないと)
華那の集落には衣紗の祈雨祭を見ようと人々が集まっている。人が集まれば、それだけ物が動く。人や物が動けば、必ずそこに商売が生まれるものだ。きっと絹織物を売りに来ている者もいるはずだった。
波里國から北上すること二日。深緑の木々に覆われた山が連なって姿を現す。晴天の空を覆い隠すようにそびえる山の影が落ちた谷を縫うように日和たちは進んだ。北に進むほど緩やかに上っていく谷の道には、日和たちの他にも旅人の姿がある。皆、華那の集落を目指しており、その姿は集落に近付けば近付くほど目に見えて多くなっていった。
女や子供の姿もあり、身なりも様々だ。襤褸を纏い、背を丸めてのろのろと歩いている者は、おそらく、すっかり干上がってしまった集落からやって来たのだろう。
心から雨を渇望してやってくる者、祈雨祭を行う衣紗の姿をひとめ拝もうとやってくる者、そうして集まった人々との商いを目的にやってくる者たちに紛れながら、日和は華那の集落を目指した。
やがて、道というよりも広場ほどに幅広い道が人々で溢れ、歩みが遅々として進まなくなる。容赦なく降り注ぐ陽射しに玉のような汗が次々と浮いては流れ、麻の貫頭衣をぐっしょりと湿らせた。背中に密着した荷がひどく不快だ。歩みが順調であった時は気にならなかった重みに、あと少し、目と鼻の先に華那の集落があるというのにたどり着けない焦れったさが加わり、耐え難い疲労となっていた。
「西に回ろう。正門は人が多すぎる」
「西?」
「集落の西に市があるんだ。商いをする者は、まず市に向かうのが自然だろう」
「それもそうね」
覇玖の言葉に頷いて、日和たちは人を掻き分けるように移動した。
ちょうどその頃、華那の集落の中心にそびえ立つ御館の階を軽快な足取りで下りてくる男がいた。男の右頬には鮫を模した刺青が刻まれている。三十に手が届いたばかりの年齢だろうか。見ようによっては二十代半ば程にも見える。
はっきりと墨を引いたような眉に、強い意思を感じられる眼差し。腰布を巻いただけの身軽な格好をしており、その剥き出しの体のあちらこちらには戦場で負ったのだと分かる傷がある。屈強な戦士だ。そうだと、ひと目で誰もが分かる力強さを持った男だった。
「もうよろしいのですか?」
男が御館から姿を現すと、階の下で待機していた従者が驚きの表情を浮かべて男の傍らにつく。
「衣紗は禊ぎに行った。祈雨祭まであと三日だからな。毎日、禊ぎをして身を清めるのだそうだ」
「そうでしたか。そうでなければ、衣紗様が千隼様をお放しになるはずがありませんね。衣紗様の千隼様への執着の程は、妻が夫に寄せる愛情というよりもまるで罪人を監視しているかのようです。ご存知ですか? 衣紗様の御館には若い娘がいません。御館だけではありません。千隼様が華那に滞在している間、集落中の娘たちは千隼様の目に触れぬように隠されるそうです」
「なるほど。どうりで」
男――千隼は従者の言葉に頷きながら、内郭を囲む城柵の外に出た。華那の市の方に足を向ける。
「流生、お前は最初から衣紗のことが気に食わなかったよな。わたしの覇道の妨げになると言っていた。今でもそう思っているのか?」
「ええ、もちろんです。衣紗様がいらっしゃらなかったら千隼様は今頃、王の中の王、大王を名乗っていらしたことでしょう。ところで、市に向かわれているようですが」
「先ほど白鳩が戻ってきた。それによると、豊津原からやって来た客人は華那の集落に到着したようだ。市に向かったらしい」
「物売りに扮してやって来たのです。まず市を訪れるのが自然でしょう。千隼様は彼らを自ら確認されに向かわれるのですか?」
「あの投馬國王の息子がわざわざやって来たというからな。戦場で出くわす前にどんな面をしているのか見てやるのさ」
にっと歯を見せて笑み、千隼は市の入口をくぐる。
他國の者たちの出入りが多い市は、大概、どこの國でも集落の端に位置しており、華那でも市は集落の西の端に位置していた。
市に一歩でも踏み込むと、すぐに売り手の怒鳴り声が響いて聞こえてくる。それに応えるように、買い手がより良い品を求めて右に左に移動する様は、まるで海原をうねる波のように見えた。
この数日、華那の市では集落の正門に負けないくらいに人で溢れ、普段の倍以上の活気に満ちている。並べられた品々の種類も常より豊富だ。華那の地には世界中のすべての商品が集まっていて、まるで手に入らない物など無いのではと思わせる。
千隼は、人々を退かせ、主のために道をつくらせようとしている流生を制して、敢えて身分を明かさず、他の者たちと同様に人と人の隙間を縫うようにして市の中を進んだ。
(あれは……)
不意に、千隼の視線が何かに引き寄せられる。それは初め人混みの中にちらりちらりと見え隠れする小さな人影だった。抗えない大きな力に導かれるように千隼はその小さな人影を追って歩き出す。
近付くと、それが少女であることが分かった。年頃は十六、七くらいだろうか。若枝のようにスッと手足を伸ばし、市に並ぶ品々をキラキラと輝く黒い瞳で眺めている。格別、美しい容姿をしているわけではない。少女のどこに目を惹かれたのか、千隼にはまったく分からなかった。
だが、千隼の眼には、この地上で少女だけが異質で、格別なもののように映ったのだ。それ故に、少女は度々人混みに埋もれ千隼の視界から消えたが、千隼はけして彼女を見失ったりしない。次に少女が人混みから姿を現した時、千隼の眼は必ず彼女を見つけ出すことができたからだ。
「千隼様? 如何されましたか?」
「流生、わたしは今どう見える?」
「どうと申されますと?」
「耶羅國の王に見えるか? それとも、そこらの男と変わらぬように見えるか?」
「王にしか見えません」
「そうか……。それは困った。王の身分を隠して、あの娘の前に立ちたいんだが」
「は?」
「とりあえず、お前の名前を借りるぞ。そして、ついてくるな。御館に戻っていろ」
「なっ、何をおっしゃっているんですか。千隼様っ! お待ちを。戻って来てください!」
ついてくるな、と再度きつく命じると、流生はその場で足に根が生えてしまったかのように動けなくなる。その様子を小さく笑ってから、千隼は流生を置いて少女のもとへと駆けた。
もはや遠くから眺めているだけでは気が済まなくなっていた。もっと近くへ。もっと近くへ。手を伸ばせば容易に届く距離まで彼女に近付きたい。
前に立ち塞がる者たちの背を押しやるようにして、千隼は少女への道のりを自ら切り開いた。そして、あと僅かで手が届くという距離まで近づいて、足を止める。少女はひとりではなかった。荷物を背負った男たちが彼女を囲むようにして立っていた。
不覚だ。千隼は舌打ちをする。少女のことしか見えていなかった。
少女を取り囲む男たちは商人の装いをしているが、千隼には分かる、彼らは戦士だ。今この時も少女の周囲にただ立っているわけではなく、鋭い視線を辺りに放ちながら護衛している。あと一歩、距離を縮めれば彼らに気付かれてしまうというギリギリのところで千隼は踏みとどまり、恨めし気に少女を見つめた。
少女は千隼のことなど気付きもせずに、麻や木綿の衣類、米や粟などの食品が売り買いされる生活用品の取引場で、いくつかの取引を済ませると、壺や杯、椀など、様々な形の土器を眺めながら市の奥の方へと進んでいく。
市の奥には高級品の取引場ある。ここでは、翡翠の勾玉や、硝子の小玉と管玉が連なった腕輪、金銅製の耳環が、陽の光を受けて輝きながらカラムシ織の敷物に並べられていた。時期によっては、海を渡って来た異国の品々も並ぶ。
少女は男たちに荷を下ろさせると、彼らが運んできた米を絹に、粟と稗を腕輪や指輪、耳環などの装飾品に交換した。
取引を終えて身軽になった彼女たちは、さらに市の奥へと進む。祈雨祭が行われる日までの宿を探すためである。
やがて、艶やかな光沢を持った深緑色の葉に覆われた大きな木の陰から、古びて黒ずんだ藁の屋根がいくつも並んで見えてきた。屋根を支える柱が歪んでいるのか、違和感を覚えるほど傾いているものもある。
それらは商売のためによその集落からやってきた者たちのための竪穴の小屋だが、雨露をしのげるだけマシだという程度の物だった。それでも皆、ここに泊まれることを当てにしてやってくる。
「どこも人でいっぱいね」
小屋ひとつひとつの入口を覗き込んで、少女はため息混じりに言葉を零した。入口に下げられた麻布をめくり内を覗くまでもなく、人が溢れているのは見て分かる。小屋の周辺に座り込む人々で地面が覆い尽くされているからだ。皆、少しでも日陰に入ろうと、建物や大木の北側に身を寄せ合い集まっている。他人と肌が触れ合えば、暑さが増すように思うが、夏の日差しを浴び続けるよりはいくらか良かった。
「駄目ね。日陰にすら入れそうにないわ」
「ようやく屋根のあるところで眠れると思ったんだがな。日和、野宿が続いて辛くないか?」
「野宿は蚊が煩くて嫌よ。でも、我が儘を言っていても仕方がないわ。日陰で休めるのなら蚊が飛んでいてもムカデが這っていても構わない」
「そうだな、どうにか日陰には入らないとな。このままだと夜になる前に干からびてしまう」
少女の名は日和というらしい。日和を護衛する三人の男たちの中でひとりだけ日和に対してやけに親しげな青年がいて、その青年が彼女の名を呼ぶのを聞いて千隼は少女の名を知った。
日和は青年の言葉に耳を傾けながら額の汗を拭い、頷く。千隼も額の汗を拭いながら空を仰いだ。だいぶ陽が西に傾き、体に纏わりつく大気は涼しくなっていたが、真上から降り注ぐ陽射しよりも斜めから突き刺さる赤みを帯びた陽光の方が何倍も暑苦しい。できることならば一刻も早く日差しから逃れ、落ち着ける場所で休みたいと、日和たちは思っているに違いなかった。
「市を出て、民の居住区の方に行ってみない? もしかしたら休ませてくれる人がいるかもしれない。もし誰の助けも得られなくても華那の集落をもっとよく知ることができるわ」
「日和がそうしたいのなら、俺はそれでいいぞ」
「旭木と穂積は?」
「我々は巫女殿のご意思に従います」
「なら、決定ね。行きましょう」
立ち並ぶ小屋から離れ、日和たちは居住区を目指して歩き出す。すかさず、千隼も一定の距離を保ちながら日和たちの後を追った。
◇◆
市と居住区を隔てるものは、居住区をぐるりと囲んだ木柵だ。木柵は日和の鼻先に届くほどの高さがあり、それを越えようとする者は兵士による検問を受ける決まりとなっていた。日和たちも検問を受ける者たちの列に加わり、順番を待つ。
やがて日和たちの前にネズミによく似た面立ちの兵士が立ち塞がった。目は細く、閉じた唇から前歯が覗いている。兵士はおそらく日に何度も繰り返し飽いているであろう質問を日和たちにも投げ掛けてきた。
「どこから来た? 華那の集落に何用だ?」
「波里國から商売をしに来た」
「商いなら市場でやれ」
「祈雨祭が行われる日まで、集落で暮らしている知人を頼るつもりだ」
「知人だと? どいつもこいつも女王様の祈雨祭めあてに集まって来やがる。その知人とやらの住まいも人で溢れかえっているだろうよ」
嘲るように言ってネズミ顔の兵士は一歩退き、居住区への入口を日和たちに示す。その入り口を抜けて居住区を見渡せば、彼の言葉が如何に正しいか容易に分かった。どこに視線を向けても人で溢れている。
地面に座り込み、身に纏った衣の裾をパタパタと扇いでいる者たちは、おそらく他の集落から集まって来た者たちなのだろう。市の小屋が人で溢れているのと同じだ。ここも、縁者を頼って華那にやって来たものの当てが外れ、頼るべき縁者の住まいからあぶれた者でいっぱいだった。
「どうするの? 華那に知人なんていないわよ。たとえ屋根を貸してくれる親切な人がいたとしても、きっとその屋根の下はすでに人で溢れかえっているに違いないわ」
「そうだな。とりあえず、もっと奥の方に行ってみようぜ。この辺りは特に人が多そうだ」
言って覇玖は日和の背中を軽く叩き、歩みを促した。
華那の集落は、その内に八千戸の家族を抱える集落である。すると、当然のことだが、三千戸の豊津原よりもずっと広大な居住区を持っていた。
居住区に入った日和たちは南西を目指して歩き出す。いや、意図して目指したわけではなかった。人の少ない方へと選んで進んで行くうちに、自然と足先が南西に向いたのだ。そのため、自分たちを取り巻く異常な光景に気付くことができなかった。
ずっと日和たちの後を付けていた男が舌打ちをする。声を掛けてやらねば、日和たちはそのまま突き進んで行ってしまうだろう。
男は結っていた美豆良を解き、頭を左右に振った。バサバサと乱れた髪が男の右頬に刻まれた鮫を模した刺青を隠すと、男は歩調を早め、これまで慎重に保ってきたギリギリの距離を破って日和たちに近付いた。
まず旭木が男に気が付いて腰に帯びた剣に手を伸ばし、覇玖と穂積も日和を庇うように一歩前に踏み出す。そんな彼らなど眼中にない様子で、男は日和だけを見つめて言った。
「その先はやめておけ。死ぬぞ」
「貴方は誰?」
「誰でもいい。わたしの親切心に感謝して引き返してくれればな」
「死ぬだなんて物騒ね。なぜそんなことを言うの?」
旭木の体を押しやって日和は男に問う。
「本当に死ぬからだ。この辺りから西は奴隷の住みかだ。見て分かるだろう? あの住まいも、あの住まいもひどいもんだ。今にも崩れ落ちそうだ」
「言われてみれば、そうだな」
「それに何やら臭います」
覇玖と穂積が辺りを見回しながら顔を顰める。
「でも、この辺りから西って……、居住区のほとんどじゃないの」
「そんな驚くことではない。本来ここで暮らすべき華那族は十六年前の戦争で、ほぼ死に絶えている」
「あ……」
日和は思わず息を呑んだ。十六年前の戦争と言えば、千隼が華那に侵略して起きた戦争のことだ。
「ほんの少しの華那族が居住区の東で暮らし、残りのだだ広い土地は奴隷たちの住まいだ」
「なるほどね。でも、なぜ奴隷たちの住まいがある方に行くと死ぬことになるの?」
「病が流行っているからだ。行けば病がうつるぞ」
「病ですって?」
「奴隷たちが次から次に、バタバタと死んでいる」
「衣紗は何をしているの?」
「何を?」
男は日和の問いが理解できなかった。彼の脳裏に比類ない美貌を讃えた衣紗の姿が浮かぶ。あの美しい衣紗が病を患った奴隷たちに何かをするとはとても思えなかった。
男が言葉を継げないでいると、日和の傍らに立った覇玖が口を挟む。
「何もする気がないから、こういうことになっているんじゃないのか?」
「何もする気がないって……。だって、自分の治める集落で病が流行って人が死んでいるのよ。なぜ何もしないの? 信じられない。だって、しなければならないことはたくさんあるはずよ」
「衣紗が、しなければならないことだと認識していなければ、それをするわけがない」
「どうして衣紗は奴隷たちを助けようとしないの?」
「奴隷だからさ。美しい衣紗にとって病を患った奴隷は助ける価値がない存在なんだ。奴隷は人ではない。物だ。そう、商品なんだ。絹布や玉と交換するための華那の産物品だ」
「それって、どういうこと?」
「さっき市では見掛けなかったが、華那の市では奴隷を他国に売って他国の貴重品と交換しているのだと聞いたことがある。だいたい、考えても見ろよ、華那にはこれといった特産品がない。田畑も少なければ海もない。それなのに、ああも大きな市を持っているのは不思議だろう?」
「そうね、不思議ね。でも、それは華那に衣紗がいるからなんじゃないの?」
「衣紗がいるだけで市は大きくならないさ。衣紗自身が他国に渡るような売り物になるわけではないからな」
「では、何か他に売れるものがあるのね? それを目当てに人が集まって、華那にはない品物を置いて行く。そうでしょ?」
「その通り。そして、その商品っていうのが奴隷だ。――華那の集落には、本来そこで暮らしているべき華那族が絶えたため、民が少ない。そこで労働力を補充するために衣紗の夫である耶羅國王が周辺の國々に攻め入り奴隷をつくる。そして、その奴隷を華那の集落に送っているわけなんだが、衣紗は奴隷が他国の貴重品と交換できることを知っている。耶羅國王から送られてくる奴隷たちを次々に他国の商人との取引に使っているというわけなんだ」
「華那の女王は渡来の品々を多く身に纏い、それはそれは煌びやかな装いをしていると聞きます。つまり、華那の女王にとって奴隷は、自身を美しく飾りたてるための品々を得るための物。しかも耶羅國王が際限なく生み出してくれる物です。それが少しくらい減ったところで彼女はまったく構わないのでしょう」
穂積も深く頷いて言った。すると、それまで黙って日和たちのやり取りを聞いていた男が感慨深そうに口を開く。
「……そうだな。その通りだ。女王にとって奴隷は人じゃない、物だ」
事実、男が知る限り、衣紗はよく戯れに婢女を殺した。奴隷の命など取るに足りない、虫けら同然のように思っているのだろう。
男は犬を追い払うかのように、日和たちに向かって片手を払った。
「そうだと分かったなら、ここから早く去るんだな。ここは人が暮らせる場所ではないのだから」
「日和、行こう」
「ええ。……でも」
引き返そうと踵を返した覇玖は日和の言葉に怪訝顔で振り返る。日和は人差し指で、淡く赤らんできた西の空を指さした。
「行くのは、あっちよ」
「なんだと?」
「駄目だ。病が流行っている場所に日和を行かせるわけにはいかない」
「この先は衣紗が省みることのない場所よ。衣紗が栄えさせたもの――市は見たわ。そうしたら次は衣紗が棄てたものを見るべきでしょ。それに衣紗が棄てようとしている命を私が拾わなかったら、いったい誰が彼らを助けてくれるの? 病が流行っているなら尚更じゃないの!」
日和は男や覇玖の制止を振り払って西へと突き進んだ。
戦争で負けた國の民が奴隷になるのは常のことだ。戦争が無くならない限り、誰しも奴隷になる恐れを抱いていた。明日は我が身だと思えばこそ、日和は病に苦しんでいるという彼らを見捨てることができなかった。
むっと息苦しさを覚えるような腐敗臭が漂ってくる。口の中が、ぎゅっと締め付けられ、酸っぱい唾液が溢れてきた。嫌な汗が額に浮く。
「日和、鼻と口を布で覆え。病のもとがそこかしこに充満しているかもしれない」
慌てて追いかけてきた覇玖から麻布の襤褸を受け取ると、日和は口元を覆った。
辺りは、今にも崩れ落ちそうな竪穴の住まいが多い。藁を葺いた屋根はあちらこちらにみすぼらしく穴があいている。
ふと日和は、地面にうち伏せている女の姿を見つけ、駆け寄った。
「大丈夫? しっかりして!」
「日和、待て。その女は既に死んでいる。よく見ろよ。あっちもこっちも亡骸ばかりだ」
周囲を見渡せば、覇玖の言う通り道端に転がる石のように奴隷たちの亡骸があちらこちらに転がっていた。ある者は木の幹に凭れるように、ある者は灰色の大地を掻き毟るように。
よほど苦しんで死んだのか、白目を剥き、口元に泡を吹いた痕跡がある者もいた。
「いったいどんな恐ろしい病が流行ったというの?」
「ほらな、言った通りだろう。ここはこういう場所だ。すぐにでも去った方が良い。息がある者など、ここにはいない」
日和たちのずいぶん後ろからついて歩いてきた男が言うと、日和はぐっと表情を歪めて物言いたげに男を睨んだ。その時。
「生きています! いました! 生きています!!」
一軒一軒、入口の麻布を捲り、住まいの中まで確認していた旭木が、ある住まいの前で大声を上げた。すぐに日和も駆け付け、麻布の奥を覗く。
「あそこです。胸がわずかに上下している様子が見えます!」
指し示された方を見やると、何か大きな黒い塊がビクビクと痙攣しながら浅い呼吸を繰り返している様子が見て取れる。ぐっと息が詰まるような異臭を堪えて、日和は住まいの中に飛び込んだ。
薄暗い住みかの中で目を凝らせば、黒く汚れた藁が薄く敷かれた床にエビのごとく体を反らし震えているのは、日和とさほど歳の変わらぬ少女だった。
「しっかりして。しっかりするのよ」
日和は少女の青白い顔に手を伸ばし、目元を診る。首筋に手を這わせ体温を調べ、ひゅっひゅっと苦しげに音を立てる口を開かせ中を覗き込むと、少女の舌を確認した。
「もしかして……」
「どうした? 何の病か分かったのか?」
「水を頂戴。たしか荷物に塩があったよね? 水の中に塩をひと摘み入れて、よく溶かして」
早く、と声を荒げて促せば、覇玖は背負っていた荷物を下ろして竹の水筒を取り出す。旭木と穂積も住まいの中に入って来て、穂積が差し出した椀に覇玖が水を注ぎ、旭木が塩をひと摘み入れると、それを日和に手渡した。
「ありがとう。それから、扇の代わりになる物はない? この娘に風を送って欲しいの」
「風を?」
「これは病ではないわ。暑さに負けているだけなのよ。塩水を飲んで風に当たればすぐに元気になるわ」
「病ではない……? 本当か」
「ええ、そうよ。その証にこの娘を元気にしてみせるわ。水を。もっと水が必要よ」
「分かった。水だな。おい、聞いたか。旭木と穂積は水を汲んで来るんだ」
「はい、すぐに」
覇玖の指示に頷いて旭木と穂積は水を求めて住まいの外に出ようとする。だが、彼らが入口の麻布に手を伸ばすその前に、麻布が捲り上げられた。あの男だ。
入口を仰ぐように見上げると、男の乱れた髪の隙間から鮫を模した刺青が刻まれた男の右頬が見えた。
「汲める井戸などないぞ。ここは人の住む場所ではないと教えてやっただろ」
「でも、生きている人がいたわ。ここは人が暮らせる場所であるべきよ!」
きっぱりと言い返してきた日和を男は上から睨みつける。しばらくの間、ふたりは言葉無く睨み合っていた。お互いの心を探るように。
先に目を逸らしたのは男の方だ。これ以上、日和の瞳の奥に自分が映り続けることに耐えられなくなったのだ。
日和の瞳は丹念に磨かれた玄昌石のようだ。玄昌石は砕いてできた鋭利な欠片を刃物として扱うことができる。日和の瞳もまた、切れ味の良い刃物のような輝きを秘めていた。きっと見つめ続けていれば、男の心など剥き出しにしてしまうだろう。
男は握りしめていた麻布から手を放すと、その手を払うような仕草をしてから両腕を組んだ。
「食糧か玉を預けてくれれば、人手を集めて水を運んできてやろう」
「貴方が? いいの?」
日和は迷うことなく先ほど市で交換したばかりの装飾品をすべて皮袋から取り出した。男に歩み寄ると、その大きくて硬い手に握らせる。
「お願い。力を貸して」
男はぴくりと片眉を跳ね上げ、あからさまに嫌そうな表情を浮かべた。
「お前は莫迦か。これは大切な儲けであるはずだ。こんなところで奴隷のために使っていい物ではないだろう。それにもし、わたしがこれらを持って逃げたらどうするつもりだ」
一瞬、日和は自分が何を言われたのか理解できなかった。何を言っているのだ、この男は……と、何度も目を瞬かせながら男の顔を見つめる。すると、男が居心地悪そうにたじろいだので、日和は、くすりと笑って言った。
「持ち逃げするつもりの人は、そんなこと言わないわ。違う? それに、貴方はここに来れば死ぬと言ったわ。死ぬかもしれない場所まで私たちについてきてくれた。きっと貴方は貴方の言っていた通り親切な人なのね」
男は両手を上げた。
「くそっ、もういい。それ以上は何も言うな。お前の言う通り、わたしは持ち逃げするような莫迦なことはしない。ここはわたしに任せて貰おう」
男は日和の手から腕輪をひとつだけ取り上げると、その硝子の小玉と管玉が連なった腕輪の糸を切った。バラバラになった小玉と管玉を麻の小袋に入れ、日和に視線を投げる。
「これだけで十分だ。どうせ祈雨祭を待って暇を持て余している奴らを雇うんだ。残りは大切にしまっておけ」
「ありがとう。助かるわ。でも、どうやって貴方にお礼をしたらいいのかしら。そうだ。貴方、名前は?」
「流生だ」
男――流生は再び麻布を捲り上げ、住まいの外に出る。名乗り返す暇もなく住まいの中に残された日和は、バサリと入口の麻布が下ろされ、流生が遠ざかっていく足音が聞いた。
不思議な男だと日和は思う。まるで武尊みたいだ、と。
顔が似ているとか、年齢が同じくらいだとか、そういうことではない。どこがどうと、はっきりとは言えない部分で武尊と纏う雰囲気が似ているのだ。それに――。
(ちらりとしか見えなかったけれど、あの頬の刺青をどこかで見たことがある気がするわ)
親切には素直に感謝しつつも、日和は流生から感じる釈然としない何かが気になって、ざわざわと胸が騒ぎ落ち着かなかった。